『 第5回 賢治と歩む会 』

『風の又三郎』 転校生・高田三郎は風の又三郎だったのか・・・

 <資料を読む萩原先生>
 <資料を読む萩原先生>

私が今回の発題者なので、やや緊張した面持ちで臨んだ・・・第2回のテーマ先駆作『風野又三郎』と今回の『風の又三郎』とは物語の内容は、大きく異なるが又三郎の性格は継承されているという。

『風野又三郎』の又三郎は『風の神様の子っ子』として立ち振る舞い、村の童たちに自慢げに”旅の話”を語ってきかせるのだが、『風の又三郎』では高田三郎という転校生の姿を借りて、又三郎が見え隠れするような展開で村の童たちと戯れる物語となっているようだ。そこで表題のサブタイトルに焦点を絞って会のみんなと考えてみることにした。

『風の又三郎』の読書会資料
風の又三郎読書感想会.pdf
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Ⅰ.『風の三郎』の伝承

 風の三郎さまの言伝えは東日本各地にあるようだが、私にとって身近なのは、新羅三郎義光が不思議な力で風を呼び起こしたという伝説に由来するというものです。 新羅三郎義光とは、八幡太郎義家の弟で後三年の役に参戦し東北にも縁の深い源義光のことで、有名な笛(笙)の名手であった。人々が風の音を聞くときには義光の吹く笛を思い起こしたと想像されます。

 ※ 後三年の役 ⇒秋田県の横手駅と大曲駅の間に『後三年駅』がある。

   私も子供の頃、ダダをこねると兄達の一人が、こっそり裏口に回って板戸をガタガタさせて『風の三郎に連れでがれるぞ。』と脅かされたのを微かに覚えています。

この事よりも興味深いのは、花巻の友人鈴木氏が送ってくれた『保坂嘉内の風雷神祠のスケッチ』である。これは嘉内が中学2年の夏休みに八ヶ岳登山の折のものとされるが、後日もらった鈴木氏のメールを紹介する。『賢治は天才で、記憶力は抜群ですし、想像力や創造力も抜群です。しかしながらまた、いくら賢治といえども創作の際の「種」は必ず他所から仕入れているはずです。例えば「風野又三郎」ですが、この「種」は保阪嘉内であり、嘉内の描いた「スケッチブック」にあると私は思っております。

 具体的には、以前添付しました「八ヶ岳の風雷神祠のスケッチ」などですが、おそらく賢治は保阪が中学時代に描いたこのスケッチを直接見ているはずです(なぜならば、保阪のスケッチブックにある「ハレー彗星図」や「電信柱の絵」とソックリな絵を賢治も後に描いているからです)し、岩手県内には私の知る限り「風の三郎伝説」はない(ちなみに岩手には「風の三郎社」のような神社は存在していないはず)からです。

 そこでもしこれが事実であったとしたならば、賢治はこの嘉内のスケッチを見、嘉内から「八ヶ岳に棲むと信じられてきた風の三郎」の話を聞き、これが強く印象に残っていたので、その後(おそらく大正1213年頃に)これを「風野又三郎」の「種」にして書いたと考えられるからです。』

これも鈴木氏が提供してくれた写真である。これを見た萩原先生が、秩父の小鹿野町に賢治の歌碑と並んで建立された『保坂嘉内の歌碑』の除幕式で嘉内のご子息に会ったときのことを話してくれた。その時は参列されなかったそうですが、嘉内の兄は『賢治よりも嘉内の方が上だ。』と言っていたそうである。確かに盛岡高等農林時代の同人誌『アザリア』などを読んでも、文芸的な面でも宗教的にも嘉内が賢治に大きな影響を与えていたことが解ると萩原先生が語っていた・・・

  【昭和6年9月3日付『岩手日報』】
  【昭和6年9月3日付『岩手日報』】

【昭和693日付『岩手日報』】

『そして今と違って、「二百十日」~「二百二十日」という期間は当時の農民にとってはとても気にかかる期間だったと言えるはずです。それは、台風の多い頃だし、風の強い日が多いと思われていて、折角実った稲が倒伏することなどを恐れていたからです。当時の新聞を見るとそれがよくわかります。』と鈴木氏はつけ加えてくれた。

現在のように衛星写真で雲の動きや台風を撮ることことなどできなかった時代には、子共たちでも二百十日や二百二十日を知っていたし、大人たちと一緒に心配もしたものでした・・・更に鈴木氏のメールは次のように結ばれていた。

