風の又三郎 空白の9月3日 (10)・・・現地から

     鈴木氏撮影
     鈴木氏撮影

10.どじょう掬い の冒頭でこんなことを書いた・・・『この大迫町は稗貫郡に入るし、その地名からして昔は稗を多く作っていたのでしょうが、「風の又三郎」の時代には田んぼで稲を作っていたと思う。』

すると花巻の鈴木氏から次のようなメールが届いた。

 

     鈴木氏撮影
     鈴木氏撮影

 実はこの11日に大迫に行きました。それは、茶谷十六(ちゃたにじゅうろく)氏の講演 「百姓一揆の心と行動」を聴くためでした。

 岩手ではあちこちに「一揆の碑」や「義民の碑」が建っております。岩手が貧しかったのはわかるのですが、なぜ一揆が起こったのだろうかと以前から不思議に思っていました。『昔は田圃もそれ程あったわけではなかろうから、年貢の取り立てもそれ程考えられないし』などと語った。

     鈴木氏撮影
     鈴木氏撮影

 今回、その茶谷氏の講演を聴いて私なりにわかったことは、まず、

・南部藩は全国でもダントツに百姓一揆が多かった。ということでした。そして稗貫や和賀で百姓一揆が多かったわけは、

・江戸時代、当地で農民が作る穀物は稗や粟が多かった。

  ・稗や粟の凶作はあまりなかった。

  ・ところがある時期から、年貢を米で払うことになった。

  ・それ以降畑は田圃に換わり、そして水田開発が盛んになった。

  ・そのために賦役が増した。

  ・しかし南部藩は気象的に稲作に適していないので凶作頻発。

  ・飢饉頻発。

  ・年貢の取り立てが一層厳しくなっていった(穀改めなど)

  ・そこで、一揆。

といえるようだということでした。

 つまり、南部藩はお米を沢山ほしくなったので水田開発をした結果、飢饉がかえって頻出し、その結果百姓一揆が頻発したという皮肉な図式のようです。

 ちなみに、大迫の百姓一揆としては

  1731年 坪役銭反対

  1754年 御用金反対

  1795年 重税反対

  1833年 米騒動

   〃   塩配分

  1836年 穀改め

  1853年 特権商人排斥

  1869年 銀座焼き討ち(当時大迫に銭座があった)

があったそうです。

 そして、一揆の多かったところほど郷土芸能が沢山残っているという実態があるそうです。例えば、あの雛子剣舞(子供念仏剣舞)は、水子を供養し弔うために墓前で子どもたちが舞ったのが起源だと茶谷氏は言っておりました。つまり、そうでなくても当時は「間引き」が多かったようですが、凶作が頻発すればなおさらだったでしょうから、その「剣舞」とは親の、大人の悲哀と懺悔を幼い子供達に託して舞わせたものだったということのようです。

 

 そんなわけで、このことから逆に推論できることですが、

  この大迫町は稗貫郡に入るし、その地名からして昔は稗を多く作っていたのでしょうが、「風の又三郎」の時代には田んぼで稲を作っていたと思う。

の後半に対しましては、そのとおりだと思います。ただし前半の、「稗貫」と「稗作」との関連は今回は知ることはできませんでした。今後の課題にさせて下さい。

 

 という現地レポートをいただきました。何んと有難いことです・・・私が勝手な推量で書いたことを検証していただき感謝しております。

(つづく)