熊谷文芸の第3号

 平成25年3月20日 「文芸熊谷」第3号は発行された。これまでその第1号、第2号の存在も知らなかったが、「火曜短歌会」に通うようになって初めて知った。短歌会の先生が、短歌と随筆を是非とも応募するようにと何回か勧めてくれたので、作文を書いてみた。

<随筆> 『四十八年ぶりに書いた手紙』

小 南  毅

 

 今年の七夕に故郷の『絵灯篭』が西神田商店街にやってくると同級生から知らせがあった。また、同日から高校の後輩が銀座の『日動画廊』で個展を開いているから観に行こうと誘われた。それは、我々より一回り程後輩で日動火災賞を受賞した画家M・I氏の個展であった。何故か、四十八年も前昭和四十年三月に小学三年生からもらった手紙を思い出した。私は、もう黄色に変色した作文の束を捲って見た。  ひょっとしたら、当時の教え子かも知れないと、手紙のコピーと『紅白のワイン』携えて会場に向かった。会場には既に十数名の来場者が居たが、『私は、小南ですが・・・』と声を掛けた。眉毛と目元に少し少年の頃の面影はあるが、最早やせっぽちの暴れん坊ではなく、どっしりと落ち着きのある大男であった。H小学校の話をすると、直ぐに思い出してくれた。彼の両親は共に教師であり、先生の評価には厳しかったそうであるが、『まともな先生が一人来た。』と家で言ったことを覚えていると、褒め言葉を言ってくれた。それは彼を本気で叱ったせいであろうかと思い出している・・・そして、四十八年ぶりに書いた手紙を手渡すことができた。

 私が三浪目の夏に入ったころ突然に高校時代に下宿先の『かあさん』がやってきて、Y市立H小学校の産休先生の代用教員をやって欲しいとのことであった。かあさんは、昔同僚だった校長先生から頼まれたと言っていた。担任の先生がお産なので、元気な子供達と遊んであげなさいといわれ、小学校の先生という面白い体験したのである。それは父兄参観の授業の時でした。『砂と粘土はどちらが水を通し易いか』という実験を通して教えるはずであったが、実験ではまるで反対の結果が出てしまったのである。脇の下に汗をかき、体中が熱くなったのを覚えている。丁度この年、あの新潟地震が発生したのである。臨時の代用教員には、避難訓練の体験も無くどうすべきか判断に迷ったが、ともかく生徒を安全に避難させることが第一と、統率を採りながら校庭に避難誘導した。一番早く避難させたと安堵していた。ところが一番早く避難していたのは、何と校長と教頭先生であったとは・・・今思うと大変な体験をしたものである。

 かくして三浪目も終盤に入るが、雪のまだ多い二月中頃に大事件が起こったのである。明け方、突然『火事だ~火事だ~』と叫ぶ声に目をさますと、納屋の方から焦げ臭い匂いが立ち込め、父親が狂ったように火を消そうとしている。その時の自分は、飛び起きた時のままの衣服であったが、父親が心配で後について消化をした。屋根に上って雪をすくい投げ込んだりもしたが、到底火の勢いには歯が立たなかった。私が裸足で雪道を奔り助けを呼んでいたら近所の人が、『自分の物を出しなさい。』と声をかけてくれた。慌てて自分の部屋に戻ったが熱風が立ち込め、窓を開けたら一気に燃え広がる気配を感じて恐ろしくなり、そのまま引き返し何一つ持ち出すことができなかった。夜が白々と明ける頃、向かいの家の土手から、母親と二人で家が焼け落ちるのを見ていた。

 従兄の家で洋服を借りて暖を取っていた昼ごろ、私宛に岩手大学工学部の受験票が届いた。他の大学の受験票は焼けてしまったし、もはや、背水の陣である。というより、この時点で大学進学など到底、無理だと思った。 国立一期校の試験までは、残すところ二週間だったと思うが、旺文社の蛍雪時代の付録一冊を抱え、鉛筆数本と消しゴムを買い求め、従兄から背広と長靴を借りて盛岡に出かけた。こうなると、人間肝が据わるもので、怖いものなしで試験に臨んだ。ただ、既に機械科の二年生となっていた高校時代の同級生が、宿屋に激励に来てくれたのには、気恥ずかしかった。それでも、彼は合格発表を見て電報で知らせてくれると約束してくれた。

