ふるさと熊谷セミナ(2)を受講して

 < 熊谷うちわ祭とともに50年   祭研究家: 新島 章夫 >

<自宅前の神事>
<自宅前の神事>

 毎年、うちわ祭りの始まる朝に自宅の前で執り行われる神事の意味を知りたいと思って、このセミナに参加した。講師は、お祭り大好きで50年も熊谷うつわ祭りに関わってきた祭研究家の新島章夫氏で、熊谷市銀座区組頭を務める現役のお祭り屋さんである。語り口調はサクサクと粋な姿は、ねじりはちまきに祭半纏を着ているようなカッコ良さを感じた。

熊谷うちわ祭りは、『関東一の祇園』と言われるように、やはり京都の八坂神社の流れをくみ正式名称は『八坂神社大祭 祇園祭』である。そのご祭紳は、素戔嗚鵜尊(天照大神の弟)・牛頭天王(印度の祇園精舎の守護神)であり、神仏混合として祀られていたという・・・

<新島章夫氏の著書>
<新島章夫氏の著書>

 その祭の始まりは、1750年(寛永3年)に町民から宿役人に願いでて、町内一斉の祭りができるようになり、祭事御用番(草分け6人衆)が誕生した・・・当時は”祇園柱”と立てて行う祭礼行事であったという。

そ して祭りの当日は”赤飯”を焚いて、祭り見物と買い物にやって来た近郷近在の人々を接待していたが、明治の中頃になって料亭・泉州楼が日本橋の伊場仙から仕入れ た”しぶうちわ”を祭で配ったのが始まりで、各商店が競って配るようになり、いつしか『うちわ祭』と呼ばれるようになったのだそうだ。

 <著者のサイン>
 <著者のサイン>

 その後、今日のような山車の祭は、明治24年に本町三・四(第二本町区)が東京の神田から山車を購入したのがはじまりで、その次々と山車・屋台が作られ現在のようになっ たが、それまでは神輿だけが町内ごとに巡幸していたという。ですから神輿の巡幸が本来の姿であり、山車の祭りは、”付け祭”であると解説してくれた。しかし、いまでは賑やかにお祭りを盛り上げてくれるお囃子も昭和30年までは、そのお囃子を岡部・深谷 地区に依頼していたようで、昭和31年に銀座区に地元の囃子会が結成され、15年の歳月を経て現在のようになったことを教えてくれた。

ま た、このお囃子にも各町により違いがあり”地囃子、きざみ、しげ、かわちがい、かまくら”などの曲があるそうだが、これまでそんなことは知らなかった・・・今 年のうちわ祭では、その違いを聴き別けてみようと思うが、果たして”お囃子の違い”を聴き別けることができるだろうか・・・

① 第一本町区山車

・明治31年

・人形:神武天皇

・神武おはやし会

・岡部・岡下郷より

② 第二本町区山車

・明治24年購入

・人形:手力男命

・本三四お囃子会

・岡部・岡下郷より



③ 筑波区 山車

・昭和36年

・人形:日本武尊

・筑波お囃子保存会

・深谷・高島より

④ 銀座区 山車

・平成6年

・熊谷次郎直実

・鳳鸞お囃子会

・深谷・新井橋より


⑤ 弥生区 屋台

・大正13年

・弥生町お囃子会

・深谷・人見より

⑥ 荒川区 山車

・平成24年

・人形:大国主命

・荒川区祇園会

・深谷・木工職人

・拙宅の地区の山車



⑦ 鎌倉区 屋台

・戦災で焼失

・昭和29年

・一人の彫刻家の作

・八千代お囃子会

・深谷・明戸より

⑧ 仲町区 山車

・昭和30年

・人形:素戔嗚尊

・祇樹給孤独園

・牛頭天王

・祭本来の神


・伊勢町区 屋台

・昭和54年

・伊勢町お囃子会

・深谷より伝授

・桜町区 屋台

・平成6年

・桜町お囃子会

・熊谷の仲町より


・本石区 屋台

・昭和12年

・本石唐獅子お囃子

・深谷・藤沢、明戸

・石原区 屋台

・昭和11年

・石原区若連睦会

・深谷・小台より


 この本によると”うちわ祭のお囃子”は、岡部や深谷の郷からそれぞれに伝授されたもので、同じ演目だとしてもそれぞれ特徴を含んだものになっているのであろうと推測される・・・

