茅ケ崎から鎌倉へ江ノ電に乗って 2017.6.25

 <電気科東京支部大会(2017.6.24)>
 <電気科東京支部大会(2017.6.24)>

 今回の東京支部大会でも44年組の参加者は10名と多かった。やはり飛世さんの吸引力が強く、花巻から鈴木守さんもやって来た・・・

 翌日の25日には鈴木さんを歓迎して江ノ電の旅が計画されていて、11時に藤沢駅集合となっていたが、生憎雨天の予報がでていたので、腰が重かった・・・そんな話をすると渡部さんが飛世さんの所へ泊めてもらえばいいと勧めてくれた。お酒の勢いもあって、その話に乗っかて駅について行くと偶然ホームで大先輩の山崎夫妻にお逢いした。ご夫妻も茅ケ崎に行かれるとのことでしたので、茅ケ崎に移り住んでいるのかと私は思い込んでいた・・・

 たまたま奥様の隣に座り、茅ケ崎までお話させてもらった・・・次々と懐かしい盛岡の話題に飽くこともなくお話を聴いていたが、賢治をことを詳しくご存知だったので、思わず身を乗り出して聴き入った・・・

 茅ケ崎に着いて私は奥様をエスコートしながら飛世さんの後に続いた。どうも茅ケ崎に住む弟さんの所へ行くとのことで、飛世さんがタクシー乗り場まで案内してあげた・・・当初、飛世さんがタクシーに同乗してお送りすると言っていたが、奥様が住所を書いたカードを運転手に手渡すのを見と届けて、ここでお見送りをした。こんなにご高齢なのに東京での電気科総会にお出かけくださったのかと思い、家で名簿を確認してみると昭和24年第8回卒業の大先輩であった。願わくば私もかくありたいと思うのだが、とても自信はない・・・

 先ほどと反対側の駅前の路肩で飛世さんの奥様が待っていてくれた。その車に乗せてもらい、飛世さんのお宅に向かった・・・奥様の手料理を頂きながら随分遅くまでビールをご馳走になった。とめどなく続く話、時間は覚えていないが、二階に案内されるとそこには布団が二つ敷いてあった・・・鈴木さんと枕を並べて眠った。二人共早朝に目が覚め、小雨の中散歩に出かけた・・・

 海の見えるところまで行って見ようと40分程歩き続けたが、土地勘のない二人にはそれは叶わず、7時には出発すると聞いていたので引き返した・・・

 予定通り7時過ぎに奥様の運転する車で出発することになったが、相変わらず小雨がぱらついていて、奥様が返却不要といって雨傘を渡してくれた。

 途中で小倉さんをピックアップして目的地に向かった・・・

 目的地と言っても私には想像することもできなかったが、小倉さんが加わり途端に車内が賑やかになったことは確かだ。

 「ここが加山雄三通りで一本向こうにサザン通りだ」などと教えてくれたが、雨が降っていたので車外の写真は撮らなかった・・・

 天気の良い日など、上原謙が自転車で買い物をしている姿をよく見かけましたよと奥様が付け加えてくれた。やはり茅ケ崎はお洒落な所なのだと思った。

   <烏帽子岩(鈴木氏撮影)>
  <烏帽子岩(鈴木氏撮影)>

 8時前に目指すレストランに到着したが、店内に灯りは見えず開店前であった。

 そこは茅ケ崎海岸を望む洒落た造りのレストランで、加山雄三とかサザンオールスターズの桑田佳祐が、ぴよっこり現れても不思議でないような雰囲気を醸し出していた・・・

 遠くに見える小さな岩が、サザンに歌われた烏帽子岩ですよ教えてくれた。

 私のスマホでは曇天のためくっきりと撮ることができなかったが、鈴木さんのカメラにはしっかり写しだされていた。

 <つばめの雛(茅ケ崎海岸)>
 <つばめの雛(茅ケ崎海岸)>

 暫くすると渡部さんが奥様を伴ってやって来た。彼は開口一番「今日は調子良くない」と言いながら近づいてきたが、手につばめのの雛を乗せていた・・・駐車場の天井の巣から落ちたらしいと言って、カメラを右手に持ち写真を撮っていた。彼は好んで鳥や昆虫の写真を撮り続けているので、どんな絵になったのか楽しみではあるが、これは私のスマホで撮った写真の一枚である・・・奥様方も携帯やスマホで写真を撮っていたし鈴木さんもシャッターを切っていたので、コンテストを開けるかも知れない。

