『第8回 賢治と歩む会』 (16.7.23)

「貝の火」の読後感想会

 今回「貝の火」をテーマに選んだ野崎さんは、子供の頃に札幌に住んでいて、父親が東京へ出張するとお土産に紙芝居を買ってきてくれたそうだ。その一つが「貝の火」であり、その最後の場面で「貝の火」が赤々と燃えるように輝く画面いっぱいの絵が今でも忘れられないと語った。

 私も紙芝居には思い出がある。私の子供の頃はラジオですら各家になかった時代でしたが、兄が友だちの家から紙芝居を借りて来て兄弟に見せてくれたことがある。私が小学2,3年の頃だと思うが、どうしても自分で紙芝居を作ってみたくなり、国語の教科書に載っていた、たしか「子ぐまのぼうけん」という物語の挿絵を画用紙に描き、文章から想像した絵を何枚か加えて紙芝居に仕上げた。ところが紙芝居の台がないのでボール紙で作ってはみたが、フニャフニャで使いもにならなかった・・・そこで父親の大工道具を持ち出して、板の切れ端で作り始めたが中々上手くいかなかった。見かねた5才年上の従兄が手伝ってくれて何とか完成できた。それを冬休みの工作として学校へ持っていたのだが、その紙芝居をみんなの前でやる羽目になってしまった。私は紙芝居を作ることに夢中で、肝心の物語をよく読んでいなかったので、しどろもどろのお話となってしまって、恥ずかしい思いをしたことが、この歳になっても忘れられない。

    瑪瑙(貝の火のイメージ)
    瑪瑙(貝の火のイメージ)

「貝の火」は子兎ホモイが、川で溺れていたヒバリの子供を助けるところから物語が始まる。熱を出して寝込んでしまったホモイが回復すると、ヒバリの親子が鳥の王からの贈り物として宝珠をホモイに差し上げた。

しかし、善行の証として宝珠を授かったホモイは、自分は偉くなったと傲慢になりモグラをいじめたり、家来にしたはずの狐にそそのかされて罪を重ねて行く。その都度父親に叱られるが、狡猾な狐に騙されて罪を犯して行くのだが、直ぐには宝珠「貝の火」は曇らなかった。そして3日目に狐が盗んできた角パンを持ち帰るが、父親は怒ってそのパンを踏みにじった。それでも「貝の火」は、美しく燃え上がった。

4日目にホモイがモグラをいじめているのを父親が見つけて助けてやったが、その日、父親は狐が盗んできた角パンを食べてしまったのだ。その日の「貝の火」は激しく燃えて戦争でもしているようであった。

5日目も、家族みんなで狐の角パンを食べた。この日初めて「貝の火」に針で突いたような曇りが見えて、父親はかやの実の油をだして宝珠を漬けてやったのだった。

   燃えなくなった「貝の火」
   燃えなくなった「貝の火」

6日目、父親は、狐が鳥を捕まえていることをホモイから聞き、狐と対決し鳥を逃がしてやった。そして鳥たちに「貝の火」が曇ってしまったことを伝えた。その鳥たちの前で「貝の火」は砕けて、その粉がホモイの目に入り失明してしまった。

そして砕け散った「貝の火」は再び元のかたちになり窓から遠くの空へ飛んでいった。最後に残ったフクロウが、たった一言「たった6日であったか」と呟いて去っていった・・・どうもフクロウが鳥の王の化身であったのかも知れない。

 この物語の母親は、けっしてホモイを叱ることはなく、むしろホモイの行動を肯定的に見守るだけであった。こんな家族関係をみていると賢治親子の関係が連想された。優しくて温厚な母イチ、そして厳格で浄土真宗の熱心な信徒である父政次郎と日蓮宗への改宗を迫る賢治とのしがらみが浮かび上がってくるのだ。こう考えると宝珠「貝の火」の輝きは、まだ無邪気なホモイの悪戯より寧ろ父親の行いを映しだしているように思えるのだ。

 私が鈴木守氏の著書『 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い 』を高校の恩師に送ったところ、次のような感想文が手紙で届いた。 

賢 治を研究取材したなかで、はじめに賢治の生年月日に疑問をもったのです。花巻屈指の名家の長男に生まれたのによくわからなかったのです。親の届出た日が何 か作為によって別の日に変えられたらしいのです。賢治自身も妙に生年月日にこだわりがあったようです。花巻で小生は妙なことを聞きました。賢治誕生の日に 父親は関西に古着を買いに行っていて不在だった。その事を賢治は非常に嫌悪していたというのです。関西の浄土真宗の寺では亡くなった人の晴れ着を納めさせ る風習があり、父親はそれを買い集めに行っていたというのです。

 これは賢治の父が真宗の熱心な信徒で毎年本山から名僧を招き花巻温泉(大澤温泉)で講話を聞く会を行っていたのと関係があります。そしてそのつてで真宗 の寺を紹介してもらい、古着商の商売に利用していたというのです。賢治がかたくなに真宗を嫌っていたわけが説明できます。

 父親が熱心な浄土真宗の信徒であり篤志家である一方で、死者の晴れ着を買い集め古着商を営んでいたことを 賢治は後ろめたく思っていたのであろう。そのことが「狐が盗んできた角パン」に象徴されて語られているのではないかと思った。そして最後にホモイの目が玉のように白く濁ってしまい、物が見えなくなってしまった。このとを通して、父政次郎が信仰する浄土真宗の教えに従っていたのでは、皆が幸せになるための真理の世界が見なくなってしまうと賢治は言いたかったのではないだろうか。

 皆さんからの感想を聴いてから、萩原先生がお話ししてくださった。

賢治は自分の作品に対する評価は厳しく、「貝の火」は「意味をなさず。宝珠の意味が少々不明確。」と原稿用紙に書き残されていると話してくれた。

そして法華経文学を目指していた賢治にとっては、そうであったのかもしれないと付け加えられた。

 私は、兎の澄んだ赤い目から賢治は「貝の火」を発想し、最後にその赤い目を白く濁らせることで物語を締めくくる構想を立てたのではないだろうかと発言し た。このことを賢治に尋ねてみたいものだが、もはや今年で生誕120周年なのだ。小鹿野町では賢治来訪100年を記念して9月4日にイベントが計画されて いる。イベントでは萩原先生の講演会もあるので会員みんなで出かけてみようという企画が持ち上がっている。

 その2日前の9月2日は、熊谷でも賢治来訪100年になるのだが・・・何かイベントがあるという噂は聞こえてこない。