卒後50周年記念同期会ー3 2018.9.3

「注文の多い弁当」と賢治所縁の北山の寺

 「レストラン賢治」のドアのイラスト
 「レストラン賢治」のドアのイラスト

「注文の多い料理店」は宮沢賢治が生前に出版した唯一の童話集であることは広く知られている…その童話集に納められた同名の「注文の多い料理店」は小学校高学年の教材として国語の教科書に採用されてきた。

その作品名をもじった「注文の多いお弁当」は「レストラン賢治」のメニューとして大人気だということを耳にした湘南ボーイズの幹事が、同期会の昼食に選んでくれた…

 岩手大学中食堂の隣に「レストラン賢治」
 岩手大学中食堂の隣に「レストラン賢治」

ただ、食材の関係で予め個数を確定する必要があるとのことで、同期会直前になって、渡部さんが懸命にメールやFAXで連絡を取ってくれた…ご苦労をお掛けしましたが、お陰さまで今日それを頂けることになった…

私には「注文の多いお弁当」のインスタ映えを「賢治と歩む会」に報告するミッションがあったので、それも楽しみに同期会にやって来た…

 入口正面の「レストラン賢治」の看板
 入口正面の「レストラン賢治」の看板

この素朴なディスプレイに置かれたパネルには「岩手大学校技術陣職員が製作しました」と書かれており、そのメンバーの写真も掲載ていた…

手作り感があって、森の奥に忽然と現れた「注文の多い料理店」を思わせるものだった…他のディスプレイも一緒にやられたのだろうと思いながら写真を撮った…

同期のみんなは、談笑しながら席に着いて柏葉先生を待った…月曜日だったので先生は工学部の構内から約1キロ近くを歩いてやって来られた…先生は私の隣の席に着かれたのを待って、早速ビールで乾杯となった…この辺のとろは、武田さんが手際よく進行してくれたが、来年の同期会の場所は中々纏まらなかった…

 このオードブルが4セットほど
 このオードブルが4セットほど

まずは、飛世さんが手配してくれたオードブルでビールを楽しんだ…

その間も来年の同期会の会場として、伊勢、会津、常磐ハワイアン・センター、信州、北海道等々が挙げられたが決定には至らなかった…

そこで飛世さんの発案で、湘南ボーイズが検討を進め、12月12日の新宿・三平での忘年会で結論を出すことで納まった…

 これが噂の「注文の多い弁当」
 これが噂の「注文の多い弁当」

この写真が楽しみにしていた「注文の多いお弁当」である…

あまりインスタ映えのする彩りではなかったが、味は少し濃いめでとても美味かった…

私は美味しくて完食しました…

私の目の届く周りの人は、みんなも綺麗に食べきっていた…

 飛世さんが私の所へやってきて、中締めをするようにいったが、宮手さんのお願いした…最初、昨夜の同期会に参加できなかったのでと拒んでいたが、みんなの拍手で重い腰を上げた…宮手さんは最近の盛岡の変貌などを交えながら、遠く離れて暮らす我々には、とても興味深い話を披露してくれて、とても好いご挨拶であった…宮手さん、ありがとうございました。

 昼食会が閉会となってから高橋さんの後ろへまわり、肩をポンと叩き目で挨拶して別れた…

 

 2011年10月24日 岩大訪問時の写真
 2011年10月24日 岩大訪問時の写真

「注文の多いお弁当」を食べ終わって卒後50周年記念同期会は閉会となり、三々五々それぞれが想いの所を目指して去っていった…

私は予め鈴木さんにお願いして太田さんと金井さんと一緒に車で賢治所縁の北山あたりの案内をお願いしてあった…ところが、後輩の安保さんがやって来て『小南さん、これからどうするの…』と問われたが、鈴木さんが軽自動車に替えたので狭いですよと言われていたのを思い出し、止む無く安保さんの同行を断ってしまった…

