熊谷文芸の第4号

 平成27年3月に『文芸熊谷 第4号』が発行された。

 ここに短歌「お盆の帰省ーローカル線にてー」と随筆「冬季分校のあった里」を投稿したら掲載されたので、ご紹介する。

 これは前年2月に亡くなった兄の新盆だったので、秋田の実家に帰ったときのことである。

 <随筆> 「冬季分校のあった里」

 小 南  毅

 

 お盆に兄の三回忌があり秋田に出かけた。法要を終えた翌日、甥が泥湯温泉に誘ってくれて、若畑、新田、木地山経由で泥湯へ向かう山間ルートを通ってくれた。この若畑で五十年も昔に冬季分校の代用教員を勤めたことがある。高校を卒業して、浪人生活をしていた。秋も深まりそろそろ雪の気配がする頃、村の教育長が突然やって来て、『若畑の冬季分校の先生を引き受けて欲しい』と頼まれた。『子供たちが帰った後は、静かな所で受験勉強もできるから』と言われ引き受けることにした。その時の冬季分校がまだこの地に残されていた。校舎を取囲む杉木立が五十年もの歳月を物語っていた。古びた冬季分校の前に立つと忘れかけていた記憶が甦ってきた。

 十一月の末頃、本校の奥宮小学校での挨拶を済ませ、リュックに参考書や缶詰などの食料を詰め込み四キロ程の山道を登った。部落の人々が教育長と私を待ち受けていた。それぞれの家の手料理を詰めた重箱と「どぶろく」を持ち寄っての歓迎会であった。高校を卒業した年の二十歳前であったが、少し緊張しながらもお酒をご馳走になった。あの頃は、中学を卒業すると一人前の大人として扱われ、農作業をこなしていた時代であった。

 翌朝には子供たちが登校して来た。一年生から六年生まで十五名程の生徒たちに私一人で教えることになるのだ。教室は一つ、隣の部屋が職員室兼、私の寝起きする部屋である。それに台所と釜戸があったような気がする。黒板の裏手が薪の倉庫になっていて、薪だけは越冬するのに十分な程高々と積まれていた。この分校にも小さなオルガンはあったが、私は弾くことができなかったので、音楽の時間はみんなで唱歌を歌った。一年生から六年生までが一つの教室で勉強した。一、二年生は国語、三、四年生は算数、五、六年生は社会と言うようにして、私が教えている間は、他の教科は自習となってしまうのである。ただ、幸いなことに先生用の教科書には、大事な所とその解説が懇切丁寧に記載されてあり、初めての私でも的を外さずに教えることができた。何度か本校まで生徒を引率して学力テストを受けたが、決して本校生徒に引けをとることがなくほっとしたのを覚えている。冬季分校に赴任して間もなく雪が降り始め、あっという間に銀世界に変わった。一晩に高学年の子供の腰よりも深く雪が積もることもあったが、年上の子を先頭に雪を漕ぎながら登校してくれた。そんな時にはストーブをガンガン燃して、冷えた体を温めてやった。こんな日常の中で授業が終わって帰る前に高学年の女の子がご飯と味噌汁を作ってくれた。今では信じられないことであるが、農作業に忙しい両親を助けて、女の子が夕飯の支度をしておくことは、ごく当り前に行われていたのだ。

 この集落は、峠を越えると山々に囲まれた周囲三キロ程の窪地に七、八軒点在していた。近くに板戸沼があり水は豊かで夏場は田畑を耕して暮すが、雪が降ると孤立状態となる。冬場には雑木を切り倒して炭を焼き、時折炭俵を背負って山を下り、魚や日用品を求めて帰るのである。家では子供達が、『お土産はないかなあ』と待ちわびているのだ。

