富山の兄との思い出を辿って

令和元年9月4日 他界

 富山の兄貴と苗場スキー場にて
 富山の兄貴と苗場スキー場にて

 9月4日早朝6時に入院中の兄が危篤状態に陥ったとの電話が入った…1年程前から入院し、これまでも何度か危篤状態を乗り越えてきたので、持ち直してくれることを願った…

 その日は息子の検査結果を聞くために熊谷総合病院に出かけ、診察を待っていると11頃に息を引き取ったとの連絡が入った…いよいよその時が来てしまったのかと自分自身に言い聞かせながら、葬儀の日取りなどの連絡を待つしかなかった…やっと診察となり次の検査日程が決まった16時過ぎに兄の孫娘からラインで葬儀日程の写真が送られてきた…それを見て5日朝の新幹線で行くことにした…

 朝9時3分の新幹線で高崎乗換えで11時半頃には富山到着予定である…新幹線に乗ると自ずと兄の事が思い出された…今年の6月、友達の車で富山を通った時、兄が入院している病院に立ち寄ってもらった…もう耳が遠く会話は出来なかったが、看護師の問いかけに『昭和7年11月生まれ』とはっきり応えた…

 これが兄の言葉を聞いた最後の声となってしまった…

1.恵二兄貴の思い出を辿って

  想い出の岩木山
  想い出の岩木山

 私は昭和18年生まれだから11歳も齢の差があり、兄の少年の頃は知らないが、結構やんちゃで笑い話になるような悪戯を聞いことがる…

 齢の差もあり兄弟喧嘩をしたこともなく、可愛がってもらった記憶だけが残っている…私が子供の頃、父が岩木山の嶽温泉近くで硫黄の採掘と精錬を行う鉱業所の所長をしていて、兄は父を助けて働いていた…私が小学3年の夏休みに学校務めの姉と兄が、嶽温泉の事業所まで連れてきてくれた…初めての汽車と長旅に大いに興奮した…

 嶽温泉の看板
 嶽温泉の看板

 これは嶽温泉の看板ですが、当時はこんなに立派なものではなかったように思う…薄っすらと覚えているのは、大きな広場があり、その向こう側に湯治場としての温泉宿があったようだ…

 この嶽温泉の村祭りに相撲大会が開催されたそうで、一緒に来た村の若者と相撲大会に出た次男の兄が勝ち進んだことを父が自慢げに話してくれた…

  岩木山麓の嶽温泉
  岩木山麓の嶽温泉

 その兄に連れられて温泉の共同浴場に行ったが、木造の大きな湯舟にびっくりしたのと兄の逞しい体つきが心の奥底に残っている…

 翌日には硫黄の採掘現場を見学したら父が連れてきたら同じ村の人が何人かいたて、そんなに遠くへきたような気がしなくなった…硫黄の精錬所で叔母(光子)の旦那(トッチャン)がボイラーマンしていたが、事故で焼けどを負い、その時はいなかったようなきがする…

 岩木山登山
 岩木山登山

 朝から岩木山に登るということになり、岩木山滑降競技に出ているという女性のアルバイトの方をガイドに着けてくれた…登って行くと霧が出て来て寒くなった…すると長男の兄がお腹に新聞紙を巻いてくれたのを不思議と覚えている…山が雲に覆われたのを見上げて心配になったのか、父が息を切らしながら登ってきた…当時は、登山の装備もなく、せいぜい水筒とおにぎりを持っただけで、岩木山を登り切ったものだ…

  岩木山神社の鳥居
  岩木山神社の鳥居

 帰りは次男の兄が弘前まで送ってくれた…嶽温泉から下って岩木山神社に参拝し、この大きな石の鳥居に驚いた…

 恵二兄は、こんな話をしていた…今も唄い継がれいる『りんご追分』が主題歌となった1952年公開の『りんんご園の少女』の撮影がここで行われ、鉱山を休みにして皆で見に来たそうだ…美空ひばりは、まだ小さな子供だったと…

 私も後に美空ひばりの『あの丘こえて』を観たので学帽の鶴田浩二とひばりが馬に乗っているシーンから恵二兄が見た当時のひばりを想像できた…

  弘前城
  弘前城

 弘前でお城を案内してくれた…どこで見たのかはっきりしないが、扇型の弘前ねぶたを見たような気がする…

 私は、お城近くのグランドでやっていたソフトボールを見て、ピッチャーが腕を回して投げるボールの速さに驚嘆した…そのことを今でも鮮明に記憶しているのも不思議に思える…

 そして弘前駅から汽車に乗った…

 干拓前の八郎潟
 干拓前の八郎潟

 帰りの汽車の窓から八郎潟を見たような気がする…社会の教科書で琵琶湖の次に大きい湖だと教わった頃の話だ…

 ある駅でポケットの小銭を数えてアイスクリームを三つ買った…私ができるせいぜいのお礼の積もで姉と兄に渡すとけな気に想えたのか、喜んで食べてくれた…奥羽線の十文字駅で降りてバスに乗って家に帰った…大旅行だった… 

あきた
 猟犬・秋田犬と土佐犬の子犬(本物は全身茶)

