第9回 賢治と歩む会 16.10.27

「よだかの星」の読書感想会(鈴木守氏のご指摘により12.9に更新)

  10月27日「賢治と歩む会」で「よだかの星」をテーマに読書感想会が行われた。

でも、私は「よだか」と聞いただけで、遠い昔の子供の頃を思い出してしまう。昭和25、6年頃で戦後の電力事情はまだまだ十分とは言えず、しばしば停電していた。その頃、どの家にも灯油ランプがあり、夕方になると子供がランプのホヤ(ガラスのカバー)の煤を磨いた。新聞紙をクシャクシャにしてホヤの中に押し込み、手を入れて内側についた煤を綺麗に磨くだ。手の小さな子供の仕事であった・・・

 その頃の電力は高価で、電灯も5燭光とか蝋燭よりも少し明るい位のものを使っていた。その頃の親たちは、朝早くから陽が落ちるまで懸命に野良仕事をしていた。そんな中で、宵っ張りの朝寝坊であった私はよく「夜遅ぐまでおぎでるど、よだがにさらわれるぞ。」と脅された。よだがの口は耳まで裂けていて、おっかない(怖い)鳥だと教えられていた。それから、いつしか自分勝手に烏天狗のようなイメージを「よだか」に抱くようになっていた。

 勿論、その頃はよだか怖さに布団に潜り込んだものだが、「宵っ張りの朝寝坊」の癖は、高校時代の同室の友達を毎朝悩ませることなった。この悪習は、社会人になってからも付き纏ったが、この歳になってやっと朝寝坊からは解放さるようになった。

 ところが「よだかの星」を読んでみると、

 よだかは、実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。

 ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。

 から物語が始まり、決して怖い鳥ではなかったのだ。こんなことを思い出しながら読み進むと、最後は美しい文章で締めくくられてた。

 ・・・それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えています。

  しかしながら、この「よだかの星」を読み終えて、賢治は私達に何を伝えたかったのであろうかと考え込んでしまった。この物語は、単なる筋書きだけを追うだけでなく、賢治が何故この「よだかの星」を書いたのか、精神的な面から見てみたいと思った。

 夜空を飛ぶヨダカ
 夜空を飛ぶヨダカ

 この物語も仲間から疎外された「よだか」が主人公となっている。美しいカワセミと宝石のようなハチドリが兄妹だったのに、主人公のよだかは味噌をつけたような醜い鳥だった。仲間の鳥たちから嫌われ、爪はずきにされいるばかりでなく、鷹からは改名を迫られた。自分はなにも悪いことをしていないと思いながらも、鷹からの脅迫に耐えかねて、ついに自分自身を燃やしてお星さまになり、永遠に夜空に輝き続けるという物語である。

 では賢治は、何故こんなにも哀しくも美しい物語を描いたのであろうか・・

 賢治の生家
 賢治の生家

 賢治の生家の家業は、祖父の代から続いて来た質屋と古着商を営んでいた。その店構えは間口7間(境忠一の『評伝宮澤賢治』の 27p によれば、間口五間とあります) もあり花巻地域では、大店として名が通っていた。

 実は、川崎にいた兄貴を頼って上京した浪人時代に私は、お金に困って腕時計と学生服を質草にお金を都合してもらい、田舎に帰った覚えがあるが、お客の気持ちに配慮してか、質屋は人目に着き難い所にひっそりとあったと記憶に残っている。

 賢治の生家では古着商も営んでいたので間口7間もの店構えであったのであろう。また、父宮沢政治郎は(大正 4 年当時)田んぼ5町7反、畑4町4反、山林原野10町を所有し、宮沢マキ(同族)全体では(昭和 12 年当時)198町歩もの田畑を有し、259名の小作人を抱えていたという名士の一族であった。

 しかし、昔からこれだけの田畑を所有していた訳でなく、干ばつや冷害で困窮しきった百姓が、田畑の権利書までも質草(担保)にしてお金を借り、どうしても返済しきれなかった時には田畑で借財を相殺し、自作農から小作人になっていたのであろうと思われる。 

 宮沢賢治の少年時代
 宮沢賢治の少年時代

 こんな背景の中で、賢治と同世代の少年たちは、かならずしも賢治を快く受容れてくれなかったであろうし、そればかりか仲間から陰口をたたかれていたに相違ない賢治は大いなる疎外感を感じていたことであろう。