<渡部さん撮影の燕の雛の写真を追加・・・流石に燕の雛の表情が判るね>

「この子を助けてやらねばなるまい」と渡部さんは言い出し、開店前の店員に頼み込んでいた・・・

 若い男性店員が大きな脚立を担いできて、駐車場の元の巣に戻してやっていた。流石に小鳥の好きな渡部さんならではと思ったし、それを黙って見守る奥様にも感心した・・・

 そうこうしている内に、やっと開店を示す門灯に炎が灯された。

 開店前にお客さんが集まってくると困るからと言われ、テーブルに着くことを止められいたが、これで椅子に座って海を眺めることができた。目の前の海岸には、まだ6月末なのに海の家が立ち並び、海開きに向けての準備が進められているようだ。

 海水浴の賑わいを想像しながら、ぼんやりと海を眺めていると子供達の一団が海辺を駆け回っているのが見えた・・・

 その内に飛世さんが、ご推薦のブレーク・ファーストが運ばれてきた。

小倉さん以外の男性はビールを呑んだ・・・朝からビールとは、何だか得をしたような、のんびりとした時の移ろいを実感した。

 久しくこんなにくつろいだ朝食を味わったことがなかった。周りには気のおけない仲間がいて、たわいもないことを語りながら、ゆっくりとビールを呑んだ・・・

  <生涯で一番の朝食(渡部氏撮影)>
  <生涯で一番の朝食(渡部氏撮影)>

瓶詰めの器の中には温泉卵のような半熟の卵がヨーグルトの中に仕込まれ、ほのかにバターの香りがした。

私は、これを正確には説明できないが、初めて味わう食べ物であった。私は常々朝食もご飯を食べているので、今日の朝食は新鮮な感覚であった・・・飛世さん、ありがとう。

 おそらく、私にとって生涯で一番の朝食だと、その時思った・・・

<生涯で一番の朝食(鈴木氏撮影)>

 ゆっくり朝食を食べながら、今日の旅程の相談になったが、中々まとまらなかった。

 雨だから江ノ島水族館を小倉さんが主張するも、水族館は時間がかかり過ぎると渡部さんが反対意見であった。 午後に用事のある飛世さんは中立といったところで決着し難かった・・・

 鈴木さんと私には茅ケ崎と江ノ島辺りに土地勘がないし、お二人について行くだけなのであった・・・


<小倉さんの姿(鈴木氏撮影)>
<小倉さんの姿(鈴木氏撮影)>

 それから11時に藤沢駅で合流することになっていた秋葉さんに小倉さんが電話を入れた。

 いろいろ検討の結果、雨天でもあり秋葉さんは参加を断念した模様である・・・

 そこで飛世さんと渡部さんの奥様の車に分乗して江ノ島まで送っていただくことになり、駐車場へ行くと、今朝渡部さんの手のひらに乗っていたつばめの雛は、親鳥と一緒に蛍光灯の覆いに作られた巣の中イピイ啼いているのが見えた。

 すると飛世さんの奥様が「朝に車を駐車した時、うっかり踏みつぶさなく良かったわ!」と独り言のように呟いていた・・・

 支道から江ノ島へ向かう幹線道路に出ると右手に防風林とも思われる松林が続いた。

その一角を指して「賢治の妹さんが療養していた病院があった所です」と教えてくれた。

 そのことがずーっと気にかかっていて、ブログを書くときに確認してみた。

 24日の東京支部大会で「宮澤賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」という私のDVDを観た柴田先輩が贈ると言った「宮沢賢治全集」が届いていたので、その第14巻賢治の年譜を調べてみた。

<柴田先輩から頂いた宮沢賢治全集>
<柴田先輩から頂いた宮沢賢治全集>

 それによると賢治の妹トシは、日本女子大3年の時に軽い結核で永楽病院に入院し、賢治と母イチが看病に当たった。トシは2ケ月程で退院し、暫く雲台館で休養後、母イチ、叔母岩田ヤス、賢治とともに帰郷し、西鉛温泉の秀清館にて保養したとあった・・・

 そこでトシは、賢治の短歌の清書を行ったという。これが歌校A、歌校Bであろうか?