 彼に悪いことしてしまったと悔やんでしたが、後日の彼のFBに「県立美術館」の見学がとても良かったと掲載せれていたのを読んで安堵した…

 2011年10月24日 岩手大学正門の写真
 2011年10月24日 岩手大学正門の写真

最初に材木町のイーハトーブ・アベニューに行こうとして岩大の正門に向かったが、写真のように閉鎖されいたので引き返したら、「旧盛岡高等農林高等学校本館」の辺りを散策していた仲間に再び会うことになった…もう一ヶ所の門へ向かったが、やはり閉鎖されていたので、工学部の方へ戻ることになった…

 2011年10月24日 同袍寮跡地の写真
 2011年10月24日 同袍寮跡地の写真

金井さんが50年ぶりだから工学部の構内へ行って見ようと太田さんが、提案してくれたので鈴木さんにお願いした…まだ夏休み中とかで構内は静まり返っていた…でも、金井さんは木造校舎だった頃との変わりようや4年間過ごした同袍寮の跡地を感慨深そうに見ていた…私も駐車場になってしまったこの場所に傾きかけた木造の同袍寮が蘇ってきた…

 「注文の多い料理店」出版の地・光原社
 「注文の多い料理店」出版の地・光原社

結局、工学部正門を出て夕顔瀬橋の方を経由して材木町のイーハトーブアベニューにやって来た…

そして光原社近くの駐車場に車を入れて見て廻った。ここには2013年の同期会の時に連泊して一人で訪れたことがあるが、光原社の中を見学しなかったことが心残りであった…

のちに鈴木さんが紹介してくれた写真で中を見学できることを知り、是非とも内部を見たいと思っていた…

 光原社の中庭に賢治好みの青りんごが…
 光原社の中庭に賢治好みの青りんごが…

中庭に入ると数組の見学者がいた…

まだ小さな青い実を着けたりんごの木が目に入ってきた…賢治作品にはよく青い苹果(林檎)が登場するので、ここに植えられたのでしょうか…そのことに気が付いたのか、青い小さな苹果と一緒に写真を撮る女性の方もいた…それを見て私もりんごの木をカメラに納めた…

 光原社の中庭は奥が深い
 光原社の中庭は奥が深い

光原社の間口はさほど広くないが、中庭には緑が豊富で奥行も深かった…この写真に見える中門をくぐり奥へ奥へと進んで行くと北上川も見えてきた…

 やはらかに柳あをめる

  北上の岸辺目に見ゆ

   泣けとごとくに

啄木の歌が思い出される…

  「光原社」の展示コーナー
  「光原社」の展示コーナー

中庭の入口から「光原社」の展示コーナーを見学した。多くの賢治関連資料の中で、『注文の多い料理店』の初版本が目に留まった…

 この本は賢治が自費出版しはものとして知られていたが、鈴木さんが手渡してくれたパンフレットを読んで『注文の多い料理店』は賢治の自費出版ではなかったのだと理解したのは家へ帰ってからである。そこには概略、次のように書かれていた…

 「光原社」の「注文の多い料理店」の初版本
 「光原社」の「注文の多い料理店」の初版本

 大正8年(1919)春、盛岡高等農林を巣立った及川四郎(創業者) と親友近森善ーは、二人で盛岡厨川舘坂に「東北農業薬剤研究所」という大層な看板をかかげ、農業薬剤の製造や「病害虫防除便覧」「蝿と蚊と蚤」「農業昆虫教科書」など農学校関係の教科書といった出版の仕事を始めてひとまず事業は順調に回転した。

 教科書の販売が目的で、高等農林一年先輩の花巻農学校教師宮沢賢治を訪ねた近森は、その場で膨大な童話の原稿と共に出版の意向を告げられ、半ば無条件に近い承諾の意を含んで盛岡に原稿を持ち帰った。乱暴な話なのだが、その話を受けた及川は即決「よかろう」ということになり、両者ともろくに原稿に目を通さないままにこの話は決定してしまった。

