兄の七回忌と義姉の十七回忌 2018.8.11

 秋田の甥から8月11日に「兄の七回忌と義姉の十七回忌」の法要を行うとの知らせがラインで入ってきた…しばらく帰っていなかったし、お二人には随分と世話になったので帰ることにしたが、お盆の時期なので新幹線の席が取れるか心配。

 1ケ月前に緑の窓口に並んで往路を確保、そして4日後に帰路のキップを確保した…

 11日5時に起床し朝食の準備を整え、息子に熊谷駅なで送ってもらい、6時35分の新幹線に乗った…大宮で秋田新幹線「こまち」に乗換え、9時45分に大曲駅に着いた…ここ大曲で新幹線はスイッチバックで方向転換となる…

 大曲駅10時10分発、湯沢行のローカル線に乗り込んだ…3両編成の電車は、早目の帰省客で座席は埋まっていた。電車はのんびりと田園風景の中を走って行った…電車が後三年の役の古戦場にちなんだ後三年駅を過ぎると石坂洋二郎の「青い山脈」の舞台となった横手駅へと続く。   横手市内には石坂洋二郎が暮らした家がのこされているが、横手駅の発車ベルに代わり「青い山脈」のメロデーが郷愁をさそう…

 停車場に「青い山脈」歌流れ 雪壁沿いに兄病む街へ

 7年前の春まだ遅い2012年3月初旬に兄が入院している湯沢の渡辺病院に向かった。その時とほぼ同じ時刻10時54分に湯沢駅に着いた… 

 木造平屋の懐かしい湯沢の駅舎は、今風の建物に変っていた…

 私はエレベータで登りエレベータで降りた。そこに甥が待っていて、お盆の時期で時間調整が出来ず、お寺さんでの法要の経を読んでもらったと詫びた。この時間では、そうなるであろうと私も予想していた…

 でも、お寺さんに忘れ物があるとのことで、甥の長男の運転でお寺さん立ち寄ることになった…

 近頃では通ることのなくなった旧道からの風景を眺めながら、小澤の菩提寺に向かった…もう現役を譲ったという故良三兄貴と湯沢高校で一緒だった大和尚が出迎えてくれた…

 簡単なご挨拶をして、ここから拝ませていただきますと言って玄関先で手を合わせた…それだけでも私にとっては幸いなことだった…

 兄の四十九日法要を迎えた4月26日てもまだ雪が多くてお墓に納骨することが出来なかった…四十九日法要の時は、雪の小山を越えて本堂に入ったのを思い出した…そして法要を終え遺骨をお寺さんに預かって頂くことになった。

 風寒し納骨拒む深雪に預かり給へ木々芽吹くまで

 極めて巧みな運転に、安心して昔馴染みの家並みを眺めながら家に向かった… 父が植えたという家の下手のトドマツの大木が迎えてくれる…子供の頃にはこの松の木に櫓を組んで遊んだ…S40年の2月末に自宅が全焼した時は半分ほど焼け焦げたが、みんなを励ますかのように青い枝を伸ばし続けた…

 甥の長男が大学へ進学したときから、7年経つのかと思い出した…

 仏事済み晴れて門出の孫送る手を振る爺の無きぞ哀しき

 姪と姪の娘、甥の子供らが待ち受けていて、一休みしてお墓に向かった。

 古くから下の墓を見守り続けてきた杉の大木である…子供の頃はこの大杉を左に見ながら、川に水浴び行ったが、川下にダムができて川遊びは出来なくなったようだ…

 大杉の根本に小さな小屋が見えるが、昔はもう少し大きかったような気がする…その小屋にはダミダシ(荼毘出し)の棺を担ぐ道具などが仕舞われていた。祖母、母、父までは土葬であった。土葬では膝を抱えるようにして棺に納められ、輿に乗せられ飾り屋根で覆われる。そしてドン・チャン、ドン・チャンと太鼓と鉦が響くと4人の村人が輿を担ぎ上げ、葬列は墓地へと続く…

 手伝いの村人は、葬列が着く前に埋葬する穴を掘っておいてくれる。

 祖母の時は、私が冬季分校の代用教員をやっていた雪深い2月の葬儀であった…雪を取り除いて凍った地面をツルハシで掘ったでしょう…

 このように土葬の葬儀は大変で、親戚の人は家の中のことを手伝い、一家から一人「村役」として村中の協力がなければ成し得なかったのです…

 母は、大学2年の夏でした…その時は父の叔父・熊五郎獣医の奥様が弔辞を読んでくださったのを覚えている…何と言っても村一番のインテリだったのだと思い出している… 父はS53年の6月17日だった…秩父セメント板橋の社宅にいる頃、危篤の知らせで駆けつけて間もなく意識不明の小康状態が続いた…時々高熱を出したが、獣医の定志さんが持ってきてくれた解熱剤をお尻から入れた…