 冬には籾殻に入ったりんご箱が届いたが酸味が強かった…そして十文字駅留めで子犬が届いた…父が猟犬が欲しいと頼み込んで秋田犬と土佐犬のオスの子犬を譲り受けたそうだが、英一兄はハッピーと名着け勤めから帰ると毎日のように訓練していた…ハッピーはとても利口な犬で、川に投げ込んだ棒切れを咥えて戻ってくることや、匂いを嗅がせて私が山の中に隠してきたボールを探しだし咥えて来た…こうして子犬は大きく成長し成犬になって行ったが、一方の父の硫黄鉱山は、1950年に始まった朝鮮戦争も1953年7月27日に休戦協定が結ばれると火薬の原料としての硫黄の需要は激減し閉山に追い込まれることになった…その時父が持ち帰ったのは自分が使っていた机・椅子に書棚だけで、賃金の未払いもあったようだ…父が村から連れて行った仲間たちが二階に集まり、おふくろの煮た小豆汁を食べながら解散式をやっていたのを覚えている…勿論、恵二兄もその一人だった。その後父は千葉に住む社長の所まで出かけて行ったが、未払い賃金を払ってもらえなかったと嘆いていた… 

 鉄砲を構えてみた(毅)
 鉄砲を構えてみた(毅)

 こうして恵二兄は失業保険を湯沢までもらいに行くようになった…

 霙降る失業保険の給付日に

  兄買いくれしゴムのスキー靴

 

 村の子供はゴムの長靴でスキーを履いている頃でしたから、その嬉しさと高揚は今でも蘇ってくる…そのスキー靴は大きめで爪先に兄の古い靴下を詰め込んで履いていたが、中学生の頃には爪先を少し曲げて履き、郡や県のスキー大会にも出た…

 恵二兄が鉄砲を持って出かける時には猟犬ハッピーと一緒にスキーを履いて着いていった…兄は雉の飛打ちが上手かった…こうして猟をしたり、スキーを楽しんだりしながら一冬を過ごし、春まで職安に通っても不景気が続き秋田の田舎には良い仕事はなかったようです…

  ついに失業保険も終わり、村の友だちと一緒に富山に住む叔母(ヒデコ)を頼って出稼ぎに出ていった…その時、番線でフレームを組みトタン板を使ってトランクを作っていた。それに茶色のペンキを塗ると寅さんのような角型トランに仕上がった…トランクに身の回りものを詰め富山へ向かった…

でも、それからは寅さんのようにトランク片手に旅に出ることはなっかった…

  叔母頼り富山に移りし次男坊 曾孫四人の八十七歳

 

 富山に着くと叔母の近くの牛島さん宅の二階に下宿したことがご縁で、牛島さんの親戚に当たる節子さんと結婚することになったという…秋田の田舎の長男が嫁を迎えてなかったので、少し反対もあったようだが、秋田の兄の結婚式には赤ちゃん(博くん)を連れてやって来た…私はまだ小学生で姉の赤ん坊(裕くん)と一緒に見守り役をさせられたのを覚えている…

 

 数年前に『なめとこ山の熊 -淵沢小十郎の鉄砲-』を『賢治と歩む会』の会報連載したことがあるが、時々兄に電話で確かめながら書き進めた…

2.昭和40年2月 出火全焼の頃から

 昭和40年2月自宅全焼(淑美、晴美、英昭)
 昭和40年2月自宅全焼(淑美、晴美、英昭)

 昭和40年2月末に風呂の残り火から出火し全焼してしまった…

その時、私は浪人中で自宅の二階にいた…父が必死に火を消そうと動き廻る後に続いた…気が付いたら冬の明け方下着姿で雪道に立っていた…

富山の兄と同級生のミチヨシさんに自分の物を持ち出すよう言われ、二階に駆け上がって戸を開けると中からの熱気に圧倒され、受け取っていた受験票さえ持ち出せなかった…

焼け出された当日、従兄の定光さんの処にいたら、私を探してやって来た郵便配達の方が岩大の受験票を手渡してくれたが、その時は受験の事など考えられなかった…

  富山の兄は叔父と一緒に夜行列車を乗り継いでやって来た…その頃は叔父と同じ富山製紙に務めていたようで、作業服に着替え焼け跡の片付けをしてくれた…その中から焼けた刀と大きな茶釜を持ち帰ったようだ…その刀を砥師に出したり、茶釜を綺麗に磨いたり、この頃から骨董に興味があった…

 昭和40年 冬の前に家族が新築の家に
 昭和40年 冬の前に家族が新築の家に

 こうして大切にしていた品物や思い出の写真など全て灰になってしまい、茫然としている時に親戚の獣医の定志さんが自宅の二階で受験勉強をするようにと招いてくれた…受験など諦めかけていたが、従兄の背広を借り、旺文社・蛍雪時代の付録一冊を持って岩大を受験した…

 まだ寒い2月に焼け出されて行き場を無くした家族に、三郎さんは自宅と牛小屋を改造して仮住まいを提供してくれた…残雪の4月、そこから甥は小学校に入学し、私は盛岡に向かった…

 母が子宮がんの末期で中央病院に入院
 母が子宮がんの末期で中央病院に入院

 夏休みには家を建てるために懸命に働く父を手伝い上棟式ができた…

しかし母は家が建つまではと我慢していたのだろ、子宮がんステージ4を知らせる兄からの手紙が学寮に届いた…休日に病院に行くと母は『お前は医者にならなくて良かった…』と呟いた…母は入院治療を受けながらどんな体験をしたのか、どんなことを思ったのか知らないが…私も入学当初は医学部へ再受験することも考えていたが、経済的には大変でも学生生活は自由で楽しく、次第にその考えは薄れて行ってしまった…