 それからふと啄木の次女房江のことが頭に浮かんだ。啄木が亡くなってから京子の妹として生まれたが、やはり結核を患い茅ケ崎方面で療養していたことを思い出し、吉田孤洋著「啄木発見」を捲ってみた・・・

 この本は、大学祭での講演をお願いしに吉田孤洋先生を訪ねる際に生協で買い求めた。確かに吉田孤洋先生のサインが「くるしみはひとりで よろこびはみんなで」と書き記されていた。何だか賢治が言いそうは言葉だ。

 孤洋氏は昭和2年の暮れに、啄木の足跡を辿るために北海道に渡った。 

 <啄木の長女京子>
 <啄木の長女京子>

 その時、函館で石川京子(啄木の長女)夫妻と会っている。この時に川村君夫妻、晴子をおんぶした京子さんと房江さんと一緒に立待岬の啄木のお墓を訪ねている・・・その日は12月近い北海道の浜辺とは思えないほど、小春日和の穏やかで風はなく、ピクニック日和だったという。この地は函館の44年同期会でも訪れているので、その景色が浮かんでくる・・・

 その後、函館図書館に保管されている「啄木の日記」の閲覧が許され、昭和4年の暮れ再度函館を訪れている。その頃、京子さんは晴子、玲児の二児の母となっていたが、上京したいという意志を固めていた。

 昭和5年3月10日にはフランスへ留学していた夫の石川正雄氏が帰国し、函館へ戻ってから孤洋氏は自宅近くに借家を探した・・・そして4月27日には京子さん一家と房江さん堀合忠操氏の6人を上野に迎えた。5月3日に市ヶ谷の東洋内科で房江さんの診察を受けたら、肺結核第二期であると診断された・・・5月4日に石川正雄氏と孤洋氏は房江さんを茅ケ崎の南湖院に入院させたとあった・・・ 

こうして入院した房江さんは、再び姉京子さんの家に戻ることなかったである・・・

 その後、吉田家と石川家は50メートルと離れていなかったこともあり、日常的に親しい付き合いが始まったという。

こうした生活を始め、石川正雄氏も啄木研究誌の発行を決意し、啄木と土岐氏の遺志を引き継いだ「呼子と口笛」の発刊に向けて意欲的に取り組んだ。京子さんも多いに張り切り、編集、校正、筆記、発送まで手伝ったという・・・

  <浅草松清町の等光寺>
  <浅草松清町の等光寺>

 京子さんのこうした充実した日々も長くは続かず、12月6日その日は突然やって来た。

 三児目を身ごもっていた京子さんは、6日の朝から風邪気味で寝込んでいたが、やはり肺も病んでいたらしく、男子死産の後に必死の看護と治療も空しく、同日22時8分に24歳の若さで逝ってしまわれた。

 京子さんの葬儀は、父啄木も厄介になった土岐善麿氏の生家、浅草松清町の等光寺で土岐氏の兄土岐月章導師によって執り行われという・・・

<南湖院の第5病舎(愛光室・昭和5年完成)>
<南湖院の第5病舎(愛光室・昭和5年完成)>

 そして編集を終えたばかりの「呼子と口笛」の1月号を全部「石川京子追悼号」に組み替えることになった。京子さんが亡くなって半月も経たない19日に「房江さんが重態」との電話が入ったのだ・・・

 孤洋氏は、新聞に掲載された京子さんの訃報を房子さんに知られていないことを祈りながら、汽車で茅ケ崎の南湖院に向かったそうであるが、函館の祖父堀合翁がわざわざ手紙で知らせて来たというのだ・・・

 <啄木の次女房江>
 <啄木の次女房江>

 房江さんに心配かけまいと南湖院の看護婦さん達も新聞記事のことは伏せてくれていたというが、房江さんは姉京子さんが亡くなったこと知った上で、19日19時20分に19歳で清純な乙女のまゝ息を引き取った。

 啄木は窮地のあまり、金田一京助や宮崎郁雨をはじめとする友人・知人から借財したことは知られているが、房江さんは現金出納帳を付ける程に几帳面な性格であったらしい・・・

 函館からの祖父堀合翁の到着を待ち、21日に甘沼で火葬をすませ、25日に京子さんと同じように土岐氏のお世話で浅草の等光寺で葬儀を行ったという。

 何とも言いようもない悲惨なできごとが続いたものである!