 それから呼吸停止になると定志さんから教わった人工呼吸で蘇生した…私は父の隣に寝ながら、何度となく人工呼吸を行い、その度に息を吹き返した… 

こうして1ケ月近く会社を休むことになったが、その我儘を許してくれた中川社長には今でも感謝している…葬儀には間に合わなかったが、会社の吉原先輩が弔問に来てくれた。その時も獣医の定志さんがステーキ肉を届けてくれたのを覚えている… 母の弟・富雄叔父が村で最後の土葬になるだろうと言って、ダミダシのスナップ写真を撮らせていたが、その写真が村史に掲載されていた… 

 古里の戸平山も奥宮山も先祖代々の葬式を見下ろしてきたことであろが、父の土葬の葬儀以来、火葬されるようになり若い世代の人々は、古い映画のワンシーンのようなドン・チャン、ドン・チャンと畦道を墓地へと向かう長い葬列を見ることはなくなってしまった…そして埋葬を済ませた女たちは、行きに履いて行ったヘドロ(藁で作ったスリッパ)をそれぞれが道端に脱ぎ捨て、死者の魂が跡を追えないようにするという風習があるが、むしろ亡くなった大切な人への未練を断ち切るための行為だったのかも知れぬと思う…こうした風習も土葬と共に消えて行ってしまった…

 いや、いや、藁のヘドロを作れる人も、そう多くは居ないかも知れない…

 2018年8月11日、兄の七回忌と義姉の十七回忌には、成人した孫たちと娘が遠くからやって来てくれた…

 一ノ関に住む長女は、たまたま義父のご不幸と重なり来れなくなったという…それでも、こんなに好い天気の日にお墓参りができた…

 兄の百ケ日、平成24年6月22日の納骨の日は小雨が降っていた…

 百ケ日兄の納骨に雨降りて 僧衣を濡らし梅雨に入りけむ

 今、私は久久ぶりに古里のお墓の前に立っている…いろんな想いがこみ上げてきた…祖母、母、良三兄、父、義姉、兄とこのお墓で見送った…5人姉弟であるが、一番上の姉も既に亡く、末っ子の私と富山の兄だけが残されてしまったなどと考えていると、いきなり明るい声で『じいちゃんの好きなお酒』と言って、孫娘がバックからワンカップを取り出しお墓に供えた…

 それを見た私は『兄貴の代わりに私が…』と言いながら一口呑んだ。それから煙草に火を点け、一、二服してからお墓に供えてあげた…

そしてお別れにもう一口呑んだ…

『兄の七回忌と義姉の十七回忌』のお墓参りを終え、車3台で小安峡温泉に向かった…昔は湯本と呼ばれた湯治場だった…私が生まれた時、姉は湯本に下宿し小学校の先生をしていたというが、小学3年の頃に秋田県内の観光名所の人気投票が行われ第2位となった…投票には秋田魁新聞の応募券が必要だったようで、役場の観光課に務めていた富雄叔父が湯沢の親戚などに頼んで応募券を集めていたのを覚えている…

それ以来、湯本は『小安峡温泉』と呼ばれるようになった…

呼び名は変わっても昔は、斜面に段々に建てられた宿屋には、自炊のための共同炊事場があり、廊下には『しちりん』が並んでいたものだった…

『兄の七回忌と義姉の十七回忌』の供養は、小安峡の『湯の宿 元湯くらぶ』で行われた…地元で育った甥の息子たちは小安温泉には泊まったことがないと言って喜んでいた…

ここ『元湯くらぶ』は、昔の湯本温泉の手前の沢沿いにあり、改築されたらしく好い雰囲気である… 

 温泉旅館では、 散らばっているスリッパを見かけることがあるが、スリッパは無く靴を棚に置き、そのまま畳とカーペットの敷かれた長い廊下を歩いた…でも、部屋には足袋型の白いソックスが備えてあった…

お風呂の後、他の人の履いたスリッパを履くのは、あまり気持ちの好いものではないが、私はかえって素足で歩く方が気持ち良かった…寒い冬場などは白いソックスのお世話になるが…

