わたしのアーカイブス

‐私の記憶をたどるアーカイブスのタイトル

< 中学時代のアカイブス >

1.お盆の中学同期会アルバム

2.中学古稀祝いの会

3.中学還暦祝いの会

 

< わたしのアーカイブスへの想い >

①奥宮小学校 卒業記念写真
①奥宮小学校 卒業記念写真

 私は二十歳まで出生の地、皆瀬村で暮らした。しかし、雪深い真冬の2月に自宅から出火し私の生きてきた証は全て灰になってしまった。

 中学を卒業し高校進学も決まった春休みに勇気を出して、初恋の人に初めて恋文を書いた。そして家の者に気付かれぬように郵便配達の来る時間を見計らって玄関を掃除したりして、やっと受け取った初恋の人からの手紙も灰になってしまた・・・

②1年後輩の卒業記念写真
②1年後輩の卒業記念写真

 最早二十歳までの私のアーカイブスを取り戻すことはできないが、それ以来、ちょっとした物でも捨てずに取って置く癖がついてしまった。

 この小学校の写真は、部落にあった奥宮小学校が村全体の小学校へと統廃合されることになり、小学校の記念紙のために実家の兄が接写レンズを使って複写したものである。

③姉が小学校の先生(右端)
③姉が小学校の先生(右端)

 その時兄たちは小学校の倉庫に残された古い記録も調査したらしいが、その中に母親が小学校に在学していたころの成績表があったというのだ。

私が帰省した折の兄の話によると、小南八重野(母)、光江(叔母)も総代であったというではないか・・・母も叔母もすでに亡くなっていたが、少し誇らしくなりその夜のお酒が美味かったの思い出す。それらの成績表の続きには私の評価も載っていたに違いないが、兄に確かめるのは止めた・・・小学校、中学、高校すべての通信簿は燃えてしまっていたが・・・

 ③の写真には小学校の先生をしていた姉が写っている。私が生まれた時に姉は小学校に勤め始めていたらしく、小安温泉の分校にいて”生まれた私が男の子”だと聞いて、直ぐには駆け付けてくれなかったそうだ。何しろ姉以外は男子4人の兄弟だから妹が欲しかったのです。

 私が入学するときには本校勤務で、姉がズックで肩かけ鞄を縫ってくれた。そのかばんに姉が刺繍してくれたグローブとボールが今でもはっきりと目に浮かぶの不思議である。その頃でも学力テスト(全校考査)があったようで、小3の時だったか姉が学校から帰ってきて「つよしの成績が悪いので職員室で恥をかいたぞ!」と夕食のときに言われた一言が何故か喉につかえるような感じがしたのを覚えている。

 ①の卒業写真の左から3人目の先生は、走り高跳びの国体選手で村中の憧れの的でしたが、音楽だけは右端の女先生の担当でした。小5の音楽の時間に私一人だけ男先生に宿直室に連れて行かれた・・・このとき、うかつにも一人だけ褒めてもらえるのかと思っていたら、真逆の展開であった。「お前が将来高校に進むつもりなら、少し勉強した方がいいぞ・・・」とこんこんと諭してくれた。その日の音楽の時間は長く長く思えた。そんなことがあった年の夏休みに先生は、小野小町の在所である小野町の生家に連れて行ってくれた。その時捕鯨船に乗っていたという先生のお兄さんが持ち帰って床の間に飾ってあった鯨のひげ(小魚を濾すもの?)を見た覚えがある。その頃女子生徒の間に二つのグループができ、いざこざが絶えなかった・・・その二つグループのリーダーを生家に連れて行き、そのわだかまりを解きほぐしてくれたと何年も経ってから聞かされた。

 ①の卒業写真で私の右隣に写っている頭の良い子は、両親が中学の先生で学校と棟続きになっている職員宿舎に住んでいた。小4のときだったと思うが教科書に載っていた有島武夫の「ひとふさのブドウ」の劇をその子と一緒に学芸会で演じた。そして小学校代表として同じ演目を中学の文化祭でも上演した。その子は両親が北海道へ帰ることになり、中1に転校してから会うことがかなわずにいる・・・

 直ぐ上の兄が中3の頃に統合された皆瀬中学には、いくつかの小学校から生徒が集まってくるが、同じ中学に兄が勤めていた。中学では兄に”職員室で恥”をかかせまいと思ったのと生来の負けず嫌いが目覚めたのか、少し勉強に励むようになった。

 近ごろ、いじめ、登校拒否、自殺の裾野がどんどん広がっているとうニュースを耳にするにつけ、昔の先生方の子供たちへの接し方や思いやりが懐かしく思い出されるのである。