賢治 小鹿野来訪100年・生誕120周年記念

 今日9月4日は、宮沢賢治が20歳で、まだ盛岡高等農林の学生だった頃に秩父地方の地質調査のために関豊太郎博士の引率で23名の仲間と小鹿野町にやって来た日から100年目に当たる。

 この記念すべき日に『賢治と歩む会』の有志と一緒に「小鹿野町来訪100周年記念」のイベントに参加することになった。

 当日は熊谷駅から10時半の秩父線に乗った。

 「賢治と歩む会」の会長瀧田さんは「私は雨女です」と言うし、朝小雨がぱらついていたので、車で駅まで送ってもらった。そして乗り込んだ車両の天井には、「三峰神社」に関連した写真やイラストが全面に貼りめぐらされていた。同行したタウン記者の方が、デジカメ片手に前後の車両も見て回ったが、賢治に関連するものは見当たらなかったと話していた。今年は「宮沢賢治秩父来訪100周年記念」の年なのに残念なことである。

 私は、秩父鉄道の広報に申し入れることをタウン記者の方に約束した。

 一緒に行った方で「私は、晴れ男だ」と言う人がいた。「雨女」より「晴れ男」が勝ったのか、お天気は回復し、11時過ぎには、皆野駅から萩原先生が手配してくれた車に乗った。間もなく小鹿野町の会場に近づく頃に車窓の右手に大きな断崖が見えた。萩原先生が「あれが賢治が100年前に訪れた”ようばけ”です。」と説明してくれた。

 このイラストは、賢治が初めて出版した童話「注文の多い料理店」をもじって作られたキャッチ・コピー「注文の多い賢治展」である。

 小鹿野文化センターの一階会場のあちこちでこのイラストを目にすることになり、私にはとても印象深いものになった。

このイラストの「西洋料理 山猫軒」の店主も中々よく描かれており、童話の原文が添え書きされいて、とても気に入った一品であった。できれば、後日このコピーを入手したいと思った。

 会場に入ると明治時代のカフェの服装を纏った女子高校生が出迎えれくでた。頼んで写真を撮らせてもらった一枚である。

 彼女たちの立ち振る舞いに接し、賢治が生きた明治末期、大正、昭和初期のメトロな世界への入口に立ったような気分になった。

 会場の玄関ホールには「歌・お話し広場」があり、賢治童話の紙芝居が上演されていた。

私は紙芝居が好きなので、じっくり見物したかったが、何しろ盛りだくさんで、正に「注文の多い賢治展」であり、その時間を都合することはかなわなっかった。

 この玄関ホールの壁面には、山口清文氏の「注文の少ないカメラマンの 秩父路の『賢治』を歩く」と題した写真で埋め尽くされていた。

 その全てが宮沢賢治秩父地質旅行に係りのある写真であった。私はスマフォを使って複写させてもらったのが、次の写真である。

 13時15分『第1幕 賢治ようばけに魅せられて』の幕が上がった。小鹿野と言えば200年の伝統を継承してきた『小鹿野歌舞伎』の町として知られている。流石に舞台装置も見事に「注文の多い料理店」の雰囲気を作りだしていた。この舞台の両袖から、歌舞伎でよく使われる花道が常設されいるのも小鹿野町ならではなのかも知れない。

この「注文の多い料理店」の舞台装置が、この後活用されることになる。

 まず、今回の実行委員長の登場である。するとナレーションが始まった。

「当軒は注文の多い料理店ですからどうぞそこはごしょうちください。」・・・

「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきもののどろを落としてください。」

「てっぽとたまをここへおいてください。」

「どうかぼうしと外套とくつをおとりください。」・・・

「つぼのなかのクリームを顔や手足にすっかりぬってください。」と、

こんな具合に実行委員長も注文の多い店主の言いなりになってしまうのだ。最初から中々凝った演出であった。

平成26年9月に開催された「宮沢賢治・保坂嘉内友情の歌碑祭」において、賢治来訪100年目に当たる本年9月に記念祭を開催されることが決定し、以来2年にわたり準備を進めて来たと実行委員長が挨拶された。それから、来賓の方々のご挨拶が続いた。

