岩大電気科44年同期会 松島 2017.9.24~25

<9月24日11:10 はやぶさ>
<9月24日11:10 はやぶさ>

 仙台での同期会は一緒に行こうと太田さんと約束していた。ただ、どの新幹線に乗るのか決めていなかったので、仙台往復切符と新幹線自由席だけは買っておいた。

 前日、10:35に大宮に着くから11:10のは「やぶさ」に乗ろうと電話した。当日大宮駅で落ち合い、指定席を確保した。

駅中のコンビニでビールと氷結を太田さんが仕入れて新幹線に乗り込んだ。太田さんはしっかりと生ハムを持参していた。

 太田さんに「”やまびこ”だったら、もっとゆっくり呑めたのに」と言われ、目的地に早く着くだけなく、旅を楽しむ方法もあるのかと思った・・・

   <新幹線東京駅からの面々>
   <新幹線東京駅からの面々>

 仙台駅に降りると渡部さんからラインが入った。仙石線ホームの前の方にいるから、そちらに来いと言うのだ・・・二人で急いで仙石線ホームに駆け下りた時には、既に発車した後だった。トイレに寄らなければ間に合ったかもと思いながらも、仕方なく階段を登り東北本線に向かった。運良くほどなく電車が来てくれた。30分ほどで松島に着いた。  そこへまた渡部さんからのラインで、皆でお昼を食べているから来いというので、タクシーで向かった・・・

   <昼食のレストランで合流>
   <昼食のレストランで合流>

 遊覧船乗り場の辺りでウロウロしていると、道路の向こう側に渡部さんを見つけた。渡部さんの後についてレストランの二階に上がると、みんなのテーブルには、生ビールとカキフライ定食が並んでいた。私と太田さんは生ビールと笊うどんを頼んだ。

 東京駅から乗った新幹線組の面々と合流し、久しぶりの再会に、誰が誰と話しているのか・・ガヤガヤ賑やかに昼食を食べた。

 今年も、松島の同期会を計画してくれた湘南ボーイズの三人に感謝・感謝だ・・・

 昼食を終えて表に出た・・・今日は好天に恵まれ暑いくらいだ。ホテルのシャトルバスの時刻までは、まだ大分時間があった・・・

 するとすぐに小倉さんが動いた。「シャトルバスの期間まで、五大堂へいってみよう。ただし、時間に遅れないように」との号令。

  <五大堂を背景に山下さん>
  <五大堂を背景に山下さん>

 五大堂は中学の修学旅行以来だった。

もう60年近くなるというのに、当時のことが割と明確に思い出された・・・昨日の事すら忘れてしまうのに、不思議なことだ。

 五大堂の周りの松はもっと小ぶりで、遠くからでもその輪郭をくっきりと眺められように思う。それもそうだ60年も経つのだから。

     < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会前 by渡部氏
     < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会前 by渡部氏
  <岩大44年同期会 会長挨拶>
  <岩大44年同期会 会長挨拶>

 宴会が始まると大幹事の小倉さんのご指名を受け、年の功で会長を務めている私がご挨拶することになった。宴会前の長い挨拶は嫌われるので手短かにと思ったら、本当に短った。『皆んさん遠くからよくご参加いただきありがとうございました。床の間の額にあるように「一期一会」を大事にし、来年は卒業して50周記念の同期会を盛岡でやろう』と呼び掛けただけであった。

 この件、湘南ボーイズから相談はあったがみんなの前で「50周年記念同期会」などと唐突に発言してしまった・・・でも、考えてみれば44年に岩大を卒業して50年とは、大したものではないか。西方浄土へ旅立たれた仲間もいるが、こうして集まってお酒を酌み交わせるだけでも幸せなことだと思う・・・「一期一会」私は来年も来るぞ!

