岩大電気電子情報科会 創立75周年記念式典

平成28年6月18日午後 於: 岩手県公会堂

 < 6月18日 記念式典の当日 >

今年は「岩手大学電気電子情報科会の創立75周年記念式典」があるよいうので、同期会の前乗りの形で盛岡にやって来た。

今年の1月より「記念DVD」を作製し、記念行事への参加を促すプロモーションを企てたが、日程調整が上手く行かず、同期会の前日となってしまった。

盛岡駅前は、東北新幹線の開通に伴う再開発により、昔の面影を留めるところがないほどに近代的に整備されたが、啄木のこの歌碑だけは、優しく出迎えてくれる。

この歌の持つ普遍性なのでしょうか、秋田の実家へ帰り古里の山脈(やまなみ)が見えてくると、啄木のこの歌が浮かんでくる。

盛岡には既に「湘南 Old Boys」が、一本前の新幹線で到着しているはずなので連絡を取った。ホテルに荷物を預けて不来方城址の啄木の歌碑で落ち合うことにした。今晩の宿所「北ホテル」から県庁と公会堂の横を通りぬけて交差点を渡ると「桜山神社」の参道に通じる一直線の道筋であった。丁度、6月30日の「胎内くぐり」の厄払いに向けて、胎内くぐり輪が整えられていた。 

不来方のお城の草に寝ころびて

 空にすわれし十五の心      啄木

この歌碑の写真を撮っていたら、ほどなく「湘南 Old Boys」がやって来た。記念DVDが完成し、同期会の打合せで新宿の「三平」で会って以来だが、メール交信やスカイプのお陰で、そんなに時が経ったような気がしなかった。最も、各々が自分の個性を表現した何時も通りのスタイルだったからかも知れない・・・

 (不来方城址の湘南 Old Boys)
 (不来方城址の湘南 Old Boys)

「湘南 Old Boys」は、岩手山を背にこのあずまやで美味しそうに弁当を食べていた。

宮手さんがメールで伝えてくれたように「教育会館」が解体されて、不来方城址から岩手山を眺めることができた。私の撮影技術が未熟なせいで岩手山を写し出すことができなかったのは残念である。

それから不来方城址の本丸跡を通りぬけ、高く積まれた石垣を右手に見ながら下り、下ノ橋のたもとの「賢治の清水」へと向かった。丁度午後の陽射しの具合で賢治の詩碑を読み取り難い状態であったが、鏡のように我々4人を写してくれたのでシャッターを切った。

ここから二人は公会堂に向かい、一人は学生時代にボンドガールの浜美枝に似ている言っていた下宿のおばさんに逢いに行った。

私は3年前の「つなぎ温泉・愛眞館での同期会」の翌々日に盛岡市内を散策し、とうとう探しあぐねた「啄木と牧水の友情の歌碑」を探し歩いた。下ノ橋を渡り中津川沿いに下っていたら、中学生の少年に会った。「啄木と牧水の友情の歌碑を知りませんか。」と尋ねると「知らない。」と言ってすれりがったが、しばらく歩いてからその少年に呼び止められた。引き返すとその少年が、この案内板を指して待っていたのだ。何とその少年が通う「下ノ橋中学」の校門の前にあるというので、心躍らせながら「下中」へと急いだ。

教室の窓より遁げて ただ一人

 かの城址に寝に行きしかな   啄木

 

城あとの古石垣にゐもたれて

 聞くともなき波の遠音かな   牧水

 

これは、啄木が晩年もっとも心を許しあい、最後をみとってくれた友人牧水の二人の作品が刻まれた「石川啄木・若山牧水 友情の歌碑」である。

前回の盛岡同期会で果たすことのできなかった「石川啄木・若山牧水 友情の歌碑」を探し当てることができて少し安心し緊張がほぐれて、下ノ橋のたもとのコンビニでお手洗いをお借りした。お礼にアイスを一本買い求めそれを食べながら、満ち足りた気持ちで科会総会会場の「公会堂」へと急いだ。

そして臨終のときに「自分には啄木のように看取ってくれる牧水のような友はいないだろうな。」などと考えながらアイスの棒を握っていた。

公会堂の会場に辿り着いたら、盛岡支部総会が閉会するところだった。私は科会の総会から参加した。その様子は写真を撮っていた宮手さんが知らせてくれることでしょうが、平成28年度事業計画に(2)ホームページ検討委員会が盛り込まれていたことは嬉しいことであった。

この件は、飛世さんが発案し、既にプロトタイプを公開してくれているが、それに対する言及はなかった。実は、この案件は宮手理事が理事会で提案してくれた計画であり、何か意見を出して欲しかったと後で彼から聞かされた・・・この辺の事情を知っていれば、応援の発言をしたのにと思った。

< 岩手大学電気電子情報科会 創立75周年記念式典 >

(草刈功労特別賞受賞の大田原先生)
(草刈功労特別賞受賞の大田原先生)

