入門 宮沢賢治を受講して

<講師:角田先生との写真>
<講師:角田先生との写真>

10月のある日、息子が熊谷市の市報を持って私の部屋にやって来た。市の中央公民館で『宮沢賢治の研修会』があるとの内容であった。早速、火曜短歌会で公民館に行った時に申し込んでおいたら、受講受理の葉書が届いた。

こうして12月1日(月)から22日(月)にわたって4回の講習会に参加した。

第1回目は「宮沢賢治と秩父鉄道」のタイトルで、大正5年9月2日に賢治が熊谷にやってきたことからスタートした。

・9月3日:国神 金崎に宿泊

・9月4日:小鹿野 寿屋に宿泊

・9月5日:三峰山の宿坊に宿泊

・9月6日:秩父大宮(現在の秩父市)の角屋?に宿泊

など、地元で関心の高い事柄を細かく教えてくれた。そして賢治一行の行程と賢治の歌碑の場所などを地図で示してくれたので、9月になったら同じルートを辿ってみたいと思っている。賢治の歌集の本は中々見つからないのでネットで検索したら、賢治の若い頃に啄木に憧れて10年位の間に詠んだ沢山の短歌が残されおりました・・・

http://why.kenji.ne.jp/tanka/tanka.html

 第2回目は、賢治の生い立ちを中心に、賢治文学の鑑賞の仕方を解説してくれた。その資料の中でも井上ひさしの書かれた『一人四役・宮沢賢治』は興味深かった・・・以前、井上ひさし演出の『宮沢賢治』の演劇をテレビで観たことがあるが、その時賢治の事を研究している鈴木守氏に連絡したら、井上ひさしは岩手県に住んでいたこともあり、賢治のことをよく調べているよと聞かされたことがある。

 第3回目は、『楽しい童話~ことばとストーリー』というサブタイトルでの講演で、具体的な作品として『やまなし』での”ことば”を味わい、『注文の多い料理店』ではストーリーの楽しさを鑑賞した。

『やまなし』は「小さな谷川の底を写した、二枚の幻灯です。」から始まる。私が子供の頃は、まだ学校にプールなどはなく夏休みには毎日川で水浴びをしていた。水中メガネをかけて川底に潜ると夏の強い光が、波の影を砂と小砂利の川底に写し出し、まるで”クランボンの世界”であったことを思い出す。今は上流にダムができ、ダムからの放水で川は濁り、清流の魚・鮎も溯上しななくなってしまった・・・

休み時間に鈴木さんに送ってもらった本(・賢治と一緒に暮らした男、・羅須地人協会の真実、・羅須地人協会の終焉)3冊を角田先生に手渡した。

 第4回目は、『賢治の夢・メッセージ・生き方』というサブタイトルであった。賢治はどんなことを悩んだのか・・・①自己認識、②郷土の人々、③死後の世界、④生きるためには~など賢治像を如何に捉えた良いのかの切り口を講義してくれた。そして『よだかの星』を取り上げて、”よだか”は”よたか”のことであるが、「時代劇で手拭の端をくわえ、ゴザを抱えた夜の女性を連想してしまうが・・・」と切り出し、夜鷹は夜になると大きな口を開いて空を飛び、口に入ってくる羽虫を食べて生きて居ると説明してくれた。そして最後に「生きるためには他の命を奪わねばならぬ。」ことを賢治は真剣に悩んでいたのであろうと結んだ。

 休み時間に先生の所へ行って、東北地方では通常”ヨダガ”と呼ばれており、宵っ張りの子供に「ヨダガが来るから早く寝ろ。いつまでも起きているとヨダガに呉れてやるぞ!」と脅されるのだと話した・・・