  懸命に看病してくれた姉(京子)
  懸命に看病してくれた姉(京子)

 その頃、川崎の兄良三とは音信不通の行方不明状態にあった…ところが出稼ぎに行っていた人から川崎で良三さんにご馳走になったとの知らせが届いた…私はその方を訪ねお話を聞き、春休みに川崎に出かけた…

夕方にやって来るという銭湯に従弟の国男と一緒に何日か通い、ついに兄の仲間の人を探し当て兄に辿りついた…そして母が末期がんであることを伝え、一緒に秋田に帰った…

 5人姉弟の長女だった姉は、女性として良く母の看病をしてくれた…でも、終には自宅で過ごしたいとの母の希望で自宅療養となり父が介護し続けた…しかし夏休みを前に富雄叔父さんから『母危篤』の電話が入り、寮の先輩・青柳さんに自転車で駅まで送ってもらい始発の電車で駆けつけた時はもう最後だった…

 川崎の兄・良三
 川崎の兄・良三

葬式の時、母が村の娘たちに和裁や日本舞踊を教えていたことを定志さんのカアサンがお墓の前で弔辞に読んでくれたのを覚えている…

 夜になると隣近所の人が集まって御詠歌を唄ってくれた…その方々に食事をお酒を振舞い供養していただいた…その頃に書き写した御詠歌(フダラグ)を今でも持っている…

 初七日も過ぎた頃、良三兄貴を栗駒岳に行った…その時、母の毛布から毛髪を拾い集め、煙草とマッチを袋に入れて持参した…

 須川温泉を見下ろす大きな岩石の下に埋めた…

 その兄良三も享年33歳、川崎で亡くなった。昭和47年暮れの明け方に…秋田から父、姉、兄、富雄叔父さんが、富山の兄も駆け付けて来た…

3.立山の春スキー

 立山登山鉄道まで見送りに来てくれた兄
 立山登山鉄道まで見送りに来てくれた兄

 学生時代の無謀な企てに富山の兄と叔母を巻き込んでしまったことがある…立山に春スキーに行くことになり、富山の兄の所に泊めてもらえば安く済むだろうと安易な考えで、

女鹿さん家の車に仲間6人が乗り込んで富山を目指した…高速など無かった頃だから相当の時間を要した。やっとの思いで富山に到着した頃には日が暮れていた…兄は心配して二人の子供と歩道橋の上からスキーを乗せた車を見張り続け、長い物を積んだ車を追いかけたら植木屋さんだったそうだ…そうしている間に道を訪ねながら兄の家に辿り着いた…

 その夜は富山の兄と叔母の家に分宿させてもらった…当時、兄は借家住まいだったのです…

 立山春スキーの仲間(6人)
 立山春スキーの仲間(6人)

 翌朝、こんな出立で登山電車で美女平まで行き、そこから室堂までバスにのったが雪の壁はバスより高かった…夕方まで遊んでから山小屋に行ったら満室で断れ、谷底の小屋まで歩いた…何とか泊めてもらえたが、布団一枚に二人。女鹿さんの隣は女性だったと言うが、私の隣は笹川さんで寒い一夜を過ごした…

 立山の山頂(アイスバンをスキー靴で登坂)
 立山の山頂(アイスバンをスキー靴で登坂)

 翌日は立山(雄山)の石の祠がある処まで登った…アイゼンも着けずスキー靴のまゝでの危険な登坂だったと今にして思う…帰りは美女平までスキーで下ったが、雪はもう腐っていて滑りは良くなかった…

 下山して富山に着くと叔母がお寿司の出前でもてなしてくれた…

それから富山を後にし、確か宇奈月温泉あたりで一泊した気がする…

 それにしても叔母と兄には、ひどい迷惑をかけたものだと思っている。

4.夏の立山に登りたくて

 ユニバスヤード東京大会の開会式
 ユニバスヤード東京大会の開会式

 1967年ユニバスヤード東京大会が国立競技場で行われ、世界各地からやって来る選手を歓迎するために全国の大学が開会式でフラグを持って行進することになった。学生本部から旅費を支給すると言われ農学部の伊藤君と参加した。その時に川崎の兄が撮ってくれた写真だ…前日にリハーサルが行われ当日を迎えたが、大雨が降り出し行進中の楽隊がずぶ濡れになってしまった…

 1967年 東京ユニバスヤード(国立競技場)
 1967年 東京ユニバスヤード(国立競技場)

 主催者側から国立競技場の観戦チケットを5,6枚もらったが、観に行かず富山に向かった…実は立山に登りたくてキシリングにラジュース、コッヘル、寝袋を詰め込み川崎の兄からもらった三人用のテントを括り付け重い荷物を担いでいたのだ…

 しかし叔母に猛反対され登山を断念し、子供たちの夏休みの宿題を見てやることになった…私には冬季分校と産休の代用教員の経験があり、子供に教えるのは慣れていたが、甥っ子たちには少々厳しかったようだ… 