そしてこのことはもちろん賢治も身にしみていたでしょう。それゆえ、「風野又三郎」はその期間に相当する「九月一日」~「九月十日」の「風」を意識して書いたのだと私は今思っております。しかし、これは後に昭和6年~8年にかけて「風の又三郎」へと改変されてゆくわけですが、そこには「羅須地人協会時代」の悔いが反映さているように私は直感しています。』

しかし、最後の一行『「羅須地人協会時代」の悔いが反映』に関しては、私にはまだ理解できていないので、秋田での同期会でお聞きしたいと伝えた・・・

   <モデルとなった分教場跡地>
   <モデルとなった分教場跡地>

Ⅲ.『風の又三郎』物語の背景

高田三郎が転校してきた分教場に関しても鈴木氏の現地レポートを掲載させていただく事にします。

次に、この度の件で初めて「風の又三郎」の風景地と一つと言われている「大迫外川目」を直接訪ねてみて感じたことを以下に少し述べてみます。

 

(1) これで、「風の又三郎」の小学校のモデルになったと巷間言われている三つの小学校の跡、「木細工分教場跡」「火の又分教場跡」「沢崎分教場跡」を初めて全て見ることができたのですが、

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

ということでいえば、どの学校跡地も「谷川の岸に小さな学校がありました」という点では皆当てはまりますが、「運動場もテニスコートのくらいでした」に注目すれば、やはり「沢崎分教場跡」の狭さが一番当てはまっている思いました。しかも、「すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でした」ということになれば、「沢崎分教場跡」以外は当てはまりませんから、この三つの候補の中でならば一番相応しいのは「沢崎分教場跡」であろうと想像できました。なお、「沢崎分教場跡」に「水を噴ふく岩穴」を見つけることはできませんでした(ちなみに、残りの二つにはそのようなことはもともとあり得ない地理的・地学的場所です)

(2) それから、この沢崎地区のある山の斜面に「春日神社」があって、そこの急坂の参道から下を見下ろせば、

 ……川に沿ったほんとうの野原がぼんやり碧くひろがっているのでした。

「ありゃ、あいづ川だぞ。」

「春日明神さんの帯のやうだな。」三郎が言いました。

「何のようだど。」一郎がききました。

「春日明神さんの帯のやうだ。」

というような景が目の前にありました。

(3) そして、この神社の近くから「猫山」に行くことができまして(私自身は猫山には登りませんでしたが)その山腹にモリブデン採鉱跡があるそうです。まだ文献では調べておらず、私の知る限りのことでしかないのですが、岩手でモリブデン鉱は外川目地区にはあるが、少なくとも江刺周辺にはないと思います。なおこのモリブデンに関連して、本日の拙ブログに〝賢治は「山師」?〟なるものをアップしますのでどうぞご覧下さい。

(4) また、この大迫地区は江戸時代からの煙草の産地であり、特に「南部葉」の名産地なそうでして(当時の岩手における煙草の葉の産地は千厩、大迫、江刺なそうです。)、その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下のほうの葉をつんであるので、その青い茎が林のようにきれいにならんでいかにもおもしろそうでした。

という必要条件をこの外川目地区も満たしていそうです。

 よって、三つの小学校、「木細工分教場」「火の又分教場」「沢崎分教場」の中でどれが一番「谷川の岸に小さな学校」に相応しいかというと、どうやら「沢崎分教場」かなというのが現時点での私の結論です。

 

この賢治メールに私は次のように返信した。

『宮沢賢治と大迫・早池峰』の冊子に賢治は、盛岡高等農林の関豊太郎博士と一緒に大迫地域で葉たばこ畑の土壌調査に数度にわたり訪れているようですね。ですから、この度、鈴木さんが調査してくれた地域はきっと賢治も足を運んだ所だと思います。その中で「沢崎分教場跡」が『風の又三郎』の描写に一番似つかわしいとなれば、鈴木さんのご推察通りだと思います・・・先の鈴木さんのメールで、『モデルの分教場はここだ!』と名乗りを上げた早い者勝ちだったようですとの意味が良く理解できました。

 このモリブデン鉱に関して、賢治に関する論考を発表してきた岩大農学部技官の亀井茂氏が、『モリブデン鉱は早池峰周辺でしか採れず、それより南では取れない。』と小冊子にあったが、それも本当のことでしょうね・・・私がネットの記事を鵜呑みにして『江差地区の「種山ヶ原」で賢治がモリブデン鉱脈を大正6年に発見していた。』と発表資料を作成したのは、誤りだったようですね・・・でも、猫山の麓で戦時中にモリブデンを採掘した花巻の藤沼英雄よりも賢治は20年以上前に知っていたようだとの記載は、確かなことだろうと私は信じたい気持ちです・・・