 『元湯くらぶ』は人気があり3ケ月前に満杯になるらしいが、男子4名、女子4名の部屋が内廊下で繋がっていた…

 甥は私のことを慮ってか、大浴場に近い部屋をとってくれていた…

 昼どきだったので、荷物を置いてまずは食事の部屋へ行った。

 今日は法事の供養の食事なので、それぞれ好みの飲み物で献杯した。

みんながお腹が空いていたらしく、暫くモクモクと食べていた…

 私と甥は生ビール、冷酒と杯を重ねながら、美味しい料理を完食しましたよ…蕨やぜんまい、キクラゲなどの山菜が程よい味付けであった…

珍しいきのこシシタケ(香茸)の炊き込みご飯は香りが良かった…

 義姉は、私が中学生のころ山形の最上から嫁いできた…その頃、兄は中学でスキーを教えていた…その年湯沢北高うらの御嶽山で中学の県大が開かれ、私と落合分校から4人が出場した…しかし、当時スキーウエアなどはなく学生服であったが、大会の前日に義姉が父の乗馬ズボンをストレートに縫い、裾にゴム紐を付けたスキーズボンに仕上げてくれた。それに婦人物の上着にチャックを取り付けたスキーウエアを作ってくれた…おそらく寝ずに縫い上げてくれたスキーウエアを身に着け、朝早く軽トラックの荷台に乗って出かけた…

 湯沢中学校の教室が控室であったが、みんな立派ナスキー用具なのにビビッてしまう状況であったが、私はエッジの付いた兄のスキーを借りて滑った…

 大会のコースは御岳山のお堂の処から尾根を下り、大きく左にまいて正面の斜面にポールがセットされた…その年は雪不足で尾根のブッシュを切って雪を積み、塩を撒いてアイスバーンになっていた…私は切り株にエッジを引っ掛け大きくタイムをロスしてしまった…当時はとても悔しかった。

 そして湯沢高校に入ると上位に入賞した仙道中の武田さんが同じ控室だったらしく、湯沢中でノルディック選手だった入江さんと一緒に昼休みになると何度もスキー部へ入部を勧めにやってきてくれた…

 こんな昔話を思い出すこともなかったが、小さい頃にスキーを教えた甥は話を聞いてくれた…

 お二人の遺影の前で供養してからお風呂に入った…内風呂は少し暑めだが露天風呂は温めで、のんびりと温泉に浸かった…

 お風呂の後、浴衣を着て散歩に出た…この時期でも山間部の夕方は涼しかった…橋を渡って湯本の方まで行ったが、昔湯治場だったところには大きな建物はなく、高校の還暦を祝った大きな『閣鶴荘ホテル』の建物は閉鎖されていた。もうじき取り壊しになるという…今は小さなグループや家族が楽しめるリゾートホテルが好まれるようだ…

 夜は甥の『還暦祝い』の宴となった…それでも兄と義姉の写真を置きコップにお酒を注いでお二人にも祝ってもらった…

 皆瀬牛も美味しかったが、やはり山菜料理に箸が動いた…バッケ(蕗の薹)味噌は香りが強く、酒の肴に最適だった。ここでもつい昔話となり、叔父と兄が進駐軍が貸与した映写機(ナトコ)を担いで上映会をやっていた話におよんだ…水沢の秋祭りに頼まれて櫓の上から野外スクリーンに映写していたが、二人とも濁酒をご馳走になり『毅、お前やれ…』と言われて見よう見真似で映写機を回した…その作品は市川崑監督の『ビルマの竪琴』であった。私は、二人について回り『ビルマの竪琴』を5回ほど観た…そして高校1年E組で秋の文化祭に演劇『ビルマの竪琴』で参加することになった…演劇は嫌いじゃなかったので演出を引き受けたが、そのときは市川崑監督の映像が蘇ってきて、結構厳しい注文を付けたような気がする…それが好評で横堀商工会の依頼で外部公演もやった覚えがある…この話には、北高で演劇部だった姪がお腹を抱えて笑っていた…

 お昼に沢山いただいたのに秋田のお酒を呑みながら殆ど食べきった…最後は甥と二人きりであったが、兄に供えたコップのお酒を二人で呑みほした。

 部屋で暫く休み、温泉に入った。

温泉は好いなあ…

手足を伸ばし…

疲れがとれる…

露天風呂にものんびり浸かった…

ほろ酔いの肌を風が撫でて行く…

お風呂を出た処の縁台の前に湯沢の七夕の絵灯籠が飾られていた…

夕涼みの女性は艶っぽかった…

縁台に座り暫く眺めていた…

齢をとると夜中に目が覚める…

そしてトイレに行き、冷たいお水を飲み喫煙室で一服する…こんな事を二、三度繰り返し翌朝を迎えた…

六時ころ朝風呂に入り、爽やかな気持ちで朝を迎えた…

つづく