新雪の夕暮れは、真綿の様な白い雪景色の向こうにポツリポツリと灯りが点り、まるで狐火を眺めているような幻想的な世界となる。こんな夜に子供がやってきて『先生、湯こさ入ってたんせ』と誘ってくれるのだ。お誘いに甘えて出かけて行くと夕食のお膳を用意して迎えてくれた。長い冬を越すために漬け込んで置いた蕨やキノコの料理に鰰の麹漬けなどの心尽くしのおもてなしである。時には鯨の生肉が出てきた。冬場は雪に穴を掘り、藁むしろを被せた雪室が冷蔵庫の代用となる。家族皆と炉辺を囲んで食事をしていると、その鯨の肉が解け出し赤い血がお皿に浮いた。今では調査捕鯨でやっと手に入る鯨肉に箸を着けられなかった。夕食を頂いてお風呂に入ると『先生、ぬるぐにゃあが』と子供が五右衛門風呂を燃してくれた。蛇口を開くとお湯が出てくる時代に比べると長閑な風景だ。この山間の部落に電気が通ったのは、私が小学五年の頃たったと思う。そうこうしている内に吹雪になると『先生、泊まってぐんだ』と声をかけてくれるのである。すると、敷布団三枚に掛布団五枚も掛けてくれたので、布団の中で押し潰されそうな程であった。その上瀬戸物の湯たんぽを布団の中に入れてもらい、体も心もホカホカになって眠った。湯たんぽには電気毛布とは違う温もりを感じた。翌朝、朝食を頂いて子供と登校する頃には、学校まで雪を踏んで道を作ってくれていた。部落の人はまるでお風呂当番のように、それぞれの家が私を招いてくれた。ラジオもテレビも無い暮らしでしたが、決して寂しくはなかった。毎日、宿直日誌に『特に異常なし』と書いて一日を終えた。

 授業を終えた土曜の午後に雪道をスキーで下山して家に帰った。そして日曜の夕方には分校に戻るのが常であったが、ある日猛吹雪になってしまい翌朝早く出かけることにした。幸い吹雪も止み晴れたので急いで向かったが、村外れから山道に入ったらあまりにも雪が深くカンジキを取りに戻った。そして再びラッセルをしながら進んだら、電柱が雪に埋もれて僅か一メートル程の高さになり垂れ下がった電線が雪面に触れそうであった。いつもの道はどの辺りなのか見当もつけ難く途方にくれていたら、後から父親が心配して追い着いてきた。毛皮のケラを着て単発式村田銃を担ぎ、手に雪べら(木製スコップ)を持っていた。父親は冬場には猟師をしていたので、雪山での方向感覚は鍛え抜かれていた。こうして父親の先導でやっと分校に辿り着いたときには、十一時頃になってしまった。雪国ではよくあることだと村人は多目に見てくれていたようだ。翌日は、昨日の吹雪が嘘のように晴れ上がったので、子供たちと雪遊びをしながら、遠くの雪山に父親の姿を追った。真っ白な山の上部に豆粒ほどの黒い人影が僅かに動くのが見えた。その内にズドーンと一発の銃声が山間の部落に鳴り響いた。それから暫く時間が経ち、授業も終えた頃父親は白い山ウサギを背中に括り付けて山を下りてきた。

 春休みに入り二期校の医学部を受験したが、良い知らせはなかった・・・当然のことであろう。こうして三月末に冬季分校の代用教員の任務は終わった。いよいよ分校を引き上げるときには、高学年の子供が三、四人やって来て私の荷物を手分けして背負って山を下りてくれた。母が用意して置いてくれたノートと鉛筆をお礼に上げると子供達はまだ雪の残る四キロの山道を帰って行った。ここ若畑で、今年の熊谷の大雪を目に浮かべながら雪国の暮らしを思い起こしていた。 

<短歌>   「お盆の帰省 ローカル線にて」

 

わずかなる段差をなして連なれる稲穂も黄ばむ帰省の車窓

 

草茂る休耕田の見え隠れ車窓に流れ心寂しも

 

沢山の土産抱へし乗客に若きカップル席を譲りぬ

 

下車駅に開かぬドアに戸惑へる都会暮らしの長き旅人

 

古里の山河近づき昂ぶりて腰落ち着かぬローカル列車