第8回熊谷短歌会文学散歩 19.5.23

熊谷の歌枕を探して

 熊谷駅南口 令和元年5月23日8:30
 熊谷駅南口 令和元年5月23日8:30

熊谷短歌会では『熊谷歌集』第三号の別冊付録で「熊谷の歌枕」の刊行が計画されております。

そこで今回は、「くまがい探偵団」様のご協力得て“熊谷の歌枕”文学散歩のコースを検討してきました。

熊谷の地名、神社、仏閣を詠み込んだ「熊谷の歌枕」を残して行こうと短歌を愛する方々を募りました。

この文学散歩は短歌会以外の方も大歓迎で、「賢治と歩む会」の方2名のご参加に加え、私の後輩・安保さんは3年連続で参加してくれております…

  出発前の熊谷駅南口(秩父観光のバス)
  出発前の熊谷駅南口(秩父観光のバス)

今日は「くまがい探偵団」を設立した米山相談役は熊谷短歌会の金子会長とも親密な方で終日バスに同乗しガイドしていただけることになりました。この若草色のジャンパーが「くまがい探偵団」のユニホームのようで、画面中央の方が米山さんです。本日は全行程のご案内を宜しくお願いいたします。

 くまがい探偵団の米山氏(終日同乗ガイド)
 くまがい探偵団の米山氏(終日同乗ガイド)

バスが久下に向かうと米山さんは、こんな話をしてくれました…

熊谷直実との所領争い

建久3年(1192年)11月25日、熊谷直実と久下直光が所領の相論のため、頼朝の前で議論をおこなった。直実はうまく答弁できず、頼朝はすこぶる不審に思ったのだが、判決がでない内に直実は書類等を頼朝になげつけ、憤怒のあまり髻をきり遁世に及び、居宅にも戻らず西に向けて逐電したという(『吾妻鏡』)。そして1300年(正安2年)、当時の熊谷氏当主・熊谷直満と久下氏の当主・久下光直が和解に至り、108年に及ぶ争いに終止符を打った。

 それから時は移り、明治天皇の行幸に随行された宮内省文学御用掛の近藤芳樹氏が、明治11年9月1日久下土手で詠んだ歌を紹介してくれた…

  うちむれて熊谷男久下をとめむつみましげにみゆきまつなり

 

 米山さんからのお話で背景をその背景を知らなければ理解し難いと思った…

< 東竹院 >

 東竹院 前の駐車場 (9:10)
 東竹院 前の駐車場 (9:10)

バスはほどなく東竹院近くに着いたが、どうもバスは通れそうもないので、そこでバスを降り徒歩で行くことになった…そこで運転手さんの電話番号を教わり、見学が終ったら連絡することにした…東竹院には「くまがい探偵団」の稲村さんが待ち受けてくれていた…院の前には広い駐車場があったので運転手さんに連絡をいれたが、結果的にはどうしてもそこへは到達できなかった…

 東竹院 本殿
 東竹院 本殿

東竹院は、久下次郎重光(直光の子、法名東竹院久遠願昌居士、建久7年 1196年寂)が開基、月擔承水法師(安貞元年1227年寂)が開山となり創建、深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基、的翁文中が中興開山となり中興した。

 江戸期の寛永19年(1642)に寺領三十石の御朱印を拝領。忍領三十四所4番で熊谷七福神の寿老人と呼ばれている。(米山氏の資料参照)

 家紋の由来(まるに一引き)
 家紋の由来(まるに一引き)

家紋の由来

久下氏の家紋は「一番」という文字であるが、その由来が『太平記』に記されている。

足利尊氏が丹波篠村八幡宮で挙兵したとき、久下時重が250騎を率いて真っ先にはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。

 東竹院の副住職のご案内
 東竹院の副住職のご案内

高師直が、「源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」とこたえた。尊氏は、それは吉例であると喜んだという。

そこから「まるに一引き」が東竹院の家紋になったと副住職が説明してくださった…進入禁止ではございません!

副住職は東竹院の沿革を説明して、この寺の名物「だるま石」へと案内してくれた…

幸運にも今日は五月晴れで、もう陽射しも強く、金子会長も眩しそうな様子だ…

熱中症に注意しながらの文学散歩になりそうです…

 東竹院の「だるま石」
 東竹院の「だるま石」

だるま石:寛文年間(1661-1672)に忍城主阿部豊後守忠秋が、禅宗の祖達磨大師に似たこの巨石を秩父から城中へ筏で運ぶ途中、川に落とし、度重なる荒川の洪水も重なり行方が分からなくなった。それから250年ほど経った大正14年、この伝説の達磨石が荒川の東竹院のすぐ前で、発見された。川底から掘り起こされ、東竹院に安置された。(米山氏の資料参照)

・荒川の洪水を沈めむと大岩は

   達磨の姿にて東竹院に座す

 

この大岩・だるま石は、東竹院前の荒川の川底に横たわりながら、東竹院に洪水が及ばぬように守ってきたように思えた…そのためにお腹に大きな穴があいてしまったのでは… 

 達磨石ふところのポットホール(おう穴)
 達磨石ふところのポットホール(おう穴)

この達磨石のふところには、すり鉢状に丸く削られた穴があるが、これはポットホール(おう穴)と呼ばれるものである…

おそらく達磨石が荒川の川底に仰向けに横たわって居る頃におへその窪みに留まった小石が、川の流れでクルクルと渦巻をまいて転がり、長い長い年月をかけて達磨石のふところに穴をあけたのであろう…

東竹院の副住職は、久下一族の墓石の所に案内し、丁寧に説明してくださったが、遠くにいたのでよく聞き取れなかった…

そこで、この石塔に刻まれていた「久下領守直光公」でネットを検索してみたところ、次のような記載が見つかった…

  久下一族の墓所
  久下一族の墓所

久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(1182年)5月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。

勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久3年(1192年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。・・・久下氏と熊谷直実との関係など、全く知らなかった…

  人魚観音伝説
  人魚観音伝説

 副住職は石像の前で「魚籃観音」の話をしてくれた…

 村の美しい娘に村の若者が競って求婚したが、娘は課題を投げかけた…

 まず般若心経を暗唱してくださいと…次に観音経を課題に出した…暗誦できなかった若者は諦めるしかまかった。最後の課題の法華経を暗唱できた若者が嫁に迎えることができた… そのお祝いの宴は三日・三晩も續いたと言う…