 小鹿野町の福島町長は、原稿を手にしっかりとまとまったご挨拶であったが、それに続いた町会議員、県会議員のご挨拶には失望させられた。

 まず、賢治の古里が宮城県だと紹介され、次に賢治の誕生日が9月4日で、来訪100年、生誕120年、そして本日の誕生日とお目出度いことが3つ重なったと雄弁に語ったのだ。最後に秩父地域の地質調査を終えた賢治一行は青森の学校へ帰って行ったと結んだ・・・

 原稿を持たず饒舌に、しかも堂々とそごを語られると何だか腹立しく思えてきた。多くの聴衆の中には、このことを信じてしまう方もおられるかも知れないと思うと、主催者側からの訂正を入れてもらいたいくらいであった。

 しかし、来賓の方への遠慮もあるのでしょう。何の訂正もなかった。

 最後に「小鹿野賢治の会」を立ち上げ支え続けてきた守屋勝平会長のご挨拶であったが、ご高齢のために副会長の方が代読された。

 守屋会長は、平成6年に賢治の小鹿野来訪が判明したころから立上り、平成7年には「小鹿野賢治の会」を設立し、平成9年には賢治の歌碑建立に至ったと紹介された。以来、今日のような賢治に対する関心を町民に植え付け、育て上げてきた偉大な人物なのだ。

 

 最初は埼玉大学名誉教授の萩原昌好先生の講演「記念祭に寄せて」であった。賢治一行の秩父地域の地質調査の旅の詳細は「宮沢賢治小鹿野町来訪100周年記念誌」に詳しき書いてあるので、別の話をしますと切り出した。

 そして賢治の弟清六さんとの出会いを話した。賢治の秩父地域における地質調査旅行に関する実証研究の論文が、清六さんの目に留まり、直接連絡があり花巻へ出かけたことからお付き合いが始まったと語った。その時は、宮沢賢治記念館の公開に先駆け、そこでの展示品の選定と展示方法の監修を頼まれたとのことであった。けれども、清六さんは、兄賢治のことに関しては何も話してくれなかったと付け加えられた。

 それから、清六さんと伊豆大島、サハリンと一緒の旅を重ね、ここ小鹿野へも案内し賢治一行が小鹿野に来て宿泊した寿旅館に泊まり、翌日には賢治と同じように 三峰神社へも登ったそうだ。

 その時は、神主の勧めがあり神殿で「三峰神社参拝の署名」をなさったそうで、今でもそれが三峰神社に納められているはずだと 語った。

 賢治一行も9月5日に三峰神社の宿坊に泊まり、その記録が社務所日誌(日鑑)に残されいたそうだが、そのページは貸し出されたまま行方不明だと萩原先生から聞いたことがある。その複製写真を清六さんが確認できたのだろうか、などと想いを廻らせていた・・・

 賢治一行が小鹿野で一夜を過ごした「寿旅館」が平成20年に廃業したので、それを小鹿野町が購入し、平成23年に改築のための整理を行い館主の「田島保日記」を発見できたことの重要性について熱ぽく語った。この日記が見つかるまでは、色んな視点から調査研究を重ね、その結果に基づいて出してきた結論が、この日記によって実証されたと壇上の萩原先生がにっこりと笑顔を見せた。それを見た私は、思わず席から腰を上げて拍手をしてしまったが、周りを見ると反応が少なかったので再び座り込んでしまった・・・

 この「田島保日記」の大正5年5月から9月にかけての記事に、「地学協会」や神保小虎博士のことや「東京地学協会旅行団」の宿泊等々、数多くの地学調査研究者が寿旅館と係りがあったことが記されている。萩原先生は、他にも多方面にわたる小鹿野町の文化的な事柄が記述されている「田島保日記」の復刻版を出版し、後世に伝えて行くことは重要なことだと強調され、講演を締めくくられた。