 少年時代の賢治は、少し年下の子供たちを集めては、石のことや昆虫や草花の話をしてあげていたという。こんなことから「石こ賢さん」と呼ばれるようになったのではなかろうか。 

 宮沢賢治(昭和2年頃の写真)
 宮沢賢治(昭和2年頃の写真)

 さて、そんな賢治が、店番をするようになって体験した質屋業をどう受け止めたのであろうか。その体験は、賢治が大正3年盛岡中学を卒業した後、それに大正7年盛岡高等農林を卒業した後に質屋の店番を体験したようだ。果たして、そこで彼は何を見て何を感じたのであろうか・・・

 質屋というのは品物を仕入れることも、品物を陳列し店先でお客を呼び込むこともなく、ただ黙って店の奥の薄暗い番台に座って、困り果てて大事な質草を抱えて来る近郷のお百姓を待っているだけなのだ。そして、差し出された品物を念入査定し、貸したお金が返済されず質流れになったとしても元が取り戻せるように値踏みした上で、お金と質札を渡し日々利息を採り立てのだ。

 その質札とお金を受け取ったお客の方が、決まって深々とお礼を述べて帰って行く。質屋では、普通の商いのお客と店主の立場が逆さまなのである。

漢和対照 妙法蓮華経(島地大等編)
漢和対照 妙法蓮華経(島地大等編)

 それでは、その頃の賢治の内面はどうであったであろうか。父の宮沢政治郎は、熱心な浄土真宗の信徒であった。父政次郎は、大澤温泉で「夏期仏教講習会」を開き、名のある講師を招いて宗教論や修養論を講話してもらっていたほどである。そんな環境で育った賢治少年もその会に参加していた。

 賢治は盛岡中学を卒業したものの、進路も定まらず神経症にかかっていた。そんな時、父政次郎の信仰の友である高橋勘太郎から新刊の島地大等編「漢和対照 妙法蓮華経」が送られてきた。賢治はその本を読み「如来寿量品第十六」に異様に感動したという。賢治が大いに感動したのは中学在学の頃、盛岡の北山願教寺で島地大等の「夏期仏教講習会」に参加し、島地大等を見知っていたこともあるかも知れないが、こうして賢治は初めて「法華経」に接することになった。

 店番をさせている賢治のノイローゼ状態に手を焼いた父親が、盛岡高等農林への進学を許すと、賢治は猛烈に受験勉強に励み首席で合格したいう。

 島地大等の写真
 島地大等の写真

 盛岡高等農林に進学してからも、熱心に島地大等の講習会に参加し、親友の保阪嘉内を誘って大等を訪ねるほどだったという。賢治が2年生(大正5年)の時には、自啓寮の2階の部屋で毎朝「法華経」を朗々と読誦する声が庭まで響いていたという。

 それから賢治は、嘉内ら学友と同人誌「アザリア」を発行し闊達な文芸稼働を続け、その後の賢治作品へと繋がって行くことになる。その賢治に大きな影響を及ぼした保坂嘉内は「アザリア 5号」に発表した「社会と自分」の文章があまりにも過激であるとして退学処分になってしまう。 

 昔の田仕事(大迫地域)
 昔の田仕事(大迫地域)

 そして、大正7年3月に卒業となるが、家業を継ぐ気のない息子と父親は問答が始まり、この頃から職業の選択問題だけでなく賢治と父親の信仰にかかわる問題まで討論され、その様子が、2月2日付けの父親への書簡として残されている。

 折しも第1次世界大戦最中であり、息子が徴兵されることを心配して賢治の指導教官関豊太郎教授の申し入れに応えて、研究生として学校に残ることになった。

 大迫の橋(土質調査の宿の近く)
 大迫の橋(土質調査の宿の近く)

 研究生としての条件は、稗貫郡の土質調査を行うことで、間歇的に4回にわたり実施された。大迫の石川旅館が定宿だったという。

 その間、病弱だった賢治は体調を崩し、岩手病院で肋膜と診断され休養をとるが、稗貫郡の土質調査をなし終えてから、研究生の職を辞したという。 

 国柱会の創立者田中智学
 国柱会の創立者田中智学

 そして賢治は、大正7年の暮れに再び薄暗い質屋の番台に座り、悶々としながら店番をしていた。そんなある日、日本女子大へ進学していた妹トシの急病の知らせが入り、12月26日の夜行で母イチと共に看病に向かった。