 最終講義が終わって、本のお礼に私のところへ来てくれたので先生と一緒の写真を撮らせてもらった。角田先生は埼玉大学の萩原名誉教授に師事しているとのことだったので、鈴木さんにメールしたら文献を参照していると言っていた・・・萩原名誉教授の関連記事(小鹿野町に『雨ニモマケズ』の碑建立) 

http://www.kanko-ogano.jp/archives/2681/

 この本には思い出がある・・・同袍寮に入った頃に山下さんから借りた本(昭和42年4月出版)なのだ。その時はあまり読まずに、借りたまま何十年も私が持ち歩いてしまった。熊谷に落着き書棚を整理していたら、同じ本が2冊並んだ・・・義弟が買い求めた『日本詩人全集』と同じ本だったのである。何十年も経ってから同袍寮のOB会で山下さんにお返した。これを機にこの宮沢賢治の本を読み始めたが、詩集『春と修羅』は難解で読み通すことができず、賢治の童話を読んだ・・・今回の講習会で小学校の先生だった講師も『賢治の詩集は、私にも解説できません。』とおっしゃったので、今度は、解らなくてき良いから読み通してみようと覚悟を決めて読み進んだ・・・

 この本のフォントは小さく、漢字に振られたルビは殆ど読めません・・・表意文字の漢字から意味を咀嚼できたとしても、詩のリズムを感じとる読み方が不明なのです。それでも強引に読み進め、時として賢治の詩のリズムに乗ったと感じた時の心地よさは何とも言えないものがある・・・賢治の心象スケッチの風景は見えてきたような気にさせてくれるのだ。多くの場合、行から行への展開の飛躍には中々ついて行けないのです・・・賢治の心象スケッチなるが故なのであろか?

 私が感動したのは、最愛の妹・とし子を追悼した詩『無声慟哭ー永訣の朝』である・・・方言で綴られた会話表現も東北人の私には素直に伝わって来て、読んでいると涙が出てくる。とし子は賢治の最大の理解者で、賢治の短歌を整理したり、兄妹以上の絆で結ばれていたようだ。

 方言を交えた詩で『種山ケ原の夜』は、私には親近感のある風景である。私の生まれ育った部落には、二つの大きな萱場がり春先には村人総出で野焼きが行われた。そして蕨を採り、夏には家畜の草をかり、秋には茅を刈り集め、”無尽講”と言って”相互扶助”として屋根をふき替える家に提供されのである。この詩を読むと、萱場に蕨採りに行った頃の景色が眼に浮かんでくる・・・

 1.種山ケ原の 雲の中で刈った草は

   どこさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる

 この詩の方言も私にはストレートに伝わってくる。

 生前は無名に近かった賢治の作品を評価し、世に送り出した草野心平は、この本の編者としての巻頭言を次の言葉で締めくくっている。

『宗教と科学と文学との、稀にしか見られない綜合的な混洧から、賢治の独自な光の文学は生れた。膨大なひろがりと同時に垂直性の深い稀有な文学が生れたのである。』

 講習会の先生が字が小さくて読みにくい人は、児童文学の本は字が大きく注釈も同じ頁に載っていて読み易いと教えてくれた。この本を読み終えた後であったが、本屋で探したら、賢治の本が2冊見つかった。残りはアマゾンに注文したら翌日に届いた。

 1冊目の冒頭に『星めぐり歌』が載っていた。講習会で高倉健の遺作となってしまった『あなたへ』で田中好子が2回歌っていると話していた。私はこの映画を既に映画館でみたが、高倉健が亡くなってテレビで再放映されたのを2回ほど観直した・・・この歌を聴くと『銀河鉄道の夜』での旅の景色が浮かんでくる。

 『風の又三郎』にも思い出がある。小学3年の頃だったと思うが、兄が月賦で買い求めた日本文学全集を取り出して、布団の中でこの『風の又三郎』を読んでくれた。

又三郎がガラスのマントをひるがえし『どっとど どどうど どどうど どどう・・・』とやって来るのだと記憶していたが、読んでにるとどうも違っていたようだ・・・

でも賢治独特のオノマトペ(擬態語)は、強烈に子供心に染み込んでいたのは確かだ。賢治は誰も思いつかないようなオノマトペを生み出している。『雪渡り』の最初にでてくる『かた雪かんこ しみ雪しんこ。』は、雪国育ちの私には親しみ深い。

 春を待つ北国でも3月末になると晴天が続き、降り積もった雪は固く締まり、冷え込んだ朝には”かた雪”となり、何処までも長靴で歩いて行けるのだ。その頃にになると、醗酵の熱で湯気の立ち昇る堆肥をそりに積んで田んぼへ運ぶのが、新たな農作業の始まりなのである。

