『 第7回 賢治と歩む会 』 (16.4.23)

「 ツェねずみ 」 朗読を聴く

イーハトーブ通の賢治(宮手氏撮影)
イーハトーブ通の賢治(宮手氏撮影)

 今度は「ツェねずみ」が課題だったので、この座像の何処かにツェねずみが隠れているらしいと聞いたので、盛岡の友人・宮手さんに頼んで写真を撮ってもらった。

さて、皆さんツェねずみは何処に潜んでいると思いますか。会の皆にも探してもらおうと写真を準備して出かけた・・・

 今回は、『 ツェねずみ 』の読み聞かせなので楽しみに出かけた。詠み手は、地元で活動している『劇団シナトラ』の座長夫人なので期待できると思った。昨年、井上ひさし原作の『イハトーボ劇列車』の公演を観に行ったときは、賢治の母親役を熱演していたからである。会が始まり瀧田さんの紹介を受けて、すぐに『ツェねずみ』の物語がはじまった。

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 ある古い家の天上裏に住むツェねずみは、とても自分中心で他人から親切にしてもらっても、自分に不都合なことがおきると逆恨みする性癖の持ち主だったのです。ある時、床下街道で「いたち」から戸棚の穴からこぼれた金平糖のことを教わり、いっさんに走っていったが、既に集まっていた蟻の軍団に追い払われてしまう。そのことがしゃくにさわったチェねずは、早速いたちの所へ行きクレームをつけるのです。みんな蟻がとってしまいましたよ。私のような弱いものをだますなんて、償うてください。償うてください。」とうとう、いたちはプリプリして、金米糖を投げ出しました。

 冬の近づいたある日、「柱」は柱の上にある雀の巣を寝床に運んでおいた方が良いよとツェねずみに教えてあげたら、ツェねずみはそれを運び始めたのだが、何度目かに高い所から転がり落ちてしまった。すると「許してくれもないじゃないか。お前さえあんなこしゃくなさしずをしなければ、私はこんな痛い目にもあわなかったんだよ。償っておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれよ。」チェねずみが執拗に「償っておくれ。」と繰り返すものだから、柱は困ってしまって、おいおい泣きました。

 ちりとりはある日、ツェねずみに半分になった最中を一つやりました。するとちょうどその次の日、ツェねずみはおなかが痛くなりました。さあ、いつものとおりツェねずみは、まどっておくれを百ばかりも、ちりとりに言いました。ちりとりもあきれて、もうねずみとの交際はやめました。

 そののちのことですが、ある日バケツはツェねずみに、せんたくソーダのかけらをすこしやって、「これで毎朝お顔をお洗いなさい。」と言いましたら、ねずみはよろこんで次の日から、毎日それで顔を洗っていましたが、そのうちにねずみのおひげが十本ばかり抜けました。さあツェねずみは、さっそくバケツへやって来て、償っておくれ償っておくれを、二百五十ばかり言いました。しかしあいにくバケツにはおひげもありませんでしたし、償うわけにも行かず、すっかり参ってしまって、泣いてあやまりました。

 道具仲間は、みんな順ぐりにこんなめにあって、こりてしまいましたので、ついにはだれもツェねずみの顔を見るといそいでわきの方を向いてしまうのでした。

 ところが、ねずみ捕りは全体、人間の味方なはずですが、ちかごろは、どうも毎日の新聞にさえ、猫と いっしょにお払い物という札をつけた絵にまでして、広告されるのです。そんなねずみ捕りは、毎日 やさしい声で、「ねずちゃん、おいで。今夜のごちそうはあじのおつむだよ。お前さんの食べる間、わたしはしっかり押えておいてあげるから。ね、安心しておいで。入り口をパタンとしめるようなそんなことをするもんかね。わたしも人間にはもうこりこりしてるんだから。おいでよ。そら。」なんてねずみを呼びかけますが、ねずみはみんな、「へん、うまく言ってらあ。」とか言って誰も近づきませんでした。

 そんなところへツェねずみが、ちょうど通りかかりました。そして、「おや、ねずみ捕りさん、ほんとうにえさだけをくださるんですか。」と言いました。「おや、お前は珍しいねずみだね。そうだよ。えさだけあげるんだよ。そら、早くお食べ。」 ツェねずみはプイッと中にはいって、むちゃむちゃむちゃっと半ぺんを食べて、またプイッと外へ出て言いました。次の夜もチェねずみはやって来て、そしていかにも恩に着せたように、「今晩は、お約束どおり来てあげましたよ。」と言いました。そして鰯の頭を食べ終わるとプイッと外へ出て帰って行きました。次の朝、顔のまっ赤な下男が来て見て、ますますおこって言いました。「えい。ずるいねずみだ。しかし、毎晩、そんなにうまくえさだけ取られるはずがない。どうも、このねずみ捕りめは、ねずみからわいろをもらったらしいぞ。」「もらわん。もらわん。あんまり人を見そこなうな。」とねずみ捕りはどなりましたが、もちろん、下男の耳には聞こえません。きょうも腐った半ぺんをくっつけていきました。

