熊谷文芸の第5号

 平成29年4月10日 第5号文芸熊谷がはっこうされた。私は「宮沢賢治 熊谷来訪100周年の年に」とだして短歌と随筆を投稿した。

 何とか掲載されていたので、ご紹介させていただくことにした。この延長線上として、熊谷短歌会の第6回文学散歩の企画として「宮沢賢治 秩父路地質調査の旅の歌碑を訪ねて」を平成29年5月31日実施する予定である。

<随筆>    宮沢賢治熊谷来訪100周年の年に

小南 毅

 

 大正五年九月二日に宮沢賢治が熊谷を訪れてから、今年で百年になる。それは賢治が盛岡高等農林に在学中、関豊太郎教授と神野幾馬助教授に引率された秩父地域の地質調査を目的とした一行二十三名の一人であった。この頃の賢治は向学心に燃えて、七月三十日にドイツ語夏期講習のために上京していた。

 同日の午前中に賢治は、上野の帝室博物館に出かけ鉱物の標本を見て、地質調査の事前学習も行い、夜行列車で上京してきた一行と上野駅で合流した。それから高崎線に乗り午後三時半頃には熊谷駅に着き熊谷に宿泊した。その旅館は、翌年の七月に同様の研修旅行でやって来た賢治の親友・保坂嘉内の日記によれば、定宿として使われていた松坂屋ということになる。このように多くの賢治研究者が、文献や書簡を調べて賢治の足跡を明らかにしてきた。賢治が熊谷で詠んだ二首の短歌は、八木橋百貨店前の旧中山道沿いの歌碑にある。

 

  熊谷の連生坊がたてし碑の旅ははるばると泪あふれぬ

  武蔵の国熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日

 

 ここでも地名、日付そして「蠍座の淡々ひかりぬ」と短歌を詠んだ時刻なども記されている。これらを基に埼玉大学名誉教授で賢治研究者の萩原昌好氏は、熊谷のプラネタリューム館に依頼し、蠍座が地平線上すれすれの位置に見えたであろうこと確認している。

 翌九月三日、一行は秩父線で寄居に向かった。この寄居町は秩父地方の地質調査旅行のスタート地点とされていたようだ。それは川底の石を採取し、上流にどんな岩石が露頭しているかを想定するのが地質調査の基本的な手順だそうだ。それに寄居近辺の荒川には「立が瀬断層と象ゲ鼻」の調査目標もあった。ここでも賢治は地名を入れた短歌を詠んでいる。

 

  はるばるとこれは秩父の寄居町そら曇れるに毛虫を燃す火

  はるばると秩父の空のしろぐもり河を越ゆれば円石の磧

  豆色の水をわたせるこのふねのましろき空にうかび行くかな

 

 この三首目の短歌から、舟に乗って荒川の両岸の岩石を調査したことが判る。そして川をさか上り波久礼駅まで行き「茶屋」で一休みしたようだ。そこから石切場のある末野へ行き採取した「絹雲母片岩 末野」という標本が残されているという。それから冒頭の保坂嘉内の日記にも記されているように波久礼駅にもどり国神(上長瀞)駅まで汽車で移動し梅乃屋に宿泊した。そして賢治が長瀞の虎岩を詠んだ短歌がある。

 

  つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ

 

 そして翌朝、一行は三台の馬車に分乗し赤平川沿いに調査をしながら小鹿野へ向かった。

 

  山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれら歌へり

  荒川いと若やかに歌ひ行き山なみなみは立秋の霧 

     霧晴れぬ別れてのれる三台のガタ馬車の屋根はひかり行くかな

 

ここまでの九首の短歌を鉛筆で葉書に書き、賢治は親友保坂嘉内宛に投函した。その葉書に押された小鹿野局の消印が、賢治が九月四日に小鹿野に宿泊していた唯一の物証であった。ところが、これまで賢治一行が宿泊したと推定されていた寿旅館が平成二十年に廃業となり、その建物を小鹿野町が購入し、平成二十三年に改築前の資料整理中に大発見があった。それは寿旅館の館主田隝保が書いた明治三十六年から昭和二十四年にわたる日記帳である。その貴重な「田隝保日記」の一部を「宮沢賢治小鹿野町来訪一〇〇年記念誌」の中に読むことができた。

