風の又三郎 空白の9月3日 (5)

5.カジカ突き

 

 谷川の岸の小さな学校の近くには、良く澄んだ川が流れていました。そこには大きなさいかちの木が生えていて、村の童たちが遊びに来るさいかち淵がありました。そのさいかち淵の上流には右の方からもう一つの谷川が入ってきて少し広い河原になっていました。

 このような山間の小さな川で、土曜日の午後には承吉や小助など年少の童たちもカジカ突きをして遊ぶことができたと思う。

 私も小学1、2年のころの同級生でカジカ突きの上手なT君と小さな沢でカジカ突きをした。何しろ彼の家から坂を下ると小さな沢が流れていて、カジカ突きに慣れていたのだ。その友だちから、いろんなことを教わった。

 最初に教わったのは、まず塗り箸に割れ目をつけ、そこに縫い針を三本挟み込み木綿糸で括り付けて「針ヤシ」の作り方であった。その針ヤスを右手に持ち左手の板ガラスの切れ端で波を遮り水の中を覗き込んで、カジカを突いて遊びんだ。ただ、針ヤスの針は見ての通りアギ(返し)は無く滑々ですから、カジカを突いたらそれを手でおさえながら取り込まないと逃がしてしまうのだ。時にはガラスの切れ端で手を怪我することもあった。

 父親が見かねて近所の大工さんに頼んでガラス舟を作ってくれた。それはA4版ほどの板ガラスを舟の底にはめ込んだ木製の小舟でした。はめ込んだ板ガラスの隙間からの水漏れを防ぐために、囲炉裏で熱した火箸で蝋燭を流し込んだ。このガラス舟を川に浮かべると川底の様子が綺麗に見えて、皮膚が保護色で周りの小石と見分け難かったカジカを見つけ易くなり、カジカを沢山捕った時は嬉しかったことを今でも覚えている。捕ったカジカは木の枝かシダの茎をエラから口を通して持ち歩いた。

 でも、9月3日の午後に剣舞の練習のあとのカジカ突きだったとすると夕方になってしまい、夕飯を食べてからの「夜突き」(注)になってしまったのではないかと思う。この「夜突き」に欠かせないのがカンテラです。このガス燈は、たいてい二つに分かれていて、下の部分には小割にしたカーバイドを入れその上をぼろきれで覆います。そして上部には水を入れて、下部と繋ぎ合わせ接続部を廻してしっかりと締めてバスが漏れないようにしないと危険なのだが、上部のバルブを緩めて水を落し込むとアセチレンガスがノズルから勢いよく噴射される。このアセチレンガスに点火すると凄い光を出してくれるのです。このアセチレンの匂いと共にガス燈で照らされた村祭の夜店に群がった子供の頃のことが、懐かしく思い出される。

 さて、この夜突きには危険が伴うので高学年の一郎、嘉助、佐太郎、悦冶くらいまでの村童と三郎が一緒にでかけたのではないかと思う。私も小さい頃は「夜突き」には連れていってもらえなかった。小さな沢位でしたら、足を滑らせて転んでも水に流される心配はないが、大きい川の瀬で流れの速いところで転倒して流されたら、暗闇の中で助けだすのが難しいからです。また、スイースイーと鮎が食べた跡の残る川底の石は水苔(カンナ)で覆われていて、良く滑るのです。そのため草鞋を履いて行きましたが、足裏との間に小砂利が流れ込むと痛たかった。ですから古い足袋を履いてから草鞋をつけることを兄から教わった。兄は地下足袋を履いていたような気がする。こんな備えをしていても「夜突き」は怖い。まばゆいばかりに川面を照らしてくれていたカンテラも時間が経つにつれてノズルにカスが付着し火が細くなり、突然ぷつりと消えてしまうことがあった。そうなると瀬の音だけが聞こえる真暗闇の中、足で川底を探りながら瀬を横切り河原に上がりカンテラの手入れをしなければならない。マッチ一本の灯りを頼りに、予めカンテラの持ち手に括り付けておいた荷札の細い針金をノズルの穴に差し込んで前後に動かし、カスを取り除くのだ。それから水滴を落し噴射したアセチレン・ガズに点火すれば再び灯りを取り戻すことができるが、どうしても上手く行かないと真暗な川を下り、崖を登る道まで戻るしかないのです。当時は懐中電灯などあまりなかったし、こんな場面では胸がドキンドキン鳴って怖い思いをした。

 それでも「夜突き」は面白い。なにせ昼間は大きな石の下に隠れているカジカも殆どが石の下から出て静かに眠っているようなのだ。カンテラをかざして照らし、じっとしているカジカを見つければ容易く仕留めることができる。突き損ないカジカは逃がしたとしても、身を守る保護色が通用する範囲に留まるようなので再び見つけることもできるのだ。また、小さい沢ではガラス舟などは、返って邪魔なくらいで、浅瀬を注意深く探せばカジカを見分けることがでた。ところが大きな川では瀬も速く深いのでガラス舟がないと中々カジカを見つけることができない。だが、持って行ったガラス舟にカンテラを取り付けて照らすと川底が綺麗に見えて、沢山のカジカを突くことができた。この大きい川では手作りの「針ヤス」では駄目で、返しの付いた鉄製のヤスに竹の枝を着けた物を用いた。捕れたカジカは腰に着けたカッコベ(蔓で編んだ籠で腰にぶら下げて使った)に入れた。そのカッコベの中にはヨモギの葉などに水を含ませて入れて置き魚の鮮度を保つのと、川の中で足を滑らせて転んでも魚が流れ出さないように備えた。またヨモギは葉を揉み、その青汁でガラス舟の曇りをとるためにも使った。沢山捕れたカジカを持ちかえると祖母が萩で作った串に刺して囲炉裏で焼いてくれた。焼き上がったカジカの串を火棚(囲炉裏の上に吊るされた格子状の棚)に吊るされた藁で作った弁慶に差して保存した。そうそう、この弁慶について祖母から聞いた話がある。平泉の藤原氏の元に身を寄せていた源義経が、兄源頼朝に攻められて衣川の戦いに破れ、お堂に籠もった時に立ちはだかった弁慶は弓矢を何本も射かけられても仁王立ちのままだったことから「弁慶」と言われるようになったのだと教えてくれた。

 もう二年前になるが盛岡で開かれた同期会の後、友人の車で啄木の故郷渋民を訪ねた。啄木が代用教員をやっていた尋常小学校の横に啄木一家が間借りしていたと言う斉藤家が移築されていた。そこの黒く煤けた火棚に吊るされた「弁慶」にも川魚の串が差してあったのを見つけ、昔を懐かしく思い出した。

  こうして「夜突き」は夜遅くまで続くので、次の日が休みの土曜の夜なら一郎や嘉助も出かけることができたであろうが、4日日曜の朝早くから「上の野原」に遊びに行く約束をしていたとすれば、果たしてどうだったのでしょうか。(注)『國文學 解釈と鑑賞』(平成12年2月号 第62巻2号 至文堂)に掲載された萩原昌好氏の『風の又三郎』の[注](7)に「火ぶり」は、夏の夜など川面に火を振って魚を取ることでここでは「カジカ突き」と同義であるとあった。

                              (つづく)