第13回 賢治と歩む会 2017.10.28

<盛岡・イーハトーブアベニュー>
<盛岡・イーハトーブアベニュー>

 実は10月28日は、ラオス旅行に出かけていて参加できませんでした・・・「第2回の賢治と歩む会」から、欠かさず参加していたので残念であったが、元会社の同期との旅行を約束していて致し方なかった。

 第13回ではテレビ放映された「宮沢賢治の食卓」の第三話を鑑賞することになっていたので、録画したDVDを瀧田さんにお預けしておきましたが、ブルーレイディスクであったために再生できなかったそうだ。

 確認不足で誠に申し訳なかった・・・でも、萩原先生が「宮沢賢治のサハリン旅行」のお話をしてくださったそうだ。ことらも残念なことをした・・・

 これまで「賢治と歩む会」に関するブログの掲載を継続してきたので、今回は第13回の会報から抜粋した記事を掲載させていただく。

  <賢治が訪れたサハリン栄浜>
  <賢治が訪れたサハリン栄浜>

『 第十三強会報告 』  

 2017年10月28日㈯に第13回目の勉強会が、熊谷市市民活動センターを会場に八名で行われました。予定では、ドラマ『宮沢賢治の食卓 第三話』を鑑賞することになっておりましたが、都合により、萩原先生による宮沢賢治のサハリン旅行に関する貴重なお話をお聞きすることになりました。 

 今回の勉強会では、1996年に樺太の栄浜村に住む山口氏から萩原先生へ宛てられた手紙(資料)を基に宮沢賢治がサハリン(樺太)を旅したことに、どのような意味があったかということについて話していただきました。山口氏は、一九九六年二月に「テレビ朝日」と「TBS」で『銀河鉄道の夜‐樺太の旅』を放映したことをきっかけに、栄浜在住故に知りうる事実を多くの人に伝えようと地図を添え、賢治のサハリンの旅の詳細について両テレビ局の放映の内容を比較し、萩原先生に「近況対談に代えて、失礼します。」と綿密に筆を執られていました。萩原先生は、サハリンへは三回足を運んでいるそうです。一度目は、賢治の弟の清六さんの強い要望により。二度目は、「TBS」が放映した先の番組の制作に関わられてとのこと。その経験から、山口氏の報告による資料を丁寧に説明してくださいました。賢治は、1923年7月31日から8月20日にかけて、北海道を経由してサハリンまで至る一人旅を行いました。この旅行の直接の目的は、樺太の王子製紙に勤務している先輩を訪ねて、農学校の教え子の就職を依頼するということでしたが、実は賢治にとってもっと深いところでは、これは前年の11月に亡くなった妹としの魂との交信を求めた旅とのこと。そのサハリン旅行についての足取りをお聞きすることで、賢治がどのような境地でサハリンの地を訪れたかを垣間見ることができました。

萩原先生は、このサハリンの旅を最後に次のように語っていらっしゃいました。「賢治は、妹としとの魂の交信を求めてサハリンまで行った。しかし、結果、交信はできなかった(寂しさがなくなることはなかった)。しかし、その後、関東大震災を経験したことにより、大きく賢治の視点は変わった。つまり、妹としだけのことを考えてはいけない。本当の意味での祈りをしていなかったことに気がついたのだ。この気づきは、個人から全体へと目が向くこととなった。ここで世界全体の幸福を強く考えるようになったのだ。」

 <山下瑞穂氏が貸してくれた本>
 <山下瑞穂氏が貸してくれた本>

 「宮沢賢治と私」

 私は昭和41年に岩手大学工学部の同袍寮で暮らすようになった。学部には宮沢賢治の甥・岩田純蔵先生が教鞭をとっていたが、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。」と言って賢治のことを語ることはなかった。更に農学部には賢治が暮らした「自啓寮」があり、私はそこに泊めてもらったこともある。こんな背景の中で学友が『日本詩人全集 宮沢賢治(新潮社)』を貸してくれたが、その本を借りたまま転勤を繰り返し三十年も持ち歩いてしまった。

退職後、熊谷に住むようになり公民館で開かれた「入門 宮沢賢治」の講座を受講して、改めて「風の又三郎」を読んでみた。私が生れる11年ほど前に書かれた物語だが、村の童たちの遊びは私が育ったころの遊びと殆ど同じだったので、賢治を身近に感じるようになった。

これを機にこの宮沢賢治の本を読み始めたが、詩集『春と修羅』は難解で読み通すことができなかった。その上視力も弱くなってきており、漢字に振られたルビは殆ど読めず、表意文字の漢字から意味を咀嚼できたとしても、詩のリズムを感じとることはできなかった。それでも強引に読み進め、時として賢治の詩のリズムを感じたとった時の心地よさは何とも言えなかった。そんな時は、賢治の心象スケッチの風景は見えてきたような気にさせてくれるのだ。ただ、多くの場合、行から行への展開の飛躍には中々ついて行けなかった。それは賢治の詩は心象スケッチなるが故なのであろか。

 生前は無名に近かった賢治の作品を評価し、世に送り出したという草野心平は、『日本詩人全集 宮沢賢治(新潮社)』の編者として巻頭言を次の言葉で締めくくっていた。

『宗教と科学と文学との、稀にしか見られない綜合的な混洧から、賢治の独自な光の文学は生れた。膨大なひろがりと同時に垂直性の深い稀有な文学が生れたのである。』

 その後、熊谷短歌会の金子会長のご紹介で「賢治と歩む会」に入会し、萩原先生からお話を聞く機会を得、「人間・賢治を追い求めて」花巻で実証研究を続ける岩田純蔵教授の教え子・鈴木守氏からの刺激を受けるようになり、宮沢賢治の世界にのめり込んでしまった。

(小南 毅)

 

※山下さんからお借りしていた本は、同袍寮OBの時にお返した。

 長い間お借りしたままのお詫びとお礼を添えて・・・

 あすなろ さん、コメントありがとうございます。本日(1月21日)直木賞の門井慶喜氏著「銀河鉄道の父」を読み終えました…

 本書の344頁に「春と修羅」を最初に評価した人は「辻潤」と記載されてありました。あすなろ さん、ご指摘ありがとうございました。

 また、よろしくお願いいたします。

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コメント: 1
  • #1

    あすなろ (木曜日, 18 1月 2018 22:52)

    宮沢賢治の「春と修羅」を最初に評価したのはダダイスト辻潤です。
    英語の教師だった時に生徒だった伊藤野枝と結婚しますが野枝は「青踏」の編集にかかわり大杉栄と共に関東大震災の時に虐殺されます。その翌年1924年に辻は読売新聞のエッセイで賢治の「春と修羅」を絶賛しております。花巻の記念館で新聞の切り抜きを見ましたがどんな内容かは解りませんでした。あの当時のアナーキーな世に、賢治の様な人が現れたことも不思議ですが、それを評価した人が辻潤だったことにも驚きました。