 神通川河口でのウグイ釣り
 神通川河口でのウグイ釣り

 夕方に務めから帰ると兄は神通川の河口に釣りに連れて行ってくれた…

 当時はまだ神通川の公害が騒がれる前だったと思う…

針先に食パンを硬く丸めてリールで投げ込むとデカいウグイが何匹も釣れた…

 従兄のヨシオさん(薬師岳の沢でヤマメ釣り)
 従兄のヨシオさん(薬師岳の沢でヤマメ釣り)

 でも、退屈そうにしている私を見て、兄は従兄のヨシオさんにヤマメ釣りに連れて行ってくれるように頼んだ…従兄は釣具屋でヤマメ用の毛針を買い求め、薬師岳の沢へ連れて行ってくれた…深い淵に大きなイワナが見えた…毛針を投げ込むと直ぐに食いついた…ぱっと竿を上げるとそのイワナが途中まで持ち上がったが、空中で飛び跳ね淵に落ちた…そのイワナは毛針に近くまでは来るが、二度と食いつかなかった…

 釣りをしながら沢を上って行くと沢が細くなり、小さな水たまりに沢山イワナが泳いでいるのが見えた…そこで水を迂回させて、その溜りを干してしまおうと石を積んだ…水が少なくなったので、いざ掴み捕ろうとすとイワナも必死に石の隙間に潜り込んでしまい、結局一匹も捕まえることができなかった…

 気が付いたら辺りが薄暗くなってきたので急いで沢を下り、車の所へ戻ってみると何と後輪がパンクしていたのだ…ジャッキで持ち上げスペアタイヤに取り換えるのにかなり時間がかかった…真っ暗な山道ではスピードも出せず、やっと兄の家に辿りついたら、捜索のために兄の友だちが集まっていたのだ…

 でも、釣ってきたイワナを焼き、熱燗を注いだコツ酒の味は忘れられない…

5.岩大の卒業式に突然 父親が・・・

 卒業式の朝、突然に父親がリュックサックを背負って同胞寮にやって来た…構内にもまだ雪が残っている頃の寒い朝だった…

 右側の木造の建物が同胞寮で、左側の平屋は、学内の実験棟である。

末息子の卒業を見届けようとしたのだろう…このように父は律儀な人であった…

私が4年間暮らした同胞寮46室の私の椅子に父は腰を下ろした…

父の前には大きな達磨ストーブがあるのだが、奥の壁際に運び込まれた薪は、もう使い切ってしまったようだ…この時、父は手に何処かで出土したような古い鉄器を持っているが、一体何なのか定かではない…

 昭和44年 岩大の卒業式
 昭和44年 岩大の卒業式

 卒業式は大学と隣接する市の体育館で行われた…

この中の何処かに、岩大工学部電気科卒業生の一人といるはずだが…

岩大卒業生代表として答辞を詠んだのは、確か友達の佐々木和彦君だったと思うのだが…3年の研修旅行で川崎の電気メーカーの工場見学を終えて、佐々木君と良三兄貴の現場事務所に一泊した覚えがある…

生協の学食で何を食べたのだろう…

まだ、学食で煙草を吸えたようだ…

父は卒業式で熊谷の金井君の父親に会ったようで、私が秩父セメントに入ると話したら「地元ではケチブ・セメントと言われいる。」と聞かされようで、少し心配顔であった…

 2年後輩の長谷川君が、構内の案内に付き合ってくれた…今でも彼とは同胞寮のOB会でお会いしている。

 普段の父は、あまり多くを語らない人であったが、遠くへ出た息子を気にかけてくれた…私が就職して1年目の春、熊谷工場の独身寮に訪ねて来た…川崎の良三兄貴の所へ行って来たと言っていたが、秋田を出る時はまだ寒かったのだろう、長靴に防寒具を着ていた…ところが、熊谷から富山の兄を訪ねると云うので、私の背広と靴に替えてもらった…

その時の長靴は、今でも雪かきに使わせてもらっている…

6.思いつきの富山行き

 社内技術発表会(入社3年目の秋)
 社内技術発表会(入社3年目の秋)

 秩父セメント入社3年目の秋、本社で開催された技術研究発表会で発表することになった…それはコンピュータを使ってロータリーキルン(セメントを焼く窯)を制御する『時系列解析と多変数予測制御』という理論に基づくものであった…

発表する本人も理解が難しく、質問されたらどうしょうと思いながら、顔を真っ赤にして発表を終えた…おそらく聞いていたお偉いさん方も良く解らなかったとみえ、たいした質問もなくほっとしていると次期社長の諸井さんに『君、プロジェクターが暑かったろう…』と声を掛けられたのを覚えている…

 ドライブに誘ってくれた会社の後輩
 ドライブに誘ってくれた会社の後輩

 発表会の翌日から休みが続き、後輩の福田君にドライブに行こうと誘われた…その頃、運転免許を取得したばかりの私に廃車寸前のサニーバンを運転させてくれるというので、富山に向かって走り出した…正に運転の実地訓練のように色々と教えてくれた。右折する時は先行車の内側が良いとか、車線変更の時のサイドミラーでの確認だとか、彼は後ろを振り向きながら、そのタイミングを教えてくれた…

 多分、諏訪湖の畔で出会ったグループ
 多分、諏訪湖の畔で出会ったグループ

 彼が殆ど運転してくれたものの、自分の運転が精一杯でどのルートを通ったのか覚えていない…

 今ではカーナビに目的地をセットすれば、そこに導いてくれる時代だが、地図だけを頼りに見知らぬ土地を旅したものだ…この写真は多分諏訪湖の畔で出合ったグループだと思われるが定かではない…

