ふるさとの迎え盆 2018.8.13

   子どもの頃の茅葺の家
   子どもの頃の茅葺の家

今日からお盆だし、兄の三回忌に帰ってから暫く経つので、お世話になったお家にご挨拶させてもらうことにした…

道路を挟んだ「ムゴノエ(向かいの家)」の子供の頃のイメージであるが、何かと助け合って暮らしていた…甥や姪たちは、ムゴノエの二人の娘さんに負んぶしてもらって育った…特に下の娘・りっちゃんは毎日のように家に来て子守をしてくれていた…今では茅葺の家は、建て替えられ大きな家に変り、冬にはスキーで滑り降りて土手に大きな車庫が作られ、除雪機も置かれていた…まず、ムゴノエに出かけて、ばっぱとあばを拝ませてもらった…

午前中だったので、仏壇のお掃除を始めたところであったが、快く迎えてくれた…二つ上の正さんから暫くの間、村のことなど話を聞いた。その話の中で弟の篤君と一緒に小学一年から四年まで担任してくださった黒澤先生がお亡くなりなったと教えてくれた…

 

 りんごデリシャス(写生したりんご)
 りんごデリシャス(写生したりんご)

黒澤先生の家は黒澤商店と言って、村で必要なものは何でも扱ってくれるという便利なお店屋さんでした…先生には叱られることもあったが、随分可愛がってもらった…先生が日直の時に呼ばれて学校に遊びに行った…ある日、先生が家から持ってきたデリシャスリンゴを写生した…描き終えると少し遠くから眺めて、灰色のクレパスでリンゴに点々と影を描き加えるとグーンと立体感が出てきたのを今でも覚えている…そして帰る前にリンゴの皮を剝いて食べさせてくれた…当時デリシャスは珍しかったので美味しかった…

それから数カ月経ち、リンゴの味も忘れかけた朝の全校集会で、あのリンゴの絵が展覧会に入賞したと言われ校長先生から賞状を手渡された…先生が出展してくれたらしいが、最後に先生が手を入れてくれた絵が入賞したことに今でも後ろめたく思い出される…

 奥宮小学校卒業写真(右端:姉、黒澤先生)
 奥宮小学校卒業写真(右端:姉、黒澤先生)

今年は、先生の新盆でもあったので、行ってみると隣の同級生が来ていて、三人の孫にせがまれ、花火を買いに来ていた…

奥から出て来た初老の婦人が私に向かって『あら、先生』と言うので、慌てて『私は先生ではありません』ととっさに応えた。すると婦人は『若畑の冬季分校で習った』と言うので、びっくりしてしまった…そうか…あの頃の五、六年生にいた可愛い娘の面影がご婦人の顔に浮んできた…一瞬にして56年も昔にタイムスリップしてしまったのである…

小学校で4年間もお世話になった黒澤先生をお参りしてから暫くお話をした…

あの時の冬季分校には17,8人の生徒がいたと思う。彼女に『姉弟がいましたよね』と問いかけると『二つ下の弟は、5年前に癌で亡くなってしまった』という…たしかハチザムという家の子で頭の好い姉弟だった…本校でのテストで冬季分校の生徒が負けないようにと頑張ったのを思い出した…

 

甥の嫁さんは、お盆でも家に帰らない人が居ると朝早く介護施設への務めに出かけた…お昼過ぎに甥の娘は車で仙台に戻り、甥は二人の息子を新庄発の新幹線まで送って行った…

 私は一人お昼寝をしたが、緑の草木を渡ってくる風の涼しさに気持ち良く眠ってしまった…

三時過ぎに甥の車で三郎さんの処へ出かけた…私のブログに度々登場する三郎さんは、父方の祖母の姉の孫にあたる方で、村長さんをやったこともあるが、今はこけしを挽いている…三郎さんは若い頃から宮沢賢治のフアンだと兄から聞いていたので、今回も賢治の資料を持参し、ご先祖を参らせてもらった…

これまでも資料や本をお届けすると必ず読後感を手紙にしたためて送ってくれた…時折、三郎さんからのお便りをブログに掲載させてもらって来た…

また、三郎さんは反戦を訴え続けた「むのたけじ」が新聞記者を止めて故郷横手に帰り『たいまつ新聞』を発行した頃から親交があった。

 三郎さんからの手紙には武野先生が「たいまつ新聞」を発行し、その「たいまつ」の読者になって、武野武治の考え方に共鳴し先生のもとに馳せ参じた若者の一人でした。20才前後だったと思います。したがって70年近いつきあいであり、私の家にとまって話し合ったこともあります。』と書かれていた… 