 

 次は「嘉内と賢治 100年を越えて」と題し、山梨県韮崎市のアザリア記念会の皆さんによる寸劇であった。このアザリア記念会の中には保坂嘉内の血縁の方も加わっていると聞いた。

 保坂家には賢治から送られた書簡が73通も保管されており、その一通が、賢治が小鹿野から出した旅先で詠んだ9首の短歌が綴られた葉書なのだ。

 更に保坂家には盛岡高等農林時代の「アザリア」という同人誌の中心的人物だった小菅健吉や河本義行の手紙も残されている。この4人の友情の絆を後世に伝えて行くために「アザリア記念会」が発足したようである。ギターを持った人が宮沢賢治役だと紹介された。

 嘉内と賢治が盛岡で出会ってから100年を越えて、二人の手紙のやり取りや短歌、写真、歌を通してその親交の深さを語った。そして保坂嘉内自身が作詞・作曲した「勿忘草の歌」「帰去来」「アザリア」「独哭譜」を歌ってくれた。

 嘉内は賢治に対して文学、芸術、宗教など多くの影響を与えたとされるが、そのことが頷けるような作品群であった。

 

 このように舞台上手の袖に立つ二人の女子高生の司会で舞台は進行していった。そのナレーションも落ち着いて、自信に満ちており大したものだと感心させられた。

 そして紹介を受けたのが、賢治の弟清六氏のお孫さんに当たる宮沢和樹氏であった。

 和樹さんは、登場すると帽子をとり鉄砲を壁に掛け、一連の作法を終えて登壇した。

 和樹さんの立正大学在学中は、私の住む熊谷市の榎町に下宿していたというし、その下宿を探すために清六さんも榎町界隈を歩きまわったと聞いていたので、何だか親しみを感じていた。

 また、今回の小鹿野への招聘には、「実行委員会からの依頼を受けて花巻まで行ってきた。」萩原先生が話していた。

 今日は「祖父清六から聞いた宮沢賢治」と題した講演であった。壇上の和樹さんは、温和な感じでどことなく賢治の優しさを思わせるものがあった。そう感じたのは私だけであったろうか。

 和樹さんは「宮沢賢治」を絶大に尊敬しているらしく、「ここでは、賢治さんと呼ばせてください。」と最初にことわってからお話しを始めた。

初めて聴く宮沢和樹さんのお話は、とても貴重なものばかりでした。賢治関連の本を開くと、どこでも見かけるこの『帽子をかぶり外套を着て、後ろ手で地面を見ている宮沢賢治の写真』は、今も現存する花巻の写真屋さんに頼んで撮影したものだと、祖父から聞かされたそうだ。

 賢治さんはクラシック音楽が好きで当時のSP版のレコードを買い集めていたが、中でもベートーベンが大好きだったそうだ。 

 そのレコードのジャケットに描かれたベートーベンの姿を真似て前の畑を歩き、ここまで来たらシャッターを切るようにと地元の写真屋さんに細かく指示を出して撮らせたものだと祖父清六から聞かされたと和樹氏が話してくれた。

 それから、没後にトランクの内ポケットから発見された黒い手帳に書かれた「雨ニモマケズ」に関しても祖父清六から聞いた話を紹介してくれた。冒頭に書かれた11月3日は、明治節の休日にあたり、当時の公文書と同じカタカナ交じりの体裁で書かれており、これは賢治さんが作品として書き上げたものではなく、自戒と願望の念を込めて自分自身のために書いたものであろうと祖父清六が話していたそうだ。

 そして、宮沢賢治を世の中に知らしめることに大いに貢献したという草野心平さんと祖父清六が、NHKのスタジオへ出かけ行き、そこで録音したという清六さんの肉声を聞かせてくれた。抑揚をつけた清六さんの朗読は、まるでスローテンポの歌を聴いているようであった。