 賢治は熱心に妹トシの看病を続け、朝夕の容態報告の手紙を46通も父親宛てに投函している。その合間に鶯谷にある「国柱会」に出向き、田中智学の講話を聴講していたのだ。トシは2ヶ月程の入院後、賢治の宿舎雲台館で暫くの間静養し、母イチ、叔母岩田ヤス、そして賢治に付添われて花巻に帰った。そのため3学期は欠席となったが、これまでの成績による見込み点が付けられ大正8年に無事に卒業となった。

 鶯谷の国柱会の会館
 鶯谷の国柱会の会館

 賢治は、「日蓮の龍口法難の650年」に当たる大正9年10月23日の夜にお告げがあったと言い、花巻の街を「南妙法蓮華経」を唱えながら明け方まで歩きづづけたという保阪嘉内への書簡が残されている。

 そして賢治は大正9年10月末に「国柱会」に入会し、夜の街中を声高にお題目を唱えながら親戚の家々を門づけして巡り、父政次郎は困り切っていた。

 こうした賢治の実力行使もむなしく、浄土真宗を信奉する父親を折伏(改宗)することできなかった。

アザリアの同人(左上:保阪)
アザリアの同人(左上:保阪)

 しかし、この一連の行動には、もう一つの狙いがあった。それは岩手山に登り「銀河の誓い」を交わし合った親友嘉内を「日蓮宗」に入信させたいと願う賢治のパフォーマンスでもあったのだ。

 大正9年12月2日の保阪への手紙の中で、国柱会に入会したことを「既に私の父母は之を許し私の兄妹は之を悦び、・・・」とまで書いていることからも、如何ほどまでに保阪に「国柱会」へ入会して欲しかったかが伺える。

 賢治は、親友保阪嘉内と共に法華経を信じ共に理想世界を目指して一緒に活動したかったのだ。 その願いも叶わぬままに、ついに決断のその時がやって来た・・・

本郷菊坂(賢治の宿)
本郷菊坂(賢治の宿)

 年明けの大正10年1月23日、店番をしていた賢治の頭上に棚から2冊の御書が背中に落ちて来た。その御書は「日蓮上人遺文集」と御書であった。その時、賢治は時来たれりと意を決し、御書2冊と御本尊を風呂敷に包み、洋傘1本を持ち、花巻発5時12分の上野行に飛び乗った。

 上野駅に着くと真っすぐに鶯谷の国柱会に行き、門をたたいたが宿泊はかなわず、止む無く本郷菊坂の稲垣方の2階に間借りすることになった。丁度この写真の右手にかつて秩父セメント本郷分室の社屋があり、私はそこに勤めていたことがあるが、今では大きなマンションになってしまい出かけることもなくなってしまった。

 賢治は、赤門前の小さな印刷所に勤め、苦学生と一緒に東大生のンートの筆耕校正の仕事で自活しながら街頭布教に従事した。そして国柱会の高知尾智耀の奨めで法華文学の創作を目指し、一心不乱に童話などを書きまくった。

 賢治の妹トシの写真
 賢治の妹トシの写真

 大正10年の4月初めに父政次郎が上京し、賢治を連れ戻そうとしたが叶わず、そこで伊勢神宮、比叡山延暦寺、法隆寺巡詣の旅に誘い出した。特に比叡山延暦寺は、法華宗の開祖日蓮の学んだ学苑であるが、法然の浄土真宗、親鸞の念仏宗、道元の曹洞宗もそこに淵源を持っていたことを賢治に知らしめることで、父政次郎は何かを期待したのかも知れぬ。それも賢治は、そのまま「国柱会」に残った。

 しかし、母校の花巻高女で教諭をしていた妹トシが喀血し9月12日で学校を退職したとの知らせで、賢治は書き溜めた原稿をトランクに詰め込んで帰花した。そして「今度はこんなものを書いて来たんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたという。それから賢治は懸命に妹トシの看病を続けたが、大正11年11月27日霙ふる寒い朝に24歳の若さで逝ってしまう。最愛の妹を失った賢治は、押し入れに首を突っ込んで慟哭したという。

