泉谷先生からの手紙

「宮沢賢治と高瀬露」を読んで感想文を送ってくれた

『泉谷先生からの手紙』

「宮沢賢治と高瀬露」に関連を抜粋しましたが、達筆で変換ミスがあるかもしれないがご容赦ください。

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 鈴木氏の著書『宮沢賢治と高瀬露』の本では、とてもとても興味深く読みました。ここで話題の中心になっている人物、森荘巳池さんには、小生が大学三年の頃、盛岡でお宅を訪問してお話をきいております。森さんは文学賞を受賞したその気負いがあって賢治を脚色しすぎてしまったかもしれません。なにしろ彼はレポーターでなく創作者なのですから、それで「一度露に会ったことがある」と悪意を込めて創作してしまったことは十分に考えられます。伊藤ちゑ女史の事は小生は何とも腑に落ちない状態のままでした。春画を集めていたその賢治が、若い頃、いかにも修業者ぶった生活をしたことは何となく芝居がかっていると思っていました。司馬遼太郎の「空海の風景」で読んだ若い頃の空海の放浪とは大きく違うと思っていました。

 賢治は右傾も左傾も出来ず、宗教に逃避したのかもしれません。小生の家は東京で空襲により被災し横手市の在で村落の入会地で開墾生活をしていました。実際に唐鍬をふるって藪を拂いながらの毎日でした。賢治も開墾者だということに興味をもって大学の卒論に選んだのでしたが賢治の作品にはその苦労が全く表現されていないのも不思議に思っていました。開墾するということは土中の石に火花を散らしたり、蛇や蜂に追われたりするものですが、そんな表現は全然ありません。賢治は畑になった畑を耕したにすぎないのではないか、小生は今そう思っております。

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 以上が、高校時代の恩師泉谷先生からの手紙ですが、秋田大学の卒論のテーマに設定した「宮沢賢治」の調査するうちに、どうも著者鈴木氏と同じような賢治に対する印象を持ち続けながら82歳になる今日まで過ごされている様子が綴られていた。私は鈴木氏が9年をかけて検証し続けてきた、賢治研究の集大成とも思われる『 「涙流サナカッタ」賢治の悔い 』を是非とも読んでもらい、泉谷先生の長年の疑念を氷解させてあげたいと思った。

 私も先生と同じように唐鍬を持って山の畑を耕したことがあるが、やはり土中の石にあたると火花が飛び散ったし、何かの根っこに当たるとどうにもならなかったのを覚えている。

 そして先生の手紙の最後は、次の短歌で終わっていた。

 

 ・ 雪光り春の訪れ近づきぬ。テレビと書を捨て、鍬を浸さん

 

 ある日の『賢治と歩む会』の休憩時間に、鈴木氏の著書『賢治と一緒に暮らした男 -千葉恭を尋ねて-』の事を萩原昌好先生に話しかけたら、賢治は「下根子桜」の川石の多い下の畑ですら千葉恭の力を借りなければ耕すことはできなかったであろうと、現地に足を運で見聞していた萩原昌好先生が私に語ったことがある。

 更に伊藤ちゑ女史の事に関しても泉谷先生が抱いていた疑念に今回の『 「涙流サナカッタ」賢治の悔い 』が応えてくれるものと思う。

 私も今回の鈴木氏の著書の感想をブログに書こうと思ったが、鈴木氏の苦難の末の本に軽薄なことを言っては申し訳ないと思い、要点を読み返している。