<啄木の長男真一仮納骨(了源寺)>
<啄木の長男真一仮納骨(了源寺)>

 振り返ってみると、啄木24歳で妻節子との間に長男真一が誕生するが、僅か24日の命で長男を亡くし、その時に間借りしていた本郷の新井理髪店(喜之床)のお墓(浅草の了源寺)に仮納骨したという。

 この新井理髪店は私が秩父セメントへ勤めていたころも現存していて、啄木が暮らしていた二階を見せてもらったことがある。

 京子ちゃんが手すりにつかまりながら、表通りを覗いていたという窓は塞がれ、薄暗い板張りの二階は「啄木が暮らして居たころのままですよ」と教えてくれた・・・

 啄木が子どもを亡くした悲しみを詠んだ歌が「一握の砂」の最後に追加掲載されたという・・・

<浅草 等光寺(石川家の葬儀場)>
<浅草 等光寺(石川家の葬儀場)>

 啄木一家がお世話になった土岐善麿(哀果)は、西浅草一丁目(旧松清町)真言宗大谷派の等光寺が生家で、兄土岐月章が啄木葬儀時の導師を努めた。この等光寺では、啄木の母カツ(1912年没)、啄木本人(1912年没)の葬儀が行われ、妻節子は3ケ月後に転地療養先の房州で房江を生んだ。節子は京子と房江を連れて函館に戻り、青柳町で借家住まいをしていたが、冬を越した翌1913年の5月5日に27歳で亡くなった・・・

 啄木の長女京子(1930年没)、二女房江(1930年没)の葬儀も土岐氏の好意により浅草の等光寺で行われたいう。

 また、土岐善麿の告別式も生家の等光寺で(1980年没)行われている。

 <烏帽子岩(絶景ポイントもあるようだ!)>
 <烏帽子岩(絶景ポイントもあるようだ!)>

 後発の飛世さんの車は、江ノ島へ渡る橋の中ほどで渡部さんの奥様が運転する車とすれ違ったが、気づかれなかったようだ。飛世さんは、鈴木さんと私を江ノ島のロータリーで降ろして帰っていった・・・

 まだ小雨がぱらつており、富士山は見えなかったが、多くの観光客が集まっていた。

   <江ノ島 鳥居(渡部氏撮影)>
   <江ノ島 鳥居(渡部氏撮影)>

 昔々、子どもが小さい頃に鎌倉の材木座にある会社の保養施設に海水浴にやって来て、江ノ島まで足を延ばしたことはあった。しかし、その記憶は最早定かではなかった・・・

 今日は雨模様なので眺めは良くないかも知れないが、兎も角展望台まで登ってみようと言うことになり階段を登り始めた。

 階段を登り始めると少し前傾姿勢の小倉さんの足は速かったし、それにも増して日頃から岩手山や早池峰山を駆け巡っている鈴木さんの健脚振りには驚かされた。それでも時々後ろを振り返り、気遣ってくれる様子に感謝した・・・

 この写真は、途中で立ち止まり一息着きつつ私が撮ったものである・・・

<江ノ島の神社参拝(鈴木氏撮影)>

 まだまだ階段が続いた。途中から斜面を迂回する参道に入ると紫陽花が咲いていた。その曲がり角に竹の簀の子が敷いてあり、そこからピィーンと澄んだ音が響いた・・・おそらく、地中に大きな甕が仕込んであるのだろう。

 何と言ったかなあと考えていたら、鈴木さんが「水琴窟ですね!小南さん一首浮かびましたか」と声をかけてくれた・・・その時は息が切れていて、歌を詠むゆとりはなかった。


    <江ノ島駅(渡部氏撮影)>
    <江ノ島駅(渡部氏撮影)>

 山を下りて賑やかな参道まで来ると、多くの猫を見かけた。「江ノ島には沢山の猫がいるが、僕はその名前を全部知っているよ」と渡部さんが冗談ぽく言ったのを思い出していた・・・

