「なめとこ山の熊」読後感想(5)

淵沢小十郎の鉄砲

5.熊の毛皮と肝

 子供の頃に「かまくら」を作った
 子供の頃に「かまくら」を作った

 昭和四十年二月末、まだ雪深い深夜に風呂の取り灰から出火し、自宅が丸焼けになってしまった。その時、とっさに兄が猟銃と実弾だけは持ち出していたので、火災の中での暴発はまぬがれたが、かもいに掛けてあった小十郎が使った火縄銃と同じ鉄砲は焼失してしまった。この年に私は盛岡の大学に進み、寮生活を始めていた。夏休みには縣命に家の立て直しの手伝いをし、秋には分宿していた家族がやっと一緒に暮らせるようになった。 

 最上段が村田銃、最下段が二連銃
 最上段が村田銃、最下段が二連銃

 次の年の秋に父が盛岡にやって来て兄に猟銃を買ってやるというので、父と一緒に盛岡の銃砲店に出かけた。そこで父は水平二連銃を選んだが、直ぐに持ち帰ることはできなかった。

 この銃の所持許可証の手続きが必要だったのだ。暫くしてから私が代行して所持許可証と猟銃を受け取って学生寮に持ち帰った。それから小さな車でやってきた兄は、喜んで銃を手にしていた。

 射止めた熊の解体
 射止めた熊の解体

 賢治の『雪渡り』にあるように、三月末になると降り積もった雪も硬くしまり、山の奥深くまで猟に出かけることができるようになる。そろそろ冬眠していた熊も穴からのそりのそりと出て来る頃になると、猟師仲間が熊狩りに出かける。

 日蓮宗を深く信仰し殺生することを嫌い、菜食主義を貫いた賢治は、『なめとこ山の熊』でも熊のお肉を食べる場面は描いていないが、私は、春休み帰った時に兄が捕って来た熊のお肉を食べたことがある。お砂糖とお味噌で煮込まれた熊のお肉は、大した臭みもなく上質の油でとても美味しったのを覚えている。

 その時の猟の自慢話を色々と聞かされたと思うが、最早その内容は思い出せないほど昔のことになってしまった。猟の獲物は仲間で平等に分配するのが山の掟だそうであるが、兄は熊の毛皮を譲り受けてきた。その熊の毛皮は兄の自慢の一つであったが、兄の孫が怖がったので仕舞い込んでしまい、それ以来見かけることもなくなってしまった。

 熊の胆
 熊の胆

 「賢治と歩む会」で以前、熊の胆(ぃ)入れに使われていたという袋を見せてもらった。熊の胆(ぃ)は腹の痛いのにもきけば傷もなおるという。「鉛の湯の入口には熊の胆(ぃ)あります」という昔からの看板かかっており、たいそう名高いものになっていたそうだ。小十郎は熊の胆(ぃ)をあのだんなに安く買いたたかれたのだろうか、それとも鉛の湯の入口のお店に売ったのだろうか……。

 一年に一度やって来る富山の薬売りが置いて行く“薬箱”にも確か“熊の胃”と書かれた袋があった。「本物の熊の胃をみんなの家に置いてゆけるほど熊が捕れるはずがない。きっと混ぜ物を煉りこんであるんだ」と言って、父はその熊の胃を信用しなかった。

 私は本物の熊の胆(ぃ)を飲んだことがある。前の日に兄とお酒を飲み過ぎたせいなのか、お腹を冷したせいなのか、とにかくお腹が痛かった。すると兄が大事そうに“熊の胆”を持ってきて、ほんの少し切り取って飲ませてくれた。昔から“熊の胆”はたいそうよく効くという暗示にかかったせいかも知れないが、その苦い苦い“熊の胆”を飲むと、お腹の痛いのがほどなく消え失せてしまったのだ。

 冬場にテッポブジ(鉄砲撃ち)をしていた父はとうの昔に亡くなったし、兄も三年前に他界してしまった。兄と一緒にテッポブジをしていた仲間も八十歳近くなってしまい、寒い冬場に猟をする人は殆どいなくなった。

 

 近ごろ猪や鹿などの農作物被害の特集がよく放映される。秋田の田舎でも家の裏の栗林に熊が下りてきて、栗を食べている姿を見かけるという。野生動物も保護され過ぎると自然のバランスが崩れてしまうのだろうか。

 

 私が子供の頃に見聞きしたことを思い出しながらこの連載を通し書き留めてみた。田舎に帰ってもテッポブジの自慢話を聞かせてくれる人がもういなくなってしまったとのかと思うと何だか寂しい気持ちになってしまう。・・・