この本は『雨ニモマケズ』から始まる。講習会の資料にこの詩を書いた賢治の手帳のコピーが印刷されていた・・・

『・・・ヒリノトキハナミダヲナガシ・・・』原文では(ヒデリノトキ)ではないのである。・日取り、・日を決める、・独り などの諸説があると解説してくれたが、農業をやりながら方言を研究しているいう受講生が『稲が受粉するまでの陽を待つ。』とも解釈できるのではないかと意見の述べた・・・この本でも(原文のまま)との注釈つきで上記のように掲載されていた。

 何んと言っても『銀河鉄道の夜』は賢治が亡くなるまで推敲を重ねていたという傑作で、読む度に空想の世界を拡げてくれる。途中から乗ってきた幼い姉弟と家庭教師はタイタニック号の沈没で亡くなった心清き人の魂であろうと解説してくれた・・・

 無器用で無骨者の『セロひきのゴーシュ』を私は愛する。まるで東北人の気質が滲め出てくるように描かれているからである。指揮者から蔑まれても忍耐強くひたすらセロを弾く姿は、雪に閉ざされる半年を耐え抜く東北人の姿に重なるのだ・・・

 4冊目のこの本には『グスコーブドリの伝記』が収められている。彼はイーハトーブの大きな森の中に生まれ、リネと言う妹がいた。冷害が続き穀物が採れず、父親は口減らしのために一人森の中に姿を消し、次いで母親がありったけの食べ物を残し、やはり森の中に姿を消すのである・・・そして妹が誰かに連れされるという、当時の農村の悲劇から話が始まる。けれどもブドリは独学で本を読み、やがてクーボー大博士を訪ねる。そして博士の紹介でイーハトーブ火山局の職員になります。この物語で賢治は、火山観測器の電源として”潮汐発電所”を創ったり、火山をコントールするためにボーリングして噴火を制御したり、火山灰を降らして田畑の肥料を補ったりするのである。現代では地球温暖化の原因として規制されている2酸化炭素ガスであるが、賢治は冷害を回避するために火山島を噴火させて炭酸ガスを噴出させる計画を物語に書いているのである。この伝記には科学者としての賢治の理想が、物語として書かれているような気がする・・・果たしてどうなのかは、賢治に聞いてみるしかありません。

 児童文学の賢治作品を詠み終えた1月元旦に娘婿が盛岡の土産に『銀河鉄道の夜』というラベルのお酒を持ってきてくれた。早速二人でこのお酒を飲んだ。賢治の作品には”青”が多く出てくると聞いたのを思い出しデープブルーの瓶を眺めながら美味しく飲んだ・・・

 私が賢治作品で数多く見たのは”燐光”である。燐光は動物の骨が腐食してガス化した燐が空気中の酸素と反応して発光するときの光だと思われるが、賢治は何故この”燐光”を数多く使ったのであろうか・・・私は、中学生のころ友達と一緒に空を横切る燐光を見たことがある。それは丁度お盆の最中だったので、燐光は正に”人魂”に思えた。多分友人もそう思ったに違いない・・・賢治も燐光に”人の魂”を感じていたのであろうか・・・

 私は『入門 宮沢賢治』の受講を機に賢治の作品を読み返すことになったが、同袍寮で山下さんに本を渡された頃に読んでいたら、もう少し豊かな人生観で生きてこられたのかも知れないと思い返している・・・鈴木さん、著書を送ってくれて、ありがとうございました。

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コメント: 1
  • #1

    小南 毅 (金曜日, 23 1月 2015 11:23)

    鈴木さんのコメントを許可を得て掲載させていただきます。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    小南様 
     ご返事遅れて申し訳ございませんでした。
     実は、この14日に父が亡くなりました。享年96歳でしたので私も含めて周りの者は皆大往生ということでそれ程悲嘆に暮れることなく送ったのですが、私が喪主でしかも初めてのことだったので、いままでばたばたしておりました。また、実家が金ヶ崎ですのでしばし花巻を離れており、メールも見ないでおりました。

