風の又三郎 空白の9月3日 (4)

萩原昌好氏の論考を参照し追補加筆し更新 (12月19日)

4.アセチレンでの火振り

 

 「謎解き・風の又三郎」でも「火ぶり」(何のことか不明)と書かれていたのでネットで調べてみた。そして高知県の一級河川、仁淀川の「天然鮎火振り漁」を探し当てた。それによると『昔は大松の灯りで鮎を追っていましたが、 現在は発電機を川舟に積み照明ランプの明かりと、竹ざおで水面をたたき鮎を網に追い込みます。 川の透明度も高く仕掛けた網にかかっているのが船の上から見えます。 真っ暗な川で照明つけずに最初に網をセットするのは、川をよく知ってないとできません。 明るいうちに網をセットする組もありますが、 暗くなってから網をいれるほうが良く捕れるようです。』と紹介されていたから、「アセチレンで火ぶり」のアセチレンとは照明用のガス燈のことのようだ。

 しかし、この「火ぶり漁』は夜の川に刺し網を仕掛けて、川上からガス燈で照らしながら魚を追い込むのは、一郎や嘉助たちだけでは無理だったように思われる。はたして賢治は、「火ぶり漁」に童たちをどんな関わり方で描こうとしたのだろうか・・・

 この「刺し網漁」について、私はこんな体験がある。私の住む板戸部落の川下に大そう喧嘩が強いと評判の目が大きくてがっしりとした梅三という人がおりました。その人は川魚を捕ることを生業にしていて、霙のちらつく真冬でも河原に焚き火を燃して川に潜って魚を捕っておりました。たしか左腕に小さな錨マークの入れ墨とその下に“命”と彫ってあったと記憶している。

 私がまだ小学4,5年の夏休みのある日、その人が兄を訪ねてやってきた。釣り糸もやっとナイロン製が手に入るようになった頃だったと思うが、その人がナイロン製の“刺し網”を持ってきたのです。それは幅1メートル位で長さは20メートルほどあったと思うが、その網には、まだ浮きも鉛の重りも着いていなかったのです。おそらく「ナイロンの刺し網だば、水の中で透ぎ通ってめるがら、雑魚なば気付かねべた。」と言いくるめられたのか、兄はそれを買い求め、早速に漁の準備に取りかった。

 まず、木片を編みの上部に括り付け、漁師さんが使うような鉛の重りなど手に入らなかったので、錆びたボルトやナットを網の下の方に結び着けた。

 そして川に出かけて、鮎がいそうな所の川下に刺し網をしかけ、水浴びをしていた子供たちを呼び集めて荒縄に熊笹を沢山挟み込んだ綱を水の中で上下に動かしながら、川上から魚を網に追い込んだ。追い手の子供たちが“刺し網”の近くまで追い込み期待しながら見守っていると、親父と兄が両側から刺し網を手繰り寄せて河原に持ち上げた。子供たちはその網を取囲み一心に見ていたが、ゴミばかりで魚は一匹も掛かっていなかった。

 このやり方で、場所を変えて二、三度試みましたが結果は同じことでした。その内に追い手の子供たちも一人、二人と少なくなり、とうとう何にも捕れずに家に引き上げることになってしまいました。

 こんなことで夜の火振り漁に使われることもなく、そのナイロン製の刺し網は、納屋に放置されることになったのだ。 こんなことを懐かしく思い出しながらネットを検索していたら『秋田・食の民俗・・・川魚編』というホームページの中にこんな記事を見つけました。そこには『野宿しながら、置きハリ、“火ぶり”、渓流釣りなどでとったイワナを、腹ワタをとり、その日その日、新しいうちに塩蔵した。』とあった。たしかに秋田でも『火ぶり』という漁がおこなわれていたようだが、その漁をどう行うかの記載は見つからなかった。

 ところが12月に入って、花巻の鈴木氏が送ってくれた『國文學 解釈と鑑賞』(平成12年2月号 第62巻2号 至文堂)に掲載された萩原昌好氏の『風の又三郎』-「風の又三郎」は「又三郎」なのか-の[注](7)に次のような注記があった。 『本書84頁の「火ぶり」(意味不明)とあるが、これは夏の夜など川面に火を振って魚を取ることでここでは「カジカ突き」と同義である。本来なら書簡で済ませるべき所である、本書が多く読まれているであろうことを想い、こういう形にさせて頂く。私たちも子どもの頃、カジカではないが「ヨブチ(夜打ち?)と称して魚を突いたものである。 』実は、私も当初「火ぶり」とはカンテラ(アセチレン燈)を使っての「カジカの夜突き」のことだと考えていたが、念のためにネットで調べてから本文を書き始めた。

 私の子供の頃もこの注記にある「ヨブチ」をやったことがある。丁度、田植えが終わって水田に水が満々と注がれた頃には、その用水路(堰)からどじょうが水田に上がって来るのだ。夕食を済ませカンテラを持って出かけると、田んぼでは蛙が煩いほど鳴いている初夏の頃だったと思う。まだ植えて間もない苗は小さく、カンテラをかざすと水の中にいるどじょうが良く見えた。だが、ここで使うヤスは普段使うものとは違っていた。それは棒の端に木綿針を横並びに数本くくり付けたものを用いた。水漏れを防ぐため泥が塗り込められた田のクロ(畦道)はよく滑るので、足元を確かめながら針の付いた棒をどじょう目掛けて打ち下ろすのだ。こんなことから「ヨブチ(夜打ち)」と呼ばれていたのだろうと思う。まだ苗が十分に根付いていない他所の家の田んぼに足を踏み入れると怒られるので気をつけてやった。それでも時には片足をズブリと踏み込んでしまうこともあった。                             (つづく)