 私の発言に、すかさず小倉大幹事がフォローしてくれた。「50周年記念同期会」は盛岡でやりましょう。そうすれば太田原先生や盛岡にお住いの恩師にもご参加いただけるし場所は、やはり「つなぎ温泉」が好いかなあなどと、どんどん具体的なイメージに話を展開してくれた・・・流石、湘南ボーイズだと改めて感謝した。

 まずは参加された20名の皆さんには「50周年記念同期会」を心に留めて頂けたと思うが、この場に参加できなかった皆にどうのようにアピールして行くか、皆で知恵を絞り、これまで参加されなかった仲間に出てもらえるような記念同期会にしたいものですね。

 上の写真は、渡部さんに送ってもらった写真である。いずれの方々も好いお顔ですね・・・今年も元気でお会いできて良かった。それだけでも充分に幸せな年齢になって来た。「50周年記念同期会」には、これまで会えなかった多くの仲間との再会が、実現することを願っている・・・

   < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会後 by橋本氏
   < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会後 by橋本氏

 上の写真は、橋本さんに送ってもらった集合写真であるが、お料理をみると宴会も終盤に迫った頃に撮ったものと思われる。最後に飛世さんから「お酒は幹事の部屋にありますますので、お部屋の冷蔵庫は使わないでください。」と案内があった。いつものことながら、飛世さんの気配りで缶ビールなどの飲み物が、幹事部屋の冷蔵庫に入っていた。三々五々仲間が集まって来て、宴会というより雑談会が始まった・・・渡部さんは山下さんからの囲碁対戦の申し入れに応えて出て行き、暫くすると工藤さんがやって来て「小南、うだっこ唄いに行こう」と誘ってくれたのでホテルのカラオケルームに行った。

 そこには武田さん、永山さんに小倉幹事の5人だけだったが、みんなの歌をきくことができた。工藤さん、武田さんの演歌は今年も絶好調であった。昨年は不参加だったが、今もコーラスをやっているという永山さんは、とりわけしんみりと聴かせてくれた・・・小倉さんの十八番「古城」につられて、私は「荒城の月」にチャレンジしてみた。仙台に住んでいた土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲のこの曲は中学の頃に歌った覚えがある。

 思い切って大声で歌ったら「この歌は難しいからね・・・」と永山さんが慰めてくれた。カラオケは1時間で終え部屋に戻った。

 まだみんなでワイワイやっていた。何故かこの男、話題に登場するのだが、渡辺さんが囲碁の対戦から戻ってくると何やら議論が始まった・・・

 それは「靖国神社参拝」の賛否に関して色んな人が意見を言ったり耳を傾けたりしていたが、一人二人と部屋へ戻ってしまい、終いには保守派の桜井さんと太田さん対、会津魂を貫くリベラル派の渡部さんの討論となった・・・

 幹事の小倉さんは隣のベッドで寝込んでしまったし、私も時々参戦していたが、いつの間にか眠ってしまった。

 その後も延延と議論は続いたらしが、その行方を見定めることはできなかった。二人の別れの挨拶では、その議論は来年の同期会に持ち越したようだ。

  <ホテル大観荘正面玄関>
  <ホテル大観荘正面玄関>

 9月25日早朝、外から眺めると大層大きなホテルだった。部屋へのルートもいくつもあって戸惑うくらいだった。朝食のバイキングも混雑し、時間差で食事を摂った・・・

 小倉さんから、食事が終わったら幹事部屋に集合するようにとのおふれが回った。

何時もながら、細部にわたってありがとう。

 まず、小倉さんから今日のタイムスケジュールの説明があった。そして飛世さんから「同期会50回忌」の記念行事に関する提案があった。それは、これまで参加されなかった仲間への呼びかけを込めた「同期会50周年記念誌」を造ろうというものだった。

 これは通常の記念誌のスタイルではなく、「各人の昔と今」を写真入りで紹介する形にしようとの提案であった。この提案にはみんなの賛同が得られ、有志がサンプルを作成し配布することになった。武田さん、小南さん宜しく頼みます・・・

 同期会の場所は、昨夜「つなぎ温泉」まで決まっていたので、私は「愛眞館」を提案しつつ、この前のようにコンパニオンがいたら楽しいだろうなあと密かに思い出していた。

 時期としては、例年通り9月頃好いだろうと言う事になり、更に「大人の休日」が使えたら嬉しいなあという声もあった・・・

 盛岡でやるには、どうしても地元の方々にお骨折りいただくことになるから地元の皆さんにお願いしておく必要があると私が言ったら、鈴木さんが「佐々木さん、宮手さんに伝えておきます。」とそのお役目を買って出てくれた。

