第20回 賢治と歩む会 2019.11.30

水仙月の四日

 今回の作品「水仙月の四日」は、大正十三年十二月刊の童話集『注文の多い料理店』の9作品の一作として発表されたものだ。

『どんぐりと山猫』

『狼森と笊森、盗森』

(おいのもりとざるもり、ぬすともり)

『注文の多い料理店』

『烏の北斗七星』

『水仙月の四日』

『山男の四月』

『かしわばやしの夜』

『月夜のでんしんばしら』

『鹿踊りのはじまり』

 この作品は、前回の「ひかりの素足」につづいて萩原先生が推薦した課題で、いづれも吹雪に遭遇してしまった子供が、雪のなかで遭難するお話である…

  11月末の勉強会の反省会に「劇団シナトラ」原田さんが、「水仙月の四日」の一人芝居を演じるとのことで、萩原先生に色々と質問しておられました…

その発表会には、日程の都合がつかず拝見することはできなかったが、今回また原田さんが朗読を披露してくださることになり、大いに楽しみです…

 年の瀬の土曜の午後、「水仙月の四日」の始まりのように外はひんやりと澄んだ空気であった…

 瀧田さんが、「賢治と歩む会」も今年で5年間継続できたことに感謝いたします。と会を始めた…今回は年末に近いこともあり、都合のつかない方が多いようで参加者が少ないようですが、どうぞ存分に議論を重ねてくだしと付け加えられた…それから「劇団シナトラ」の原田さんに朗読をお願いした…

 原田さんの朗読が始まった…

今回の作品は、「ひかりの素足」のようなきつい方言はあまり使われていないので、原田さんの朗読は滑らかだった…流石だといつも感心させられます…

 賢治の風景描写は、まるで詩の朗読を聴いているようであった…

 少人数だったので、皆さん時間をままり気に掛けず想いを言い合った…色んな疑問も投げかけられたが、「水仙月」とは一体何月なんだろうと意見が多かった…

 確かに雪の降らない関東では12月に咲くが、私の生まれ育った雪国では春咲く花のイメージが強い…

 萩原先生は、熱心に原田さんの朗読を聴いて、それから皆さんの感想や疑問を聴いてくださった…

いつものことであるが、先生はどんな疑問にも丁寧に応えてくださり、しかもご自分の論説や考えを決して押しつけるようなことがなく、恥をかくようなことはないので、どんなことでも安心して質問することができるのです…

 でも、先生の賢治に関する引き出しが多すぎて、一つの質問からお話が弾み、大きく話が展開して行くこともある…私たちはそれが楽しいのですが、そんな時には、時間の関係もあり瀧田さんが軌道修正をしてくださるのです…

 まず、「水仙月」は何月だろうか…に先生ヒントを出してくださった…

 「水仙月の四日」は、短編集の『注文の多い料理店』に所収されいる。1924年(大正13年)12月1日、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元とし、発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっている。

 岩手在住の図画教師だった菊池武雄が描いた挿絵が付された。定価が1円60銭と比較的高価だったためもあり、ほとんどが売れ残り、賢治が引き取ったので1000部が自費出版同然だった… 

 この短編集には、9編が所収されている。

『どんぐりと山猫』

『狼森と笊森、盗森』

(おいのもりとざるもり、ぬすともり)

『注文の多い料理店』

『烏の北斗七星』

『水仙月の四日』

『山男の四月』

『かしわばやしの夜』

『月夜のでんしんばしら』

『鹿踊りのはじまり』

 書名には「イーハトヴ童話」という副題がついていて、その作品葉、執筆月日順の配列は季節を順に追って並べられていることを考慮すると、「水仙月」とが4月ではないかと考えられると解説してくださった…

 それから萩原先生は、フランス革命の時の花暦では、水仙は4月の花で「水仙月の四日」とは4月4日だと賢治は考えたのではないかと…

 そこでフランス革命と水仙のことをネットで調べてみたが、どうもその関係を確かめることができなかった…

 それから、皆さんが話された感想や質問などを振り返りながら、もう一度「水仙月の四日」を読み返し、思いつくままにブログに書き残してみました…

1.物語の舞台

 この物語は「・・・雪婆んごは、西の山脈の、ちぢれたぎらぎらの雲を越えて、遠くへでかけてゐたのです。」から始まる。この「西の山脈」とは秋田と岩手の県境を南北に貫く奥羽山脈を意味し、雪婆んごは奥羽山脈を越えて秋田縣側で雪を降らせていたのであろう。私は秋田側の山間部の豪雪地帯に生まれ育ち、盛岡でも4年暮らし冬場の雪の降り方も体験しているが大いに違うことに気づかされた。