 こうして何とか富山に着き、快く迎えてもらった…この頃、兄はまだ借家住まいで、同僚の福田君は叔母の家に泊めてもらったようなきがする…富山の叔母は母の一番下の妹で、母親によく似ていたので、いつも亡くなった母親に再会したような、懐かしい気がしていた…

 金沢の兼六園
 金沢の兼六園

 朝出発前に兄はカードでガソリンを満タンにしてくれた…そしてタイヤが丸坊主だから中古のタイヤと取り替えてやろうかと心配してくれたが、大丈夫だと断った。

 義姉・節子さんに大きな昆布巻きおにぎりをもらって出発した…その時、叔母が新聞紙に包んだ越前ガニを『酢醤油で食べな…』と言いながら手渡してくれた…

 それから金沢の兼六園を見物して岐阜を通って名古屋へ出たようだ…東名高速に乗る頃にはすっかり暗くなっていたが、私が高速道路を運転することになった…かなり緊張しながらハンドルを握った…そして急ハンドルは駄目とか、車線変更ではバックミラーで車間距離を確認してウインカーを出すとかを実地に教わった…

 日産サニーバン
 日産サニーバン

 ところが、高速にも次第に慣れて来た頃、いきなり前輪のタイヤがバーストしたのだ…彼は『左に、左に…』と繰り返し叫んだ…バーストは右側のタイヤだったと思うが何とか路肩に停車できた…彼は直ぐに降りて三角の故障車表示器を置き、私に懐中電灯を丸く回すように言ったが、手に震えがきて丸くは回すことができなかった…彼もかなり緊張したと思うが、一人でスペアタイヤに取り換えてくれた。それから車を動かし、次のサービスエリアでタイヤを交換したような気がするが、どの辺りだったのか思いだせない…

 私は助手席に座り、富山の兄貴のアドバイスに従えば良かったと何度も思い返したが、後の祭りであった…

 こんなアクシデントに会いながらも熊谷の寮に22時頃に到着したが、一気に緊張がほぐれどっと疲れが出てきた。福田君は翌日仕事があるからと板橋の独身寮へ電車で帰った…その時、新聞紙に包んだ蟹をどうするの聞かれたのでそのまま彼に持たせてあげた。蟹の味も高価であることもまだ知らなかった…

 でも、彼が貸してくれたサニーバンで石原の寮から籠原の工場まで通勤できるようになり、何とか運転も上達し、彼女とデートもできるようになった…

7.富山の兄 自宅完成祝い

 昭和48年の3月頃だったと思うが、富山の兄から自宅ができたのでお披露目をしたいとの連絡が入った。4月には東京への転勤も決まり忙しかったのでその当日に羽田から飛行機で富山へ向かった…雪が道路に残っていたのに姉さんが車で迎えに来てくれた。秋田からは定光さんの運転で英一兄貴と甥の英昭がやって来た…富山の兄も多いに喜び、親戚やお世話になった方々にお膳を出して振舞った。多分、富山の叔母を頼りに秋田から出て来て15年ほど経った頃だ思う…大場の叔父さんも叔母さんも大変喜んで祝ってくれた…

 そして帰りには秋田の兄に車で熊谷を経由してもらい、彼女の実家にご挨拶してもらった…お陰で5月の連休には熊谷で結婚式を挙げることできたのだ。

8.パン屋さん 開店のお祝い

 『エルトベア』を開店した甥兄弟
 『エルトベア』を開店した甥兄弟

 富山の兄の長男が高校から専門学校へ進学して出て来た時に万年筆をプレゼントした記憶がある…だが、アルバイト先のパン屋でしっかり修業して職人さんになってしまった…

 そこで兄も蓮町の自宅近くに土地を求めパン屋を建てることになったので、富山営業所に電話して秩父セメントの生コンを使ってもらった…

 兄貴の一大事業に何の支援も出来なかったが、テナント収益も考慮して大きなローンを組んだようだ…

 蓮町に自宅を構えてから10年ほどの頃だから、この計画には大きな覚悟があってのことだろう…でも、こうしてお披露目の時を迎え、秋田からも姉夫婦、兄夫婦、それに甥と定光さんが駆けつけた…

 秋田の兄夫婦と富山の兄
 秋田の兄夫婦と富山の兄

 お店の入口で秋田の兄夫婦との写真だが、富山の兄が一段と逞しく見えますね…

 お店はもう開店していてお客さんがやってきてドアが開くと焼き立てのパンの香りが漂ってきた…

 すでに亡くなった母、弟良三、そして一緒に仕事をして廻った父にこのお店の完成を自慢したかったに違いないと思った。

 二階の座敷二部屋を開け放しの宴会
 二階の座敷二部屋を開け放しの宴会

 二階の座敷を開け放して25人ほどの大宴会が始まった…

 富山で甥の博君が修業したお店の主人など初めて方も居たが、殆どが親戚が集まってのお祝いで賑やかであった…姉が秋田民謡を歌ったので私も南部牛追い唄を歌ったような気がする…恵二兄貴も嬉しかったと思うが、姉夫婦が初めて富山にやってきたことを叔母・ヒデ子バッチャは本当に嬉しそうであった…