     さて、先ほど小南さんの「入門 宮沢賢治を受講して」を拝見しました。

     まず第1回目の「宮沢賢治と秩父鉄道」についてですが、私は宮澤賢治については主に「羅須地人協会時代」のことしか調べておらず、
      ・大正5年9月2日に賢治が熊谷にやってきた。
      ・9月3日:国神 金崎に宿泊
      ・9月4日:小鹿野 寿屋に宿泊
      ・9月5日:三峰山の宿坊に宿泊
      ・9月6日:秩父大宮(現在の秩父市)の角屋?に宿泊
    ということを知らずにおりました。結構な日数をそちらに滞在していたのですね。そのうち、私も調べてみたいです。

     第2回目は、賢治の生い立ち、ということのようでしたが、井上ひさしの『一人四役・宮沢賢治』という見方とは『宮澤賢治に聞く』の「はじめに」に述べてある、
     野に立つ農夫も四六時中、農夫であってはつまらない。それでは人間として半端である。朝は宗教者、夕べは科学者、夜は芸能者、そういう農夫がいてよいのではないか。
    という彼の見方だったのでしょうか。
     私はあまりよくはわかってはいないのですが、井上は流石だなと私は思ってはおりました。というのは、井上は賢治が大好きだけど贔屓の引き倒しにならずに、資料等をかなりよく調べ、しかも結構冷静で客観的、科学的な見方をしながら同書等を書いていると思えたからです。

     第3回目は、『楽しい童話~ことばとストーリー』では、
     『やまなし』での”ことば”を味わい、『注文の多い料理店』ではストーリーの楽しさを鑑賞した。
    ということですが、『やまなし』は私も大好です。もちろん、私にはその作品論を書けるわけはないのですが、この作品は大正12年4月8日付『岩手毎日新聞』に載ったということが、つまり生前発表である事も多分好きな理由の一つかと思っております(賢治の作品は生前未発表のものが多いと思いますが、賢治没後に、賢治の未完成の原稿をああでもないこうでもないといって他人が切り貼りしてこれが賢治の作品だと銘打って公にしておりますが、私はそれをどうも素直に賢治の作品とは思えない場合が少なくありません)。
     なお、これが『岩手毎日』載った理由は、その担当編集者の岡山不衣が賢治のよき理解者だったからだと思います。この岡山という人物は花巻出身で、一時期県下一の豪商・豪農とも言われた「笹屋」伊藤儀兵衛の息子の一人です。この儀兵衛は花巻の発展のために私財を擲った人で、その結果でしょうか、残念ながらいまは「笹屋」は残って居りません(そのような儀兵衛に私は人間として最大限の敬意を表しています)。多分この父伊藤儀兵衛にしてその子岡山ではなかろうかと推測しています。
     一方の『注文の多い料理店』ですが、これも生前出版されたものですから賢治の作品であると私は素直に認めるのですが、その内容がちょっとおどろおどろしいので、童話といよりは大人向けの短篇かなと思っております。
     なお、拙著『羅須地人協会の終*』の「終*」 は「終焉(しゅうえん)」 です。 角田先生に謹呈していただきましてとても嬉しいです。ありがとうございました。

     第4回目の『賢治の夢・メッセージ・生き方』についてですが、 この頃の私は、作品からではなく、賢治の実践からその『生き方』を見ているのですが、その結果どうも宮澤賢治を世間はあまりにも過大評価してきたのではなかろうかと思っております。
     たとえば、昨年秋私は秋田の潟上市に行ってきました。それは、賢治は「農聖石川理紀之助に続く系譜を正しく継ぐ人」だと言う人がいたからこの目で実際に石川の実践の一端を垣間見たかったのです。その結果、羅須地人協会時代に行った賢治の実践は石川のそれと比べれば全然叶わないものだったということが直ぐわかったからです。
     そこで私は思います。私たちはもうそろそろ《創られた賢治から愛すべき賢治に》という時代を受け容れてもいいのだと覚悟すべきではなかろうか、と。

     長くなりましたのでそろそろ終わりますが、私も近いうちに『銀河鉄道の夜』というお酒を探してみます。

     それでは、まだまだ寒さが続きますのでどうぞご自愛下さい。                                              鈴木 守