 ところが、その美しい娘は眠ったまゝ眼を覚ますことはまかったが、娘を諦めきれない若者は毎夜添い寝を続け亡骸を葬ろうとはしなかったのです…

 とうとう腐乱が進み異臭を放つようになり村人たちが土に葬って上げた…

 しばらくして若者にお告げがあり、お墓を掘り返してみると棺の中から光を放つものが出て来た…その光を放つものは娘の喉仏だったそうです…

 それが魚籃観音として、ここに祀られていると副住職が語ってくれた…

・朽ちてゆく妻に添い寝の功徳あり

  マーメイド観音となり東竹院に

 

その魚籃観音は木陰で薄暗く、足元の鱗などは良く見えなかった…私は昔出張先のコペンハーゲンに見たマーメイドの姿が想い浮かんできて、こんな歌を詠んでみた…

副住職は、本堂の中も見学させてくれた…参加された方々の好奇心は旺盛で殆どの方は、本堂にあがりご説明を伺いながら、壁に掲げられている古い写真を見上げていた…

 東竹院門前の「砦のように並ぶ石柱」
 東竹院門前の「砦のように並ぶ石柱」

門前に立ち並ぶ石柱を見て、今年の1月8日の火曜短歌会で夏苅敏江さんが詠んだ歌を思い出した…

 東竹院の門のかたはら丈高き

  石の並びて砦のごとし

 

なるほど、この石柱を眺めて「砦のごとし」と詠まれたのかと納得。

私は運転手さんに見学終了と電話を掛け、皆さんと一緒に朝下車した所まで歩いた。

< 権八地蔵 >

 権八地蔵(米山氏のガイド)
 権八地蔵(米山氏のガイド)

権八物言い地蔵

・いぼとり・火伏せ地蔵

 この権八地蔵はいつのころからか、いぼとり地蔵としても信仰されるようになったそうです。権八地蔵の地蔵堂前の線香の灰をイボにつけていぼとりを祈願するといぼが取れるといわれています。

そして毎年8月24日が権八地蔵さんの縁日で地区の方が集まってお祭りをするそうです。また奉納された地蔵堂の額には火防地蔵とも書いてあり、火伏せの地蔵様でもあったようです。

 権八地蔵(米山氏ガイド)
 権八地蔵(米山氏ガイド)

地蔵の名前は物言い地蔵、権八地蔵あるいは権八物言い地蔵といわれています。

 鳥取藩32万石の池田家の家中の平井権八は、父平井庄左衛門が同家中の本庄助太夫に飼い犬の喧嘩で侮辱されたため、そのことに腹を立てて助太夫を殺害し出奔しました。

久下の土手で上州の絹売商人の弥市を殺して金を奪いました。そこにあった地蔵さんにお賽銭をあげて「見ていたのは汝だけ、黙っていてくれ」と地蔵さんに頼みました。すると地蔵さんが「わしは言わぬが、おぬしも言うな」と口をきいたそうです。

 江戸に出てからは遊女小紫と懇意になり、遊びの金ほしさに悪事を重ね、1679年(延宝7年)、品川の鈴ヶ森で磔になったという…

・盗人の名をつけらし権八地蔵

  「ここだけの話」と言ふを戒む

 

私は秋田の田舎で子供の頃、どさ回り劇団で平井権八が登場してくる剣劇をみたことがあるような気がするが、そこに権八地蔵ができたかどうかは、もはや定かではない…

 平成29年2月28日 の火曜短歌会で峯岸あい先生が詠まれたお歌です…       

  追いはぎの民話伝へて久下土手にひるみ建ちをり権八地蔵

< 久下冠水橋 >

 「おもいやり橋」(米山氏ガイド)
 「おもいやり橋」(米山氏ガイド)

権八地蔵の見学が終ると米山さんが50m程先に「おもいやり橋」という久下冠水僑跡がありますと呼びかけるとみんなが後に続いた…

久下の長土手

久下の長土手深谷の並木さぞや寒かろ寂しかろ」と馬子唄に歌われほど、ひと気のない寂しい場所だったようだ…

・一車線を交互に渡る荒川の

 久下冠水橋は「思いやり橋」

 

随分と前のことだが、久下橋の袂で魚が良く釣れるというのでやって来たことがあった…その橋は木製だった記憶と対向車が渡り切るのを待って橋を渡った記憶がある…

米山さんは荒川土手に立ち、街の方を指差しながら、「カッパの妙薬」と云う切り傷に効く薬「救瘡丸」も有名でしたよと説明してくれた。

そして、そのお店は「かっぱの妙薬みかり屋さん」と呼ばれ、多いに繁盛したそうだと付け加えられた…

 荒川の鮎漁の絵画と古歌(米山氏提供)
 荒川の鮎漁の絵画と古歌(米山氏提供)

米山さんは、バスが動き出すとこの絵を取り出し、こんなお話をしてくれました…

みかり屋(渓斎池田英泉画)

狩を好んだ阿部豊後守正識(マサツネ)は、この茶屋で出された茶や餅が美味かったので「御狩屋」と命名。「あんころ」「うんどん」

「ゆべし」「鮎うるか」「焼き餅」が名物として売られていた。

古歌荒川の瀬に立つ鮎の腸なればそれをうるかと云ふべかりけり

 

私の田舎でも鮎が沢山捕れた時など、そのまま鮎を切り刻んで瓶に詰めて塩をして保存していた…夏場を過ぎ、初冬には熟成したようで鮎独特の香りと渋みを楽しみながら、大人たちはお酒を呑んでいた…それを「鮎の切り込み」、「鮎の塩辛」とか「うるか」と呼んでいたが、どうも子供の口には合わなかったようです… 

< 万平公園 荒川堤 >

今回は地元に詳しい「くまがい探偵団」の皆さんがタイム・スケジュールを検討してくださり、オプションとして万平公園に立ち寄ることになった…何も知らない私は、万平公園を散歩でもするのかと思っていたら、そこには熊谷の歴史が刻まれていたのである…

  「蚕霊塔」の説明 (米山氏ガイド)
  「蚕霊塔」の説明 (米山氏ガイド)

このなかなかユニークな碑は、かつて養蚕業が盛んであったころ生糸生産に使われた膨大なカイコの繭(まゆ)を慰霊する蚕霊塔(さんれいとう)だそうです。

万平公園には花見の時期に何度か来たことがあるが、蚕霊塔を目にしたのは初めてだった…何でも知っている米山さんの説明に聴き入った…

実は万平公園の東側、堤のすぐ隣には、平成10年(1998)まで「埼玉県繭検定所」がありました。かつて繭取引は、仲買人によって買い占められていて、その時々の言い値に生産者が不利益を被ることが多く、制度としては不十分でした。