 冬の北風は日本海の湿った空気を運んできて、奥羽山脈に突き当たって湿った雪を降らせ、山脈を越えた北風は乾いた雪を運んでくる。豪雪地帯の山間の部落の子供たちは、一里もの雪道を歩いて小学校に通うことができなくなり、初冬から春まで冬季分校が開設される。私は高校を卒業した年に冬季分校の先生をやったことがあるが、そこには1年生から6年生まで17,8人の生徒がいた。その部落には広い田畑がある訳でなく、冬場は炭を焼いて暮らしていた。この物語の「赤い毛布にくるまつて、しきりにカリメラのことを考へながら、大きな象の頭のかたちをした、雪丘の裾を、せかせかうちの方へ急いで」いた子供も恐らく冬季分校に通っていたに違いない。そんな部落には駄菓子屋などあろうはずもなく、子供はお駄賃のお砂糖でカリメラを作りたい一心で炭を積んだそり押しを手伝って町へ行ったのであろう。

 さて、「大きな象の頭のかたちをした雪丘」は、賢治が愛した「くらかけ山」だという説もあるが、もっと小ぶりな雪丘ではないかと思う。吹雪は普段見慣れた地形でもその姿を変えてしまう。山の稜線や崖の反対側から雪が吹きつけると崖は雪を張りだしマンブ(雪庇)となり流線形の姿になる。子供が越えて行こうしている峠近くのこの象の頭の形をした雪丘も吹雪が造りだした雪庇の一種であろうと思われる。そんなところが物語の舞台になったのだろうと思いながら読み進んだ。

2.やどりぎの赤い実

 「雪童子は、風のやうに象の形の丘にのぼりました。・・・その頂には、一本の大きな栗の木が、美しい黄金いろのやどりぎのまりをつけて立つてゐました。」すると雪童子は、連れていた雪狼にやどりぎの枝を採って来させ、山裾の細い雪道を歩いて来た赤い毛布の子供に投げてやった。子供はびっくりして赤い実の付いたやどりぎの小枝を拾い上げ、辺りをきょろきょろ見回したが雪童子の姿は見えないのである。

 一方、一人取り残されて寂しさに堪えていた雪童子にとって、こうした子供との交流も慰めになったのであろう。このやどりぎの小枝が、その後の雪童子の心の動きを左右して行くことになる。

3.吹雪と雪童子

 雪の降り方は、日本海側と太平洋側で大きく異なると思う。私が育った秋田では、鉛色の雪雲で覆われた空から大粒の雪が真直ぐ地面に落ちてくるような降り方が多かった。そんな降り方の翌朝には、一尺も二尺も雪が積もっていた。

 勿論、秋田でも吹雪くことがあった。乾いた冷たい北風が吹いてくると真青な空から風花のようにサラサラな粉雪が舞い降りてきた。それはたいてい猛吹雪の前ぶれになることが多かったと記憶している。冬の野山を歩き廻っていた賢治にも同じような体験をしていたことであろう。

 「雪童子はわらつて革むちを一つひゆうと鳴らしました。すると、雲もなく研みがきあげられたやうな群青ぐんじやうの空から、まつ白な雪が、さぎの毛のやうに、いちめんに落ちてきました。」と吹雪を予感させる。やがて青空から注いでいたビール色の日光も遠くの方に去り、「そして西北の方からは少し風が吹いてきて、いつかまつしろな鏡に変つてしまつたお日さまの面を、なにかちひさなものがどんどんよこ切つて行くやうです。」と吹雪の前兆を描写している。

 風はだんだん強くなり足もとの雪は、さらさらさらさらうしろへ流れ、もう西の方は、すつかり灰いろに暗くなりと、ついに雪婆んごが三人の雪童子と九疋の雪狼を引き連れて奥羽山脈を越えてやって来た。このことは暗に日本海側で沢山の雪を降らせてきたことを意味している。そんな吹雪の中に立っていると、急に強い風にあおられたり、ぴたりとやんだり、まるで吹雪の息遣いを感じたことがある。賢治は、雪雲を雪婆んごに、荒れ狂う吹雪を雪童子と雪狼に擬人化してその息遣いを表現しているように思われる。

 雪婆んごが雪童子らに掛け声かけ、雪童子らはそれぞれ革の鞭を「ぴゅー」「ぴゅー」「ぴゅー」と鳴らしと雪狼どもが駆け回り吹雪を巻き起こす。

 あぜみの花(馬酔木)(2012/03/26)
 あぜみの花(馬酔木)(2012/03/26)

