風の又三郎 空白の9月3日 (6)

6.発破(9月7日のできごと)

 

 『次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところがきょうも二時間目ころからだんだん晴れてまもなく空はまっ青になり、日はかんかん照って、お午になって一、二年が下がってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。・・・授業が済むとみんなはすぐ川下のほうへそろって出かけました。嘉助が、「又三郎、水泳ぎに行がないが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と言いましたので三郎もついて行きました。』 授業が終り嘉助に誘われて水泳ぎにでかけた又三郎は、抗夫の庄助が発破をかける場面に遭遇した。

 『すると向こうの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこち見まわしてから、いきなりあぐらをかいて砂利の上へすわってしまいました。それからゆっくり腰からたばこ入れをとって、きせるをくわえてぱくぱく煙をふきだしました。奇体だと思っていましたら、また腹かけから何か出しました。「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。

 一郎は手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火をしずかにそれへうつしました。うしろにいた一人はすぐ水にはいって網をかまえました。庄助はまるで落ちついて、立って一あし水にはいるとすぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこみました。するとまもなく、ぼおというようなひどい音がして水はむくっと盛りあがり、それからしばらくそこらあたりがきいんと鳴りました。』

 一郎に言われて、気付かないふりをしていた子供たちの緊張しながらこの時を待っていた様子が私には良く判る。そんな中で父親が山師だという三郎は、村の童たちよりも発破のことを良く知っていたに違いない。

  私が子供の頃に父は岩木山の麓で硫黄鉱山をやっていて、その時のダイナマイトが家の中にしまってあった。すぐ上の兄がこっそりそのダイナマイトを持ち出して、川や沼で発破をかけるのを何度か見たことがある。兄に危ないからと言われ20メートル位離れた所に居たが、緊張しながら注意深く眺めていたので「発破のかけ方」を今でも鮮明に覚えている。

 この発破のかけ方や仕草は、庄助のそれとほぼ同じだが、更に詳しくはこうなる。まず導火線を20センチ位に切り、片方の端に十字に切り込みを入れる。これは導火線に着火し易くして、着火の失敗を防ぐためだ。ただ、導火線が短すぎると危険だし、長すぎると爆発までに時間がかかり過ぎて魚が逃げてしまう。それから口金(径5ミリほどのアルミ製の雷管)に導火線の一方の端を差し込み、「口金」を歯で噛んで導火線が抜けないようにする。最後に味噌と呼ばれていた魚肉ソーセイジ位の油紙に包まれたダイナマイトの片方を開いて、導火線を取り付けた雷管を差し込む。ただこれだけだと、水に浮いてしまう恐れがあるので、手ごろな石を縛り付けておくのだ。

 これから先は、庄助のようにたばこに火を点け、二、三服しながら投げ込む場所を見定め、その火で導火線に着火して、素早く魚の居そうな淵に投げ込んだ。暫くすると『ビッシッ』と地響きのような重低音が響き、もくもくっと水面が盛り上がった。無論、発破は悪いことだと子供の私にも解っていた。その時は、兄の一つ年下の従兄と一緒だったが、人気の少ない川の淵に投げ込んだのです。間もなく小魚が白い腹を浮かせて流れてきた。私は川下でサッテ網(たも網)ですくってカッコベに入れた。兄たちは淵に潜って川底で弱っている大き目な魚を金ヤスで突いたが、そんなに沢山捕れたとは、記憶にないのです・・・

 ある時、発破が不発に終わり困ったことがあった。発破を投げ込んでから長い時間が経っても爆発しない時は、それを回収するために誰かが勇気を出して潜らなければならなかった。その時は仕方なく兄が川の中に潜った。従弟と私は川底から浮かび上がってくる兄を待った。ずいぶん長い時間に思えたが、兄が不発のダイナマイトを抱えて上がって来た。そして兄は私と従弟から充分離れた所へ行ってから、慎重に雷管の着いた導火線を外した。それを見て私はほっとして肩の力が抜けた。隣部落の貝沼には、発破に失敗して片腕を失ったという人もいて、てんぼう(手が棒のような人)と呼ばれていた。 ある年の秋祭りの夜のことです。兄と従兄がまたダイナマイトを持ち出してこっそりと川に出かけて行った。それは時々打ち上げられる村祭りの花火に紛れて発破を仕掛けようとの企みであった。丁度落ち鮎の時期で、淵には沢山の鮎が溜まっていたのです。夜の内に発破をかけて、夜が明けるのを待って淵に潜って鮎を捕ったと言っていたが、それは、それは沢山の子持ち鮎を持って帰って来たことがあった。その時は、2階の囲炉裏に炭火をおこし、串に刺して密かに焼いているのを見たことがある。

 こんなヤンチャな兄は自分の体にも静脈瘤という爆弾を仕掛け、昭和46年の冬に川崎の病院でついに破裂し、吐血した血で壁をまっ赤に染めながら私の音の前で亡くなった。良きにつけ悪しきにつけ私に大きな影響を与え続けた6歳上の兄の太く短い33年の人生であった。

                               (つづく)