そこで、公的な機関として「繭検定所」をつくり、生産者から繭を一括に引き受け検定をし、その品質に基づいた取引をすることで、価格を安定させるというシステムにしたのです。

  名称熊谷堤 石柱(旧熊谷堤)
  名称熊谷堤 石柱(旧熊谷堤)

熊谷桜堤は、約400年前に鉢形城主(寄居町)北条氏邦が、荒川の氾濫に備えて築いたのが始まりと言われています。中山道の宿場町当時には、熊谷の花見として江戸まで聞こえた熊谷桜堤でしたが、明治時代に入り、桜は枯れてしまいました。1883(明治16)年、竹井澹如(たんじょ)、林有章、高木弥太郎らが、熊谷桜の再現を考えて東京から450本の桜を購入し、夜を徹して堤に植えました。尚、桜堤に桜を植えた主役は、林有章であったという・・・

この年が、上野~熊谷間の鉄道開通の年で、当時の日本鉄道(株)は、桜の木の運搬を無料で行ってくれたそうです…今では信じ難い何ともの美談である。

その後、1925(大正14)年の熊谷の大火以来衰えを見せ始めましたが、市制20周年記念事業として、1952(昭和27)年から荒川沿岸の新熊谷堤に植樹をし、現在の見事な熊谷桜堤に引き継がれています。

と、米山さんは熱のこもった説明をしてくださった…

 竹井澹如(たけいたんじょ)説明板
 竹井澹如(たけいたんじょ)説明板

竹井澹如(たけいたんじょ)

群馬県に生まれ、熊谷宿の本陣竹井家を継ぎ、竹井家の14代当主となりました。慶応年間に鎌倉町に別邸である、池亭を設けました。そこには昭憲皇太后や大隈重信、徳富蘇峰などの名士が来遊し後年、「星溪園」と名付けられました。

また政治に深く関心があり、地方実力者の養成に努め、中央政界の大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとも親交があり、陸奥宗光に働きかけて熊谷県誕生に尽力したことでも有名です。教育面でも渋沢栄一らと協力し、育英事業にも貢献しました。

初代の県議会議長となり、産業・土木面でも大きな功績を残しました。

 竹井澹如翁の功績 (米山氏ガイド)
 竹井澹如翁の功績 (米山氏ガイド)

・澹如翁と有章翁らの植栽実を結び

  荒川堤に桜咲き継ぐ

 

今では荒川大橋の上下の土手に4キロにもわたる桜並木を誇る荒川堤の桜も、こうした先人たちの想いが受け継がれているのかと思うと来春の桜はきっと違って見えてくるに違いない…

      名称熊谷堤と林有章の碑
      名称熊谷堤と林有章の碑

荒川堤跡から公園側に下りて行くと「林有章翁の碑」があった…

 今回は立ち止まっての説明はなかったが、ネットで検索してみると、やはり澹如翁とともに荒川堤の桜木の植栽に立ちあがった方であった…

桜の時期にこの万平公園を訪れたことはあったものの、何も知らずに見過ごしていたのです…

 林 有章(はやし ありあきら)説明板
 林 有章(はやし ありあきら)説明板

俳人。通称勘兵衛、また幽嘩、如菊とも称し、晩年は桜雲道人とも号した。書に秀で、碑文・簑刻など100基余りがあり、詩文、俳句にも通じた。明治16年、竹井澹如らと荒川堤上に桜樹を植栽する発起人となり、吉野桜を植樹。明治35年、竹井澹如、四分一葉々、内田彦雄らとともに、花塚(現:石上寺)を建立する。明治39年には、熊谷桜樹保勝会を設立し、副会長に就任。著作に『幽嘩閑話』がある。大正14年石上寺境内に有章翁記念碑建立される。

 昭和20年2月12日86歳で没す。

 荒川堤跡を回る園児たちの電車道
 荒川堤跡を回る園児たちの電車道

・園児らの荒川堤をまわる道

  万平公園駅は電車ごっこ駅

 

荒川堤跡に登ろうと裏手に廻ったら、向こうから二列に並んだ園児たちがやって来た…そしてハイタッチをして元気を分けてくれたのです。

そうか、この道は園児たちにとっては電車道なのかと思い歌に詠んだ…

泉栄八丁堤(現・熊谷市曙町界隈):米山氏提供
泉栄八丁堤(現・熊谷市曙町界隈):米山氏提供

米山さんは赤城神社へ向かうバスのなかで、この絵を見せながら江戸時代の様子を説明された…

久下の一里塚から約4キロあたりが現在の曙町になり「熊谷宿八丁堤景」として描かれている…

熊谷と言えば夏の暑さで有名なところこの浮世絵でも駕籠に乗った人が扇子を扇いでいたり、御茶屋で上半身裸の休憩場面など真夏を感じます。

< 赤城久伊豆神社 >

 赤城久伊豆神社
 赤城久伊豆神社

万平公園からは約4キロ程の工程で赤城神社の駐車場に到着した…

ここは新幹線と秩父線が交差する石原踏切近くで、下りの新幹線から見下ろせると思う…

バスを降りた皆さんは、熱心に「赤城久伊豆神社 本殿」の説明書きに熱心に目を通していた…

久伊豆神社は、加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。

祭神は大己貴命(オオクニヌシ)。埼玉県の元荒川流域(行田、鴻巣、加須、蓮田、鷲宮、白岡、久喜、岩槻、越谷、草加、八潮)を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。

なお、西側の荒川流域には氷川神社、東側の中川流域には鷲宮神社、利根川・江戸川流域には香取神社が多数分布している。 (米山氏の資料参照)

赤城山を神体山として祀る神社は、全国に334社にのぼり、群馬に118社、埼玉に8社、内熊谷に4社(石原・大麻生・今井・成沢)、東京に3社(新宿区赤城元町・早稲田鶴巻町・足立区谷在家)、北は福島に5社、西は愛知に1社となっているそうですと米山さんが教えてくれた。

 赤城神社(聖天堂に集結した名工が造った)
 赤城神社(聖天堂に集結した名工が造った)

 そして米山さんは社殿の奥の方へ行き、みんなを手招きした…

それから奥社の軒下を指差し、この社殿を造ったのは、国宝に指定された妻沼の聖天堂を手掛けた彫刻師たちの名前が棟札に書かれていたことが判明しましたと説明してくれた…

名工たちの名前が書かれた棟板が改修の時に発見されてのだという…

 本殿の棟札に聖天堂の彫刻師の名前がある
 本殿の棟札に聖天堂の彫刻師の名前がある

・聖天堂を造りし匠の刻みたる

  赤城神社の細工を見仰ぐ

 