 「光原社」のレトロなベンチで一休み
 「光原社」のレトロなベンチで一休み

早速、盛岡へ出向いた賢治を囲んで「注文の多い料理店」という書名と「光原社」という社名が決まった。

近森が生家の事情で急に高知に帰ることになり、出版に関する一切の責任は及川一人の肩にかかってきた。 

予算も見積もりも確定しないまま見切り発車をしてしまったからさあ大変、及川は教科書の販売で得た利益の中から童話集のために実に60数回にわたり東京の印刷所へ送金をしている。

及川の晩年の記憶では、見積もり代金800円のほかに追加請求300円も含めて合計1,100円にも上がった。万策尽きた及川は高等農林の師で盛岡商業の校長だった稲村要八先生からの恩借と、及川の苦心を見かれた賢治が最後に200冊分買いとってくれたことにより、ようやく虎口を脱したのだ。

この賢治の善意が後年、この著書を自費出版と間違って記憶され、一部では誤解のもとになっている。出版はあくまで小出版社光原社である。

 

 大通りからの「光原社」の写真
 大通りからの「光原社」の写真

2013年のつなぎ温泉での同期会の帰りに啄木の新婚の頃に住んでいた家に立ち寄った時、ガイドをしていた岩大の先輩に勧められイーハトーブ・アベニューを訪れた…

その時は「光原社」の写真を撮っただけであった…今回、鈴木さんにお願いして訪ねることができ、「注文の多い料理店」は賢治の自費出版ではなかったことを知ることができた。今回鈴木さんがパンフレットを渡してくれなかったら、この事実を知るチャンスはなかった…鈴木さんに感謝です。

 HPに賢治に所縁の寺との紹介記事
 HPに賢治に所縁の寺との紹介記事

「光原社」の隣の法華宗・本正寺も賢治に所縁のあるお寺である…

今年、直木賞を受賞した話題作『銀河鉄道の父』の最終章、賢治が父・政次郎に残した遺言が絡んでいる…

賢治は島地大等が翻訳した『国訳法蓮華経(和漢対照妙法連華経)』を1,000部印刷して、みんなに配ってほしいと父・政次郎に頼んで息を引き取った…政次郎は遺言を実行に移し、刊行に当たって文字の校正など法華経の専門的な知識のある本正寺の七世住職・松本日宗に依頼したとの説明書きがあった…

先日撮ってきた写真の説明書きを拡大して文字を読み、今回明確にそのことを確認できて良かった…

 太田さんは、ご朱印帳を持ってお寺の奥まで行ったが、係の人が常駐する程大きな寺院ではなかった。

  金井さんと賢治像
  金井さんと賢治像

ここイーハトーブ・アベニューの歩道には、所々に宮沢賢治関連のオブジェが設えあり、金井さんには50年前の材木町の景色からは想像できない眺めであったろうと思った…

暫く歩いて行くと賢治の座像があったので、そんな金井さんと賢治さんとスナップ写真を撮った…

 金井さん、小南、賢治像、太田さん
 金井さん、小南、賢治像、太田さん

そこへ太田さんと鈴木さんがやってきた…

私は、親しげに賢治さんの肩に手をかけたポーズで鈴木さんに写真を撮ってもらった…

宮沢賢治を尊敬している方々からはお叱りをうけるかも知れないが、私も賢治さんに大いなる敬意を抱いている一人であることを加えておく…

 金井さん、賢治像、太田さん、鈴木さん
 金井さん、賢治像、太田さん、鈴木さん

「賢治と歩む会」で「ツェねずみ」が課題として取り上げられた時に、盛岡の宮手さんに賢治像に隠れているツエねずみを探して写真を撮って欲しいとお願いした…その時、お孫さんが見つけてくれたと言って、帽子の縁を走る「銀河鉄道」の写真も送ってくれた…今回は、鈴木さんが賢治のポケットの所に「チェロ」を見つけてくれたので写真に撮った…2013年に訪れた時には、何一つ見つけることのできなかった自分が恥ずかしい…NHKのクイズ番組のチコちゃんに『ぼーっと、生きてんじゃないよ~』と言われそうだ…