 そして佐々木さんは「賢治の真実と露の濡れ衣」という長年にわたっての研究成果の要点をまとめた小冊子を配り、「高瀬露の濡れ衣を晴らすための活動」を支援するという署名を皆に募った。同期の皆は、その主旨に賛同し快く署名に応じていた・・・

 再び小倉さんから「ホテル正面玄関で8時半に記念写真を撮るから遅れないように・・・」との号令と伴に散会となった。

<25日朝 大観荘ホテルロビー 時間調整のひと時>

 秋葉さんは、全国のお城を巡り研究していることは知っていたが、熊谷からほど近い寄居町の鉢形城は名城だと、今回初めて聞かされた。鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしているという。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点だったそうだ。

<鉢形城北条軍と秀吉軍の模擬合戦>
<鉢形城北条軍と秀吉軍の模擬合戦>

 鉢形城が名城であったことは秋葉さんから教えてもらうまで知らなかった。いつだったか牡丹園に家族で牡丹を見に行った時、携帯電話で検索し、鉢形城のイベントに行ったことがあった。会社同僚のお兄さんが鉢形城の事を調べていると聞いたことがあったが、そんな名城であったとは知らなかった。

 こんなに身近なところで歴史に残るような合戦があったとは実感できないが、家内の母方の古くからの農家の土蔵に残る槍や刀などの武具を見せてもらうと、俄かに現実味を帯びて来る・・・恐らく、戦時に駆り出される足軽侍か、あるいは落ち武者の持ち物を没収したものではあるまいかと・・・ 

 ともかく秋葉さんの話を聞いていると、城に纏わるロマンが広がってくる。

    <松島遊覧船乗場>
    <松島遊覧船乗場>

 大観荘ホテル前での記念写真を撮り終えて、工藤さんは青森へ、吉川さんは札幌へと帰り、桜井さんは日立に向かった。武田さんは腰痛のため緩々と車で自宅に向い、浜島さんはレンタカーで観光へと向かった。

 我々観光組は、シャトルバスで遊覧船乗場に向かった。小倉さんと飛世さんの交渉の結果、15名で遊覧船をチャーターすることができた。こうして同期の仲間だけの貸切船に乗り込み、気分よく出航した・・

 天気も好く、波穏やかなれど秋風は、まだ火照りの残る頬に心地よかった。

只々、のんびりと松島の景色を眺めながら、60年も昔に中学の修学旅行でも遊覧船に乗ったなあ、などとその時の感動を想い起こしていた・・・その時は初恋の人も一緒だったので、ときめきも感じていたであろうが、大学時代の同期とでは、そんな感情は生まれて来ないし、少しばかり寂しい気もした・・・

遊覧船のアナウンスを聴きながら、昔見て印象に残った風景を思い出した。それは波に侵食されて岩が大きくアーチ状にくり貫かれた小島である。3.11の震災で破壊されたのか、それとも長い年月の間に自然に消滅してしまったのか・・・船を降りて、遊覧船の関係者に尋ねてみたが、解らなかった。

 遊覧船での松島湾観光を終え、篠原さんと市川さんは車を置いた大観荘ホテルへ向かい、愛車のハンドルを握り長距離のロードを走っていった・・・

<心地好い風と松島の風景>


遊覧船を降りた海岸沿いに広がる景勝地松島の広場は、震災から6年を経てもまだ工事中の標識が目に痛々しい。赤白のバーとコーンで囲まれた中に「奥の細道」と書かれた標識がひと際目に着いた。この辺りにあった松尾芭蕉の「松島やああ松島や松島や」の句碑も津波で流されしまったのであろうか・・・

丁度昼どきで、お食事処を求めて五大堂に方に歩いていった・・・五大堂の入口近くに牡蠣を焼いて食べさせてくれる屋台風のお店があった。我らは道路を渡って少し登った所にあるお店に入った。二階は団体の予約で満席で、三階の方が見晴らしが良いですよと誘われ、けだるい足取りで階段を登った・・・