この本に郷土の俳人・金子兜太が一句寄せている。

          白南風とうちわ祭がやってきた

また、本の巻末には著者の兄と小学校から熊谷商業まで同級生だったという推理小説家・森村誠一が『うちわ祭によせて』と題した短文が掲載されていた。

その中で『まぼろしの山車』で取り上げた富士見町の山車は存在しなかったというが、富士見町の高張提灯を誇らしげに掲げた屋台が町内を巡行していた姿を私は記憶している。と少年時代を振り返っている。

 セミナでは更に興味深い話が続いた。上の写真①~⑧が年番を担うことのできる町内であり、その年の大総代に認定されると各地区代表への手土産持参の挨拶周りから始まり顔合わせ会、祭当日の段取り会議を開催したり、手土産つきの宴会費用など300万から1,000万の出費になるのだとも話してくれた・・この他に興味深い祭の裏話を聞かせていただいたが、支障があるといけないので掲載は控えさせていただく・・・

 それでも『お祭り熊五郎(堀口)』のエピソードは愉快な話が多かったし、この熊五郎の子分と目される『お茶屋の清水さん』が演出した歌舞伎の口上を真似た『年番送り』の儀式が、今も祭最終日にお祭り広場で続けられている。

 さて、7月20日午前7時に自宅前で執り行われる神事について調べてみた。前日19日の『還霊祭』にて神の霊を委ねられた神輿を20日の午前6時に本宮・愛宕八坂神社の拝殿前に安置し、宮司の祝詞に次いで玉串を奉奠して『発輿祭』が行われる。それから『神輿渡御』へと移り街の東西南北の4ケ所で神輿を止め『途上奉幣祭』を行い、街の疫病退散・五穀豊穣を願うのである。そして約10キロほどの行程を経てお祭り広場の星川縁の『お仮屋』に神輿を安置して『着輿祭』が行われるのは10時頃となる。ここ『お仮屋』には高さ4メートルにおよぶ”さらし”を巻き着けた『祇園柱』が立てられ、四方に伸びた腕木の上で軽業師が芸を披露していたとも言われている。更に『お仮屋』の正面には『草分け六人衆』の家紋を記した提灯が下げられ、彼らの偉功が今なお讃えられているのだ。そして祭の最終日に『還御祭』を行い神輿を本宮にお送りして『還御着輿祭』を行う頃には、翌日の深夜になるという。

 丁度休憩時間に新島講師と話すチャンスがあったので尋ねてみた・・・

『毎年、荒川土手の近所で行われるお祭りの神事を見てきたが、昔は荒川に神輿が入り、禊(みそぎ)をやっていませんでしたか?』と話かけると、『最近は中止されているが、”神輿洗いの儀”として禊を行っていた。』と話してくれた。

○ 荒川に禊の姿見えねども神輿を担ぐ出で立ち清しも


矢張り『荒川での禊』は、私の幻影ではなかったことにほっとして、その頃は白い馬に乗って神主さんがやってきたことなど思い出していた・・・

         < ふるさとの秋祭を思い出して >

 この写真の右手奥が奥宮山と呼ばれ、頂に小さな祠が祀られている。この山は、秋田の山村の板戸部落にあり、標高1,000メートルにも満たない山ではあるが、その稜線は風化した岩石の痩せ尾根が続いている。5月初旬、山腹に白い辛夷が咲くころ1人で登ったことがる。だが、その痩せ尾根で足がすくんでしまい馬の背を跨いで動けなくなってしまたことを鮮明に覚えている。谷底まで雪渓が残っていて、滑落したらと思ったときの緊張感は、今でもゾットする思いだ。この山は昔から女人禁制の信仰の山とされてきた。部落にある小学校の名も奥宮小学校であり、私もこの小学校を卒業した。古稀を過ぎた今でも『奥宮山の雲晴れて・・・』と続く校歌とも応援歌とも取れるよな唄を口ずさむことができる。良きことも悪しきことも思い出を刷り込んだ小学校も、小子化のために何十年も前に廃校になってしまった・・・