  「カプカプ」お孫さん所属短歌会・会報
  「カプカプ」お孫さん所属短歌会・会報

たまたまお盆で帰省していた孫娘が短歌をやっていて朝日新聞やNHKの歌壇に入選していると自慢気に紹介してくれた…そして孫の所属する短歌会の会報を手渡した…

そこには『カプカプ』と賢治作品『やまなし』に出てくる蟹のオノマトベが会報名に使われていた…

そこで私がお孫さんに賢治や武野武治の話をすると三郎さんは別の部屋から武野武治の次男から『むのたけじの形見』にと送ってもらったとうカシミヤの外套を持ち出してきた…

私が、是非着てみて欲しいとお願いすると真夏なのにオーバーコートを羽織ってくれた…そして『むのたけじを偲ぶ会』では上席に案内され、最初に挨拶させられらことなどを語った…『私の家は別家だから、葬式で上座に着いたことがない』と言った。

 お土産にもらった三郎さんのこけし
 お土産にもらった三郎さんのこけし

こんどは、お孫さんに私とお話しているようにと言い残し、別の部屋へ行ってお土産のこけしを選んできてくれた…この頃は賢治のように一日二食で暮らしてるし、こけしに90才と書いているが、今度は100才と書くのだと張り切っていた…

田舎からの荷物が着くと、息子がお土産のこけしを並べてスマホで写真を撮ってくれた…

 

 熊五郎の息子・定志さん(獣医)
 熊五郎の息子・定志さん(獣医)

それから定志さんの家を訪ねた…

獣医・熊五郎は祖母の弟ですから父の叔父に当たる訳で、熊五郎の息子・定志さんは父とは従兄ですが、亡くなった良三兄の一つだけ年上で、姉弟のようにして育ったと定志さんは語った…今は二人の息子も獣医を継ぎ、のんびり暮らしているようで、私のFBにいち早く反応を返してくれる…

先日、梅干し造りの記事を見て『梅干しを持って呑みに来い』とコメントが入ったので、まだ若い梅干しを持参して訪ねた…

一緒に行った甥と私は、自宅がまる焼けになって、三郎さんが提供してくれた牛小屋を改造した家からそれぞれ入学した。焼け出された時、定志さんに二階に下宿して受験勉強しろと言われなければ、おそらく受験を諦め仕事を探していたことだろうと思う…岩大を卒業して50年経った今、『岩大に入学し奨学金の面接で18番で合格しているから特別奨学金もらえるでしょうと教養学部の担当教授から知らされた。焼け出された時に下宿させてもらったお陰です』と改めてお礼をいった…

こんな事を言えるチャンスもそう多くはないだろうと思いながら…でも、今思うと、あの時はほっとした…当時、国立の月謝は1,000円、三食付き寮費は約5,000円で特奨8,000円でしたかね…これで何とかなると思いながら学生部に家庭教師のアルバイトの紹介を申し込むと、代用教員の経験が効を奏し、直ぐに小学1年生の家庭教師のバイトを紹介してもらった…週3回で月5,500円で夕飯付きだった…時には旦那さんのお相伴で晩酌もご馳走になり、4年間続けることになった…新婚旅行で盛岡に行き泊めてもらったり、教え子の結婚式にも招かれた…

 私が断片的に思い浮かんだ昔話をすると、定志さんがその背景など詳しく話してくれて、おぼろな記憶が蘇り楽しかった…

ある時、『板戸沼の主の大きな鯉を捕ろう。』という企てが持ち上がった…

そして熊五郎が指揮をとり父や兄たちが、バッテリーを使ってダイナマイトを爆発させる仕掛けの実験を家の土間でやっているのを見たことがあると話すと、定志さんがその後の顛末を語ってくれた…

   兄の形見(散弾銃のガンベルト)
   兄の形見(散弾銃のガンベルト)

