ふるさと熊谷セミナ(1)を受講して

<熊谷染> 埼玉県伝統工芸士 熊谷市優秀技能者 染谷政示

   <熊谷染 江戸小紋>
   <熊谷染 江戸小紋>

 家内の実家が”京染店”の看板を掲げ、染物の取次と仕立てを行っていたことがあり、染物に少し興味を持っていたので受講してみた。

 荒川と利根川に挟まれた扇状地の先端に位置する熊谷は、その豊かな伏流水の恵を受けて古くから染め物業が発展した。養蚕と絹織物の盛んな北関東、江戸に近い宿 場町という好立地から、武士の裃に用いられた正絹の江戸小紋を中心に反物づくりが栄えたと言われています。染谷氏の話はここから始まった。

   <染谷政示氏>
   <染谷政示氏>

 そして東京・荒川で代々続く染物屋を営んでき た染谷家が大正9年にこの地に移り住んだのは、染谷政示社長の先々代にあたる祖父の時代だったと自己紹介をした。明治・大正期には200軒を超える染め物工場がひしめいたという熊谷。その後、着物の需要衰退に伴い数軒にまで激減した厳しい状況の中で、今も熊谷染の伝統を守る(株)ソメヤだけになってしまった。

 特に熊谷市内の高城神社を中心に星渓園から湧き出す荒川の伏流水が流れる星川沿線には100軒もの染色工場があったことをしめす古い地図を示してくれた。星川の湧水は年間を通して15℃程度と安定していて、染物の糊を洗い流すのに適していたのだと付け加えた。そして「ひとことで熊谷染と言っても、私たち染屋の仕事は一番下流にあるもの。その前に型紙の和紙を漉く職人、型紙を彫る職人、絹を織る職人がいて初めて成り立 つんです」と言って染谷社長は、人間業とは思えない微細な図柄が彫られた和紙の型紙を回覧して見せてくれた。
 「たとえば数ミリ間隔の単純な格子図柄ひとつとっても、よじれがこないように2枚重ねした和紙の間に等間隔で細い糸が通してあるんです。実は以前、機械 で同じような型紙を作ってみたんですよ。でも、機械だと正確すぎて目がチカチカしてしまう。いわば人間にしかできない“神業”ですね。実際、これを彫った 職人も糸を通した職人も人間国宝に指定されています。文化財としての価値だけで言えば数億円はくだらないでしょう。」この型紙の保管には温度と湿度の維持管理が難しいので市立図書館に1,000枚程寄贈したと言っていた。

 この後、熊谷染(小紋)の工程図を細かく説明してくれた・・・

  <熊谷染の現在の工場>
  <熊谷染の現在の工場>

熊谷空襲で焼け出され、現在は熊谷ゴルフ場近くに移転して操業を続けているが、生産量は最盛期の百分の1ほどになってしまったと寂しげに語った・・・生産性を高めるために工場の合理化を行いながら、製品は京都の問屋に納品してと言っていた。『熊谷染というブランドがあるのか』と講習会終了後の質問に『伝統工芸としての熊谷染の技法は残っているが、ブランド名はない。』と語っていた。

 終了後に染谷氏の所へ行き『家内の実家も紺屋をやっていたが、やはり廃業しました。』と話しかけた・・・『何か副業でもなければ、続けるの難しいよね。』と苦笑していた。それから高校時代の友人・阿部忠吉が染色家として、途絶えていた”水戸黒”を再現させたが、その講演中に亡くなってしまったことも話した・・・『一旦途絶えた伝統工芸を再現することは大変なことですから、惜しい人を亡くしたね。』と慰めてくれた。

 彼は”忠さん”の愛称で呼ばれていた、ひょうきんな人物であった・・・彼は伝統ある西音馬内盆踊りの里で育ち、伝統工芸に魅かれて行ったのだろうかなどと、忠さんのことを思い出していた・・・