 私は橋の袂で一服させてもらい長い橋を渡った。結局、江ノ島水族館には寄らず、江ノ島駅に向かった。

<江ノ電の車窓から(鈴木氏撮影)>

 24日の東京支部大会の朝、NHK BS3で鉄道写真家・中井精也が江ノ電をテーマに写真を撮るドキュメンタリーが放映されていた。電車の窓から手を伸ばすと庭木の枝が掴めそうな所走る江ノ電の景色を思い浮かべながら電車に乗り込んだ・・・

 うねうねと曲がりくねった一般道と同じ路面を電車が走って行くと車が路肩に寄って停車し、電車をやり過ごしているのが見えた。


 紫陽花を観ようと「長谷寺」で下車した。駅前は観光客でごった返しており、一服する空間を見出すことすらできなかった。

 長谷寺へ通ずる道路の歩道には観光客が連なり、長谷寺まで途切れることはなかったし、道路の反対側の歩道には長谷寺から駅へ向かう人々が連なっていた・・・

    <長谷寺の山門(渡部氏撮影)>
    <長谷寺の山門(渡部氏撮影)>

 この山門は撮影ポイントらしく、順番待ちをして渡部さんに撮ってもらった。渡部さんは、うら若い女性グループから撮影を頼まれニコニコ顔でシャッターを押していた・・・

 あまりの人の多さにガイド役の小倉さんも弱ってしまい「どうしよう、どうしよう」と迷っていた。

 何しろ「あじさい路の入場待ち時間 120分」と表示されていた。

一時期190分の表示もなされたので「これでは、紫陽花の花よりも人の数の方が多いでしょう」と顔を見合わせた。それでも折角やって来たのだから、見晴らしのよい本堂まで行ってみることになり、小倉さんが入場券を買いに走った・・・

<長谷寺への登坂(鈴木氏・小南撮影)>

 ここ長谷寺の登りも私にとっては、中々のものであった。学生時代は好んで山登りをやっていたのに、15年ほど前に肺左葉上部を切除し、排気量の25%を失ってしまった。その上加齢も重なり、50CCの古いバイク位の馬力ですぐエンジンが空回りしてしまうのだ・・・兎も角、踏ん張って高台の本堂まで登り切った時には、すでに皆さんの姿は、人混み中に消えて見当たらなかった。 


 一人で本堂でのお参りを済ませ、見晴らし台の方に歩いて行くと皆は名物のお団子をほうばっていた。私も一本もらったが、とても美味かった・・・

 この高台から見渡すと、右側は断崖、正面は海、左手は岬、裏手は山に囲まれた自然の要塞の中に鎌倉幕府が開かれたのかと、一人で納得していた・・・

 本堂の左手にこんもりと紫陽花の花が咲いていた・・・この紫陽花を取り囲むように池ができていて、そこには大きな錦鯉が数匹泳いでいた。その錦鯉を珍しがって外人の観光客が熱心にカメラを構えて覗き込んでいた。 長谷寺の門をくぐる時に手渡された「紫陽花の路」への整理番号は650番代であった。

「紫陽花の路」の入場係員に話しかけてみると、入場まではまだまだ時間がかかるが、向こうのご堂の裏手から少し見えますよと教えてくれた・・・

 そのお堂の裏手の斜面には一面に紫陽花が広がっていたが、上の小路には見物客が連なり、立ち止まって紫陽花に見入っていた。

      <江ノ電 鎌倉駅>
      <江ノ電 鎌倉駅>

 まだ小雨がぱらついていたので、大仏様の見学は取り止め鎌倉までやって来た。アンダーパスを抜けて八幡宮に向かう時に、また和服の若い女性を見かけた。「何かのイベントですか」と渡部さんが問いかけると和装一式をレンタルして楽しんでいるという・・・やはり、長谷寺や鎌倉には和装の女性が溶け込む雰囲気があると思った。家内の実家が呉服屋を営んでいて、随分と繁盛していたころを見て来たが、最近では冠婚葬祭でも和服姿を見ることはなく、せいぜい成人の日くらいになってしまった。。

 <八幡宮の大宮通り参道(渡部氏撮影)>
 <八幡宮の大宮通り参道(渡部氏撮影)>

 私が「お昼は蕎麦を食べたい」というと、小倉さんがテキパキと探してくれたが、駅の近辺は待ち行列ができていた・・・取り敢えず大宮通りを八幡宮へ向かい、途中で左手の路地を入ったところに蕎麦屋を見つけた。ここは昔からのお蕎麦屋さんらしく、美味しい手打ち蕎麦をいただくことができた・・・勿論、ビールで喉を潤しながら、蕎麦をすすった。