妻沼の聖天堂建設が資金難で中断した時期に全国から集められた名工たちに遊休が発生してしまい、その名工たちが赤城神社の奥社建築に携わったということだ…赤城神社にとっては幸いだったかも…

赤城神社境内に造られた小山には、御岳神社が祀られいるようで、米山さんはそこに登って、ここに登れば富士山に登ったのと同じご利益があるそうですと説明した…すると次々と皆さんが登り始めたので、足を滑らせて怪我でもなさらないようにと念じつつ見上げていた…

・赤城神社 神木の幹に耳よせて

  霊を聴かむとす昔の乙女ら

 

心清らかな乙女には、ご神木の幹を流れる水音が聞こえてくるというが、昔乙女だった皆さまには、果たしてご神木の霊は音を聞かせてくれたのであろうか… 

赤城神社胎内くぐり(2018年6月30日9:45)
赤城神社胎内くぐり(2018年6月30日9:45)

義母病みて赤城神社の胎内くぐり

 氏子に習ひ茅の輪くぐりぬ

 

朝から熱心な氏子さんが、胎内くぐりの準備を整えていた…

茅の輪の横にあったくぐりかたの説明図を見ていたら、その氏子さんが一緒にくぐりながら作法を教えてくれたのです…

< ランチタイム(みかわ) >

 ランチタイム(みかわ 11:45)
 ランチタイム(みかわ 11:45)

赤城神社をゆっくり見学したが、お食事処とは近かったので予定よりも早めに到着した…22名もの配膳もほどなく終わったので、金子会長のご発声で昼食を頂いた…

一人前千円のランチではあったが、食後のコーヒーもついて美味しかったと好評で会った…企画側としては一安心でした…

< 宮塚古墳:国指定文化財 >

:
 宮塚古墳:国指定文化財(昭和31.5.15指定)

観音山へ向かうバスの中から、米山さんは「宮塚古墳」を紹介してくれた。(以下、米山氏の資料参照)

荒川の自然堤防上に分布する広瀬古墳群中にあり、一辺約24mの方形壇の上に直径9mの円丘を載せることから、終末期の上円下方墳と考えられている。

山王塚、御供塚の呼称もあった。 墳丘の一部に河原石を積み上げた部分が残るが、出土遺物や埋葬主体部は知られていない。上円部の直径が小さいので火葬墓である可能性も考えられている。良く保存されており、発掘調査は実施されていない。

  説明を終えてから、駐車場がないので自転車でと付け加えられた…

< 三ヶ尻観音山・龍泉寺 >

 渡辺崋山 熊谷三ヶ尻「訪瓶録」夏苅氏提供 
 渡辺崋山 熊谷三ヶ尻「訪瓶録」夏苅氏提供 

バスが三ヶ尻観音山に近づくと、米山さんは渡辺崋山が三ヶ尻にやってきた訳を解説してくれた…

熊谷市の三ヶ尻はかつて三河国(現・愛知県)の田原藩主・三宅氏の領地だったことがあり、田原藩の家譜(藩の歴史を記録したもの)を作るため、旧領地・三ヶ尻の調査を家臣である渡辺崋山が、天保2年(1831)に三ヶ尻に来て、まとめた『訪瓺禄』には当時の三ヶ尻の様子が克明に記録されており、貴重な歴史資料になっているという。また、蘭学者・画家である崋山は、三ヶ尻の近郷の名主や文人と句会や画会を開き、わずか20日間の滞在であったが、多くの文化遺産を残した…

 「くまがい探偵団」の田口氏
 「くまがい探偵団」の田口氏

龍泉寺の駐車場に着くと田口さんが待っていてくれて、暑いからと言って山門をくぐりお休み処へと誘導してくれた…今回は田口さんは責任者として、私と何度も連絡を取り、観音山のニッコウキスゲの写真を三回も送ってくれた…更に別府沼まで出かけて行き花菖蒲は期待できないと写真で知らせてくれました…

・龍泉寺崋山の筆とふ天井絵

  風雨に晒され山門にあり

 

田口さんの誘導で山門をくぐろうとした時、先を行く人が山門の天井を見上げながら「渡辺崋山が描いたと聞いたが、野晒しか…」と呟く声が聞こえてきた…

「無量」とは、量ることができないこと。対応する梵語にはⓈamitaやⓈapramāṇaがあり、共に測りがたいこと、あるいは量が莫大なことを意味する語である。

Ⓢamitaは無量寿(Ⓢamitāyus)仏、無量光(Ⓢamitābha)仏の無量にあたり、前者は寿命が膨大な長さであること、後者は光明に限りがないことを意味している。

「無量」は、考えも及ばないほどの膨大な数を表す表現として用いられる。

田口さんは、みんなを日陰に案内してから龍泉寺、観音山、ニッコウキスゲの散策コースの概要を説明してくれた…当初、脚力に自信のない方をバスで観音山の裏手に案内してニッコウキスゲを見ていただく予定であったが、残念ながらそれは叶わなかった…

「くまがい探偵団」の稲村さんが、「木花開耶姫命」にまつわる神話を話してくれた。

そして多くの神々が祀られいる観音山に木花開耶姫命の碑もあるというのです…何故、木花開耶姫命の碑が観音山にあるのは良く分からなかったが、おそらく富士山信仰か浅間山信仰によって建立されたのであろう…そこで「木花開耶姫命」神話をネットで検索したら「八百万の神大図鑑」のYouTubeに「木花開耶姫命」神話の朗読が見つかった…ご興味のある方はクリックしてみてください。

  「木花開耶姫命」の神話(ネット参照)
  「木花開耶姫命」の神話(ネット参照)

 木花開耶姫命YouTube)を祭神として祀る富士山本宮浅間神社には竹取物語とよく似た縁起の話が伝わる。

 木花開耶姫命はニニギノミコトが、一目惚れした美しい神様桜の語源は木花開耶姫命から来たと言われ、その名のごとく、美しく咲き、散って行く、幸短い神様

 木花開耶姫命は山の神様、オオヤマヅミの娘。 ニニギノミコトが木花開耶姫命に一目惚れし、嫁にもらおうとオオヤマヅミに告げると大いに喜んだ。喜んだオオヤマヅミは一緒に姉であるイワナガヒメを嫁がせる。しかし、その容姿は大変醜かったため、ニニギは父の元へ返してしまう。オオヤマヅミはイワナガヒメを返されたことで大いに恥じた。そして、ニニギに呪いを吐き掛ける。