 

 賢治のセロを弾く真似をしてのスナップ
 賢治のセロを弾く真似をしてのスナップ

太田さんが鈴木さんと一緒にご朱印帳を持って永祥院に向かっている間に、盛岡は50年ぶりだという金井さんと通りを歩いた…

賢治童話の『セロ弾きのゴーシュ』は良く知られているが、賢治自身もセロを買い求めて練習していた…

 

鈴木守さんの著書『「羅須地人協会時代」再検証』(五)昭和二年の上京と三か月のチェロ猛勉強 でも彼の実証研究成果が述べられている。

今回の同期会で守さんが下さった『本統の賢治と本当の露』の本では(二)「羅須地人協会時代」の上京について において「昭和2年11月から3ケ月間、熱心にチェロに取り組み、オルガン、タイプ、エスペラント語なども勉強し、ついには病気になり帰花した…」と、この章(25~43頁)に詳しく述べられいるので、ご参照ください。

(ツーワンライフ出版)

 賢治のチェロを作った人:鈴木政吉
 賢治のチェロを作った人:鈴木政吉

私がジャズを好きになったのは、ベーストークの鈴木良雄さんのベースを聴いたのがきっかけであった…

あるときライブで「私の祖父・鈴木政吉は日本で初めてバイオリンを製作した人で、今度ドラマ化されて放映されるので観てください。」と語った。そのことを鈴木守さんに知らせたら、賢治が購入したチェロは鈴木政吉氏が作った高級品の一本ですよと、その記事が掲載された資料を一緒にメールで送られてきた…

そこで、上のような写真を編集し次のライブでお会いした時、鈴木良雄さんにお渡ししたら大層喜んでくれた…これも守さんが調べてくれたお陰である…

 

太田さんは永祥院まで行ったが、ご朱印を押してもらえなかったようだった…また、4人一緒になり夕顔瀬橋の方に向かって歩いた…

途中に地図が描かれたオブジェがあったが、その意味する所は良く解らなかった…明治34年に河口慧海氏が仏教の原典ともいえる「大蔵経」を翻訳している内にその真実を確かめようと「大蔵経」の原書を求めて辿った『チベット旅行記』に興味を持ち、賢治行って見たいと思い描いた地図なのではなかろうか…

歩いている途中で、鈴木さんが中々シャレてると見上げていたので写真を撮った…ドイツ語で書かれているようだが、丁度そこへコックスタイルの主人が出てきたので、パン屋さんですかと尋ねると中でパンを焼いていますよと言った…この通りに似つかわしい風景であった…

壬生義士伝の吉村貫一郎の妻しつはこの夕顔瀬橋を渡って雫石からやって来たという…ここから見える岩手山の眺めは素晴らしいのだが…

夕顔瀬橋の向こうに太田さんの下宿があり、遊びに行ったことがある。その時ご馳走になった肉野菜炒めの味を今も思い出す…美味かった!