 夜になりツェねずみが出て来て、さも大儀らしく言いました。「あああ、毎日ここまでやって来るのも、並みたいていのこっちゃない。それにごちそうといったら、せいぜい魚の頭だ。いやになっちまう。しかしまあ、せっかく来たんだからしかたない。食ってやるとしようか。ねずみ捕りさん。今晩は。」ツェねずみはすぐプイッと飛びこみましたが、半ぺんのくさっているのを見て、おこって叫びました。「ねずみとりさん。あんまりひどいや。この半ぺんはくさってます。僕のような弱いものをだますなんて、あんまりだ。償ってください。償ってください。」 ねずみ捕りは、思わず、はり金をりゅうりゅうと鳴らすくらい、おこってしまいました。そのりゅうりゅうが悪かったのです。「ピシャッ。シインン。」えさについていたかぎがはずれて、ねずみ捕りの入り口が閉じてしまいました。 それはそれは大さわぎです。それでも、償ってください、償ってくださいは、もう言う力がありませんでした。
 ねずみ捕りの方も、痛いやら、しゃくにさわるやら、ガタガタ、ブルブル、リュウリュウとふるえました。一晩そうやってとうとう朝になりました。

 顔のまっ赤な下男が来て見て、こおどりして言いました。「しめた。しめた。とうとう、かかった。意地の悪そうなねずみだな。さあ、出て来い。こぞう。」

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 ここまでが『ツェねずみ』の物語ですが、流石に演劇をやっている人の語りには仕草と表情があり、ツェねずみが動きまわる様子が目に浮かんできた。また語り手は、次のような後日談を付け加えてくれた。それは『クねずみ』の中の「ねずみ競争新聞」の記事であった。

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 ええと、ツェねずみの行くえ不明。ツェねずみというのはあの意地わるだな。こいつはおもしろい。

 天井裏街一番地、ツェ氏は昨夜行くえ不明となりたり。本社のいちはやく探知するところによればツェ氏は数日前よりはりがねせい、ねずみとり氏と交際を結びおりしが一昨夜に至りて両氏の間に多少感情の衝突ありたるもののごとし。台所街四番地ネ氏の談によれば昨夜もツェ氏は、はりがねせい、ねずみとり氏を訪問したるがごとし、と。なお床下通り二十九番地ポ氏は、昨夜深更より今朝にかけて、ツェ氏並びにはりがねせい、ねずみとり氏の激しき争論、時に格闘の声を聞きたりと。以上を総合するに、本事件には、はりがねせい、ねずみとり氏、最も深き関係を有するがごとし。本社はさらに深く事件の真相を探知の上、大いにはりがねせい、ねずみとり氏に筆誅を加えんと欲す。と。ははは、ふん、これはもう疑いもない。ツェのやつめ、ねずみとりに食われたんだ。おもしろい。

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 この朗読を聴いて感想を述べ合ったが、それぞれ異なった視点から核心を突いた意見がだされ感心させられた。私は『ツェねずみ』の朗読を聴くのを楽しみにしていたので、あまり深読みはしまかったが、これまでに読んだ賢治童話と比べるとシンプルな物語だと思った。

 この童話では最初から最後まで「償うておくれ」という言葉が繰り返し登場しながら物語が展開されて行く。その言葉が強く印象に残った。そして私が生れ育った秋田の田舎では、「まよってけろ」と言って「元通りにしてくれ」という意味合いで使っていたことを思い出した。例えば「おめぇ、これぼっこしたべ。まよってけろ。(おまえ、これ壊しただろ。元通りにしれくれ。)」と言うと「あしたまでにまようがら、ごめんしてけろ。(明日までに弁償するから勘弁してください。)」いったように、遊びの中で日常的に使われていた。勿論、大人の世界でも同じ意味で使われることがある。

確かにこの物語の最後の方では「償ってください」と表現されていることから、同じ意味合いの方言だと思われるが、「ツェねずみ」ではもっと重要な言葉として用いられている。でも考えて見るとツェねずみと同じような自己中心主義者は、自分の周りでも見かけることがあった。サラリーマン時代にお酒を吞みながら愚痴を聞いてみると、他人のせいで自分はこうなったのだとこんこんと語るのだ。いやいや他人事ではなく、ツェねずみのように直接「償ってください。」と言わないまでも、私自身も心の奥底で「こうなってしまったのは、あの人のせいだ。」と思うことで自分を慰めたことはある。おそらく賢治も同じような体験をしたことがあったに違いない。