 

 そして”自分の足で、自分の目で、自分の耳で、自分の手で”の実証を続け賢治を研究している鈴木氏の姿勢を示すメールを紹介させていただきます。

 

 さて、賢治に関する証言等について私が気にしていることの一つに次のようなことがあります。

◇賢治と一番親しかった同僚H:実は賢治はこんな人だったと喋った途端に一斉放火を浴びてしまって、その後口を閉ざしてしまった。

◇一部の教え子等:賢治が有名になる前は何も喋っていなかったのに、賢治が有名になってから急に饒舌になった者がいて、その中には嘘も少なからずある(ただしそのようなことは、私鈴木にもわかる気がします。昔のあることが事実だったのか、それとも嘘だったのかわからなくなることがあるからです)。

 

 一方で、岩田純蔵先生の

 『賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。』というような意味のぼやきを思い出しますと、賢治に関に関する証言等については、  『何を言ったかではなくて、誰が言ったか。』

なのだな、ということを私は真っ先に気にしております。

 

 したがって、この度の小南さんの

 私は賢治の「よだかの星」の夜鷹にまつわる伝承をいまでもはっきりと記憶しています。それは、夜遅くまで起きている宵っ張りの子供に『おそぐまでおぎでるど、よだがにさらわれぞ!』と脅かす習わしです。…()…仕方なく布団にもぐりこんだものです。

という、伝承があったということは100%信頼できるのです。

 

 ところが、『宮沢賢治と大迫・早池峰山』(早池峰賢治の会、2009年)の30pの記述、 …風の強い日、外で遊んで泣いている子どもたちに向かって、母親たちは叫んだ。「風の三郎にさらわれるぞ。早ぐ家の中さ入れ」

に関しましてはそうはまいりませんので、直接現地に行ったみた次第です。ただし、その裏を取ることはできませんでした。

 

 さりながら、このような記述があるということもまた事実ですので、この伝承が当時外川目になかったとも、まして岩手になかったということもまた断言できませんので、その真偽は今後の継続課題となると思っております。

Ⅳ.『風の又三郎』を読んでみると・・・

 ここから本題なのですが、萩原先生は、鈴木さん撮影の「種山ヶ原」の写真をかざして、種山ヶ原を歩いた時の話しやら、そこの気象条件から霧が発生し易く落雷の多い事、更に“嘉助には家に見えた”黒い岩の脇には大きなやまなし梨の木があったのに、誰かが伐り倒してしまって残念だと言っていた・・・

 何しろ、駅前で貸自転車を借りて、調査して廻ったとのことで、北上川を挟んで奥羽山脈側は河岸段丘であり、反対の太平洋側は海が隆起してできた石灰岩が多い土壌だと言い、萩原先生は正に賢治の実証研究家なのです・・・

けれども、鈴木さんが送ってくれた『宮沢賢治と大迫・早池峰』の小冊子に乗っていた『風の三郎』の箇所を先生にお見せしたら、その冊子を読んで、『花巻の賢治も大迫町の風の三郎の話』は知っていたんだろうなあ・・・?

と言った。こんな訳で、私のテーマは『91日』までしか進みませんでしたが、先生の解説で『94日 上の野原』の予習はすかっり済ました。

ただ、私が提起したカテゴリー<①まとわりつき、②そそのかし、③のりうつり、④そのほか>で①まとわり付きに関しては、『賢治作品での重要な場面展開では、風がまき起こったり、雷が鳴ったり、青いいろが登場したりするのは常套手段なので、①まとわり付き はどうかな?』と言っておりましたが、『私は、自分の主張を押し付けない主義です。』とつけ加えてくれましたので、次回もこのカテゴリーで皆さんの感じたことを話してもらうことになりました・・・ 

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コメント: 1
  • #1

    コスモス (日曜日, 18 8月 2019 12:52)

    この項は大変興味深く何回も読みなおしました。風の又三郎の物語の元となった推察に風土性とロマンを感じます。東北に征夷大将軍が出向いたとき東北の人は大変だったでしょうね。新羅三郎義光さんのことは今も語られているのでしょうか?八ヶ岳に風の祠があるなんて夢みたい。それをスケッチにする保坂嘉内さんもやっぱりすごい。銀河鉄道も素晴らしいけど風の又三郎の物語は子供の頃を思い出させて懐かしいです。なんだか、いつまでも心に残しておきたい。