通りの向こう側に山下さんの姿が見えた…大声で叫ぶと通りを渡ってやって来た。

山下さんはどのルートを通って材木町まで下りて来たのだろう…車では通れなかった農学部の正門からやって来たのだろうか…などと考えながら山下さんを待った…

二言三言、会話してまた別れた…

それぞれが、それぞれの思い出の地を巡るのであろうと、旅慣れた様子の後ろ姿を見送りまがら、次は何処へ行こうかと相談した。

太田さんが岩山へ行って見たいというので、まずそこへ向かうことになった…

 岩山の石川啄木の立像
 岩山の石川啄木の立像

岩山への道は結構な勾配であることに改めて気付かされた…2013年の同期会の時は女鹿さんと鈴木さんと篠原さんと一緒で渋民村を廻ってから、岩山に連れてきてもらった…

太田さんは鈴木さんと展望台に登ったようでしたが、トイレに行っている間にお互いの場所が判らなくなり別行動になってしまった…

金井さんは啄木の歌が好きそうだったので『啄木詩の道』を散策した…木陰は薄暗くなってきた、そんな折り、現役の金井さんに会社から電話が入ってきた…そんな訳で全部を見て廻れなかったので、前回撮った写真を掲載した。今度は鈴木さんからの電話があり引き返した…太田さんは展望台から盛岡市内を眺望し満足したようだ…私と金井さんは近くの見晴台から盛岡市内を眺めた…残念ながら岩手山は姿を見せてくれなかった…

 五百羅漢で名高い「報恩寺」の参道
 五百羅漢で名高い「報恩寺」の参道

岩山を下りて五百羅漢が祀られている報恩寺のある北山へ向かった…

北山には南部藩の政策で多くの寺が集まっていて、啄木や賢治所縁の寺もあるはずだ…学生の頃に先輩に連れらて自転車でやって来たことがあり、今一度五百羅漢を拝見したいと思い鈴木さんに頼んで「報恩寺」を探してもらった…

近づいてみると「報恩寺」の本堂は実に大きかった…パンフによるとその歴史は古く600年前に三戸の八幡山下に創建され、南部家27代利直公の時に移転されて400年とあった。

また本堂は昭和35年に全焼し、39年に再建されたそうですから、我々が盛岡に行く前の年になりますね…

昔は拝観料なしだったと思うが、拝観料を納め五百羅漢を拝見した…

羅漢とはインド名アラハト(阿羅漢)の略称だそうで、五百は正確な数字ではなく多いことを指しているとあった…

この報恩寺でやっと太田さんのご朱印帳に記録を残すことができた。

 浄土真宗 願教寺(島地大等が住職だった)
 浄土真宗 願教寺(島地大等が住職だった)

たまたま法恩寺の入口にいたタクシードライバーに賢治所縁の願教寺への道順を教えてもらった…

地図上の直線距離では近かったが周り込む必要があり、少し行き過ぎて引き返した。その道筋に前田さんの家があると言って太田さんが指差してくれた…しかとは判らなかったが、およその見当はついた…

 浄土真宗 願教寺の本堂
 浄土真宗 願教寺の本堂

盛岡高等農林時代の賢治は、学業のみならず宗教にも熱心で、学友を誘い父・政次郎が援助している盛岡仏教夏期講演会にも参加し、島地大等の歎異抄講話などを聞きに行くようになったそうである…

だとすれば、島地大等が住職だったこの願教寺に賢治は足を運んだことであろう…

 「和漢対照妙法蓮華経」の著者・島地大等
 「和漢対照妙法蓮華経」の著者・島地大等

島地大等をネット検索すると次のように紹介されていた。 

島地 大等(1875年10月8日 ~ 1927年7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1919年東京帝国大学講師として死去までインド哲学を教えた。数え53歳で死去し、後を子の島地黙猊が継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。

 島地大等和上を讃える賢治の歌碑
 島地大等和上を讃える賢治の歌碑

ここ願教寺の境内には、島地大等和上を讃える賢治の歌碑があった。

 本堂の高座に島地大等の

  ひとみに映る黄なる薄明

             賢治

そして賢治は父の法友高橋勘太郎から贈られた「和漢対照妙法蓮華経」を読んで異常なまでに感動し、法華経へ熱烈に傾倒していったという…

北山の寺(法恩寺、願教寺、教浄寺)
北山の寺(法恩寺、願教寺、教浄寺)

この地図は後日ネットから切り出した…

鈴木さんに案内をお願いした時、行きたい所を調べておいてくださいと言われていたのにサボッテしまい、現地でご迷惑をかけてしまった…賢治が盛岡高等農林への受験勉強のために北山のある寺に下宿したことは知っていたものの、その寺の名前は判らなかった…