 この奥宮神社は部落に近い裏山の中腹にある。部落の中ほどの火の見やぐらがあり、道路をへだてて石英石に奥宮神社と刻まれた3m程の石柱がある。そこから少し湿っぽい小道をたどって300m位進み小川の石橋を渡ると20m程の石段がある。この石段を上ると左右の狛犬さんが迎えてくれる。更に200mほど粘土質の窪んだ上り坂を進むと、茅葺きの中の宮がある。夏休みには中の宮で村を引き回す七夕の準備をしたり、年上の子から話を聞いて知恵を着けたり、格好の子供の遊び場であったことを思い出す。薄暗いこの中の宮をくぐり抜けると、写真のような長い石段が続いている。

 5年ほど前に帰省した8月19日が祭礼の日だというので、甥と連れだってお参りに行ったときの写真である。私は息が切れてご覧のように遅れてしまった。昔は旧暦8月1日の稲刈りも済んで肌寒い秋口の祭であったが、近ごろではお盆に帰省する人々に祭を愉しんでもらおうと時期が早まったと聞いている。

 この長い石段を上りきると矢張り狛犬さんが出迎えてくれて、正面に見えてくる古いお社が奥宮神社である。昔は風雪に耐えた茅葺きの屋根に風格はあった。今では葺き替えられてベンガラのトタン屋根となり、子供の頃の趣は失われていた。

里帰りした孫を連れてお参りにきたのであろうか・・おばあちゃんは疲れてしゃがみ込み一休みしている姿は微笑ましい。

  中に入り参拝を終えると今年の氏子代表からお神酒を頂いた。既に氏子役員と近隣の部落代表の参拝客が一角に陣取っていた。子供の頃に一緒にスキーをやっていた先輩や友達が、堂々の貫禄でどっかと座っているのを見ると、自分は最早よそ者になっていたことを痛感させられた・・・それでも挨拶を交わすとき、とっさに秋田訛りで受け答えしている自分に驚いたりもした・・・

 間もなくして板戸板楽(山伏神楽)の奉納が始まった。

(板戸番楽 http://www.akita-minzoku-geino.jp/?p=4326)

  一段高い神前での獅子舞は、悪霊を象徴する獅子が若武者に降参するという物語である。子供の頃の祭には、獅子舞が門付けで家々を回っていた。獅子舞が終わるとお獅子の大きな口で頭をパクリと噛んで厄払いをしてもらい、無病息災を祈願したものである・・・板戸番楽には12幕もの演目があり、その場面、場面の記憶が幽かに残っているものもある。この伝統ある板戸番楽の若い人への伝承がはどうなっているのだろうか、などと考えていた。

 この中の『鶏舞い』は富山にいるの兄も若い頃に舞っていた。誰も居ない時に、こっそり兄の真似をして踊りの練習をしたことがある。これは”天の岩戸”の前で踊った鶏の舞だというのを聞いたことがある・・・

 この板戸番楽には小学校からの友3人も関わっていたはずだが、最早若い連中に引き継いだようだ。

娯楽の少ない山村で板戸番楽は頼まれると近隣の村や集落に出かけて、12幕もの演目を1晩中演じたそうであるが、お祭に神社で奉納することはなかったように思う。私が中学の頃、氏子当番だった父を手伝ったことがある。何軒かは八郎潟の干拓地に引っ越したり、街で暮らす息子の所へ身を寄せたりして過疎化が進み、当時40軒ほどの集落も減ってきているが、それでも神社の氏子当番は年番制だから、一生に一度務める大役であろう。

 お祭りの夜、氏子当番だった父の帰りが遅いので心配していたら、『誰かが石段から落ちて怪我をしたらしい。』との知らせが入った。そこで私が提灯を持って様子を見に行くことになった。真っ暗な杉林の中を提灯の灯りを頼りに心細い思いをしながら進んだ。長い石段を上り切った時はほっとした・・