今では、とても貴重な音源だと思った。

 賢治さんの朗読を聞いていた祖父清六は、それと同じように朗読したのであろうが、この朗読の仕方が先入観を与えていけないと言って、それ以来祖父清六は、一切の朗読を止めてしまったとも付け加えた。

 この「雨ニモマケズ」の詩の後半部分が、高村光太郎さんの筆により、詩碑に刻まれ、羅須地人協会のあった下根子桜に敷地内に建立されたと語った。このように高村光太郎は宮沢家と親しい間柄にあったようだ。

 私も岩大在学中に同袍寮の先輩の卒業旅行にお供し鉛温泉泊まった時、帰りに「下ノ畑ニイマス」の札を見てがら、この詩碑を訪れことがある。

 昭和20年4月、3月15日の東京の大空襲で焼け出された高村光太郎氏が花巻に疎開して来て、宮沢家に防空壕を掘るように勧めたそうだ。「そのお陰で賢治さんの作品の多くが、空襲の難を免れ、今日多くの皆さんに愛読されている。」と結んだ。

 この講演が終わると休憩に入った。私は興奮のさめやらぬままに、外に出て一服しながら、萩原先生に和樹さんをご紹介いただけるように頼んでいたことを思い出し、慌てて会場に戻った。一緒きた仲間の席は空であった。

 ぴょっとしたら、この間に仲間たちが和樹さんを紹介してもらっていたのかも知れない・・・一服しに行ったことを後悔した。

 

< 追加記事:宮沢賢治のチェロについて >

 

鈴木 守 さま 

しばらくご無沙汰しました。

 今年は二百十日あたりに台風が多くやってきて、あちこちに被害をまき散らし、うんざりでしたね。

 9月4日に「賢治 小鹿野町来訪100年生誕120年」のイベントがあり、萩原先生と「賢治と歩む会」の仲間とでかけました。その時のブログをアップしましたので、お時間のあるときに覗いてみてください。

 

 それから鈴木さんの「羅須地人協会の真実 -賢治昭和二年の上京- 」をぱらぱらめくっていたら、偶然見つけたのですが・・・それは80頁にある賢治のセロに関するコメントのところです。

それは「鈴木バイオリン製造株式会社の鈴木社長」のコメントで

「賢治が買った当時、最高級品のセロは数えるほどしか作っていなかったのだと思います。・・・私は研究したわけではないんですが、賢治のセロは東京で買ったものだと思います。」とありました。

まず、この鈴木社長と言うのは、私が大好きになったジャズ・ベーシスト鈴木良雄さんの祖父に当たる方だったのです。最近、近くの鈴木良雄さんのライブにはバーボンをもって必ず聴きにいっております。

 また、賢治が買ったセロは、鈴木バイオリンで制作されたものなのでしょうか・・・大変興味のあるところです。 

 

小南 毅 様

 

  こちらこそご無沙汰しておりました。

 そうですね、岩手でも岩泉辺りは大変な被害でした。

 御地は被害ございませんでしたか。

 

 

 ちなみに、このラベルには青色の手書きの文字が書かれているわけですが、それは    1926.K.M.

つまり、大正15年に買った 賢治 宮澤  ということのようです。

 というわけで、たしかに賢治のチェロは鈴木バイオリン社製であり、MASAKICHI SUZUKI(鈴木政吉)が当時の社長だったということです。

 なお、前掲書によれば、この「No.6」はチェロの最高級品であり、当時の価格は170円なそうです。その頃の東京のサラリーマンの給与約二ヶ月分くらいになると思います。 

 それから先ほど、「賢治 小鹿野来訪100年・生誕120周年記念」拝見いたしました。力作ですし、地元の私達よりもはるかに熱い小南さんの思いが伝わってきます。そして賢治が御地でもこよなく愛されているということがよくわかりました。