従って、次に何処へ行こうかと問われてもお願いしようがなかった…すると太田さんが北山の女鹿さ家へ行ってみようと言い出した。

私はスマホのナビ画面を見ながら、運転席の隣に座っていたが、何の役にも立たなかった…後部座席の太田さんが、あの信号を右に、そこの角を左に、この路地を入ってと声を掛けて、ものの見事に女鹿さんの家の前に到着した…まるで脳の中でナビゲーターが動いているようで太田さんの記憶力には仰天した…「太田さんの突撃訪問の極意」なのか…

 女鹿さんの家は「時宗 教浄寺」の隣だった
 女鹿さんの家は「時宗 教浄寺」の隣だった

女鹿さんは月初の定例会議があるからと集合写真の撮り終えて帰ってしまったのだが、幸い在宅であった。

突然の訪問にも拘わらず女鹿さんは快く迎えてくれ、すぐさまそこに賢治の詩碑があると指さした…

以前、女鹿さん家の近くの寺に賢治の詩碑が建立され、宮沢清六さんも来て除幕式をやっていたよと話していたのを思い出した…

 「時宗 教浄寺」の賢治の詩碑
 「時宗 教浄寺」の賢治の詩碑

盛岡中学を卒業してから、花巻の実家に戻り、家業の質屋の店番をしながら憂鬱な日々を送っていた…

それを見かねた父・政次郎は賢治の進学を許した…賢治が、盛罔高等農林学校への受験勉強のため、大正四年(1915) 一月から四月に入学するまで、ここ教浄寺の本堂西脇の書院に下宿して猛勉強したと言う…

 

  僧の妻面膨れたる   飯盛りし仏器さ丶げくる。

  ( 雪やみて朝日は青く、  かうかうと僧は看経。)

  寄進札そゞろに詠みて、  僧の妻庫裡にしりぞく。

  ( いまはとて異の銅鼓うち、  晨光はみどりとかはる。)

 

「時宗 教浄寺」賢治詩碑の説明碑
「時宗 教浄寺」賢治詩碑の説明碑

 文語詩 詩碑

 時宗無量院擁護山教浄寺は、宮沢賢治(1896~1933)が、盛罔高等農林学校への受験勉強のため、太正四年(1915) 一月から四月に入学するまで、本堂西脇の書院に下宿したゆかりの寺である。

 詩碑の文語詩は「文語詩稿五十篇」のうちの一篇である。

賢治文語詩には、作品題名のないものが多い。したがって、この詩も冒頭詩句「僧の妻面膨れたる」をもって、題名代りによびならわしている。

 作中の「僧」は、當山第五十三世住職の、又重琢眞和尚(1848~1930)であり「僧の妻」」は陽夫人(1859~1941)である。

作品は、寺における日常の「看経」(おつとめ) の様子が,朝の清澄さの中で、平静眞摯な文体で描かれている。 「かうかうと僧は看経」とあるように, 一心不乱な凛とした気追が堂内満ち、それを全身に浴び賢治の一日は始まっていたのであろう。

「僧の妻面膨れたる」も、おっとりとして豊頬な人となりが、「さ^げくる」から「しりぞく」に至る恭々しきかしずきの挙措に彷彿とする。 そうした本堂における「看経」のごとく、賢治の日々もくり返されていたにちがいないことがうかがえよう。

 やがて、賢治の志望は貫徹され,四月六日,盛岡高等農林学校農学科第二部に、首席入学を果した。

            平成九年六月八日

                     賢治碑建立有志の会 建之

                         吉見 正信 撰文 

    時宗について

時宗の開祖一遍上人は衆生済度(人々を迷いから救うこと)念仏勧進(南無阿弥陀仏の念仏を勧めること)のために、その生涯を遊行(修行と説法のため諸方を巡り歩くこと)に終始されました。その足跡は北は岩手県、南は鹿児島県に至る日本全国に及んでいます。本山は神奈川県藤沢市、清浄光寺。 一遍上人以来代々の上人が全国を遊行するところから遊行寺と呼ばれています。

