風の又三郎 空白の9月3日 (1)

 私が「風の又三郎」を知ったのは、小学校3年生の頃でした。私は太平洋戦争の最中に秋田県南部の山村に生まれた。ですから戦後の混乱期は知らずに育ちましたが、物心ついた頃には物資も食料にも不自由し、お蔭で「物を大切」にすることが身に着いたような気がする。

 当時、兄が中学校に勤めており、兄が月賦で買い求めた「日本文学全集」が本棚に並んでいた。その中から兄が「宮沢賢治」を取り出し、兄の布団にもぐり込んでいた私に「風の又三郎」を読み聞かせてくれたのです。 

 それ以来、「どっどど どどうど どどうど どどう・・・」で始まる「風の歌」とガラスのマントをギラリと光らせて「風の又三郎」が飛んでくるのだという記憶だけが残っていました。

 その兄も3年前に亡くなったが、昨年秋に公民館で開かれた「入門 宮沢賢治」の講座を受講して、改めて「風の又三郎」を読んでみた。私が生れる10年ほど前に書かれた物語ですが、村の童たちの遊びは私が育ったころの遊びと殆ど同じだった。その頃の体験を思い出しながら読み進みました。

 私が生れた皆瀬村と一つ沢目の違う東成瀬村から奥羽山脈を越えると奥州市(水沢)で、横手から奥羽山脈を抜けると北上(黒沢尻)で、そこと隣接する花巻が賢治の古里になります。そして大貫郡大迫町外川目に「風の又三郎」のモデルとなった分教場「谷川の岸に小さな学校がありました。・・・」があったという。

 私の田舎からこんなにも離れているのに、物語に登場する村童たちの“話し言葉”は私が子供の頃に普段使っていた方言とあまりにも良く似ているのに驚かされた。ですから「風の又三郎」を声に出して読むと、村の童たちの仕草まで活き活きと目に浮かんできて、何だか懐かしい気持ちになるのです。

1.空白の9月3日(土)に関わる賢治のメモ

 私が入会した「賢治と歩む会」の読書会で「風の又三郎」を取り上げることになり、もう一度丁寧に読んでみた。今回は私が発題者でテーマを「転校生・高田三郎は風の又三郎だったのか」と設定したので、「又三郎」が登場したと思われる箇所を抜き出すために何度か読み返した。

 ところが、章題の日付を追って行くと何日か空白の章があった。まず、夏休みも終り二百十日に当たる9月1日に高田三郎が転校して来たところから物語は始まり、2日は教室での複式学級の授業風景が語られていますが、次は4日の「上の野原」の話へと展開していた。そこで9月3日土曜日に三郎と村の童たちはどんな遊びをしたのか、自分が子供の頃に体験したことを思い出しながら想像してみようと思ったが、何の手がかりもなく困ってしまいました。

 そこでネットを検索して天沢退二郎著「謎解き・風の又三郎」を探し当て、早速取り寄せて読んでみた。そこには、空白の9月3日について、色々な考察が述べられていた。その中で注目を引いた手掛りは、賢治が書き記した「風の又三郎」の創作アイデアのメモでした。賢治は何種類かのメモを残しているようですが、そのメモが2日の物語の中で使われいるものと4日の話へのつながりから見て、3日に賢治が描きたかったアイデアは次のようになると述べられていた。

 

・風の歌(どっどど どどうど どどうど どどう・・・)

・話し(前の学校のこと、歩き来たる地方のこと) ・アセチレンで火ぶり(剣舞の練習後)

・カジカ突き

・あしたの相談

 

 『謎解き・風の又三郎』でもこれらのメモを基に想定される物語の筋書きが述べられていたが、私なりにそのあらましを思い浮かべてみた。 (つづく)