 オオヤマヅミはイワナガヒメを嫁がせたのは考えがあってのことだった。

 

  「木花開耶姫命」の系図
  「木花開耶姫命」の系図

 木花開耶姫命は容姿も美しく、桜の如く栄えるがその命は短命ですぐに散ってしまう。だから、岩のように永遠の命を持つイワナガヒメを一緒に授けたのだ。 それを知らないニニギはイワナガヒメを返してしまった。そのことで永遠である寿命も限りあるものになってしまった。

 その後、一夜にして2人は結ばれ身篭る。しかし、ニニギは一夜にして身篭ったことをおかしく思い他の国津神の子ではないかと疑う。 激怒した木花開耶姫命は産屋に入って自ら火を放つ。『天津神のニニギの子ならば何があっても無事に産まれるはず』 その炎の中でホデリ、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産んだ。このホオリの孫初代神武天皇である。

 この様に、美しさ故に疑われ、美しさ故に散る。人を惹きつける魅力は、嫉妬や疑念の対象にもなりうる。また、引きつけた魅力に値する見返りを求められ、その見返りを与えなければ人は裏切られたと落胆する。この様に、努力による美しさではなく、生まれ持った美しさは様々な試練がのしかかる。一見華やかな人生も、本人にしか知りえない苦労がある。

 美人薄命とはこの様なことから言い伝えられたのかもしれない。

 観音山の電波塔(秩父セメント)紹介
 観音山の電波塔(秩父セメント)紹介

 そのお話が終ってからマイクを借りて秩父セメントの電波塔が観音山にあったことを紹介した…私が入社した昭和44年当時、釜伏山に無線の中継基地があり、秩父ー熊谷ー東京と結ぶ社内回線を活用しテレビ会議までやっていたと…高崎営業所など関東一円で社内電話を使っていた…

また観音山には国土地理院が定めた一級三角点があり、その標高は97.5mとされてきたが、15.9mの電波塔は解体され標高は81.6mと表記されようになったようだ…

 秩父セメントの電波塔         電波塔撤去の跡地

みなさんが観音山の散策に入ると分散してしまうので、龍泉寺正面の階段で集合写真を撮ることにした…

みなさんにそれぞれ思い思いの所でポーズをとってもらったが、五月晴れの強い日射しのために日陰になってしまった方には申し訳なかった…

足に自信ありの健脚の皆さんは、そのまま正面の階段を直登したが、私は小谷野さんと迂回ルートを登っていった…田口さんも付き合ってくれた…その途中で金子兜太の句碑に遭遇できた…もし階段を直登していたら、この句碑に気付かなかったかも知れない…

 画家・石川梅子の生誕100周年 金子兜太句碑
 画家・石川梅子の生誕100周年 金子兜太句碑

龍泉寺 金子兜太句碑

白梅に風雨の日日の澄みにけり

 

この句碑は、平成2年(1990)4月10日に、画家・石川梅子の生誕100周年を記念し顕彰句碑建設委員会によって建立されたものです。

同委員会が金子兜太に作句と揮毫を依頼し、御影石の石碑に刻まれました。題字は龍泉寺住職の小久保隆吽が担いました。

龍泉寺の本殿を見て、観音山の頂上に向かって歩いた…

やはり最後の方で、皆さんはかなり前を登っていたが、それに向かって田口さんが大きな声で呼び掛けた…「左の道を進んでください!」と。

右側の道は、そのままニッコウキスゲの方へ行っていまうらしい…

稲村さんのお話のように観音山には沢山の石碑群があるらしいのだが、早速石碑の前に立ち止まって見ている人たちがいた…

私もその石碑を眺めたが、太陽を遮る木立の中では刻まれている文字も良く見えなかった…

後でこの写真を拡大して確かめてみると「御嶽山座王大権現」の文字が刻まれていた…

多くの人々の信仰を集めている御嶽山が祀られいるようである…

 

更に登って行くと、一番高そうな場所に目立つのが「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」の石碑だった…この文字も写真を拡大して確かめたが、文字自体は比較的鮮明であった…この姫は「古事記」や「日本書記」の神話に登場してくる姫のようである…

私は「木花開耶姫」の碑を見学してから電波塔があった辺りを確認し、そのまま皆さんに続いてニッコウキスゲの自生する観音山の裏手の方に向かった…

それほど急な下りではなかったが、雨で土砂が流されたのでしょうか、足場の良くない道を下った…

大きく裏手に廻り込む道は、片流れの斜面となっており滑りやすい状態だった…

靴底を斜面に合わせ足首を曲げ歩みを進めながらも木洩れ日の中に目を凝らしてニッコウキスゲの花を探した…

 ニッコウキスゲの花を発見(13:48)
 ニッコウキスゲの花を発見(13:48)

・観音山の裏手に自生す

  ニッコウキスゲ

  眼を凝らしつつ砂利道くだる

 

最初に道路に咲いていたのを見つけて写真に納めほっとした…今回の文学散歩の企画の目玉が、埼玉県で唯一自生しているというニッコウキスゲを見ることだったので…

 渡辺崋山の腰掛石(実は足がつっていた)
 渡辺崋山の腰掛石(実は足がつっていた)

・龍泉寺 崋山の石にしゃがみこみ

  つりたる右足擦りてなだむ

 

観音山裏手に回り込む道は、片斜面の下りが続いたせいか下り終わった時に右足がつってしまった…私はその場で少し休息し、その奥へ行かずに龍泉寺正面まで何とか引き返した…私は崋山が腰を下ろしたとい石にしゃがみ込み右足を擦り続けた…直射日光の暑い日射しの中で…

水分不足も痙攣の原因だというので、ガイドの方からペットボトルのお茶をいただいて呑んだ…崋山はこの石に腰かけ、秩父連山を眺めたというが、その時の私にはもの想いに耽るゆとりはなかった…

< 別府沼公園 >  くまがい探偵団の特別企画

    別府公民館の入口(14:50)
    別府公民館の入口(14:50)

数日前、「くまがい探偵団」の田口さんから別府沼公園の写真が送られてきた…そこには花菖蒲はまだ咲いておらず殺風景な景色が写しだされていた…

文学散歩の日程は観音山のニッコウキスゲの花に合わせたので仕方がない。

公園内の芝生を散歩してもらったり、木陰で談笑でもしていただくしかないなあと諦めていた…

 別府公民館ロビー(高橋館長と米山氏)
 別府公民館ロビー(高橋館長と米山氏)