    教浄寺の由

当山の開山は覚阿湛然和尚で、開基は南部十一代伊予守信長公であります。正慶二年(1333)、兄の南部十代右馬頭茂時公が、鎌倉で北条氏滅亡の際、高時に殉じ割腹。遺臣と共に藤沢の時宗総本山清浄光寺(通称遊行寺)に埋葬されました。現在も遊行寺に墓石があります。信長公は兄茂時公の菩提の為、三戸(青森県)に教浄寺を建立いたしました。後、南部二十七代利直公が、盛岡に城を移されるに当り、慶長十七年(1612)現在の地、北山に教浄寺を移転されました。

    盛岡五山の一つ「教浄寺」
    盛岡五山の一つ「教浄寺」

     盛岡五山

南部二十七代利直公が、盛岡に城を移されるに当り、京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)と定め、これらを特に「盛岡五山」と呼ぶようになった。

南部利直公が城を移した話は、2016年の同期会で盛岡城跡公園を散策している時に秋葉さんから聞いた事がある…

秋葉さんは全国のお城を訪ねて知識豊富なので、彼に聞いてみてください。

 女鹿さんが住職にお願いし教浄寺の本堂見学
 女鹿さんが住職にお願いし教浄寺の本堂見学

女鹿さんは「本堂の中を見せてもらおうか…」と言いながら、教浄寺の玄関を入って行った…

それからほどなく戻って来て、本堂を見せてくれるそうだから入ってとみんなを促した…

突然の訪問なのに、わざわざご住職が出迎えくれた…やはり女鹿さんと近隣のお付き合いなのでしょう…

まず女鹿さんが我々を紹介してくれた…岩大電気科の同期であること、鈴木さんは賢治の研究をしていることなど…私も熊谷の「賢治の会」に入って賢治作品を通して賢治のことを勉強していますと申し述べた…

するとご住職が教浄寺と賢治のことを話してくれた…

教浄寺本堂の西側の窓の下に机を置き、賢治は受験勉強をしていたという…この写真に写る柱は当時のまゝだと説明してくれた…当時は檀家の人が、時々茶飲み話にやって来たそうだが、お茶を勧めと賢治はにゅーと腕だけ出してお茶碗を受け取り、お茶を飲んでいたという話だ…

鴨井に掲げられた額には、賢治の「雨ニモマケズ」の詩が書かれていた…岩手山でもイメージしたのか、全体が山のように並べられていた。

もちろん、この額は賢治の没後に掲げられてものでしょうが、この場所に賢治が居たという一つの象徴であるのかも知れない…

賢治が書き残したメモ 

2 0 1915  一月 教浄寺

<鐘うち鳴らす朝の祈り 教浄寺の老僧

光明偏照十方世界、おはりに法師声ひくく

つひにmammonを

次には鳴らす銅の鐃「脉」こそ祈りけり

「念佛衆生摂取不捨」と「光明偏照十方世界」
「念佛衆生摂取不捨」と「光明偏照十方世界」

上記のメモが記されている。メモ中の「鐃」の字の音は(にょう)。

「光明偏照十方世界」は, 『観無量寿経』における偈の一片で、現在も教浄寺本堂の両柱に、「光明偏照十方世界念佛衆生摂取不捨」の、金箔で刻字された聨冊が掛けられている。

もちろん当時のものではなく、何度目かその後新調されたものながら、賢治が目にした位置のままのはずである。

 御本尊の「阿弥陀如来の慈悲」
 御本尊の「阿弥陀如来の慈悲」

それがメモされていることは、安置された御本尊の「阿弥陀如来の慈悲はあまねく十方世界におよぶ」という偈文の印象が、賢治の日々に強烈に灼きついて消えなかったからであろう。

この頃から賢治の心の中に「光明偏照十方世界」があって、あの『世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。』へと繋がって行ったのかと私は思った…

