私が短歌を作り始めたのは・・・

 私は何故下手な短歌など作り始めたのか思い出

してみた。私が初めて短歌を作ったのは、多分小学の高学年だったかも知れない。当時小学館から出ていた月刊誌に応募作が入選したことがある。確か、向日葵を詠んだ短歌だったと思うが、これも自分で応募などする訳はないし、直ぐ上の兄ははがきをだしてくれたのであろう・・・

 

他には、教科書に載っていた石川啄木の短歌が記憶に残っていて、いまでも啄木の歌集を読んでる。

○ たわむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

○ 故郷の訛り懐かし停車場の人ごみ中にそを聞きにゆく

 その後、同袍寮に入ったら沖縄出身の先輩が啄木が好きで、休みに啄木の歌碑の拓本作りをしていたので自転車で渋民村などへ連れていってもらった。それでも自ら短歌を作ることはなかった・・・

 今から約20年程前に小安温泉の鶴泉荘で行われた湯沢高校の同期会に参加し、恩師の歌集「歳月の海」を頂いた。その先生の前に座り「先生、私が分かりますか」とお酌したところ、「小南君、生きた証しに何か書き残して置くといいよ!」と言っていただいたのを記憶している。そのことは、心の何処かにあったが、仕事で飛び回っている頃には行動に移すまでには至らなかった・・・

 その後4年程前に家内が8ヶ月ほど入院し、退院して長いこと続けていた短歌会の友人と街で会い、短歌会への復帰を誘われた。本人のリハビリになればと参加することになり、私も付き添いの形で参加して短歌を作り始めた。歳と共に記憶力は衰え、先週の今日は何をしていたのか、手帳でも見ないと定かではなくなってきた・・・そんなことで、備忘録短歌として記録に留めておこうと思うようになった。これも泉谷先生に勧められた「生きた証を書き残す」ことになるのかなあと思い続けている。 

 2013年の秋に震災の被災地釜石に住む岩大機械科卒の佐藤氏(高校の同期)から1通のメールが届き、泉谷先生の近況を知ることができた。それを機に歌集「歳月の海」を読み返してみると、あとがきに戦時中の国策で学童疎開のため千葉外房にある都立九段中学の「大至荘」で集団生活をしていたと書かれていた。高校同期の佐藤女史が九段高校の校長であったことを思い出し、メールで連絡を取ったら「大至荘」の絵葉書を入手できたので、久々ぶりに先生に手紙を書いた。その手紙に高校同期で理科大で教鞭をとっていた松野氏は、長いこと短歌を作っており短歌誌「向日」の編集委員をしていると書き添えた。しばらくすると先生から毛筆の手紙と第2歌集「メルヘンの虹」をいただいた。先生もたいそう懐かしがられ、松野氏の短歌を読みたい書かれていたのでメールでお願いして、先生に「向日」を送ってもらった。私も近況報告代りに下手な備忘録短歌をお送りし、言い訳に「文語文法」を勉強中ですと書いたら、「助詞と助動詞」の使い方が大事であるとアドバイスしてくれました。

 こうして1通のメールから広がった人と人との繋がりが、人の心を慰め豊かにしてくれるものだと実感しました。