 それから、小鹿野町が「寿旅館」を購入して今後も大切に保存してゆくという姿勢を知って、花巻に住んでいる私はとても羨ましく思っております。といいますのは、賢治と縁があった「東公園」跡地が、いまどんどん壊されていて、今度はそこにパチンコ店が建つのだそうです。花巻市当局は指をくわえて眺めているだけです。 

それから、送ってくれた若い職員は、立正大学で地質学を学んだそうだが、宮沢賢治が好きで東京出身なのに小鹿野に就職したと話していた。

ということも知り、すごいものだと、そして賢治の影響もまた、と感心しました。 

9月4日、小南さんはどっぷりと「賢治デー」を楽しませてもらったということで、とてもよかったですね。

 

 鈴木 守さま

 

 早速の返信、ありがとうございます。

 これは、私にとって大ニュースですね。すぐに息子にも教えたら、Chinさん(鈴木良雄)にもメールでお知らせした方がいいよと言われました。恐らく、宮沢賢治が祖父が制作したセロを買い求めていたことが知らないと思います。

 

 実は、先日の宮沢和樹さんの講演にも賢治のセロの話がでてきました。賢治の音楽友だちになった花巻女子高校の音楽の先生(藤原)のセロに穴が開いていたのを見て、賢治は自分のセロと交換したお陰で空襲から免れたと、その写真をスライドで見せてくれました。そのセロの弦を張る部材の裏側に“宮沢賢治所有”と釘のようなもので彫り込まれていた。

 多分、これは賢治ではなく藤原先生がかいたものであろうと和樹さんは説明してくれました。更に、賢治が買い求めたものでバイオリンが二つ、ビオラが一つ残っていると言って、その写真も写しだしてくれました。

 これらも、ひょっとしたら鈴木バイオリン製かも知れませんね・・・

 

 このことはブログで割愛してしまいましたが、鈴木さんの情報も含めてブログの追記させていたさきます。

 鈴木さんのメールを引用させていただいても宜しいでしょうか。

宜しくお願いいたします。

                            小南

 

 いつの間にか客席が満席状態になっていた。

すると4つの保育所や幼稚園の子供たちが、壇上に並んだ。それから、それぞれの子供は「セロ弾きのゴーシュ」に登場する動物たちのお面をかぶり、大声で歌ってくれた。これには西国の賢治も嘉内も微笑んでくれたに違いない。ところが、園児たちの歌が終わると客席からお客さんがスーと引いてしまたのでした・・・

 このほかにも、地元や近郷で活動を続けているコーラスグループが、「星めぐりの歌」などの賢治所縁の歌を披露してくれた。

 賢治もまたチェロを習い、羅須地人協会のメンバーと一緒に楽団を作りたかったことは、良く知られた話であり、賢治が主張した「農民芸術概論」のことなどを思い出していた。

 

 「第二幕 デクノボーまつり」は小鹿野町の観光交流館に場所移して行われた。ここは賢治一行が秩父地域の地質調査旅行の際に大正5年9月4日に宿泊した「寿旅館」を小鹿野町が購入し、平成23年に改築のための整理の作業で館主の「田島保日記」を発見した場所である。

 ここでは小鹿野高校の男子生徒が、賢治一行を演じ、地学の先生が関豊太郎教授を演じる寸劇が始まっていた。関教授は、生徒が採取してきた岩石を手に持つと、丁寧に説明してくれていた。

 最早、夕方に近く夕闇が迫って来ていたので、岩石の色艶など、遠目には定かでなかったが、その熱演ぶりは伝わってきた。

   山峡の町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれらもだせり  賢治

の歌が思い出された。

 これは小鹿野文化センターの玄関ホールに展示されていた、賢治一行も「地質調査」に使ったと思われる道具類である。関教授を演じる地学の先生も、腰のあたりのこれらの道具をぶら下げていた。私の父親も一時期、岩木山の麓で硫黄の採掘と精錬をやっていたころがあり、子供の頃クリノメーター等、使う術も知らずにおもちゃ代わりにして遊んだ覚えがある。それでも、クリノメーター岩石の傾きを測るものだと父親から聞かされていた・・