確かに、湾内を一望できて見晴らし良好な広い畳敷の部屋であった・・・今日は暑かったし、皆はビールを頼んだが、松本さんが男鹿半島での同期会で「私は一生分のお酒を呑み終えたから・・・」と挨拶し、お酒を一滴も呑まれなかったことを思い出した・・・

 何に乾杯したのか分かりませんが、ランチビールは美味しかった。私は昨日の昼食で皆が食べていた牡蠣フライ定食が恨めしかったので「牡蠣づくし定食」を食べた。私と同じものをオーダーした人もいたが、殆どのお品に牡蠣が使われていて、食べきれないほどのボリュームに大満足であった・・・これで松島の牡蠣を食べたぞ!

山下さんが、給仕のお嬢さんに「昔、この辺りは・・・」などと尋ねていたが、50年も前にデイトにやって来た頃のことを尋ねてもと私は心の中で苦笑していた。歳格好からしても、恐らくそのお譲さんは生まれて間もないか、幼子だったろうと思ったからである。

その内に渡部さんに飛世さんからのラインが入ってきた・・・そこには「焼き牡蠣」の写真が添付してあったようだ。「あいつら、焼き牡蠣をたべてるぞ!」といって立ち上がって窓の外を見ていた・・・

 どうも五大堂の入口の屋台でビールを呑みながら焼き立ての牡蠣を食したらしい・・・

昼飯を食べてから瑞巌寺を見たのか、瑞巌寺を見てから食べたのか順序が判らなくなり、ブログを書きながら悩んでしまった・・・

 それなのに60年も前に中学の修学旅行でやって来た時の記憶は断片的ではあるがはっきりと甦ってくる。栗駒山を源流とする皆瀬川の流れに沿って三つの中学校があった。

 私の通った皆瀬中学は二クラス80名弱であったが、稲庭中学、古四王中学は町立で生徒数は2倍以上の中学でした。この三つの中学が国鉄に依頼し修学旅行特別列車を編成して仙台、松島にやって来た。

 その列車の中で事は起こった・・・突然アカペラで歌が車内放送から聞えてきた。その歌声は、初恋の人と思しき彼女が唄うコロンビアローズの「東京のバスガール」であった。引率してきた佐藤俊吉校長がそれを聞いて「小南、行って止めさせてこい。」と私に命じたのだ。私は、その訳など考えず、何両かの車内通路を小走りに車掌室へと急いだ。時々ガタンと揺さぶられながら車内放送のある車掌室に辿り着いた時には、既に彼女の歌は終わっていた・・・

  これは、列車のコンダクターが企画した「列車内のど自慢大会」のようなものだったらしいのだが、何の連絡もなしに始まったことへの抗議だったのかと今にして思う。

 しかし、私が中止を申し入れに行ったことは、果たして好かったのか、それともみんなの楽しみや他の中学校との交流を妨げることになってしまったのかは、未だに良く解らずにいる。

 古稀も過ぎて、初恋の彼女に尋ねみると、遠の昔に忘れいて、私のやったことなど、どうでもよいことであったのかも知れないと思うようになった・・・ 

 道路から20m位入った所に、この瑞巌寺の山門がある。

山門の向こうに杉林が見える・・・

 今日は月曜日で観光客もまばらなようである。

 後ろ手の赤いシャツの人は、高橋さんのようだ・・・

 

 瑞巌寺の本殿までの長い参道が続いている。昔は、うっそうとした杉並木だったように思うのだが・・・

 両側にヘンスが張られているが、今だに震災の復旧作業が続けられいるのであろうか・・・

 この写真に写る後ろ姿は、飛世さんと渡部さんのようだ・・・

 瑞巌寺の拝観受付のある山門の前に阿弥陀如来像があった・・・

 この阿弥陀如来像が津波から瑞巌寺を守ってくれたのだろうか・・・

津波はどの辺まで来たのだろう・・

太田さんは、ここの受付でご朱印帳をお願いして観て廻ったという。

瑞巌寺の本殿前の山門に通ずる参道の左側はパネルで仕切られ、右側は緑溢れる苔に覆われた庭が広がっていた・・・この辺は津波の被害を受けなかったんだろうか・・・

 ザックを背負った後ろ姿は渡部さん、その右で苔むす庭にカメラを構えているのが鈴木さんですね・・・

<木洩れ日に緑の苔が美しく、私もシャッターを切った>

瑞巌寺山門の前に「国宝 本堂」と「国宝 倉裡・宝物館」を指し示す標識があった。

 