ところが米山さんの機転で「くまがい探偵団」オプション・ツアー特別企画が練り上げられていたのです…

それは別府公民館の高橋館長の特別講演だったのです…

米山さんのご紹介を受けた高橋館長は三ヶ尻・別府地区の今昔に詳しく特に幡羅官衙遺跡群」に造詣の深い方でした…

まず、高橋館長はロビーの壁に掲げられた写真を指し示しながら、三ヶ尻・別府地区の昔から現代への変遷を解説してくださった…

そこにはアメリカ進駐軍が撮影したと言う戦後の三ヶ尻・別府地区を鳥瞰できる航空写真もあった…この航空写真に秩父セメント熊谷工場が写っているのか興味深かったので「50年史」を捲って見たが、昭和38年に熊谷工場の操業開始だったから、その辺りは桑畑だったでしょうね…

そして、いよいよ国史跡幡羅官衙遺跡群」のパネルを使っての説明が始まった…何だか一段と熱がこもった口調に変ったように感じた…

普段、何も知らずにこの辺を車で走っていたが、幡羅官衙遺跡群」が広域に及ぶことに驚き、このパネルに示された地図と現在のロケーションとの照合はどうしてもイメージできなかった…

  国史跡「幡羅官衙遺跡群」説明板
  国史跡「幡羅官衙遺跡群」説明板

幡羅官衙遺跡群は、深谷市幡羅官衙遺跡から続く幡羅郡家にかかわる西別府遺跡・古代寺院の西別府廃寺・祭祀場跡の西別府祭祀遺跡からなる熊谷市西部に位置する飛鳥時代~平安時代の遺跡群です。

これら3つの遺跡が有機的に機能していたことが確認された郡家は、全国でも岐阜県弥勒寺官衙遺跡群(美濃国武儀郡家)に次いで2例目の確認となります。

          国史跡「「幡羅官衙遺跡群」の説明パネルより
          国史跡「「幡羅官衙遺跡群」の説明パネルより

 幡羅官衙遺跡群は、熊谷市西別府から深谷市東方にかけて所在する、 深谷市の幡羅官衙遺跡熊谷市の西別府祭氾遺跡・西別府廃寺・西別府遺跡で構成され、飛鳥時代~平安時代(7世紀後半~11世紀前半)の古代幡羅郡家(郡役所)と、郡家に付属する祭記場·寺院の遺跡群です。

 これら3つの施設が有機的に機能していた郡家跡の発見例は、全国的に数例しかなく大変貴重なものです。

私だけでなく、おそらく多くの方が飛鳥時代から平安時代に栄えた幡羅官衙遺跡群」(750~1030年代)がこの地にあったとは、現在の田園風景からは想像つかないことだと思った…皆さんは食い入るように高橋館長が指し示すパネルを見詰めつつお話に聴き入ってしまった… 

こうして別府公民館のロビーで30分ほど高橋館長のお話を伺った…

皆さんが立ったままお話を聴いているのに、観音山での足の痙攣が尾を引いているらしく私は座っていた…

それから野外見学ということで、高橋館長の案内で別府沼の方へ向かった…

短歌会の人は、好奇心旺盛な方が多いようで、別府沼の畔の木から垂れ下がるように咲いている白い花を見かけると『この花は何の花?』と言い出した…その時は判らなかったので写真に撮っておいた…

暫くして、誰かが『栴檀の花だ』と教えてくれた…

  センダン(栴檀)の花
  センダン(栴檀)の花

センダン(栴檀)は、センダン科センダン属に分類される落葉高木の1種。別名としてオウチ(楝)、アミノキなどがある。

「栴檀は双葉より芳(かんば)し」ということわざが存在するが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)を指すようです…

  「幡羅官衙遺跡群」の航空写真 (中央上部にごみ焼却炉煙突、その下・別府沼公園)
  「幡羅官衙遺跡群」の航空写真 (中央上部にごみ焼却炉煙突、その下・別府沼公園)
  
「幡羅官衙遺跡群」(最初の写真と別府公民館のパネルの航空写真と位置関係のイメージが違う)
 「幡羅官衙遺跡群」(図面の西別府祭祀遺跡から見ると公民館の航空写真の位置関係と合致)
 「幡羅官衙遺跡群」(図面の西別府祭祀遺跡から見ると公民館の航空写真の位置関係と合致)
  
  「幡羅官衙遺跡群の復元イメージ」 (発見された遺構を基に復元、一部想像図を含む)

別府沼公園の花菖蒲にはまだ水も引かれていなかった…花の咲いていない菖蒲畑を横目に公園を抜け農道を歩いて進んだ…

高橋館長は、利根川と荒川が洪水を繰り返して蛇行し、その境に別府沼ができたと説明してくれた…利根川は粘土質の土砂を運び、荒川は砂利を運び、その豊かな伏流水が田畑を潤し、古代から暮らし易い地域であった。

 「幡羅官衙遺跡群」の現地案内サポート
 「幡羅官衙遺跡群」の現地案内サポート

この別府は飛鳥時代から栄え、平安時代には群の政治を司る官衙が置かれた「幡羅郡家跡」が残されている。そこでは税として納められた稲を保管するための数多くの「正倉院」跡が残されいると説明。

すると「くまがい探偵団」の伊藤さんが、何か資料を掲げてサポートに入ってくれました…

 建ち並ぶ正倉跡(写真提供:深谷市教育委員会)
 建ち並ぶ正倉跡(写真提供:深谷市教育委員会)

幡羅官衙遺跡(はらかんがいせき)

 7世紀後半~11 世紀前半に機能していた幡羅郡家跡であり、税として納められた稲を収納した正倉院、郡司や国司などの宿泊施設である館、行政実務を行った施設である曽司群、道路などが発見されています。

 郡家で最も重要な施設は正倉院で、次いで、郡家の中枢施設で、郡政治の執務や儀式などが行われた郡庁ですが、今のところ未発見です。

 幡羅官衙遺跡のあった辺り
 幡羅官衙遺跡のあった辺り

この辺りに幡羅官衙遺跡群」があり、向こうの方に稲を保管る高床式の「正倉院」が立ち並んでいたと指で指し示してくれました…

だが、高橋館長の指先を目で追って私が認識した場所と果たして合致していたかどうかは、はなはだ心もとないところである…

 遠くを指して「森吉古墳」とお話をしたが…
 遠くを指して「森吉古墳」とお話をしたが…

それから、遥か彼方を指差して『あの辺の森吉古墳があった…』と話された…この古墳の規模から推測すると、当時2000人位の人々が暮らしていたと思われると続けた…高橋館長は元々土木が専門で、その経験から人力で古墳を築き上げたとすれば、その位の住民から人頭税として駆り出されたはずだと…

