鹿児島 寿蔵 熊谷草歌碑建立除幕式

和紙などを張り重ねて作る紙塑人形の人間国宝で、熊谷草について多くの作品を詠んだ歌人、鹿児島寿蔵の歌碑を熊谷市内に建立するための寄付金募集が始まったことを「賢治と歩む会」の小川さんから聞いていたが、3月下旬のある日、歌碑建立の呼び掛け人として活動してきた市文化連合会の金子貞雄会長(熊谷短歌会会長)から歌碑の除幕式の写真を撮って欲しいと連絡がはいった。

実は、私が初めて短歌を教わったのは、鹿児島寿蔵の愛弟子だった峯岸あい先生だった…たまたまなのであろうが、この依頼を受ける前日の夢に峯岸先生が現れたのです…

そんなこともあり、金子会長からの依頼を引き受けることにしたのです…

鹿児島寿蔵(1898-1982)は、人形作家・歌人。福岡市生まれ。有岡米次郎に博多人形製作を学ぶ。1932年紙塑人形を創始、1933年日本紙塑藝術研究所を開き、1934年人形美術団体甲戌会を結成。アララギ派の歌人でもあり、島木赤彦・土屋文明に師事し、1945年短歌雑誌『潮汐』を創刊する。1961年紙塑人形の人間国宝となる。昭和20年東京田端の自宅が空襲で焼失し、熊谷在住のアララギの歌人・棚沢慶治の計らいで、市内上之に疎開し、7年間居住した。

そのころ峯岸先生はまだ女学生だったそうですが、短歌雑誌『潮汐』の校正のお手伝いを始めたと話していた…これが鹿児島寿蔵とのご縁だったようです…

その熊谷も8月14日の深夜空襲にあったんですが、その日はたまたま寿蔵さんは、用事があって東京に行っていたそうです。戦後の食糧難のころ、峯岸先生は野菜の育て方など百姓を教えてあげたと語っていた…

その後、鹿児島寿蔵は、昭和55年に熊谷を訪れ、星渓園で「熊谷草」の歌を詠んだ…

   熊谷草なくてかなはじと星池に植ゑて福ぶくしき花を咲かしむ

 

    鹿児島 寿蔵の歌碑(星渓園)
    鹿児島 寿蔵の歌碑(星渓園)

寿蔵の歌碑は星渓園に建立された。

星溪園は、熊谷の発展に数々の偉業を成した竹井澹如翁によって慶応年間から明治初年にかけて造られた。

澹如翁がここに別邸を設け「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園とした。昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師が「星溪園」と命名した。

      星渓園の「玉の池」
      星渓園の「玉の池」

その星渓園の池には、清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が、川の源となった。

そして昭和25年に熊谷市が譲り受け昭和29年に市の名勝として指定され現在に至っている。

昭和44年に秩父セメントに入社し、板橋の社宅にいる頃、竹井さん御夫妻も同じ社宅だったことがあり、やんちゃな息子が上り込んで勝手に冷蔵庫を開けてお菓子を頂いていたそうで・・・

その竹井さんが子供の頃は、この星渓園で暮らしていたと誰かから聞いた…

  熊谷市文化連合会の金子貞雄会長ご挨拶
  熊谷市文化連合会の金子貞雄会長ご挨拶

序幕式に先立ち市文化連合会の金子貞雄会長より「呼びかけ人代表」のご挨拶があった。

鹿児島寿蔵の歌碑建立にご賛同いただいた各方面の団体やご寄付を募るために奔走いただい方々のご努力のお陰で、予定を上回るご寄付を頂いたとのことでした。また、ご支援いただいた方は、熊谷市内だけでなく埼玉県外の方もいらっしゃったと・・・

    支援活動された方々のご紹介
    支援活動された方々のご紹介

熊谷市長、教育長の祝辞に引き続き

熊谷を広く紹介しようと「かまがい探偵団」を立ち上げられた米山さんから、支援活動を積極的に行ってきた発起人の方々が一人ひとり紹介された…

それぞれの方からのスピーチには、それぞれの想いが込められいてとても印象に残った…

     いよいよ序幕の瞬間
     いよいよ序幕の瞬間

私は、この瞬間を写真に納めるためにやってきたので少し緊張しながらカメラを構えた…

左から司会・山下、野原教育長、富岡市長、山本長老、金子貞雄、米山実、小川美穂子 と紅白の綱を握って「鹿児島寿蔵 熊谷草歌碑序幕」の瞬間です…

         「鹿児島寿蔵 熊谷草歌碑建立除幕式」の記念写真
         「鹿児島寿蔵 熊谷草歌碑建立除幕式」の記念写真
 鹿児島寿蔵の歌碑序幕直後のワン・シーン
 鹿児島寿蔵の歌碑序幕直後のワン・シーン