総会終了後に会 場を整え直し、創立75周年記念式典が執り行われた。現在の科会の礎を築かれた草刈先生のご遺志の継続と発展を願って設けられた「草刈功労賞」の表彰が行 われた。今回は4名の方々が受賞されたが、恩師・大田原功先生は「草刈功労特別賞」を受賞された。この度の選考委員長の柏葉先生のスピーチによると 創立50周年記念のときに、「功労賞選考の3つの基準」を大田原先生ご自身が制定されたものだということだ。その3つの選考基準に照らしても、余りあるも のがあり「特別賞」に決まったと語られた。更に草刈先生は、卒業生の就職活動にも熱心に取り組まれたとのご紹介を聞いているうちに、ふと自分自身のことが思い出された。

    (草刈先生銅像と私)
    (草刈先生銅像と私)

昭和40年の春に岩大電気科に入学し、早々に同袍寮の先輩から草刈先生は電気工学辞典にも載っている有名な先生だよと聞かされた。し かし、残念ながら草刈先生の講義を受講する機会はなかったように思う。先生が体調を崩され東北大の病院に入院されているころ、先生の友人だった秩父セメ ントの松村常務が病床の草刈先生を訪ね「電気の学生が一人欲しい。」とお願いした事は、秩父セメントへ入社して暫く経った後に、松村常務から聞かされた。

そのことがご縁で私は秩父セメントへの就職が決まった。草刈先生が就職のお世話をしてくださった数多くの学生の中で、おそらく私がその最後の学生となってしまったのかも知れないと思うと感慨深いものがある。

 < 6月19日 同期会当日の早朝 >

同期会の当日とあって、朝5時前に目が覚めてしまった。昨日、鈴木さんが渡して来てくれた啄木が盛岡の地で明治38年9月5日に発行した「小天地」という雑誌をベットの上で読んだ。それから風呂に入り、6時に散歩に出かけた。盛岡のバスセンターが取り壊されるとの報道をテレビで見ていたので、今の内に見ておこうと思った。

このバスセンターは思い出深い所だ・・・網張や八幡平にスキーに出かけるときは上田からスキーを担いでやって来て、このバスセンターから乗った。

その建物の中へ入ってみると、ベニヤ板張りのショウケースがいまだに使われていた。そして、建物の裏に廻るといくつものバスの出発レーンが並び、往事を偲ばせてくれた。

岩大に入学早々に、たしか農学部の正門近くにあった学生部まで行って家庭教師のアルバイトの申し込みをした。そのとき小学校の代用教員の経験あると記載したら、すぐさま小学校1年生の家庭教師の紹介をしてくれた。

そこは岩鋳の常務さんのお宅で、八幡町の近くだったことを思い出して、近くまで来たが家並は当時と一変していて、週3回も通い続けた道筋すら思い出さなかった。

  (右:難波、左:小南)
  (右:難波、左:小南)

これは、私としては誠に申し訳ないことなのだ。小学1年から4年まで通い、学芸会の時などは、父兄代行として愛宕山の麓の城南小学校へ出かけて行き写真を撮ったりもした。

夏休みには石巻のその子の親戚の家に1週間も一緒に泊まったりもした。大きな呉服屋で自家用のボートに乗せてもらったり、桟敷で花火大会を見物させてもらった。また、その家に嫁いで来た人の実家がある島に船に乗って海水浴に行った。2,3日泊めてもらい、まだ生きているウニを割って食べさせてくれた。あの美味しさは、今でも忘れられない。3.11の震災の後、テレビを見ていたが何も判らなかった・・・

   (小学生の子供と私)
   (小学生の子供と私)

冬にはスキーにも行った。岩山へスキーを担いで登った。竜ケ森スキー場には難波さんに一緒に行ってもらい、怪我をさせぬように見守ってもらった。そ の時のセピア色の写真がアルバムに残っている。こうした4年間か終わり、卒業の時はお祝いに背広まで仕立ててもらった。長い時を経て、その子が成人して結 婚する時も呼んでもらった。こんなに世話になったのに、そこへ行く道を思い出せないとは・・・

何だか情けない気持ちになってしまったが、盛岡八幡宮が近かったのは確かなので、そっちの方へ行ってみようと思い直して歩いた。

当時から八幡町は、歓楽街として名が知られていたが、やはり呑み屋が軒を連ねていた。そして入試の時の旅館が八幡町だったことを思い出した。岩大の入試の時は、盛岡市内の旅館が満室になるほどの受験生がやって来たのであろうが、私が泊まった八幡町にあった旅館の2階の奥まった一室は、普段は違う 目的で使われていたようだった。手前の座敷からの入り口は、壁が丸くくり貫かれ、そこの入口には、2枚の格子の障子戸が設えてあった。その障子戸を開けると内側の壁は紅色に塗られ、昔の行灯を思わせるような薄暗いスタンドがあるだけだった。その部屋に入ると、染み着いた白粉の匂いが、若者には妙に刺激的だったのを覚えている。