 ところが神社の中には何の明かりもなかった。それから石段の下り口の辺りをほの暗い提灯で照らしてみたら、確かに黒くみえる血の跡があった。心臓がドキドキ脈打ったが、辺り見回しても人気がないので引き返した・・・父が怪我人を背負って山を下りた後だった。金五郎という大男だったそうで、父はどうやって連れ帰ったのだろうと思い出すことがある・・・

 また氏子当番は、年の暮れに神社に入り初詣の人を迎えいれる支度をする。

雪の多い年などは大変である・・・木造の社殿には吹雪が吹き込むような寒さである。大きな囲炉裏に炭火をおこし、炭火で部屋が明るくなるほどにして参拝客を待った・・・その年の初詣一番は、高校受験を控えた隣の先輩であった。先輩が勉強している灯りは、裏の小川を挟んだ私の部屋の窓から見える距離であった。私も対抗して遅くまで電気をお消さなかったの覚えている。彼は大工さんの息子で、私に鉋をかけるときの逆木の見分け方を教えてくれたことがある。この大工の棟梁も仕事のない冬場には、父と一緒に鉄砲をもって兎狩りに出かけていた。帰ってくるとそのまま足を囲炉裏端に足を投げ出し、氷着いた氷が溶けるを待つのです。そしてお袋の温めてくれた濁酒を飲みながら、最初は、互いにその日の苦労話でお酒を飲んでいるのだが、兎を取り逃がした話になると、待ち受ける場所が悪かったとか、良かったとなで口論となってしまうのであった。その棟梁は私を大工の弟子入りを進めてくれたが、私も彼と同じ高校に進み、試験の前など大いに世話になった。高校でもトップクラスで、その後東工大の建築科へと進んだ。そしてバブル景気の始まった頃、秋田市内の長男と一緒に工務店を開いたと聞いている。私が実家に帰っても、川向うの家の窓に明かりの灯ることはなくなってしまった・・・

  祭には神輿に乗り移った神様が疫病退散と五穀豊穣をもたらしてくれるというのが定番だが、奥宮神社には神輿などなかった・・・それでも部落の若者達は米俵を丸太に下げて、門付をして回っていた。家々でご酒をいただき次第にエキサイトして行き、掛け声も大きくなって行くのだ。これはエビスタラ(恵比寿俵)と呼ばれ、部落の名前を書いた大きな木札を角材で叩き、法螺貝を鳴らしながら『ジョヤサ、ジョヤサ』と掛け声をかけながらやってくる。お神輿の『ワッショイ、ワッショイ』と掛け声が違うのはどうしてかはよく解らない・・・家々の門付を終えるとこの長い石段を駆け上り神社にエビスタラを奉納する。エビスタラは皆瀬川の川上の部落、川下の部落、そして川向うの部落からもやってきた。そして、この石段で鉢合わせすると先を争って小競り合いが発生するのだ・・・

しかし、互いに相手に大きなダメージを与える意図はなく、格闘技のスポーツ感覚での喧嘩であったようだ。いつも神社でお神酒を酌み交わして仲直りするのが通例となっていた。この石段を威勢よく駆け上がってくる勇ましい姿を思い浮かべながら、長い石段を下った。

 あの頃から何十年も経ち屈強な若者が少なくなり、今では中学生が籾殻を詰め込んだ軽い俵を担いでやって来た。そしてお神酒ではなく、コーラかジュースの接待とご祝儀袋をもらい、家々を門付けして行くようになっていた。

 昔は、校庭に丸太で組み上げられた舞台で歌う民謡歌手の朗朗とした唄が、拡声器から流れて来たものだ・・・そこには1,2軒の露店が出ていて、セルロイドのお面や風車、お水の入ったゴムのヨウヨウなどが売られていた・・・

その頃は、校庭に蓆を敷いて大勢の人が楽しんでいた。村人にとって祭は年に数回の待ちかねた楽しみの一つであった。今では校庭でバーベキューをやったり、カラオケ大会をやったり、村人の楽しみ方も様変わりしていた。

 それでも、こうして神を信仰する伝統的な行事が続けられていることは嬉しいことだ・・・極めて素朴な祭だが、神を敬う気持ちは、何処でも変わりはないのだと、しみじみ故郷の秋祭りを懐かしく思い出している。