私はこの標識を見て、国宝は本堂だけでなく倉裡と宝物館も国宝なのかと改めて思った。

山門前で鈴木さんが杉の木を見上げていた。

鈴木さんは、杉の大木を見上げたアングルで写真を撮っているのを何回か見かけたことがある・・・今回もシャッターを切ったかな?

パネルで塞がれた左側の奥の方に何があったのか、考えながら歩いていった・・・

 中学の修学旅行では、このような洞窟を幾つも観て廻った覚えがある。洞窟は、左側のパネルの奥の方にあるのだろうか・・・

瑞巌寺は禅宗の一派の武士が信仰した臨済宗であり、この洞窟で僧侶が座禅の修業を行ったとの説明を聞いた記憶が残っている。

 山門をくぐると正面に瑞巌寺本堂の大伽藍があった・・・

 前方を歩く鈴木さんは、この広い庭の中で撮影スポットを物色している様子だった・・・

 私も、辺りを見回しお気に入りの場所を見つけファインダーを覗き、写真の構図を決めた。

<瑞巌寺の境内に灯りが燈された燈籠を思い浮かべていた・・・>

 境内で写真を撮っている間に、みんなから遅れてしまい、私は最後に瑞巌寺の本堂に入った。みんなに追いつこうと急ぎ足で本堂の廊下を廻った。

 本堂の裏手で高橋さんや鈴木さんに追いついてほっとした。見どころは沢山あったが、写真撮影は禁止であった。

中学の修学旅行の時は、お坊さんが案内についてくれて、要所要所で懇切丁寧に説明してくれたことを思い出していた。

その中には、座敷は位によって段差が設けられ、正宗公の部屋よりも更に高い所に天子様の御座所が作らているという。

 金箔の上に描かれた見事な襖絵が数々あったが、近寄ってまじまじと観ることも叶わず、撮影も禁止なのでネット上に公開されていた写真を借用した・・・

 江戸時代の初期に伊達政宗公が財の限りを費やし、桧・杉・欅を熊野に求め、京都・根来から名工を集めて5年の歳月をかけて完成したという・・・

廊下を一回りして正面に戻ると、そこに紺の作務衣を着た説明員が居た。私が「おぐりこうすい天井は・・・」と尋ねると、そんなものはありませんと応えたが「木組格子天井」の事ではないかと、広間の天井を指し示してくれた。 私は修学旅行で説明を聞いてから60年も間、こう覚え込んでいたのだ・・・今日訪れることがなかったら、未来永劫そう信じていただろう。

更に「鶯張りの廊下」の事を尋ねると、それは意図して作った廊下ではなくて、たまたま腕の悪い大工が張った廊下が軋んだので、体裁が悪いから「鴬張り」と称したのであろうとのことだった・・・

私は「鴬張りの廊下は、外部からに侵入者を察知するために作られた」との説明を聞き、これまでそう信じていた・・・

今度は高橋さんが「お寺なのに医務室があるのはおかしいのではないかと」と質問した。すると政宗公は江戸幕府の監視の目をくらますために「お寺の建造」としたが、最初から砦として建設されたものだ説明してくれた。政宗にとっては最後に逃げ込む砦だったのかも知れない。

宝物館の方へ行くと小倉さんは見学を終えて、のんびり日向ぼっこをしていた・・・「倉裡は大して見るものはないから、早く宝物館をみてきなさいよ」と勧めてくれたので、先に宝物館へ入った。地下にも広い展示場があり、沢山の宝物があったが、薄暗くてよく見えなかった・・

  <震災前の松島の写真(ネット公開)>
  <震災前の松島の写真(ネット公開)>

 でも、掛け軸と水彩画の展示コーナーで思い描いていた松島の岩礁の絵を発見した・・・左の写真と同じ岩礁をモチーフにした水彩画が数枚あった。ただし、こんなに風化される前のもので、まだ岩の上には数本の松が風情宜しく生えていた。