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 会の休憩時間となったので、この写真を回覧して、ツェねずみがどこに潜んでいるかを探してもらった。

実は、つなぎ温泉での同期会の後で、このイーハトーブ・アベニューを訪れて賢治の写真を撮ったり、この辺りを散策したことがあるが、その時はチェねずみには気がつきませんでした。

今回、宮手さんに撮ってもらった写真を見ると確かに賢治の右手の中にツェねずみがいたのです。そして台座には、「ツェねずみ」を撫でると願いが叶うと刻まれていたのです。

 萩原先生の説明によると『蜘蛛となめくじと狸』、『ツェねずみ』、『鳥箱先生とツゥねずみ』、『クゥねずみ』は「寓話集中」として賢治が初期に書いたものだという。そして賢治が文学作品を書き出すきっかけについて話してくれた。賢治は大正8年に「国柱会」に入会したことに端を発している。この国柱会は田中智学が「日蓮大聖人」の教えを広めるために結社された宗教団体であるが、賢治がこの会に入会にするに至る経緯は、盛岡高等農林の自啓寮で同室だった親友の保坂嘉内を抜きにして語ることはできない。嘉内は演劇が好きで、布教のために演劇活動をしていた田中智学を知っていて、きっと賢治にも話して聞かせていた。そして在学中に発行された同人誌「サザリア」を通して急速に「阿吽の呼吸」に至る親密は関係になった。更に賢治と嘉内の関係を決定的なものにしたのは二人で行った岩手山登山である。「銀河がしらしらと南から北にかゝり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐた。」銀河の流れる下で語り明かした夏の夜の一夜の誓いこそが、二人の友情の原点となった。

ところが嘉内が「アザリア」に発表した「社会と自分」という評論の一節が、学校側から問題視さて、嘉内は退学処分となってしまい郷里の山梨へ帰らざるを得なくなったのだ。賢治はあせり、そして悩んだ末、終には卒業を2日前にして「自分も学校を退学する。」と父政次郎に言いだして驚かせたと弟・清六氏が「兄賢治の生涯」の中で語っている。

嘉内は明治大学に籍を置きながら受験勉強を始めたが、616日に母いまが他界してしまった。嘉内は退学という不名誉な事件を起こした自分が、母の寿命を縮めてしまったのではないかと傷心した。こうした時に賢治の杓子定規で一方的な「南無妙法蓮華経」の説法は、傷心の友を受け止める配慮に欠けていた。賢治は卒業後も盛岡高等農林に残り、土性調査や化学実験助手として働いていたが、自分の将来に不安を抱き始めていた最中、肋膜炎の診断を受けたのだ。折しも実家の父政次郎も胃腸の具合が悪くなり、残っていた地質調査だけやり終えて学校を辞職することにしたのだが、将来を見据えての決意ではなかった。

一方嘉内は、母の死を機会に受験勉強を断念し、故郷で農人たらんとの志を決めた。賢治は、この嘉内の決断に対して「この度は又御決心の程誠に羨ましく御祝い申し上げます。」とは言ったものの、あの岩手山登山で、あの銀河の流れる中で、「絶対真理」の理想を求めて共に生きて行こうと誓ったことを思い出すと、一人取り残された寂しさに打ちひしがれていたのだ。私も高校時代の親友と同じ方向を目指そうと約束したのに私は受験に失敗し、一人取り残されたときの焦りとやるせない気持ちを思い出す。

賢治は実家の狭い店先で古着を売るために、来る日も来る日も座り込んでいたが、大正7年の暮れ、1226日に日本女子大に在学していた妹トシがスペイン風邪で入院し、その看病のために母と上京した。賢治は毎日のように妹トシの病状を報告する手紙を父政次郎に送っているが、看病の合間に216日に田中智学の講演を聴いたとの書簡が残されている。

賢治は、嘉内が智学の行動力と幅広い芸術活動、演劇人としての才能を認めていたことを知っていた。嘉内が1年志願兵を除隊し次に何をするかを決断する前に一気に「国柱会」に誘い込もうと目論み、賢治は田中智学の「国柱会」に入会したのだ。しかし嘉内は、賢治の縣命な法華経信仰への勧誘に対して、自分なりの疑問や自分自身の法華経に対する見解を率直に書き送った。

大正10123日、賢治は筒袖のかすりの着物を着て、御本尊と御書と洋傘一本を持って家を飛び出して上京し、上野駅からまっすぐ「国柱会」に向かったが、直ぐには受け入れてもらえなかった。それでも、嘉内も今度こそ自分の思いや行動を理解してくれるに違いなと賢治は思い、25日の夜には「本郷菊坂に間借」したことを嘉内に知らせている。この本郷菊坂は、私が勤めていた秩父セメント本郷分室の近くで昼休みに散歩していて「宮沢賢治の下宿跡」なる立札に出くわしたことがあるが、その頃はまだ関心が薄かった。

