駒形どぜう と 神谷バーのデンキブラン

 湯沢から高校の同期がやって来るとのことで上野で落ち合うことにした。ところが宿泊場所が確保できず、彼には会えなかったが、ともかく3人で上野で会った。そこで浅草へ出て”駒形どぜう”に行くことになった・・・

「駒形どぜう」は本郷にあった秩父セメントへ通い始めた頃から聞いていたが、これまで食べたことがなかった。会社には浅草生まれの江戸っ子もいたし、その気になれば案内してもらえたのにと思いながら、友達の後ろに着いてあるいて行った。店の前の長椅子には、順番待ちの客が10人程腰かけていた。

「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉 公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開 帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。

 暫くして、階段を下り地下のテーブル席に着いた。昼時を過ぎていたが、混雑が続いており『まだですか』と催促して、やっと『どぜう鍋』が運ばれてきた・・・少し大きめのどぜうは、底の平らな土鍋で煮込まれ食べられる状態であった。3人は、それぞれ取り皿に分け、お好みでしょうがや山椒の粉をかけて食べた。『ふむ、これが噂の駒形どぜうか』と思いながら・・・友達がここの冷酒は美味しいと言うので試してみた。矢張りどぜう鍋を酒の肴に吞む冷酒は美味しくて、少々飲み過ぎてしまったようだ・・・オプションで頼んだ笹がきごぼうは花鰹のように薄く、どぜう鍋に乗せて少し火を通うした食感と香りは絶品である。こうして『どぜう鍋』を囲んで吞んで話ていると秋田の田舎のことなど思い出してしまう・・・私は子供の頃、どぜうすくいが好きでした。ある日、母が買っておいた”新しい笊”をこっそり持ち出し、田んぼに水を引く用水路に出かけ夕方まで、どぜうすくいをやった。使い終わった笊を綺麗に洗って、元に戻しておけば良いと思ったのだが、泥が笊の目に入り込み洗っても洗っても元通りにはならなかった。おまけに泥とどぜうの生臭みが滲みこんで取れなかった。それでも母は、怒鳴りつけたりしなかったのを懐かしくおもいだした・・・高校時代に下宿した、菅原さんのお父さんも魚捕りが好きだった。あるとき菅原と私が魚を追い込む役割に駆り出された。三関の方まで出かけて行き、長靴のまま小川に入り魚を追い込んだ。どぜうや鮒などを捕って帰り、裏庭の瓢箪池に放した。泥だらけの体をお風呂で洗い流した時の爽快感は今でも忘れられない。

『駒形どぜう』の店先に、寄席の入口に飾られるような提灯があった。月に一度、落語会が開かれているようだ。会社の同期に早稲田の落研が居た。彼の落語は玄人派だしで、入社して間もなく”落語クラブ”作って活躍していた・・・彼は、落語だけではなく、歌舞伎や邦楽にも趣味を持ち、江戸文化にも詳しい。本郷に勤めていた頃、社内報に仲間と一緒に”江戸探訪記”を連載していたこともあった。一方、仕事では当時最先端の”人口知能ソフトの研究開発”を行っていましたから、『温故知新』の想いがあったのかも知れない。

 1927年(昭和2年)に賢治は、次のような詩を書いている。


  黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり

  それをばその細胞がその細胞自身として感じてゐて

  それが意識の流れであり

  その細胞がまた多くの電子順列からできてゐるので

  畢竟(=結局)わたくしとはわたくし自身が

  わたくしとして感ずる電子系のある系統を云ふものである


賢治は今から88年も前に、「意識」は無数の脳細胞とその細胞の組み合わせからできていると詩に詠んでいるのだ。脳のなかのニューロンという脳細胞同士のつながりと、それに刺激を伝達するスナップスが脳の働きを司っていることを賢治は見抜いていたのかも知れない。当時はまだ脳科学などという研究分野などなかったであろうし、ましてや花巻の片田舎で賢治は、このようなことを思考していたとは驚きである・・・


 最近の彼は、古典文芸だけでなくジャズライブにも出かけるようになり、浅草のライブに誘われいるが、まだ実現していない。

そして『駒形どぜう』の軒先に久保田万太郎の句碑があった。

  神輿まつまのどぜう汁すゝりけり

『久保田万太郎先生は市井の人を愛しとくにまたふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した。ここに駒形どぜう越後谷五代助七 その生前の厚誼をしのんで、先生をしたう情はまことに涙ぐましいものがあるが、昭和四十一年初夏この句にゆかりの三社祭の吉日に当たって駒形どぜうの店の前にいま先生の句碑を立てる。 旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくにこの句碑を立てられたことは、さだめし先生もよろこばれていることと思われる。ここにつつしんでこれをしるす者は、おなじく浅草ッ子のひとり

 昭和四十一年五月十七日 安藤鶴夫 』と句碑に下に刻まれていた。

 『駒形どぜう』を出たらもう春の宵でたった。折角だから浅草寺にお参りしようとあるきながら、備忘録短歌を呟いていた・・・

○駒形のどぜう鍋つつく級友の

   頬もゆるみし土曜日の午後

○どぜう鍋囲みて幼日思い出づ

   どぜうのぬめり手の覚へ居り

 ほろ酔い気分でほてった頬に夕暮れ時の春風は心地好かった・・・雷門をくぐり、まだ賑わいを見せる商店街を通り抜け浅草寺にお参りした。それぞれ何を念じたのであろうか・・・それから境内横手の通りに出た。そこには食べ物屋が多く並び、すき焼きや”今半本店”もあったような気がする・・・

 私が歩きながら”デンキブラン”の話をしたら、丁度斜向いに神谷バーの看板が見えた。このデンキブランは、巷の情報に詳しい常務さんから聞いてはいたが、試してみるチャンスがなかった。

 神谷バーにデンキブランと名付けられたカクテルが登場して、およそ百年前だそうだ。その間デンキブランは、浅草の移り変わりと世の中の移り変わりをじっと見てきたことになる。

 浅草と文学のつながりはひじょうに深く、浅草からは、じつに多くの名作が誕生している。永井荷風は、小説「すみだ川」で下町情緒あふれる隅田川界隈を舞台に、美しくも哀しい人間模様を描いている。その後昭和の初めには、川端康成が、浅草の最も華やかな時代を「浅草紅団」「浅草の姉妹」「浅草の九官鳥」などの小説に収められているというが、まだ読んだことはない。

 このほか石川啄木、萩原朔太郎、高見順、谷崎潤一郎、坂口安吾、壇一雄など、数多くの文学者たちが浅草に心惹かれ、何らかのかたちで浅草にその足跡を残しているそうですが、啄木が本郷から時折浅草を訪れたことは知っていた。

 3人でこの神谷バーに立寄ってみた・・・ソーセージの盛り合わせを肴にデンキブランを飲んだ。Sグラス270円と安く、味は甘口で女性客も多い。

『神谷バー』のHPを覗いてみると、明治43年の6銭から始まり、私が就職した昭和44年に60円と値段の変遷が掲示されていた。


 ○啄木もかよひ来しとか神谷バー電気ブラン呑み短歌(うた)詠まむとせり

 ○神谷バーのデンキブランを酌み交わす旧友みたり浅草の宵