 中学の修学旅行で観て脳裏に焼き付いている風景と寸分たがわず同じだったことに感動した。宝物館も写真撮影禁止で、その絵をお見せ出来ないのは残念ではあるが、必ず絵葉書の一枚になるほどの名勝だった・・・この写真は、震災前の松島の写真集に掲載されていたので、あの3.11の津波が呑み込んでしまったのかも知れない・・・

 しかし、私の心の中の「想い出の写真集」では永遠に色あせることはない。

<やはり、津波の被害を免れたと思われる緑をたたえる苔が心に残った>

 この写真の被写体4人と撮ってくれた鈴木さんが最後メンバーのようだ。

 私は写真の上手な橋本さんに、この山門の出入口を額縁に見立てて、松島の景色を撮りたねと話しかけたが、果たして橋本さんのカメラは、どんな風景を切り取ったのであろうか・・・

<瑞巌寺の山門を額縁にとシャッターを切ったが・・・>

 瑞巌寺の入口でこんな景色を眺めながら仙石線組と別れ、太田さんと私は塩釜神社を目指し、松本さんは仙台に向けて、シャトルバスで東北線松島駅に向かった。駅に着くとほどなく電車が来て良かった。そして太田さんと私は、塩釜駅に降り立った・・・

 ところが、この塩釜神社は遠かった。

駅で聞いたら15分位で行けるというので歩きはしまた。緩々した坂道を登り切った所に歩道橋あり、太田さんがこれを登り丘の上に出た方が好さそうだ言った。丘の上に出たところで小学生がやって来たので道を尋ねたら、歩道橋を下りて行く道筋を教えてくれた。

 内心、折角登ってきたのにと思いながら、ここからでも行けるかと聞いたら「はい」と応えた。

 この強引さが裏目にでた。比較的広い道路を進んだら大きな建物の手前に校門があった。更に構内を歩いて行くと「県立塩釜高等学校創立60周年記念碑」があった。 裏の通用門近くで女学生に出会ったので尋ねると「私は一度しか行ったことがないから・・」と言うのだ。

仕方なしに坂道を下りて行くと主婦らしき人が出て来たので、また尋ねた・・・懸命に説明してくれたが、結局のところ坂道を下りたところのお菓子屋で聞いてみてくださいと言った。どうも塩釜神社への正規ルートから外れてしまっているようだと気づかされた・・・

坂道をほぼ降り切ったとこで作業中の男性に尋ねると、直ぐしたの広い道路を右手に登って行くと右側に鳥居が見えてくるから「二百二段の石段」を登った所に塩釜神社があるよと教えてくれた。

先程の主婦の方も「二百二段の石段」と言ったが、中学の修学旅行で来た時の大きな石の鳥居は覚えているが、そんな石段を登った覚えはない。

 この歳になると石段を登るのは堪えるが、おそらく中学生の頃には何の苦もなく登り降りできなので記憶に残っていないのだろう・・・

 こうして塩釜神社の鳥居まで辿り着いたのだが、太田さんがそそくさと人影のない方へと消えた。私は木陰の石に腰を下ろし一服させてもらった・・・

 暫くして太田さんが現れた。彼とは大分体力に差がありそうなので先に行ってもらった。そてから、また暫くして石段を見上げる杉木立の間から遥か彼方に小さく空が見えた。そこに佇んでいると、二人連れの若い女性が降りて来たので「私でも登れるかなあ!」と呟いたら、休み休み登れば大丈夫ですよと励ましてくれた・・・ 

 左手で手摺を握りながら、十五、六段登っては立ち止まり、それを繰り返しながら百一段登った所の踊り場で振り返ってみた・・・その時、旅行バックを駅のロッカーに預けてきてよかったとつくづく思った・・・

 そして見上げると、更に百一段の石段が目の前に迫ってきた・・・

 やっと登り切って広場に出たら、堂々とした塩釜神社の山門が見えてきた・・

 ところが、その前に更に二十六段の石段が待ち構えていたのだ。もうここまで来ればいいかとも思ったが、太田さんがまだ境内に居る内に登ろうと思い直し、急いで石段を登って行った。

