「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い  感想文

高校の恩師・泉谷周平先生からの手紙 (二)

 鈴木守氏の著書『 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い 』を高校の恩師にお送りしたら、しばらくして長いお手紙が届いた。泉谷先生は大学での卒論に宮沢賢治を取り上げ、その研究の取材で花巻を訪れたこともあるようだ。また、宮沢賢治の研究家として知られた森荘己池氏を盛岡にも訪ねたことがあった。前回は鈴木守氏の著書「宮沢賢治と高瀬露』に関する先生からの感想を掲載させていただき、鈴木氏の検証結果に対する称賛をいただいた。今回は、これまでの疑念が晴れたとの泉谷先生からの感謝が述べられていた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 拝復、「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い(鈴木守)の著書と貴君のメールプリントを読み、そのうちそのうちと思っているうちに返事が遅れてしまい申し訳ありません。ちょうど春耕の時期で畑に耕運機をかけたり、種苗の選択や作業のせいで、ついに六月に入ってしまいました。  しかし、そのような時間も小生には必要であったようで、何とか自分の中の得体の知れなかったことが判然としてきました。大学時代に開拓者・宮沢賢治に惹かれ、卒論まで書いた自分でしたが、なぜか小生は賢治賛美者になれずに過ごしてきてしまいました。その理由が貴君や鈴木守氏の著書のおかげではっきりしてきたのです。  賢治を研究取材したなかで、はじめに賢治の生年月日に疑問をもったのです。花巻屈指の名家の長男に生まれたのによくわからなかったのです。親の届出た日が何か作為によって別の日に変えられたらしいのです。賢治自身も妙に生年月日にこだわりがあったようです。花巻で小生は妙なことを聞きました。賢治誕生の日に父親は関西に古着を買いに行っていて不在だった。その事を賢治は非常に嫌悪していたというのです。関西の浄土真宗の寺では亡くなった人の晴れ着を納めさせる風習があり、父親はそれを買い集めに行っていたというのです。  これは賢治の父が真宗の熱心な信徒で毎年本山から名僧を招き花巻温泉(大澤温泉)で講話を聞く会を行っていたのと関係があります。そしてそのつてで真宗の寺を紹介してもらい、古着商の商売に利用していたというのです。賢治がかたくなに真宗を嫌っていたわけが説明できます。  次に「雨ニモマケズ手帳」に関係した事で感じるのは「玄米四合」のところで独居自炊のはずの賢治が同宿の青年に毎日米屋に米を買いにやらせた・・・のは、いかにも不自然で芝居がかっており貧窮農民めいたり、修業者めいたりして嫌らしい。この前の手紙にも小生がちょっと申しましたように、修業的めいた偽善と思います。毎日一里程の道を往復させて一升ほどの米を買いにやらせる不自然さは、やはり世間に対する偽善としか思われません。こんな行動を同宿の青年に強制したり、松田甚次郎氏にハッパをかけたり、高瀬露女史を自分のメンツを汚したとして悪女にしたり、自分の病弱を同情をひくように誇大に表現したり、「抜きがたい農民蔑視」が地主階級の賢治の中にあったと小生も感じていました。水吞百姓という言葉は八公二民の当時の地主階級の搾取がもたらしたものだと思います。旧制中学校でストライキを企てても賢治は無事で友人の方は退学させられております。上位の人間という者はふだんは好人物のように振舞いますが、事が起きれば急変して酷薄になるものです。童話の会話でも上下の違い、特に上位の者が乱暴な口調になることを小生は感じていました。シズカニワラッテイルのは上流階層のもので、ヒデリの時もサムサノナツモ本当の涙など流さなかったのを鈴木守さんたちはよくぞ指摘していると感心しました。  私はこれまで世を挙げて猫も杓子も賢治をあがめ讃仰しているのに、どうにもその気になれなかったわけがおかげさまでよく判った気がしております。小生の心の謎をといて下さった鈴木さん方によくお礼を申し上げてください。 不一 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 賢治が生まれた時に父政次郎は関西を旅行中だったことは本で読んだことがある。しかし、毎年のように花巻の大澤温泉に浄土真宗の高僧を招き講話会を開き、その高僧の紹介を得て関西の真宗の寺に信徒が納めた死者の晴れ着を買いに行き、家業の質屋で「古着商」を行っていたとは知らなかった。関西の真宗の寺で買い集めた、亡くなった人の着ていた晴れ着を商ってお金儲けをしていることが、大人達の間でささやかれるようになると田舎町では、殆どの子供たちまで洗脳されてしまう。「あそこの家は、どうのこうの・・・」という噂は長い間にわたり尾を引くもので、田舎育ちの私は、このようなことをしばしば聞かされたことがある。おそらく同世代の子供たちから陰口を叩かれるような環境の中で育った賢治が家業の質屋を嫌い、浄土真宗を信仰する父親に反抗するようになって行った事が、泉谷先生からの手紙を読んで理解できた。

 泉谷先生の手紙を読んでもらった鈴木氏からも次のようなメールが届いた。

それから、家業が「古着商」「質屋」ということででしょうか、賢治の父政次郎は花巻の実力者ではあったのですが、当時宮澤家に親しく出入りする人は少なかったと近くの人が言っておりました。賢治に同じ年頃の友達がいなかったのもこれが影響していたのでしょうか。そういえば、羅須地人協会時代の賢治がしばしば接触していた人物は殆ど彼より一回りも年下の少年たちばかりですね。」

 それから、泉谷先生の手紙の中に登場する同宿の青年とは、鈴木守氏の著書『賢治と一緒に暮らした男 -千葉恭を尋ねて-』の千葉恭を指していると思われる。