 入試後、親友(北大医学部)の家に招かれて合宿したりした。彼の両親は先生で、正座した校長先生からお酒を注いでもらって飲んだのを今でも鮮明に記憶している。とても居心地の良い一週間程であったが、彼の家で不合格の知らせを貰ったら、いたたまれない気がして家に帰った。とは言っても、家は焼け落ちて何も無い訳で、親戚の三郎さんのご好意で牛小屋を改造した仮住まいが我が家なのである。焼け出されて、親戚の家を頼って分散して暮らしていたところ、早々に牛小屋の改造に取り掛かり、吹雪を押して部落の人、親戚総出で一家が住めるようにしてもらった。夕暮れ近くバスを降り、雪道を歩いて家に辿り着いた。裸電球の下で夕飯を食べていた時、部落の人が合格の電報を届けてくれた。 大学に合格はしたが、とにかくお金が無かった。まずは入寮の申し込みをした。その工学部の学生寮は「同袍寮」と呼ばれ、六人部屋五十室あり約三百名が一緒に暮らす大家族であった。学生がやり場の無い怒りをぶつけ発たのか、板壁のところどころのに穴が開き、傾きかけた建物であった。 さて、これからどう生活するかの知恵をつけてくれたのも、北大医学部の親友でした。まず、被災証明書を持って学生部に行き、奨学金の申請をすることでした。奨学金貸与の面接を受けた。教養学部の教授は大きな台帳を広げて私の入学試験の順位をチェックしているようであった。そして、「岩手大学合格者の十番代で合格しているから、特別奨学金が貰えるであろう。」と言われた時はホットした。特奨八千円は、当時としては大金で授業料月千円、寮費三食付四千七百円程でした。これで何とかやっていけると安堵した。 それから学生部にアルバイト紹介の申し込みを出したら、代用教員の経験が役立ち、両親が共働きの小学一年生の家庭教師のバイトを直ぐに紹介して貰えた。何しろ、小学校の先生をしていた姉から、テストの問題集を送ってもらい、事前に練習させたものだから常時上位の成績で、信頼を得た。バイト料は週三回で五千五百円でしたが、それにも増して美味しい夕飯をご馳走になり、寮の粗食とのギャップを痛感したものである。こうした学生生活も、色んな方のお世話になってスタートできたのである。代用教員として勤めた小学校の先生方からは、連名にてカンパをいただいたし、担任した三年三組の生徒は、私を励ます手紙を書いてくれた。ひらがなの多い手紙ですが、今でも大切に保管してある。ただ、若気の気恥ずかしさからか子供たちに返事を書いてなかったが、四十八年ぶりにやっと手紙を書くことができた。

 そして今、永六輔・中村八大の歌『生きているということは、誰かに借りをつくること、生きていくということは、その借りを返してゆくこと・・・』こんな想いで、小さな事でも何か、誰かの役に立ちたいと、障害者福祉事業のお手伝いを始めている。

 

          

「 虫の声 」

 

○ 古代蓮の花蕊(はなしべ)めぐる蜜蜂は悠久の香を纏いて発てり

 

○ 朝顔に水やる手を止め塀内の鈴虫の音に耳を澄ませり 

 

○ 熊谷の酷暑耐え抜き凛と鳴く鈴虫の声けなげに聞こゆ 

 

○ 病院の木洩れ日の道歩ゆみゆけば夏を惜しむか蝉しきり啼く

 

○ 蝉の声聞き分ける術(すべ)思い起こし木洩れ日の下にしばし佇む

 

 朝早く行田市の古代蓮公縁園に出かけた。そこには、既に多くの人々が来ており、思い思いに三脚にカメラを据えて蓮の花の一瞬を切り取ろうとしていた。耕地整理の工事をしていて、偶然地表に現れた古代の地層に埋もれていた『蓮の種が自然発芽した。』との説明書きがあった・・・

  私も古代の蓮の香りを感じながら観て廻った。すると、大きな蓮の花の中に小さな蜜蜂が懸命に蜜を集めていた・・・