また、兄が若いころ38口径の威力にない玩具のような鉄砲を持たされ、兎狩りに駆り出された時に兄が兎を射止めたそうだ…しかし鉄砲に威力がなかったので後ろ脚だけを負傷した山兎を前足で歩かせながら、兄は褒めてもらおうと熊五郎の前に連れて行くと『獣を半殺ししてはならぬ…祟りに会う』と怒鳴りつけられたと話していた…定志さんは猟よりもクレー射撃が得意だったようだが、テッポブヂは好きだったので私のブログ『なめとこ山の熊 淵沢小十郎の鉄砲』を紹介した…帰りの新幹線に定志さんから電話がかかってきた…『つよし、ブログ一気に読んだよ。お前が書いたテッポブヂの話、間違いないよ。』と言ってくれた…

 旧道の羽場橋(熊五郎と父が架けた吊橋)
 旧道の羽場橋(熊五郎と父が架けた吊橋)

まだまだ、話は尽きることはなかった…この旧道の谷に吊橋を架けた時の話を富雄叔父から聞いたことがある…熊五郎獣医が先頭に立ち、父や嘉太郎大工に叔父など村の若者を率いて羽場橋を架けることになったが、橋を吊るワイヤーの自重を計算する方法が判らず、校庭にワイヤーを張り実測したという…

この話をすると定志さんは、それは実際の話だが羽場橋には一口では語り切れない苦労話が沢山あると言って口を閉じた… 

 三郎さんと定志さん家の近所
 三郎さんと定志さん家の近所

それから暫くして熊谷の自宅に定志さんから電話が入り、羽場橋の話を始めた…村人たちの要望で羽場橋を架けることになった時、村会議員だった熊五郎が村の人だけで橋を架けると提案し、鉱山で鉱石を運搬するサクドウの経験を持つ甥の父を指名し、木造の橋脚を作る嘉太郎大工や富雄叔父や若者をメンバーに選んだという…しかしながら、橋梁設計の経験者もなく、計算機もハソコンもない時代にアナログの計算尺一本で計算したという…一番困ったのは、橋脚の基礎を固めるコンクリートを練るセメント、砂、砂利、水の混合比率を知る者が居なくて、試行錯誤を繰り返したのだという…その上、当時はセメントは高価だったので、神経をすり減らしたのだと…お前はセメント会社に入ったんだから配合比率を知っているだろうと言われたが、確かに配合設計のプログラムを開発した経験はあるものの、最早遠い昔のことだ…S50年頃には生コン工場の自動化と出荷システム開発のプロジェクト・リーダーとして酷い残業を経験したこともある…今どきだったら、過労死だとかブラック企業だとか取沙汰されかねない勤務状態だったと思うが仲間に支えられて完成できた…定志さんの長い電話を聞いて、それはまるで『プロジェクトX』だねと応えた…

定志さんは、今度ラインを使えるようにするからと言って電話を切った。

 

    秋田の実家の迎え盆
    秋田の実家の迎え盆

朝早くから出勤した甥の嫁さんが帰ってきて、お盆を迎えに行く支度を整えてくれた…また、車に乗ってお墓に向かった…まだ陽が高かったが提灯の燈明に火を移し帰るとき、お墓にやってきた一家にあった。

すれ違おうした時、私の前に立ち塞がった男が『おれ、わがるが』と言った…突然のことで暫く間をおいて『春男さん…』と応えた…おそらく中学を卒業以来60年ぶりの再会であったが、川に向かって坂を下った右手の甚助の春男さんだった…茅葺の大きな家はもうなくなって、春男さんは稲庭で畳屋さんをやっていると聞いていた…兄が写真展に出した『川原で焚火を囲む子供たち』に写っていた頃の面影がどこかに残っているように思え、その写真が脳裏に浮かんできた…

 落ち鮎の簗イメージ(甚助さんと父の簗)
 落ち鮎の簗イメージ(甚助さんと父の簗)

甚助さんは良く家にやってきて呑んでいたが、落ち鮎を捕る簗を作る話になった…川で水浴びをしていた子供たちも手伝って遂に完成した…ところが暫くして二百十日がやって来て大雨が降った…

そして上流で降った雨が大洪水となり、出来て間もない簗が濁流に飲まてしまった…甚助さんが慌てて飛んできたが、どうにもならなかった…落ち鮎を一尾も捕ることも食べることはなかった…

 叔父の家と瀬川商店(実家の近所)
 叔父の家と瀬川商店(実家の近所)