 八幡宮の境内に着くと長い石段の左手に2010年の台風で倒れてしまったと報道された大銀杏の根本が痛々しい姿を晒していた。

 だが、翌年春に出た芽から育てられ、この大銀杏のDNAは引き継がれているという。 

 何しろ、樹齢1000年と伝承されてきたこの大銀杏は、八幡宮境内に繰り広げられてきた、幾多の歴史的事件を目撃して来たことであろう・・・。  

 吉野で義経と別れて京へ戻る途中で山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られたという。

 すると静御前が境内に設えられた神楽殿で舞いを舞わされたのをこの大銀杏が見下ろしていたことになるのだが・・・

 この神楽殿では丁度結婚式が執り行われていて、荘厳な雅楽が境内に鳴り響いていた。羽織袴の新郎と綿帽子を被った新婦が腰掛ているのが見えた。

  <鶴岡八幡宮の山門(渡部氏撮影)>
  <鶴岡八幡宮の山門(渡部氏撮影)>

 真っ直ぐに伸びた広い石段も私には中々きつかった。途中で何回か上を見上げながら立ち止まり、そしてまた登りを繰り返して山門の所までやって来た。

 渡部さんが待ち構えるようにしてエビデンスの記念写真をカメラに収めてくれた。

 山門を見上げると手すりに取り囲まれた回廊が見えた。これは眺望を楽しむためでもあろうが、ここから弓矢を射かける目的もあったのではないだろうか、などと考えを巡らせながら暫く見ていた。

 帰りはこまち通りを歩こうとの小倉さんのガイドに従ったが、手に手に傘を持った人混みをかき分けるようにして進んだ・・・とてもお土産屋さんを覗くゆとりはなかった。

 こうして「茅ケ崎から鎌倉へ江ノ電に乗って」の旅は終わった。飛世さん、渡部さん、小倉さん、鈴木さん、そして両君の奥様方、お世話になりまして、ありがとうございました。一日中雨が降ったり止んだりの天気でしたが、飛世さんの奥様が、今朝ペットボトルを入れてくださったビニール袋が雨に濡れた傘を仕舞うのに大いに役立ちました。細やかなお心遣いに感謝いたします。

 <七夕の会(2017年新宿三平)渡部氏撮影>
 <七夕の会(2017年新宿三平)渡部氏撮影>

< 恒例の七夕の会 >

 7月7日、つい先日お会いしたばかりなのに「湘南の旅の余韻」もあり参加した。濱野さんも元気に賑わしてくれたが、彼が「同期会では高級なお酒は注文しませんから」と述懐するので少し気の毒になった・・・

 太田さんは都合で午後にやって来た。相変わらず元気そのもので、「大人の休日」を使って同期を訪ねる旅を続けていると言っていた・・・今回は、秋田の藤島寅夫さんを訪ねたときの様子を話してくれた・・・

 いつもこまめに皆の世話をしてくれる小倉さんが今回は参加されず、お酒やビールのオーダーなど、諸々に於いて小倉さんの有難みを思い知らされることになった・・・小倉さん、いつも感謝していますよ!

 新宿の三平で11時半から制限時間まで宴は続いたが、太田さんが大宮へ行こうといいだした。それに賛同してくれた渡部さんを伴って大宮にやって来た。

 ここ「北海」は以前に大川さんが紹介してくれた居酒屋で、新鮮な魚介類と各地の名酒が売りのお店だ。着いたら丁度17時開店の時間であった。本日入った産直のナマコ、お刺身の盛り合わせ、旬のお魚の焼きものといずれも絶品である。更に美味しい冷酒を頂きながら、話に夢中で焼き魚を食べきれなかったのが心残りであった。太田さんにご馳走になってしまた。感謝しています。

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コメント: 1
  • #1

    コスモス (金曜日, 21 7月 2017 10:46)

    石川啄木の娘さん京子さん、房江さんのお写真は初めて拝見して
    珍しく思いました。遺児となられた靖子さん玲児さんは無事に成人なされたのか気になりますね。
    「呼び子と笛」の編集の様子も興味深かったです。
    これからも啄木の記事は続くのでしょうか?楽しみにしております。