  「方形区画の官衙ブロック」
  「方形区画の官衙ブロック」

西別府遺跡( にしべっぷいせき)

 幡羅官衙遺跡と一体の官衙遺跡で、9世紀前半~10 世紀後半の大小の掘立柱建物を擁した二重溝で区画された官衙ブロックが発見されています。

 二重の区画溝間は、掘立柱塀から土塁構造へと整備されていったことが推定されます。

 なお、本遺跡範囲内には、未発見の郡庁が存在する可能性が有力視されています。

暫く土手の道を歩き、立ち止まった高橋館長は、小川の向こう岸を指差し「西別府祭祀場跡」が露出してますと説明してくれた…そこからは大量の魚貝類の殻が発見されるので、当時から舟運が海に通じていたと推測されるし、船泊りとしての川津も確認されていると語った…

 祭祀場跡 (石製模造品(人形·馬形·横櫛形))
 祭祀場跡 (石製模造品(人形·馬形·横櫛形))

     <祭祀場>

西別府祭祀遺跡( さいしいせき)

 7世紀後半~11世紀前半の祭祀場跡です。

 豊富な湧水を噴出していた湧泉の辺で行われた祭犯に用いられた石製模造品、上師器や須恵器などの土器、土錘が多数発見されました。

 祭祀は、7世紀紀後半の石製模造品を用いた祭把から始まり、7世紀末~8世紀初頭、幡羅郡家が整備されていった頃には、土器を用いた祭祀に変遷し、以降、終焉まで続けられました。

 なお、付近には、舟運の拠点である川津の存在も想定されます。

 「西別府祭祀場跡」と指差された所
 「西別府祭祀場跡」と指差された所

「西別府祭祀場跡」と指差された所は、一見普通に見えるが、ここから祭祀の道具類が発見されてという…

私が大いに興味深かったのは舟運と川津であった…古代の人々が川と堰を人力で結び、海へつながる交易ルートを活用していたと聞いて驚いてしまった…必要に迫られると人間は偉大な力を発揮するものだと…

  古代人が造った切通
  古代人が造った切通

そこから少し先の小川を渡る小さな橋にさしかかると、森の中の窪みを指差し、これは古代人が手で掘って作った切通ですと紹介した…

おそらく人頭税として徴収された住人が、石器か何かの道具で丘を掘り進み、その土砂を手で何処かへ運んでいったのであろう…

機械文明の発達した現代では気が遠くなるような話だと思った…

西別府祭祀場跡

 石器で掘りきとふ切通

  スニーカーで行く歌詠み人らは

 

薄暗い森を抜ける少し窪んだ細い切通とおぼしき道を通った…1200年も前に古代人が掘った頃は、崖が切り立って、もっと切通らしく写ったのであろうが、長い歳月の間、風雨に晒され崩れ落ちてしまったのであろう…その頃の古代人は裸足で通っていたのだろうなどと思いながら、スニーカーなど靴底のしっかりしたものを履いて少し積もった木の葉を踏んで歩いて行った…

 「西別府廃寺」の説明 (15:35)
 「西別府廃寺」の説明 (15:35)

その森を抜けると目の前に広い畑が広がっていた…

午後3時半を回っていたが、まだまだ陽射しが強く暑かったが、高橋館長は勢力的に説明を続けた…今度は西別府廃寺跡のお話だったと思う…

私も少し疲れてきたし、声も遠かったのでお話の内容をよく覚えていなかった…失礼なことをしました…

  「多量に廃棄された瓦」
  「多量に廃棄された瓦」

     <寺院>

西別府廃寺( にしべっぷはいじ)

 8世紀初頭に創建、 9世紀後半まで存続したと考えられる寺院跡です。

 塔と推定される基壇建物跡のほか、日常の維持管理や寺院建築金具などを製造した鍛冶工房などの竪穴建物跡、瓦や土器などを廃棄した瓦溜まり状遺構、 寺院廃絶の際、瓦などを片付け廃棄した大型竪穴遺構などが発見されています。

 瓦や瓦塔など、寺院や仏教関連の遺物が多数出土しています。

 「西別府廃寺跡」の風景(鉄塔の辺り)
 「西別府廃寺跡」の風景(鉄塔の辺り)

高橋館長は、遠くに見える鉄塔の辺りを指差し、あの辺に「西別府廃寺跡」がありますと説明されていたような気がするが、あまり自信がありません…

今日ご案内いただいた幡羅官衙遺跡群」に関しては、実際に現地に立ち、実感できるチャンスがあればと願っています…

ご説明を聴き終え、振り返る先程通り抜けてきた森が見えた…

その森の中の「湯殿神社」へ向かって歩いて行くと参道は木陰で薄暗かったが、社殿のところは午後の陽射しに照しだされていた…社殿の近くには「くまがい探偵団」の方々がお待ちのようです…

 境内でマムシグサを見つけた?
 境内でマムシグサを見つけた?

先を行く誰かが『マヌシグサではないかしら…』と言って覗き込んでいた…すると数人の方々も近寄って観察したが、断定はできなかった。

私も気になってネットで画像検索してみると、マムシグサと呼ばれている草にも色んな種類があるようですが、確かにこの草もその一種であることが判った…

 石灯籠の横に「西別府祭祀場跡」の標柱
 石灯籠の横に「西別府祭祀場跡」の標柱

しかしながら、このマムシグサに気をとられ、参道入口にあった「史跡 西別府祭祀遺跡」と記された柱を見過ごしてしまった…

たしかにこの標柱は認識したように思うが、その表記内容を確認しなかった

今思うと誠に心残りなことをしてしまったのである。

この「西別府湯殿神社」の創建についてははっきり解らないが、古墳時代末期から平安時代にかけて営まれていた祭祀遺跡であることから、祭祀が発展して神社となったのではないかと…明治42年に字新田の雷電社と字根岸の諏訪社を合祀したと言われているそうです。

高橋館長がこの地にまつわる伝説を次のような内容で語ってくれた…

南北朝期に入ると、武士団の信仰が見られる。『後太平記』には康暦二年(1380)5月、下野守護の小山義政が乱を起こしたため鎌倉府の足利氏満は出兵し、当地の丈六(九品仏堂:第4回文学散歩にて見学)に布陣して当社(湯殿神社)を拝した。