 さて、ここまで「よだかの星」という物語が生まれた背景を推し量ろうとして、賢治に関する本を読みかじって得た知識の断片を繋ぎ合わせて、詩や物語の原稿を詰め込んだトランクを持って花巻へ帰ってくるところまで辿ってみた。果たしてその原稿の中に「よだかの星」が含まれていたかどうかは定かではないが、賢治の胸の内にその構想は出来上がっていたと思う。

 そして私なりにたどり着いた推論は次の如くである。

 やはり賢治があの薄暗い質屋の番台に座って見た質屋家業の体験に、物語の構想の始まりがあったように思える。それは、ヨダカが大きく口を広げて待っているところに羽虫が飛び込んでくるように、質屋の家業も貧困に喘ぐか弱い百姓が、僅かに残っていた大事な物、あるいは困り果てて、まだ肌の温もりの残る子供の肌着すら質草に持ち込み、幾ばくかのお金を借りて行く光景を賢治は見たのだ。物語では、醜い姿としてヨダカは描かれているが、賢治は、貧困の百姓たちから利を得ている質屋家業にこそ精神的な醜さを感じ、独り周りからの疎外感を感じていたのではないだろうか。

 確かに「よだかの星」でも「それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。」と言っているが、「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。」と気づくのである。

 私は「宮沢賢治 その愛」という映画を観た。その場面には、妹トシの友達が身売りしたお金と質札を父親が握りしめて質草の仏壇を取り戻しにやってくるシーンがあった。その様子を見た賢治は、親父の後を追って行き娘が身売りされたことを確かめるのだが、賢治とて何もしてやることはできなかった。

 もし、このようなことが実際にあったとするならば、このことが賢治の心を酷く痛め着けたに相違ない。

 そしてこの体験は「また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。」と物語に描かれいるのではなかと想像した。

 ヨダカが、鷹から改名すように激しく迫られていたように、賢治もまた父政次郎から「邪宗」から改宗するように罵られていたのではないだろうか。

「ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。」と、ついにヨダカは決心するのだ。

 賢治もヨダカのようにお題目を唱えながら親類の家を門つけしてまわったが、それで折伏(改宗)の願いは叶うことはなく、賢治の心は救われることはなかった。

 そして、ついに決意し家出をして「国柱会」の活動に飛び込んで行ったのである。それでも「よだかの星」のように永遠に燃え続けることはなかったが、賢治自身の心の決着はついたのではないだろうか。

 この物語を読み終えて、ヨダカの兄妹として登場するカワセミにどんな時でも賢治の味方をしてくれた心根の優しい母イチの姿が、そしてあんな遠くへいってしまった蜂雀に最愛の妹トシの面影が投影されてくるのである。

 読書感想会の皆さんの感想は、それぞれなるほどと頷かせるものであったが、中でも子供の頃にいじめにあい苦悩を体験した方のお話には説得力があった。彼は打ち負かされるのを覚悟して、ガキ大将に立ち向かったという。そして、その勇気と根性が認められて仲間に入れてもらったと語った。更に、ヨダカはどうして鷹に立ち向かわなかったのか。その「怒り」にはエネルギーが必要で、そこには「修羅」が存在するのではないかと付け加えた。

 萩原先生は、みなさんの感想を聞き終えてから、「よだかの星」の解り難い所を説明して下さった。

 鷹がヨダカに「市蔵」と改名するように迫るのだが、賢治が何故「市蔵」を用いたのか・・・

 萩原先生は、明治維新で廃藩置県を断行しり、改革を行った大久保利通は、東北では悪者扱いされていたことから、彼の若い頃のの名前「一蔵」をその代名詞として登場させたのではないかと語った。興味深かったのでネットで調べてみると、大久保正助と呼ばれていたが、島津久光公から「一蔵」の名前を貰ったようだ。しかし、東北地方で悪者呼ばわりされる直接的な事由は、探し当らなかった・・・