 これは、"ようばけ”や皆本沢などて採取してきた岩石の標本を整理している場面である。こうして整理された岩石標本を寿旅館の館主田島保氏がこれらを梱包し、「生徒一行ノ石ヲモ送レリ」との記録が日記に書き残している。更の日記には、三峰山の宮沢到氏宛てに便宜を図ってもらえるようにとの手紙を生徒塩井義郎氏に託したり、秩父大宮の宿泊予定の角屋旅館にもパン代金弐円を入れた手紙を馬車要吉に頼んだことが記録されいた。これまで明確にできなかった事柄を実証できる物証としての「田島保日記」が発見されたことは、とても重要なことである。

この場面は、賢治がこの旅で詠んだ9首の短歌を葉書に鉛筆で書き記し、山梨の駒井村に帰省していた親友の保坂嘉内宛に投函するところである。この書簡が韮崎市の保坂家に保管されていて、これに小鹿野局の消印9.5 9-12が、唯一小鹿野町に宿泊したという物証とされいた。

 

 両神公民館に勤務しているというセニュール栗原さんの賢治落語「どんぐりと山猫」の場面である。賢治生誕120周年を祝う花巻の宮沢賢治記念館に出かけてきたという熱心な取り組みで、その記念手拭も小道具に使って、楽しい落語に仕上げていた。お礼にもらった「どんぐり」は、升で測るのではなく”どんぶり”で測るのだというのがセニュール栗原さんが生み出したこの落語の落ちであった。

 この落語にも増して両神公民館の栗原さんは「英語で読む宮沢賢治」とかの公開講座を年間100本を目標に多彩な才能を発揮していることを皆野駅まで送ってくれた若い職員から聞いた。

 

 第二幕の司会の方が、待っている観客に配慮してか、落語を定刻より早く始めてしまった。

 ところが次のプログラムの準備が整うまにでの時間が空いてしまった。すると司会者が、萩原先生に”無茶振り”で頼み込んできた。すると嫌な顔一つせずに萩原先生は、立ち上がってマイクを握った。この萩原先生のお話によると、清六さんを秩父を案内して、この寿旅館の2階に一緒に泊まったとき、清六さんが普段は召し上がらないお酒を呑み、朗らかになり歌謡曲を歌ったそうだ。以前にこの歌を賢治が聞いたとき、前半は良いが最後の歌詞が拙いと言った清六さんが語ったそうだ。あの宮沢賢治が、クラシックだけでなく歌謡曲も聴いていたのかと思うとホットする気がした。それから、一緒に旅行してサハリンのホテルに泊まったとき、どうしても食事が口に合わず、萩原先生が非常食として持参したインスタントラーメンと即席のお粥が美味しい美味しいと言って召し上がったお話しなど、清六さんとの楽しいエピソードを紹介してくれた。

 萩原先生は風邪気味であると瀧田さんから聞いていたが、お話しの後半には冷え込んできて鼻水が出てきてしまったように見えた・・・萩原先生は、今晩はお泊りで和樹さんや皆さんとの懇親会に参加されるようですが、風邪をこじらせなければ良いがと願った。

 

 ここでも紙芝居「狼森と笊森、盗森」が上演された。とても息の合った紙芝居で、やはり伝統歌舞伎の町、小鹿野町のご婦人方の演技力は大したもんであった。この紙芝居を見てから、皆野駅まで送ってもらった。送ってくれた若い職員は、立正大学で地質学を学んだそうだが、宮沢賢治が好きで東京出身なのに小鹿野に就職したと話していた。皆野駅7時半の秩父線に乗り熊谷に帰った。

 こうして、今日は、どっぷりと「賢治デー」を楽しませてもらった。