賢治は赤門前の小さな出版所に勤め、帝大の講義ノートのガリ版切りをしながら、街頭での布教活動に参加していた。そして運命の日がやってきた。大正10718日、終に嘉内と再会した。しかし、嘉内の心には賢治が目指すところとは異なる将来像が描かれており、語り合いも空しく決別の日となってしまったのである・・・この時の賢治は、最愛の恋い人との最後の別れにも似た心境におちいったのではなかろうか。しかし、この決別を境に賢治は、猛烈な創作活動にのめり込んで行くことになるのだ。

そのきっかけが国柱会の高知尾智燿の教え「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ制作 名ヲアラワサズ 報イヲウケズ 貢高ノ心ヲ離レ」が、賢治の根本命題となり、智学の「著作述成」の言説を実行しようと賢治は凄まじい勢いで文筆活動に入っていったのだと萩原先生は著書『宮沢賢治「修羅」への旅』で述べている。このように熱中して行く賢治を心配した父政次郎は上京し、伊勢、奈良、比叡山や京都への旅へ誘い出し、賢治の一方的な信仰態度を戒めようとしたのだ。この旅行に関して朝日新聞に掲載された「宮沢賢治と父との関西旅行」の記事を以前、同期の渡部氏が紹介してくれたのを覚えている。

大正108月中旬、「トシビョウキスグカヘレ」の電報を受けて急遽花巻に帰って来た賢治を出迎えた弟清六は、大きなトランクにぎっしり詰まった原稿に驚いたという。それらには「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」「山男」や「風野又三郎」があったと「兄のトランク」の中で語っている。やはり『ツェねずみ』はねずみ三部作として初期に書かれた寓話集が原典であることが理解できた。そして「読む人に何かを諭す」という目的も物語に織り込まれていたのだと私は納得した。

少し長くなってしまったが、賢治が創作活動に至った背景を振り返ってみた。思春期から青年時代に掛けて、誰しも友人や親友から少なからず影響を受けながら人生を歩む訳だが、こと賢治に関しては、保坂嘉内という親友との親密な関係、そして決別へと続く賢治の悩みや苦しみが無ければ、今日の多くの賢治作品が生まれてなかったのかも知れないと感慨深いものがある。

萩原先生のお話は何時ものように止まることを知らなかった。チェねずみの名前は、ドイツの飛行船「ZEPPELIN」から取ったのではないかとも言った。その後面倒になったのか、クンとツゥとか適当な名前を付けて行ったのではないかとも語った。

 大正14年に発行された河口慧海の「チベット旅行記」を読んだ賢治は、羅須地人協会を作ったのではないかと説明してくれたが、全く理解できなかった。後で「チベット旅行記」を読んでみることにしょう。萩原先生は、まだまだ色んなお話をしてくださったが、私にはまだ消化不良なので割愛することにした。

 

今回初めて終会後の懇親会に参加した。たまたま「くまがや賢治の会」で活動していた主要メンバーが萩原先生に会うために参加していて、いろんなことを話してくれた。熊谷に賢治の歌碑を建てた頃には、賢治の弟の清六さんも来てくれて、たいそうご機嫌が良くハモニカを吹いてくれたそうだ。多分、同期会の記念DVDBGMとして流れている「星めぐりの歌」であったろうと直感した。先生は清六さんを秩父の小鹿野町や賢治が旅した秩父路を案内しとも言っていた。また、賢治の歌碑建立を支援した方々5百余名の手紙がタイムカプセルに入れられ、その歌碑の下に眠っているそうだ・・・そして何か賢治の記念の年に掘り起し、存命の方に渡してあげたいと言う話が出て、その資金集めの相談も話題になった。更に荒川の花火大会を先生と見た話になり、私は自宅の3階のベランダからみていましたというと、場所は何処だということになった。住所は「榎町」だというと、すると清六さんは立正大学に通う孫のために下宿(アパート)を探しに榎町界隈に来ていたという。確かにお孫さんは榎町のアパートに入居していたそうで、入学式の時も清六さんは孫に会うために私の住む榎町にやって来たそうだ・・・ごく当たり前のお話ですが、賢治の弟の清六さんが、吾が町内に来ていたとは、私にとっては大きな驚きでした。

どうでもよい話を長々と書いてしまいました。ご容赦ください。

 

参考文献:宮沢賢治「修羅」への旅 著者:萩原昌好 朝文社

参考文献:宮沢賢治の青春 著者:菅原千恵子 角川文庫

参考文献:兄のチランク 著者:宮沢清六 ちくま文庫