                               (完)

「淵沢小十郎の鉄砲」の連載を終えて

 この連載は「第二回 賢治と歩む会」で取り上げられた「なめとこ山の熊」に対する長くなってしまった感想文を連載の形にしてくれた会報編集の滝田さんの手助けで始まった。

 刷り上がった第二号の会報を北海道の友達に送ったら便りが届いた。その便りには、マダギの語源を調べてくれてあった。『マタ』はアイヌ語では冬を意味し、北海道や東北で使われているマタギ(狩人)とは、アイヌ語の『マタ・ンギ(冬に行動する人)』から来ているそうだ(北の彩時紀 「アイヌの世界」 計良光範著)。マタギといえば秋田県森吉山のふもとの阿仁マタギが有名であるが、秋田県南の山形、岩手、宮城の県境にある栗駒山のふもとに位置する山村にもマタギの文化が残っていたようだ。

 秋田の兄が中学を卒業したばかりの頃、家にある一番威力の弱い鉄砲を持たされウサギ狩りのせこにかりだされたことがあった。山の上の方で待ち構えている打ち手に向かってウサギを追いこんでいるとき、兄はウサギと出くわし持っていた鉄砲の引き金を引いた。運よくウサギに命中したらしいが、鉄砲の威力が弱かったので致命傷とはならなかった。トモアシ(後ろ足)を負傷し雪の中でもがいているウサギの後ろ足を掴んで前足で歩かせながら、褒めてもらえるだろうと威勢よくみんなの待つ方へ登って行った。ところが親戚の熊五郎獣医に怒鳴りつけられた。「獣を半殺しのまま生かしておいてはならない。山の神の祟りがある。」と諭されたと兄が話してくれたことがあった。このようにして長老から若者へと伝承されてきたマタギのしきたりを小十郎も守っていたのであろうか。 

 キャンジキと金キャンジキ
 キャンジキと金キャンジキ

 小十郎が使っていたような火縄銃すらない昔から狩りは行われていた。冬の季節が山の上から里に下りてくるころには、木の実もめっきり少なくなってくる。魚釣りの好きな祖父は真っ赤な漆の実のなる枝に釣り糸で罠を仕掛けていた。そこへやってきた雉が足を釣り糸に絡ませ飛べなくなったところを捕まえるのだ。秋が深まり雪の降りだす前には、直ぐ上の兄と一緒に針金でウサギの罠を仕掛けたことがある。それはウサギの通り道を見つけ、その両側に小枝を垣根のように挿しウサギが罠のところを通り抜けるように仕向けるのだが、ウサギはひょいっと飛び越えるらしく中々上手くいかなかったのを覚えている。雪が降ると祖父は「への字」に曲がった枝を二尺ほどに切った「びゃになぐり」を数本作り、それに荒縄を巻いてブーメランのようなものを作っていた。雪が小降りになると祖父は蓑を着て頬被りをし、雪靴に「キャンジキ」を着け、雪ベラを片手に「びゃになぐり」を持って裏山に出かけた。私も後をついていったことがある。真新しいウサギの足跡を探し、ちらっとウサギの姿が見えるとすかさず持っていた「びゃになぐり」をウサギの頭上めがけて投げた。すると鷹の羽音だと思ったウサギは、とっさに近くの木の根元の雪穴に潜り込んだ。祖父はその雪穴を塞ぎ、木の周りを丹念に踏み固めてウサギの逃げ道を封じた。それから逃げ込んだ穴を掘り起こし、腕を肩まで差し込んでウサギを捕まえた。

 写真下段の槍で熊を射止めていた
 写真下段の槍で熊を射止めていた

  秋田の兄の容態が悪くなり、富山の兄も駆け付けてくれたのだが風邪を拗らせてしまい、兄の葬儀当日の明け方に救急車で入院する羽目になった。幸い大事に至らなかった富山の叔父を見舞った姪たちに昔の熊狩りの話をしていたのを聞いた。それは直径二寸位の生木を五尺程に切り、その先端を槍のよう鋭く削ったものがあれば良いというのだ。その杭を担いで熊を探し、熊が襲いかかってくるように仕向けるのだ。熊が襲って来たら、鋭く削った杭を熊のお腹の辺り向けると熊は必至でその杭を手繰り寄せようとして、自らの腹に刺してしまうというのだ。姪たちは大笑いしながらこの話を聞いていた。

 近頃、山の竹の子採りの人が熊に襲われたというニュースを見ると「なめとこ山の熊」の小十郎のことが思い出される。最後に五回にわたる私の連載を読んでいただいた皆様に感謝申しあげます。