 お祝いに来てくれた方々も三々五々お帰りになり、宴会が終ってもう夜だと思うが、外で兄が貴志雄先生(姉の旦那)に何か説明しているようだ…

 貴志雄先生も初めての富山で今夜は少しセーブしていたようでブレークすることはなかった…

兼六園(恵二、京子、英一、塚子、定光、芳夫)
兼六園(恵二、京子、英一、塚子、定光、芳夫)

 翌日、芳夫さんと兄が金沢の兼六園に案内してくれた…秋も深まり兼六園の木々も冬備えの荒縄を張る頃だったようだ…

 この写真には姉弟三人が写っている…これに私が加われば四人揃って写真に納まることができたのにと悔やまれるが、私が写していたので仕方のないことだ…

 大場の叔母さん家での歓迎会
 大場の叔母さん家での歓迎会

 富山に戻ると大場のおばさんがお膳を揃えて待っていてくれた…

今夜は、叔母さんが姪と甥たちが富山にやって来たことを歓迎してくれたのだ…今日は誰にも気兼ねすることなしに大いに盛り上がったが、一人貴志雄先生はハメを外すことは無かったようだ…

 この頃の叔母は持病の膝の具合が悪かったが、それでもよほど嬉しかったのであろう、大場の叔父さんの肩に両の手を置いて立っていた…

9.谷川の藤原スキー場で

 富山から息子二人とやって来た兄と谷川の大穴スキー場で合流して滑った…当時はまだ携帯電話も普及する前だったのに良く落ち会えたものだ。それはこうだ…早く着いて滑っていたら、兄の息子が声をかけてきた…どうも暫くの間お互いに同じコースを滑っていたようだ…

 その時は義弟・清君が運転してくれたので息子と娘を連れてくることができた…

 富山の兄貴と娘の優子
 富山の兄貴と娘の優子

 その晩は秩父セメント健康保険組合の谷川荘に一泊した…

 ここは谷川岳の登山やスキー仲間と利用させてもらっていたし、毎年正月には家族でスキーに来るのが恒例となっていて子供たちにも馴染みの宿だったが、富山の兄貴一家と一緒なので大いにはしゃいで寝付かれなかったようだ…二間続きの大部屋で夜遅くまで語りあった…

 谷川の藤原スキー場にて
 谷川の藤原スキー場にて

 翌日は緩斜面が広く安心できる藤原スキー場へ出かけた…着ているスキーウエアーから推測するとスキーの準指に合格した翌年の昭和55年頃ではないかと思われる…今もこのウエアを持っているが、胴回りがきつくなり足を通すことすらできなくなってしまったが、富山の兄貴は庭木の手入れなど、頼まれ仕事で身体を動かしていたようで、兄の体形は変わることがなかったような気がする…

10.父の十三回忌の墓参り

 父が亡くなったのは、昭和53年の6月17日だった…

秩父セメント板橋の社宅にいる頃、危篤の知らせで駆けつけて間もなく意識不明の小康状態が続いた…

 時々高熱を出したが、獣医の定志さんが持ってきてくれた解熱剤をお尻から入れた…

 それから呼吸停止になると定志さんから教わった人工呼吸で蘇生した…私は父の隣に寝ながら、何度となく人工呼吸を行い、その度に息を吹き返した… 

 その頃1ケ月近くの休みを許してくれた中川社長には今でも感謝しているが、平成最後の年9月に亡くなられた…

 葬儀には間に合わなかったが、会社の吉原先輩が弔問に来てくれた。その時も獣医の定志さんがステーキ肉を届けてくれたのを覚えている… 

 富雄叔父が村で最後の土葬になるだろうと言って、ダミダシのスナップ写真を撮らせていたが、その写真が村史に掲載されていた… 

 古里の戸平山も奥宮山も先祖代々の葬式を見下ろしてきたことであろが、父の土葬の葬儀以来、火葬されるようになり若い世代の人々は、古い映画のワンシーンのようなドン・チャン、ドン・チャンと畦道を墓地へと向かう長い葬列を見ることはなくなってしまった…

 そして埋葬が済むと女たちは、行きに履いて行ったヘドロ(藁で作ったスリッパ)をそれぞれが道端に脱ぎ捨て、死者の魂が跡を追えないようにするという風習があるが、むしろ亡くなった大切な人への未練を断ち切るための行為だったのかも知れぬと思う…こうした風習も土葬と共に消えて行ってしまった…

 いや、いや、藁のヘドロを作れる人も、そう多くは居ないかも知れない…

 この頃、こんな子犬がいた…

八戸に嫁いだ晴美の子供が、学校帰りに二匹の子犬を拾って来たという…その一匹を兄が引き取り、散歩相手にしているらしい…

 この手は姉のようだが、やはり犬好きのDNAが流れているようだ…

富山の兄も大の犬好きなのだ。

11.苗場スキー場で合流

 富山の兄が苗場スキー場に来ているというので日帰りで出かけたことがあった…当時まだ仕事が忙しい頃で、熊谷から朝の新幹線に乗り越後湯沢駅に迎えにきてもらった…

 苗場スキー場は昔から人気のスキーなので何度となく滑ってきたのでどのゲレンデも足に覚えのある斜面だった…息子が小さい頃には、町で晒しの反物を買って負んぶして滑ったこともあった…その時、正面の急斜面を滑り降りたら、中年のスキーヤーが近寄って来て『あまりスピードを出すと背中の子供が呼吸できなくなるぞ…』と忠告されたことがあった…スキーで転ぶ心配をしたことはなかったが、これには参ってしまい、緩斜面を滑った覚えがある…娘の時もこの晒しで負んぶして滑った…娘は小さなジャンプを背中で喜んでいたが、眠ってしまうので『犬のおまわりさん』を一緒に唄いながら滑ったことを思い出す…