そのときは、駅前で学生さんの教えられてらてた道順でこんな部屋にたどり着いて、まだどぎまぎしているところに高校の同級生がやって来た。高校時代 にはあまり親しい訳でもなかった同学年の佐藤さんは既に岩大の機械科の2年生になっていて、出身母校の受験生の激励に来てくれたのだった。私は少し複雑な 気持ちでしたが、初めての土地に来て高校の同級生が訪ねて来てくれて、何だか安心した。地元の受験生とはちがい、地方からの受験生には心強かった。私も同 じように母校の受験生の激励に行った覚えがある。余計なことだが、同じ郷里の女子校の宿舎にも激励に出かけた。でも、姉が同僚の先生から、その時のお礼を言われたよと聞かされた時は、少し照れ臭かったが、惜しくもその少女たちは合格しなかったようだ。

それから2年後、迎えてくれた高校の同期生を八幡町の場末の小さなバーで送別した。薄暗いバーが大人の雰囲気を味合わせてくれて、彼も喜んでくれた。

こんな古き良き時代の習わしは、今はどうなっているのであろうか・・・

後で聞いた話だが、同じ旅館の広間に横手高校の受験生の一人として大川君も泊まっていたというのだ。

まだ人通りのまばらな参道をゆっくり歩いて行くと、鉄錆が浮いてきた古びた看板が眼に留まった。その文字を拾い読みすると「大狸の股間のものを撫でるとご利益がある。」というようなことが書かれてあった。辺りを見回すと大きな狸が壁にもたれ立っていた。

ご利益があれば良いが、この歳では無理だろうと思いながらも、周りに人気がないのを確かめなて、そっと一撫でした。

お狸様どうぞご利益がありますようにと念じながら・・・

ただ、この「お狸様の伝説」は、この呑み屋さんだけのものではないらしく、参道に『まちなか劇場「八幡」 ぽんぽこ市』という旗がたくさん立てられていた。ちょうど今日は日曜日なのでその市があるらしく、係の人が参道に番号札を置き、出店の場所の割り振りを行っていた。

盛岡八幡宮本殿への階段を上り切ったところに、胎内くぐりの輪が設けてあった。その右手に輪のくぐり方の説明書きがあったので見てみると、時計周りに右側へ抜けて8の字を描くようにして、左側に抜けて正面の本殿にお参りするように図で示してあった。

何年か前に熊谷の赤城神社の氏子さんに実地に教わったときは、この正反対のくぐり方だったような気がすると思いながらも、ここの作法に従ってお参りした。本来は和紙を切り抜いた人形に氏名と誕生日を書いて、それを納めて祈祷してもらうのであろうが、6月30日の期日前にお参りをさせてもらった・・・古稀を迎えた仲間で同期会の常連さんが、4人も参加できないと聞くにつけ、同期会の皆も健康でありますように念じつつ、百円硬貨を賽銭箱に入れ鈴を鳴らし二礼二泊一礼して参拝した。

私たちは誰しも胎内から産道を通りぬけ、何の汚れもなくこの世に生まれいずるという。煩悩の赴くまゝに生きて来た私などは、厄の塵まみれになっているはずだが、この胎内くぐりの輪を通ると、その厄を払い落してくれるというのだ。

今朝、この胎内くぐりの輪をくぐり貫けて、何だか清々しい気持ちになり、反対側から盛岡八幡宮の参道を写してみた。

やはり学生時代のアルバイト先の所在が気になり、盛岡八幡宮の参道から左手の路地へ入ってみたが、まったく見当もつかず引き返した。しばらく行くと参道沿いの消防署に人影が見えたので岩鋳の場所を訪ねてみた。すると、この道を真直ぐ進み交差点を越えて行くと左手に南部鉄器の工房があるというので行ってみた。確かに南部鉄器の工房はあったが、岩鋳ではなかった。後で宮手さんに聞いてみると、岩鋳は南仙北町の盛岡バイパス近くに越されたし、岩鋳さんはリーズナブルなお値段のものが多いが、あそこでは南部鉄器でも主に高級品を作っているようだと教えてくれた。

それから八幡宮の参道を真っすぐに肴町のアーケド付近まで見て行くと、鈴木盛久工房という南部鉄瓶工房が見つかった。19日の朝にその場所に辿り着いたときは、岩鋳ではなかったので何だか悔しくて写真も撮らなかった。

家に帰り、グーグルマップを開いて盛岡市を航空写真で覗いているうちに、バイト先は松尾町であったと気がついた。八幡宮に隣接した松尾町の街並みを写真で見たが、バイト先の家までは判別できなかった。

それから鈴木盛久工房のホームページを探してみると、何でも15代も続く老舗のようだ。この工房の写真を見ると、いかにも朝ドラ「どんど晴れ」に登場する頑固な鋳物職人「佐々木平治(長門裕之)」が、今にも現れそうな雰囲気であった。もしかしたら、朝ドラのモデルとなり、ここでロケが行われたのかも知れない・・・

                            (つづく)