 盛岡高等農林への受験勉強した教浄寺
 盛岡高等農林への受験勉強した教浄寺

賢治が受験勉強のために机に向かっていた教浄寺の西側の柱に触ってみた…

この西側の柱は賢治が下宿していた頃と変わらないとご住職が言っていたので、100年余も前のことだが、賢治もこの柱に触っていたかも知れないと思うと何だか感慨深いものがあった…

 賢治が机に向かっている姿が浮かんできた 
 賢治が机に向かっている姿が浮かんできた 

こんな様子を見て、女鹿さんが経典や仏具を乗せる小さな机を持ってきてくれた…

賢治はこの場所で受験勉強をして、盛岡高等農林学校に首席で入学したという…

賢治の姿を想像しながら、私もその机に座ってみた…すると女鹿さんがそこへ坐ると頭がよくなるかも知れないぞと声を掛けてきた…

 教浄寺本堂正面の窓ガラスにある紋章の左側は南部家の家紋で、右側の「隅切り角に三つ木」の家紋に関して女鹿さんが説明してくれたが、良く聴きとれなかった…多分、偶然にも賢治が下宿した「教浄寺」に辿りついたことで高揚していたのだろう思う…これは後で女鹿さんに教えてもらうことにする…

  山屋他人海軍大将の顕彰碑
  山屋他人海軍大将の顕彰碑

山屋他人海軍大将、

   雅子皇太子妃について 

山屋他人海軍大将は、雅子皇太子妃の母方曾祖父にあたります。山屋家の菩提寺は藩政時代より教浄寺です。また、他人大将の功績を後年に残すため、平成十五年に顕彰碑が建立されました。

教浄寺の玄関に皇太子妃雅子様ご来訪の時の小さなスナップ写真が飾られていた…

 

教浄寺の本堂を見学できたことで充分満足して女鹿さんに別れを告げ、駅に向かった…鈴木さんも夕刻に会合の予定が入っているとのことでしたが、駅前まで送ってもらった…

駅入口で森崎さんに会ったら、もう一泊して久しぶりの盛岡を歩いてみると言っていた…やはり、それぞれの思い出の地があるのでしょう…

 駅前広場の「どんど晴れロケ地」のプレート
 駅前広場の「どんど晴れロケ地」のプレート

啄木の歌碑がある駅前広場の喫煙所近くに「どんど晴れロケ地」のプレートがあった…このNHKの朝ドラには、昔馴染みの盛岡の風景が出てくるので再放送も欠かさず観た…

中でもこのドラマに何度も登場した小岩井農場の「一本桜」を同期会のDVDエンディング画面にも使わせもらった…

今回も思い出多き盛岡での同期会でみんなに会えて楽しかった…湘南ボーイズに感謝、感謝です。その上、鈴木さんに案内してもらい賢治所縁の地を訪ねることが出来て、感謝しております。

(おしまい)

 

 女鹿さんがラインで送ってきた写真
 女鹿さんがラインで送ってきた写真

9月4日、突然訪問したお詫びと教浄寺の本堂を見学して感動したと女鹿さんへお礼のメールを送った…

女鹿さんから小さな絵文字がぽつんと届いた…それから何日か経ってこの写真がラインで送られてきた…

そう言えば、女鹿さんとは「立山の春スキー」や「八甲田山の初滑り」へ行ったことがある…会社の同期と蔵王へスキーに行ったとき女鹿さんが駆けつけて来て一緒に滑ったこともあったことなどが思い出された…

私は『今度一本借りて一緒に滑ってみたいものですね。ただ、ストックが本当の杖になりかねないね。足腰を鍛えねば…』とラインを返した。

武田さんのスキーの写真をHPで拝見し、羨ましく思っている…昨年も会社のスキー仲間に「緩斜面を滑る会」を作って一緒にスキーをしたいものだと提案し、二度ほど誘われたが応えることができなかった…どうも足腰に自信がなくなってきてしまったようだ…