 まず、次の記事で賢治一行は寿旅館に宿泊したことが明白となった。「九月四日(上段) ○盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊ス 午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、原町箱屋辺迄ムカヒニユク」賢治一行が馬車に乗り赤平川沿いに小鹿野町に向かったとすれば、小鹿野の手前で忽然と姿を現した「ようばけ」の広大な岩壁を見過ごすはずはない。確かに賢治が「ようばけ」を詠み込んだ短歌は残されていないが、宿に着く前にこの「ようばけ」を調査しているに違いないと思わせる記事もある。それは「三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル、原町箱屋辺迄ムカヒニユク」である。その帰り道で賢治は土蔵の街並みを見て「山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれら歌へり」と詠んだのではかと思う。この「歌へり」は「もだせり」に変更され「校友会誌会報」第三十二号に発表されている。

 更に本文の欄には「○盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス、同一行ハ本日三田川村ニ向ハレ今夜投宿、明日ハ三峰山ヘ、(三峰ハ一行初メテナリ)明後日ハ大宮魚惣角屋旅館宿泊ナリ」と記載されていた。これまで賢治一行が三峰神社の宿坊に泊まったことは、三峰神社の社務所日誌にも記載があり明らかとされてきたが、これで大宮(現在の秩父市)の角屋旅館に宿泊したことも明らかになった。

 九月五日の日記上段には「○三峰三宮沢到氏ニ宛テ封書ヲ生徒ナル塩井義郎氏ニ託シツカワス、便宜ヲハカルヨウノ手紙ナリ ○魚惣ヘモ書面中ニパン代金弐円入金シテ馬車屋要吉ニタノミツカワス、生徒一行ノ石ヲモ送レリ」とあり、当時の事実関係だけでなく館主田隝保の優しい心配りが伺われる。最後に「生徒一行ノ石ヲモ送レリ」とあるが、これは地質調査団を受容れる定宿としての務めでもあったのだろう。

 九月七日 消印埼玉秩父局0‐9 武蔵国三峰山 宮沢賢治の保坂嘉内宛ての葉書に書かれた短歌の中から二首を取り上げてみる。

 

  星月夜なほいなづまはきらめきぬ三みねやまになけるこほろぎ

  こほろぎよいなびかりする星の夜の三峰やまにひとりなくかな

 

 賢治は三峰山で星月夜に見た稲妻を短歌に詠み込んでいる。九月五日の夜三峰山山頂は良く晴れていたが平野部には電雷の記録があったと熊谷気象台に残されていたことを萩原昌好氏は突き止めていたが、この「田隝保日記」の同日にも「○今夜ハ八時頃雷鳴電光多シク、点燈滅シ、二時間モ立テバ点火スベシトノ話ナリシガ遂ニ終夜点火無シ」と賢治が三峰山に見た稲妻を裏付ける内容が記されていた。

 翌朝、賢治一行は三峰山を下山し、徒歩で秩父大宮に向かい影森の鍾乳洞に立ち寄ったと思われる。秩父大宮の角屋旅館に着くと、そこには寿旅館の館主田隝保が手配した岩石サンプルが届いていたことでしょう。九月七日、秩父大宮から本野上を経て熊谷で乗り換え、上野から同日の夜行列車で盛岡に帰った。

 宮沢賢治熊谷来訪一〇〇周年の年に、その足跡を辿ってみた。これまで賢治研究者の手によって明らかにされてきた賢治の足取りの地図上の点と点が、この「田隝保日記」の発見によって実線で結ばれたことに感動し、古い資料の重要性を思い知らされた。

 

<短歌>    宮沢賢治熊谷来訪一〇〇周年の年に

 小 南  毅                     

 

淡々と蠍座見えき熊谷に百年経し今探し難くも

 

長瀞の「粋な模様の博多帯」岩間を縫ひて舟下り行く

 

「ようばけ」の岩肌さらす赤平川賢治と嘉内の歌碑ならび建つ

 

秩父路の野上の駅の賢治歌碑「たうきび」の歌つぶやきてみる

 

弟と暮せし跡の賢治歌碑「ちゃぐちゃぐうまっこ」の鈴の音想ふ