「なめとこ山の熊」読後感想(1)

「淵沢小十郎の鉄砲」

  栗駒の須川温泉の小熊の剥製
  栗駒の須川温泉の小熊の剥製

 平成28年春、秋田県北の八幡平山麓に「たけのこ」を採りに入った人が熊に襲われたというニュースが相次いだ。中には亡くなられた方もあった。

私は、そんな時賢治作品「なめとこ山の熊」に登場するマタギの小十郎を思い出した。この「なめとこ山の熊」にはじめて出会ったのは、初めて参加した第2回「賢治と歩む会」の読書会である。

 上図の左端にナメトコ山の印がある
 上図の左端にナメトコ山の印がある

 そのことを花巻で宮沢賢治の研究を続けている友人の鈴木守氏にメールしたところ、彼が「なめとこ山」へ行った時の写真を送ってくれた。その写真を眺めながら、ネットで調べてみたら、鉛温泉から更に奥に分け入った峰越峠近くで、左図のように岩手県と秋田県の県境近くであることが判った。

 それから「なめとこ山の熊」の感想文を提出したところ、「賢治と歩む会」の会報に連載されることになった。それは一回の会報には納まりきらなかったためであろうが、その感想文をブログに掲載することにした。

1.小十郎の火縄銃

  矢印の所が「なめとこ山
  矢印の所が「なめとこ山

 私は第二次大戦最中に、秋田県の栗駒岳山麓の小安峡温泉から谷間を渡る大きな橋を二つ渡り、車で十五分程下った部落で生まれ育った。私が子供の頃は、その谷底まで曲がりくねった道を下り、小さな橋を渡り、またつづらおりの道を登らなければならなかった。秋の取入れを終えた農家の人は、米や味噌などの食べ物を背負って小安温泉に湯治にでかけていた。この地域はとりわけ雪が多く、年の暮れから長い間、鉛色の雲の下で過ごしていた。私が子供の頃の父は、野良仕事ができない冬の間、『なめとこ山の熊』に出てくる小十郎のように鉄砲を持ってマタギをやっていた。

  江戸時代の火縄銃
  江戸時代の火縄銃

 家には単発式村田銃が三丁と小十郎が使ったのと同じ、ポルトガル伝来と思えるような火縄銃が、座敷のかもいに掛かっていた。この火縄銃はもう使われていなかったが、台座は黒光りしており、銃身は鉄砲鍛冶がハンマーで叩いて作った八角形であったと思う。私はどうしてもその銃に触ってみたくなった。そこで、家の人が留守の時、踏み台を持ち出し、かもいから火縄銃を外して手に取ったことがある。しかし、子供の私が持つと、銃身が重くて狙いを定めることなどできなかった。すがめの小十郎の胴は小さな臼ぐらいあったし、手のひらは毘沙門天の手形くらい大きく厚かったから、この重い火縄銃を軽々と自在に扱うことができたのだ。

 左側が散弾(村田式は真鍮の弾倉)
 左側が散弾(村田式は真鍮の弾倉)

 木枯しが吹き始めると父は夜な夜な鉄砲の手入れを始めた。細い棒の先に油を浸み込ませたぼろ布を付け、銃口から差し込みピストンのように動かして磨いていた。そして玉を込めて撃つ撃鉄(ゆんて)と引き金の部分には、念入りにグリースを塗り込んで錆びつかないように手入れをしていた。

 猟の散弾を造るためには、まず手鍋に入れた鉛を囲炉裏の火で溶かし、鋳型に流し込むのだ。その鉛が冷えたころに鋳型を外すと数珠のように連なった散弾ができる。それを挟みで切り離すのを子供の頃に手伝ったのを覚えている。こうして作った粒々の散弾を丈夫な袋に詰め込んで、グリグリ揉んで切った時のバリを落し丸くするのだ。

 小十郎が熊を打つ時に使うような弾丸は、一つ玉と言って一つ一つ鋳型に流し込んで作る。これは丁度ビー玉位の大きさである。こちらは、空の薬きょうから雷管を外し新しい雷管を込めてから、黒い摺り胡麻のような黒色火薬を計量器で計って薬きょうに詰めて中蓋を押し込む。ここまでは危険な作業なので父は自分でやっていた。しかし、ここから先は子供の私も手伝うことができた。薬きょうに散弾を入れ、ボール紙を丸く切り抜いた蓋をして囲炉裏で赤く焼いた火箸で蝋を流し込み固めるのだ。この散弾にも二種類ほどあり、鳥を打つのは小さい玉、獣を打つのは大きい散弾を使うのだと聞いた。

 でも小十郎が使っていたのが火縄銃だったとすると戦国時代の映画でしか見たことがないが、鉛弾を銃口から詰めたのだろう。それでも雪山へ出かけるときは、小十郎も銃口に藁か何かで箋をして雪が入らないようにしていたのは確かだと思う。

                               (続く)