『第6回 賢治と歩む会』

転校生・高田三郎は風の又三郎だったのか(第5回の継続テーマ)

(萩原昌好の文献による追記あり)

 前回からの継続テーマであったが、私の作成した資料が16頁もあり、その資料に沿って進めると時間がかかり過ぎるので、初めに概要をまとめることになった。資料は皆さんからの意見や感想が出やすいようにと詳細に作り過ぎて、返って自由な発想を阻害してしまったことをお詫びした。この作品は先駆作『風野又三郎』を下敷きに『種山ヶ原』と『さいかち淵』を取り込み、更に転校生・高田三郎を登城させたこともあり、全編にわたらる整合性がはかられる前の段階の作品でもあり、読む度に疑問点が浮かび上がる不思議な魅力に取りつかれてしまうと感想を述べた・・・自分は理工系の出身なので、どうも理屈っぽく考えてしまう悪いくせがあるようだ。そして、9月8日の『 すると、だれともなく、「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」と叫んだものがありました。 』叫んだのは『高田三郎・又三郎』でもなかったことで、高田三郎の正体はますます判らなくなってしまったと課題を皆さんに投げかけてみた。

天沢退二郎・萩原昌好監修の絵本
天沢退二郎・萩原昌好監修の絵本

 萩原先生は白板に地球の地軸の絵を描きながら、水沢緯度観測所の木村博士が発見したZ項の話を始められた。この地軸のブレにより赤道付近で発生する熱帯性低気圧(台風)の生まれる場所がことなり、日本の稲作に大きな影響を及ぶすことに関心を持っていた盛岡高等農林の関豊太郎博士の指導を受けた賢治が熱心に水沢の観測所に通っていた。そして『風野又三郎』の旅に出てくる地名は、大循環発生の場所を示している説明してくれた。だが、賢治は海流の影響が冷害や旱魃に影響を与えていると考えていたようだとも付け加えられた。

 また、賢治の少年時代はひ弱な子供で鉄棒も『じゃみ上り』がやっとできたくらいで、地味で内気な少年は貧乏な人を相手にお金を儲ける稼業の質屋にも後ろめたさを感じていたようで、そんな性格のせいか霊を感じる力を持ち合わせていたようだったと語った。賢治には幻覚が見え、幻聴が聞こえ、それらがミステリアスな作品を生み出していったが、そのことを嫌った父・政次郎は賢治の執筆活動を止めたこともあったという・・・

 萩原先生のお話は多岐にわたり留まるところを知らなかったが、それでもまだ『風の又三郎』の中で解らないところがあるといった。その一つが『ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり』という嘉助の掛け声だが、どうも『今日は捗った』という意味らしいと言った。私も子供の頃に、これに似た掛け声のような叫びを聞いたことがある。それは『ちょうはあ はがえった ちょうはあ はがえった』と畦道を小走りにやって来た少年の姿である。少し年上のその少年は、子供たちの目の前で小石を呑みこんで見せたり、遠くから石を投げつけられたりの怖い思いをしたこともあり、その少年の顔まで思いだせるのだがもはや確かめる術はない。『はがえった』は『捗った』という意味であり、言い付けられた畑仕事が早く終わって、これから遊べるぞという喜びの叫びだったのかも知れない・・・また、『はがえった』ではなく『はがえぐ(捗る)』と使うこともあり、これは天気も良いし『今日は捗るぞ』という自分自身に対する励ましの掛け声だったのかも知れない・・・また、この掛け声は子供の頃から耳に馴染んだ『板戸番楽(かぐら)』の節回しであったように思えるのだ。それは『ちょうはあ はがえった ちょうはあ はがえった やぁらぁ』と続き『ドデスコ ドン カッカ』と太鼓が入る神楽舞のリズムを刻んで行くのだ。この掛け声の節回しが今も耳の奥底に残っているのは不思議に思えてならない。

 『風の三郎様』の伝承を盛岡で聞いたことがあると萩原先生が語ってくれたが、賢治は何故『又三郎』と名づけたのだろうかとの疑問が投げかけられた。

私は、耕助と又三郎との風の功罪に関する議論にもあるとうに、風にも色んな『風の三郎様』が居ることを示唆するために『又』を『三郎』の前につけたのではのではないかと感想を述べた。参考文献にあげた萩原昌好氏の論考には『熱帯性低気圧(台風)は冷害の要因となる『やませ』を南から吹き飛ばしてくれるし、旱魃のときの台風は恵みの雨をもたらしてくれる。だが、稲の収穫時期の台風は稲をなぎ倒すこともあるが『風の三郎様』は農民にとって脅威だけではない。』と述べられている。

『上の野原』のイメージ(HPに紹介)
『上の野原』のイメージ(HPに紹介)

 9月4日に嘉助が逃げた馬を追いかけて道に迷った時、一郎のおじいさんが『虎こ山』の麓まで探しに行ったとあるが、この山が実在するのか、あるはモデルになった山があるのか判らないと萩原先生が言っていたので、花巻の鈴木さんに聞いてみた・・・

 すると左図が掲載されているHPを紹介してくれた。このHPの最後に『「虎こ」山は「猫」山だったのかという楽しい想像もできます。』とあったが確証はない。

 更に『笹長根』は、鈴木さんの故郷でもあり次のように知らせてくれた。

(1) まず「笹長根」についてですが、この件のブログの最後の方に、

   笹長根は北上川の西、北上市から胆沢郡金ヶ崎町にかけての同じ地名を借りているものと思われます。

とありますように、岩手の県南でこの地名があるのは多分ここだけだと思います。そして実は、私はまさにこの近くの出身ですので、子供の頃はここ「笹長根」を「ながねっぱら」と称して、お盆の頃などにはお墓に供えるためのキキョウやオミナエシをよく取りに行ったものです。当時、そのようなだだっ広い草地が「笹長根」にはありました。

 

  大正15年の地図(補充部・笹長根・種山)
  大正15年の地図(補充部・笹長根・種山)

 ちなみに、種山ヶ原の放牧場は当時六原にあった『陸軍軍馬補充部』の出張所でしたから、ある時期にはこの付近をたしか800(?)頭ほどの軍馬を引き連れて補充部種山、あるいは種山補充部と往き来したことになるらしいのですが、その途中といってもいいのがこの「笹長根」です。そういえば、1924429日に賢治は花巻農学校の生徒を引率して軍馬補充部六原支部方面への遠足を行ったという話もあります。

(2) 次に「猫山」についてですが、『風の又三郎』における、笹長根と「虎こ山」の位置関係はそんなわけで私にはちょっと想像しにくいのですが、実際の「猫山」そのものについては、その付近の概念図は下図のとおりですので、「沢崎分教場」からは北東方向に位置することになります。

 これは鈴木さんに調べてもらった結果ですが、『虎こ山』のモデルとなった山が『猫山』であったのかも楽しい追及になりそうです。

 こんなふうに『風の又三郎』には謎めいたところが多く、はまってしまうところがあるが、どうも会員の中にお仲間が既にいるような気配を感じていた。

この日は、終わったあと新年会があり楽しいお話ができると期待していたのですが、私には親戚の通夜祭に参列するために断念せざる得なかった。

 この日は軽井沢での『スキーバスの事故』の直後でしたが、10名もの犠牲者を出した法政大学の元教授が参加されていて、やっと工面したお金で乗ったスキーバスの痛ましい事故を悔やんでおられました・・・

 

参考文献:『國文學 解釈と鑑賞』(平成122月号 第622号 至文堂)に掲載された萩原昌好氏の『風の又三郎』-「風の又三郎」は「又三郎」