 太田さんは、既に神社用の御朱印帳も参拝も済ませていた。私は、これだけ頑張ったんだからとお賽銭を奮発し、二礼二拍一礼の参拝をした。それから孫の健康を祈願してお守りを申し受けた・・・

ここの石の鳥居は豊漁だった船主から寄進されたものだと、修学旅行で訪れた時に聞いたことを思い出していた・・・

<二百二段の石段の上から見ると大鳥居も小さく見えた・・・>

私は右手で手摺を握り階段を降りた。

 太田さんは軽快なフットワークで、階段を数えながら降りていたが、突然足を滑らせて転び数段滑り落ちた・・・

太田さんは直ぐに立ち上がった。幸い捻挫すこともなくほっとした。

 手摺を掴んだ方がいいよと勧めたが、そのままスタスタと階段を降り切った。

 私はタクシーで帰ろうと提案したが、タクシーは捕まらず止む無く歩き出した。5分程坂道を登ると来るときに渡った歩道橋があった。やはり小学生が教えてくれたルートが大正解だった。こんな時に「老いては子に従え」などと月並みな諺を思い出していた。たぶん、あの石段の倍の四百五十六段以上の階段を登ったことになったのであろうと思いながら駅に向かって歩いた。

 仙台行きの電車に乗ったら、二人共うとうとと居眠りを始めていた・・・

<渡部氏拉致事件の記>

 仙台駅に着き、まずコンビニでお土産と缶ビール4、冷酒2、生ハム2を買い込み新幹線の自由席に乗った。

 自由席がガラガラでどっかり腰を下ろした太田さんが、この新幹線に飛世さんたちも乗っているはずだ言うのだ・・・

 昨夜、太田さんが自慢げに披露した二冊の御朱印帳を見せられて、私が秩父の札所を一緒に廻ろうと誘うと、渡辺さんも賛同してくれたこと思い出した。

私が渡部さんにラインで電話したが、何回コールしても出なかった・・・

 今度は飛世さんに電話して、渡辺さんに代ってもらい、少し怒った風を装い「何で電話に出ないのか」と迫った。それからこちらの自由席に来るように言いくるめた。渡部さんがやって来たので、自由席が空いているからみんなで合流しようと提案すると、渡辺さんがみんなを迎えにいってくれたが、自分の荷物を持って戻ってきた・・・それから三人で呑みながら、秩父札所巡りの相談をした。その内に太田さんが塩釜神社の階段で滑って転んだ話になり、彼が「お参り前に神様に失礼なことをしたから罰があたったんだ」と呟いた。

 実はあの時、罰があたったのかもと思ったが、口には出さなかった・・・

 暫くすると「渡部を拉致から開放せよ」というラインが入ったが、こうして渡部さんを拉致したまま大宮まで一緒に旅を続けた。お互いに大宮で開放されたので、新聞記事になるようなことには、ならなっかった・・

 

 私は、こんなブログを長々と綴りながら、旅での出来事や中学の修学旅行での事をあれやこれと思い出させてもらい、今一度旅を楽しませてもらった。

 今回の松島同期会を企画し実施てくれた「湘南ボーイズの三人」に感謝いたします。10月10日には「同期会の会計監査無事終了」とのメールが小倉さんから入った。最後の後始末まで本当にお疲れさまでした。

 

<写真提供者への謝辞>

 橋本さん、渡辺さん、鈴木さん、写真を随所で使わせて頂き、ありがとうございました。

 太田さんには、塩釜神社参拝に連れていってもらい感謝しております。

 25日のスマホの万歩計には、12,500歩、約6Kと記憶されていた・・・

 普段はあまりで歩かないので、大いなるエクササイズになりました。

 それから、色々と話のネタしてしまった渡部さん申し訳ない。もし差し障りの箇所がありましたら教えてください。即刻修正・削除いたします。

 最後に「50周年記念同期会」へのご協力依頼の使者をお引き受けくださった鈴木さん、ご苦労をお掛けしますが宜しくお願いいたします。

 

平成29年10月11日   小 南  毅 記