歌碑の除幕式が終り、富岡市長も歌碑に刻まれた寿蔵の歌を覗き込んでいた…

また、御歳96歳という長老の山本さんも感慨深そうに寿蔵の歌碑に手をかけていた…その隣に金子呼び掛け人代表(熊谷短歌会会長)も安堵されたようで山本さんと歓談されていたのが印象に残った…

「呼び掛け人」夏苅さんのスピーチは「私は鹿児島寿蔵の弟子です…」と始まった…

そうなのです…いつも峯岸あい先生とご一緒で「私、あいさんより年上よ…」と言っていたが、序幕式を終えた寿蔵の歌碑の横にはお一人で立つことになってしまったのです…

峯岸先生は、火曜短歌会、芙蓉短歌会、東雲短歌会、かごはら短歌会で月2回の歌会を指導してこられ、皆さんの詠草を「篁」として発行してきたが17号が最後となった…

私が学んだ火曜短歌会で手元に残っていた「寿蔵」を偲んだ歌を選んでみた…その都度、寿蔵夫妻との思い出話しを聞かせていただいた…

  < 鹿児島寿蔵の愛弟子・峯岸あい先生の遺詠 >

  寿蔵のうた裾にそめたる訪問着まとひし夫人近より難し 

  若き日に寿蔵に師事得し恩恵に公民館の講師任さる 

  「よろづよに」寿蔵自染の風呂敷を眺めつつ思ふうたの学びを 

  「うたありて」寿蔵自染の風呂敷は木綿の大判朽葉色にして

  

昨年の3月、金子会長が峯岸先生を訪ねて「鹿児島寿蔵の歌碑建立の発起人」を依頼したら、喜んで快諾されたそうですが、3月9日急に旅立たれた…

寿蔵の愛弟子として生涯にわたり歌を詠み続け、熊谷短歌会を指導して来られた峯岸あい先生が「鹿児島寿蔵 熊谷草歌碑建立除幕式」に出席できたら、さぞお喜びだったろうと思いながら、このブログを書いています…

「賢治と歩む会」で顔馴染みだった栗原さんも「呼びかけ人」の一人として参加されていて、写真を撮ってくれた…流石に埼玉新聞にお勤めの栗原さんのアングルはピタリと決まっていた…私も熊谷短歌会からの呼び掛けに応じて少々寄付させてもらったから記念の写真となった…

私は「星渓園」で「熊谷草」の花を見たことがある…何十年も前のことだが、絵手紙をやっていた妻が熊谷草のスケッチに出かけた…その日はとても暑かったので日傘を持って星渓園に向かった…その時、妻がスケッチしている熊谷草の花を見た…

 

熊谷と言えば、平家物語に登場してくる坂東武者「熊谷次郎直実公」が浮かんで来る・・・

  騎馬武者の幌思わしむ熊谷草 星渓園に絶えて久しも    小南 毅 

 

< 鹿児島 寿蔵 熊谷草歌碑建立除幕式 スナップ >

< 第22回 熊谷市民短歌大会 3月31日 >

3月31日に中央公民館で短歌大会が開催された…

早速、前日の「鹿児島寿蔵 熊谷草歌碑序幕式」の写真を5枚の額にいれて展示した…好評だったが、前夜はプリンターの具合が悪く深夜までかかってしまった…

こんな時に限って、中々上手く行か居ないものです…

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コメント: 1
  • #1

    コスモス (月曜日, 14 10月 2019 00:12)

    鹿児島寿蔵先生の歌碑が完成したのですね。おめでとうございます。寿蔵先生は歌会始めに選者として出席なされたり紙塑人形では人間国宝であられるとか。先生のお弟子さんの峯岸先生や夏苅さん達は良い青春を過ごされたなーと羨ましい。「麦を吹く嵐」の歌集を読むと土屋文明先生が遊びに来て星川の芹を食べたと歌にあったので、高田さんに聞いてみたら、知らないと言われましたが、憧れの三国玲子さんが歌会に出ていらしたと聞き、一流の歌会だったのではと熊谷を誇りに思います。