 それから、一枚の資料を配って、こう語った。

 賢治は「よだかの星」を書き終えて、詩集「春と修羅」の詩「小岩井農場」から、この資料の部分を削除したというのである。そして詩の内容に関して詳細に解説してくださったが、その殆どが仏教にかかわる難し熟語で私には良く理解できなかった。

 ただ、予てから「賢治の詩に度々登場する”修羅”」の意味を理解したと思っているのだが、未だに自分の中で納得するまでに至っていない。

 私は、現役時代に手に余るほどの大きなプロジェクトを受注してしまい、チームで取り組んだことがある。チームの力量不足もあって、何度も納期を危ぶまれる状況に追い込まれた。そんな時、チームは結束し徹夜・残業に耐え、私は食料を差し入れたりの後方支援を行った体験がある。そして、何とかそのプロジェクトを完遂し得たとき、チームはそのプロジェクトを振り返り「あの時は、修羅場をくぐり貫けた。」と口々に言った。そんな体験から、私の中の「修羅」のイメージが固まってしまっているのかも知れない。

 

 家に帰り、賢治が「よだかの星」で伝えたかったことは、萩原先生が配られた詩の中に潜んでいると思い詩を読み返したが、コピーが滲んで判読できない箇所があったので、花巻の鈴木さんにお願い送ってもらった。ここにそれを掲載させてもらった・・・しかし、私にはまだまだ理解し難い詩なのである。

『春と修羅』補遺〟

 所収の、〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕

 

    〔冒頭原稿なし〕

 

   堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。

   実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。  

 

   まことにこれらの天人たちの

   水素よりもっと透明な

   悲しみの叫びをいつかどこかで

   あなたは聞きはしませんでしたか。

   まっすぐに天を刺す氷の鎗の

   その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。  

 

   けれども堕ちるひとのことや

   又溺れながらその苦い鹹水を

   一心に呑みほさうとするひとたちの

   はなしを聞いても今のあなたには

   たゞある愚かな人たちのあはれなはなし

   或は少しめづらしいことにだけ聞くでせう。  

 

   けれどもたゞさう考へたのと

   ほんたうにその水を噛むときとは

   まるっきりまるっきりちがひます。

   それは全く熱いくらゐまで冷たく

   味のないくらゐまで苦く

   青黒さがすきとほるまでかなしいのです。   

 

   そこに堕ちた人たちはみな叫びます

   わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか

   堕ちたといふことがあるのかと。

   全くさうです、誰がはじめから信じませう。

   それでもたうたう信ずるのです。

   そして一さうかなしくなるのです。   

 

   こんなことを今あなたに云ったのは

   あなたが堕ちないためにでなく

   堕ちるために又泳ぎ切るためにです。

 

   誰でもみんな見るのですし また

   いちばん強い人たちは願ひによって堕ち

   次いで人人と一諸に飛騰しますから。  

 

                  1922.5.21(大正11年5月21日)

童話「よだかの星」の裏表紙
童話「よだかの星」の裏表紙

 第9回「賢治と歩む会」の終わってからの懇親会に参加した。今回は都合の悪い人が多くて、萩原先生と龍前先生、会長の瀧田さん、私の4人だけで少し寂しかったが、この懇親会では賢治の研究調査で遭遇した珍しい出来事のお話を伺うのが楽しみなのだ。

 私の本、童話「よだかの星」の裏表紙に先生が

「 よだかの星は 小さな かわいい星

  だけど 美しい星 」とサインしてくれた。

今回も物語への理解を深めるために、仏教に関連した難解な熟語など詳細に解説してくださった。

 しかし「よだかの星」によせる萩原先生の優しい気持ちがメッセージに現れていて、何だかほっと安堵した心地になった。

 次回は「どんぐりと山猫」が課題となっているが、今度はどんなお話を伺えるのだろうか・・・

[参考文献]

・宮沢賢治「風の又三郎」精読 大村幹雄著 岩波現代文庫

・宮沢賢治に聞く 井上ひさし著 文春文庫

・兄のトランク 宮沢清六著 ちくま文庫

・宮沢賢治の青春 菅原千恵子著 角川文庫

・「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い 鈴木守著 友藍書房

・宮沢賢治「修羅」への旅 萩原昌好著 朝文社

・宮沢賢治素描 関登久也 眞日本社

・評伝 宮澤賢治 境忠一著 桜楓社