 富山の兄のスキーはSAJ (全日本スキー連盟)の教程とは違う自分だけの実用スキー術なのだ…秋田にいる頃には猟銃を担ぎ、獲物を追い求め新雪を滑っていた…鉄砲打ちのリーダーで親戚の熊五郎獣医にスキーを褒められたと言っていた…兄貴もどんな斜面でも転ばなかったし、そのスキーの足前はまだ衰えてはいなかった…

 苗場には義姉の弟の息子さん(ゆうちゃん)、それに甥・忠君の彼女も一緒だった…この日は天気も良く兄のお陰で久しぶりの苗場スキー場を満喫できた…楽しいスキーもあっという間に終り、兄の宿に戻って一杯ご馳走になり、名残り惜しかったが新幹線の駅まで送ってもらい帰路に着いた…

12.富山湾でホタルいかを捕った

 娘が中学の頃、5月の連休に車で富山の兄の所へ行ったことがある…

昭和54年頃だと思うが秋田の田舎まで単独で車で行ったことはあるが、それ以来の遠出であった…多少の不安もあったが、夕方には富山に着いきほっとした…翌日は五月晴れで残雪の立山連峰がくっきりと見え爽快だったのを思い出す…丁度その時、秋田の甥・英昭が友だちを連れ、剣・立山を縦走していると聞いた…その晩、剣岳で滑落事故が発生し救助に向かっているというニュースが流れ心配した…英昭も学生時代にはワンゲルで訓練しているから大丈夫だろうと思いつつも…

 兄の次男・忠くんは遊び好きで、バギーを常願寺川の河原に運んで遊ばせてくれた…操縦は中々思うように行かなかった…

 その晩は月夜だったと思うが、ホタルイカが出そうだというので、準備を整え11時頃に海へ行った。既に海の中で懐中電灯をかざす人影が見えた…腰までのゴム長を履き、たも網を持ち懐中電灯で照らしなが海に入った…最初の内はホタルイカを見分けられなかったが、木葉のような物が動いているのをすくい上げてみるとたも網の中でピカリ、ピカリと光った…それがホタルイカだった。もう夢中になってしまい、兄の家に戻ったのは深夜の3時頃だったと思う…みんなでバケツ2杯ほどすくい上げた…

 そして翌日の夕方、下山予定の甥・英昭たちを登山列車の駅まで迎えに行った…幸い無事に二人が帰ってきたので安心した…その夜は、博くんが中華料理店からお料理を取り寄せて振舞ってくれた…少し危ない場面んもあったようだが、楽しそうに語る剣・立山縦走談を聞いた…

 富山の兄の山歩きは、頂上を目指すのではなく、沢を上って山菜採りが目的なのです…太くて柔らかい蕨、みづ(うわばみ草)や自生の山葵を何回も送ってもらて食べたことがある…春には筍を送ってくれた…

 彼らは疲れたらしく良く眠っていた…それでも連休も終るので午后には車で秋田に向かった…私も娘を乗せ、途中まで一緒に走り熊谷に帰った…

13.貴志雄先生とのお別れ

 岩井川の姉は18歳も上なのでよく遊びに行った… 

 秋田の兄貴が胃の手術で横手病院に入院した・・・

 その見舞いに息子を連れて行った時の写真。

 貴志雄先生も姉も小学校の教員で、息子を上手に遊ばせてくれた…

 息子は齢の離れた従兄三人から、釣りやサッカーを教わり、ミヤマクワガタを捕まえてもらったことを今でも覚えているようだ…

 岩井川に遊びに行くと、その度に姉は、「よし店」からご馳走を取り寄せ、旦那・貴志雄先生は一緒に呑んで呉れた…学生時代には小遣いも貰った…

 大学にルクルートに行く前日に立ち寄った時、一緒に呑んでいる内に、明日は盛岡まで送って行くと言い出した…

 翌日、本当に休暇を取り姉と一緒に栗駒を越え、一ノ関経由で岩大工学部校門まで送ってくれたことがあった…

 須川温泉で車を止めた時、姉が『お前たちが母親の毛髪を埋めたのは、どの岩だ?』と訊ねてきた…

 そんなことを良く覚えているものだと思ったが、俄かには判らなかった…

 母が亡くなった時に、川崎の良三兄貴と二人で母が吸っていた煙草(しんせい)とマッチそれに母の毛髪を袋に詰めて栗駒の大きな岩石の下に埋めたことを姉に話していたのかも知れない…

 「岩鋳」矢巾店(岩清水常務と私)
 「岩鋳」矢巾店(岩清水常務と私)