 すると、たちまち神殿が鳴動して葦毛の馬に乗るが動き、大音響と共に鏑矢が下野の方向へ飛行し、ついに戦わずして義政を降すことができたという霊験が語られている。(神のところは、実在した武者の名でしたが失念。)

 なお、このような霊験談成立の背景には、小山義政の乱に際し、武州北白旗一揆と称して団結していた当地の領主である別府氏をはじめ、塩谷・高麗氏らが足利氏に加勢していたことも見逃すことはできない。 

と語り終えた高橋館長は『土木が専門でした』という理系の方らしく、苦笑しながら額を撫でていたのが印象的であった…

こうした神様を崇め奉るために伝説となった霊験談であると知りながらも、参加者の皆さんはニコニコしながらお話を聴いていた…

 「西別府 祭祀遺跡」の案内板
 「西別府 祭祀遺跡」の案内板

 社殿の奥にある石碑の近くには「西別府 祭祀遺跡」と書かれた案内板があり、その先には神社裏の堀へ下りる階段があり、そこにはまた「祭祀遺跡出土場所」と記された石柱が立てられている。

 ネットで「湯殿神社」を検索していると上記の記事があった…確かに掘りへ下る階段を通ったが、「祭祀遺跡出土場所」の石柱を見過ごしたようだ…

 湯殿神社の裏参道に鎮座する水神の石祠
 湯殿神社の裏参道に鎮座する水神の石祠

・湯殿神社の堀辺に鎮座する石祠

  水神さまに湧水願ひぬ

 

 別府沼公園側に続く裏参道に鎮座する水神の石祠があり、石祠の側面には寛文11年辛亥9月吉日と刻まれているので1671年に建立されたことが分かる。

 しかし、荒川の伏流水は途絶えて久しいようである…

 下野に方へ飛行し戻ってきた鏑矢
 下野に方へ飛行し戻ってきた鏑矢

湯殿神社裏手の堀を渡って別府沼公園の方へ暫く歩いたところで、高橋館長はこの石柱を指差し『あれが下野の方向へ飛んでいった鏑矢が戻ってきて落下してきたものです。』と説明した…よく見ると矢尻のような形にも見えますが…

以前は荒川の伏流水が湧き出し、この堀を流れていたそうだが、今は水の流れている気配はない…

好奇心の強い方は、下まで降りて鏑矢石を見ていたが、皆さんは別府沼公園に向かって先を急いだ…

ある会員の方が『蛍がでるというが、何処ですか…』と訊ねてきた…

私は何度かここを訪れたことがあったが、その頃は僅かながらも清流が流れていた…

 噴き出している水は伏流水なのだろうか?
 噴き出している水は伏流水なのだろうか?

・利根川と荒川の生みし別府沼

  伏流水にほたる飛び交ふ

 

別府にお住まいだった峯岸あい先生が6月の歌会で『別府沼公園に蛍が出る頃だから見においで』と話されていた…

私には、荒川の伏流水がどんどん湧き出しているかように見えので歌に詠んでみたが…実際はポンプで圧力を加えているのかも知れない…

別府沼公園の花菖蒲を見ることはできませんでしたが、この特別企画は充実していて皆さんも大満足のようでした…五月晴れに恵まれ、こうして文学散歩も最終コースを廻り別府公民館のロビーに戻った…

私は少し疲れたのと無事に終わったことの安堵感もあって、ソファに腰を下ろしぼうっとしていると最後の締め括りをするように促された…慌てて立ち上がって高橋館長にお礼の言葉を述べて皆さんと共にバスに向かった…

    別府公民館
    別府公民館

バスに乗り込み、金子会長の方から今日一日ご同行いただいた米山さんに謝辞を述べていただき、駐車場の田口さん、伊藤さん、黒澤さんに別れを告げて熊谷駅南口へ向かった。

熊谷駅南口で散会してから横須賀から参加してくれた安保さんを労って乾杯した…ありがとう!

今回の文学散歩は、企画段階から『くまがい探偵団』に相談に乗っていただき、工程の時間スケジュールまで検討して頂きました。

関係各位のご協力に心から感謝申しあげます。

 

  < 謝 辞 >

  くまがい探偵団: 米山氏、田口氏、稲村氏、井上氏、伊藤氏、黒澤氏

  東竹院: 副住職さま

  別府公民館: 高橋 勇 館長さま

  資料提供: 米山 實氏  写真提供: 田口 徹男氏

 

 振り返ってみると秋田の田舎で過ごした歳月の倍も熊谷で暮してきたことになる…そうなるともはや私の地元は熊谷になるでしょうが、熊谷のことをあまり知らず、無頓着に暮して来た…そんな反省もあり、ブログに書いてみた…

 そういう訳で、遅くなりましたが、文学散歩の写真を見ながら思い出したことがらを徒然なるままに書き綴ったものですから失礼な点をあるかも知れませんが、どうかご容赦くださいますようお願いいたします。

 

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コメント: 3
  • #1

    新井あや子 (木曜日, 11 7月 2019 15:00)

    お疲れ様でした。残念ながら欠席でしたが、読んでいくと皆さんと熊谷を巡った様な気になります。私もいつの間にか人生の半分を熊谷で生活し、故郷で過ごした時間の倍近くになります。子供たちは熊谷生まれではありませんが、完璧「故郷熊谷」でしょうね。熊谷の事もきちんと向き合って生きていかなければならない時ですね。

  • #2

    小川美穂子 (火曜日, 20 8月 2019 07:38)

    またあらためてよみなおしました。というのはこの間子供会の子ども達と別府他を歩いたからです。そしてまたしても感嘆。私の力ではうまく写真も撮れないし、写真解説などの文字を書くこともとうていできず、しかも間違いが出てしまったり。。。最近記憶力の減退が進んでいます。これだけ書ければ、本当にご自身としても大満足と思います。関係の皆様もお喜びでしょう。それにしても健康第一ですね。残暑お見舞いと致します。千葉から

  • #3

    コスモス (木曜日, 10 10月 2019 09:39)

    熊谷は昔から歴史があるのですね。これだけの資料を良くまとめられたと感心しました。東竹院や、観音山、その他の歴史についてはわずかながら、知っていましたが別府沼周辺の歴史については初めて詳しく記されており、驚きました。古墳時代からもう国の所管である国司、郡司がおかれ祭祀遺跡もあったなんて。幡羅郡とは農具もそうでしょうが製鉄の技術もあり、鎌倉幕府に参画した、関東武士の直実や評定の中条氏があったのではないかと
    想像しております。色々と参考になり文字にして下さると読み返すことが出来ますので、ありがとうございました。