田舎でのお盆は、本当に久久振りだが、ご先祖をお迎えし、甥とお酒を呑んだ…8時頃に母の実家に出かけた…途中で瀬川商店に寄りお酒の好きだった叔父にお供えするお酒を買い求めることにした…そのお店には、姉や兄を負ぶって子守したというテイコじゃっちゃ(主婦)が店に立ち大きな算盤でおつりの計算をしていると聞いたので会いたと思ったが、もう寝てしまったと息子さんが言った…叔父の好きな両関の銀紋を一本買い求め叔父の家に向かった…

 2012年11月5日幸雄さんと鶴峯荘にて
 2012年11月5日幸雄さんと鶴峯荘にて

ご先祖さまにお供え物をしてお線香をたむけたところで、甥の嫁さんから電話が入った…幸雄さんが来てくれたというので、直ぐに引き返した。昨日、幸雄さんがラインを始めたと通知があったので、実家に帰っていると返信したので急な事なのに駆け付けてくれたのでしょう…

毎年、秋田の季節の香りを届けてくれる幸雄さんには感謝している…

幸雄さんは1つ上で姉が担任だったことがある。そして学芸会の『いなばの白うさぎ』で使う白いセーターを編みながら『終わったら、つよしに着せてたる』と母に話しているのを聞いた…そして白うさぎ役の幸雄さんが着ることになったのだが、私は学芸会が早く終わればいいなあと子供心で願っていたことを微かに覚えている…

幸雄さんとは小中と同じ学校でよく一緒に遊んでいたし、湯沢高校でも下宿の引っ越しを手伝ってもらったり、お世話になった…幸雄さんが川崎市立病院のレントゲン技師だったころ川崎の良三兄貴のところで呑んだこともあるが、兄貴が川崎で亡くなった時には、写真を引き伸ばし兄貴の遺影写真を作ってくれた…その写真は、今も実家のかもいに掛けられている…

幸雄さんとは電話でお話しているが、会うのは久しぶりであった…幸雄さんが話してくれた同期の喜寿の会に参加した人の中に北条スミオさんがいた。このスミオさんが子供の頃は小柄ですばすこかった…私は小学校へ入学したとき、式が始まる前にスミオさんと取っ組み合い喧嘩になってしまった…私より体が小さかったのでスミオさんを抑え込んだのだが、私の服を掴んで力一杯引っ張った…バチバチと音がして入学式に向けて買ってもらった学生の真新しい5つのボタンがものの見事に床にこぼれ落ちた…片手で服を押さえながら入学式に並んだ…こんなことをよく覚えているもんだと幸雄さんは、笑いながらスミオさんは中学卒業後に航空自衛隊に入り立派になりましたよと話してくれた…幸雄さんから田舎での出来事などの話を聞いている内にあっという間に1時間ほど経ってしまった…

 接近した火星を見上げた(写真は東京の夜空)
 接近した火星を見上げた(写真は東京の夜空)

幸雄さんが帰った頃には9時を回っていたが、明日には帰るので私だけ再び叔父の家へ行った…

お盆なので憲君の二人の兄弟が家族連れで帰省していた…気を使ってくれたのか座敷のテーブルで両関を2,3杯ご馳走になった…なにせお酒好きの憲君がすい臓の手術をしたばかりで、麦茶で付き合ってくれた…もう時間も遅かったので失礼した…

 外にでてみると肌寒いくらいで、ほろ酔いの私には心地よかった…歩きながら三郎さんのお孫さんが『星空が綺麗で家の電気を消してみんなで眺めた。火星が近くに見えた。』と言っていたのを思い出し、途中から左に入り、廃校になってしまった小学校のグランドに向かった…周りには人家も少なく真っ暗だった…使われなくなったグランドには草が茂っていたが、子供の頃に走り回った土の感触を確かめるかのように足で探りながグランドの中ほどまで進み、夜空を見上げた…四方が山々で囲まれけっして広いとはいえないが、熊谷では見ることができないような、澄んだ夜空に少し感動した。

天体には詳しくないが、火星とおぼしき褐色の大きめの星が瞬いて見えた…

暫くの間、古里の夜空を懐かしく見上げていた…それから、ゆっくりと家に帰った…玄関に入った途端に『どこへ行っていたの…』と声がした…見送りに出た憲君が、私がふらりと横道に入るのを見ていたらしく、心配して電話をかけてきという…そこまで気にかけてもらい、本当に有難いことだ…

こんなに心地よい故郷を明日には去るのだと思うと寂しさがこみ上げて来た…

つづく