4.水仙月は何月

 この物語の冒頭二ヶ所に歌が挿入。

「カシオピイア、

 もう水仙が咲き出すぞ

 おまへのガラスの水車みづぐるま

 きつきとまはせ。」

「アンドロメダ、

 あぜみの花がもう咲くぞ、

 おまへのラムプのアルコホル、

 しゆうしゆと噴かせ。」

とあるので調べてみるとイーハトーブ・ガーデンのあぜみの花の写真は3月末には開花していた。

 一方、水仙の開花時期は12月から4月となっているが、物語では「・・・ここらは水仙月の四日なんだから、・・・」とあるので、賢治も地方によって水仙の咲く時期がことなることを意識していたようだ。でもこの物語では『「「あいつは昨日、木炭のそりを押して行つた。砂糖を買つて、じぶんだけ帰つてきたな。」雪童子はわらひながら、手にもつてゐたやどりぎの枝を、ぷいつとこどもになげつけました。』とあり、この場面が日曜日の出来事であることを考慮すると、土曜日も学校がない始業式前の春休みのことであろう。また、細い道の路肩が判らない程の積雪にそりでの運搬するのは大変なので、雪国の人は雪が締まったカタ雪になる春先を待ってそりを出したものです。

そうなると「水仙月の四日」とは、4月4日を指していると考えるのが妥当であろう…

5.雪童子と赤い毛布のこども

 「・・・ひゆう。さあしつかりやつてお呉くれ。今日はここらは水仙月すゐせんづきの四日だよ。さあしつかりさ。ひゆう。」雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪しらがは、雪と風とのなかで渦になりました。どんどんかける黒雲の間から、その尖とがつた耳と、ぎらぎら光る黄金きんの眼も見えます。

 そんな吹雪の中で赤い毛布の子供は、吹き溜まりの雪に足を取られて倒れてしまったところを雪婆んごに見つかってしまった。すると雪婆んごが「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。水仙月の四日だもの、一人や二人とつたつていゝんだよ。」と雪婆んごに命じられた雪童子は、「えゝ、さうです。さあ、死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつつかりながら「倒れてゐるんだよ。動いちやいけない。動いちやいけないつたら。」と云ったが、子供には雪童子の声は聞こえない。子供はまた起きあがらうとしたので、雪童子ゆきわらすは笑ひながら、も一度ひどくつきあたりました。こどもは力もつきて、もう起きあがらうとしませんでした。手をのばして、その赤い毛布けつとを上からすつかりかけてやり「さうして睡ねむつておいで。布団をたくさんかけてあげるから。さうすれば凍えないんだよ。あしたの朝までカリメラの夢を見ておいで。」と言って何べんも雪の布団を掛けてあげた。そして「あのこどもは、ぼくのやつたやどりぎをもつてゐた。」と雪童子はつぶやいて、ちよつと泣くやうにしました。この時、雪童子と子供は通じ合ったのであろう。

 雪の中、父が鉄砲を担いで猟に出かけて吹雪に遭い帰れなくなり、吹雪の夜に木の枝を切り落とし大きな木の根元に身を隠す小屋をつくり一晩過ごした話を聞いたこともあった。また、冬山で吹雪に遭うと雪洞を掘ってビバークすることがあるが、子供の頃にかまくらを掘り一晩過ごしたことがある。雪に囲まれていても入口をムシロで塞げば中はいで風を防げばさほど寒くなかったと記憶に残っている。

 やつと夜明けに近いころ、雪婆んごは「・・・水仙月の四日がうまく済んだ」と言い残し東の方へかけて行きました。そして他の雪童子たちも「早くいつしよに北へ帰りたいね。」と言いながら西の方に帰って行った。それから、雪童子は走つて、あの昨日の子供の埋うづまつているとこへ行き、雪狼に雪を掘り起こさせ目印に赤い毛布が見えるようにしてあげた…

 確かに「ひかりの素足」とは違いほっこりするような物語であった。

やがて春になり北へと帰っていった雪童子は、9月の二百十日頃には「風の又三郎」となって赤い毛布の子供に会いに来たのではないだろうか。そんな想像をすると賢治の作品には、たまらない魅力が感じられるのである。

 

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コメント: 1
  • #1

    コスモス (木曜日, 06 2月 2020 11:17)

    久し振りに賢治さんが戻ってきました。「水仙月の4日」美しい題名、それにしても皆さん、お勉強が長く続いて敬服です。水仙と山の版画がとてもいいです。
    賢治さんの番組、今野敏さんが毎日新聞芸術賞を受賞されました。
    私は見逃しましたがこのブログで拝見して良く内容を伝えていると感心致しました。これからもよろしく。