 この時、学生時代に家庭教師のバイトをさせていただいた「岩鋳」を訪ねたようだ…

 小学1年から4年間、姉に送ってもった教材でプレ・テストをやったので、いつも一番の成績だった…

 そこで土産に鉄瓶をいただいき、それを富山の兄に上げようかと話していたのだが、約束を果たせてなかった…それが心残りだ…

 義兄・貴志雄先生の葬儀
 義兄・貴志雄先生の葬儀

 人生、楽しい事だけが永遠に続く訳ではない…

 昭和57年には長い教員生活を終え、これからというのに横手中央病院で入院生活を送ることになってしまった…

 私が新築の写真を持って見舞った時には、身体も小さくなって写真は良く見ない様子だった…

 富山の兄は人情深く義理固い人だったので秋田の田舎で何かあると必ずやってきてくれた…

 これは貴志雄先生の葬儀が終った翌日に実家の兄と稲庭うどんでも食べているようだ…神妙な面持ちの秋田の兄は、貴志雄先生の病気の治療と進行の経過のことでも説明していたのであろうか…

 秋田の家から100mほど先の母の実家に出かけた…富雄叔父さんは姉と同級生なのだが、母の一番下の弟でもあり叔父は役場務めの帰りによく家に立ち寄った…そして母にお酒を出してもらい呑んでいた…でも、叔父さんは物知りで科学や物理、天文と話が面白かったので、隣に座りお酌をしながら話を聴いたものだ…そして遅くなってしまうと自分の家に帰り難くなり、決まって私に家まで送らせた…子供の前では小言も云い難かったようで、私は叔父が寝るのを見届けてから帰ったものだ…富山の兄も叔母さんにはお世話になっているし、色々とアドバスをしてくれる富雄おじさんには敬意を払っていたようである…

 小安温泉での追悼の会
 小安温泉での追悼の会

 塚子姉さんの計らいで小安温泉で慰労会を開いてもらった…

 当事者の岩井川の姉は参加できなかったが、貴志雄先生の葬儀に駆け付けた兄弟を労ってくれた…でも、話は先生を偲んで追悼する話ばかりではあったが、これで気分を変えてまた頑張ることができると…

こうして兄弟で会える機会も次第に少なくなって行くことであろう…

14.兄弟三人の最後の旅

 今から20年程前になるが、長年透析を続けてきた連れ合いを亡くし、秋田の兄が福井の永平寺に参るため富山の兄の所へやって来ると言うので、私は出張先の金沢から富山に向かったが、先着のはずだった秋田の兄がまだ着いてなかった…

 平成10年8月の新潟豪雨に遭遇し列車が大幅に遅延したということだった…

 翌朝のテレビが福井の永平寺近辺も土砂災害発生と報じたので永平寺参りは諦めざるを得なかった…

 そこで富山の兄の車で五箇山にやって来て合掌造りを見学し、お蕎麦を食べ日帰り温泉に立ち寄った…

こんな小さな旅が兄弟三人での最後の旅となってしまった…

 

 翌日、富山の兄は『大岩日石寺』に連れていってくれた…この日石寺は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院境内で滝修業のできる厳かな環境だった。

 そこで三人で名物のそうめんを食べたことを懐かしく思い出した…

 それから既に大場の叔父さんも亡くなり寂しくしている叔母さんを見舞った…大そう喜んで仕出しのお膳を用意して歓迎してくれることになったが、私は仕事の都合もあり夕方の電車に乗った…富山駅のホームで電車をまっていると先に帰る私を可愛そうと思ったのか従兄の芳夫さんが鱒寿司を持ってきてくれた…

15.孫娘の結婚式

 前列:兄、忠夫妻、義姉、後列:博、新郎新婦
 前列:兄、忠夫妻、義姉、後列:博、新郎新婦

 この頃の富山の兄一家は、どんなにか幸せだったろうか…

兄は、早くから電話で孫娘が結婚することを伝えてよこした…

 孫娘は大学で福祉を学び、同じ福祉を志す伴侶を得たのです…

 この頃は義姉も元気でしたが、新婦の父親・忠君は、胸を手術してから体力が弱くなったようだ…

 兄は次男・忠君に代って孫娘をエスコートしてバージンロードを歩いた…

 この一生一大の大舞台に少し緊張気味だが、可愛がって大学への進学を勧めてきた兄貴には、晴れがましいひと時だったと思う…

 私も娘の結婚式で娘の手を取ってバージンロードを歩いた…事前にリハーサルをしたものの、どちらの足から踏み出すのかと混乱した覚えがある…

 それに比べ兄貴の余裕のポーズ、Ⅴサインで写真に納まっている。

この時が、人生で一番幸せな瞬間だったかも知れないね…

 新婦さんの幸せいっぱいの笑顔が素敵です…

 バージンロードを神父さんの所まで進み、神父さんからお言葉をいただく…

 そして新婦を新郎に託すことになる訳ですが…

 エスコートする兄の歩みが少し速かったのか…

 それとも、待ちに待った結婚式なのに、大好きなジーヤン(兄)と離れるのを躊躇っているのか…

 新婦はジーヤンの腕を少し引っ張っているようにも見えますね…

 そして待望の曾孫誕生。

兄と私の歳の差が11年あるとは言え、兄は私の孫と同い年の曾孫を抱いているのです…

 腕の中の赤ちゃんは泣いているようですが、兄のこの笑顔…

 その嬉しさは、この満面の笑みが物語っていますね…

16.富山の兄 次男に先立たれ

 富山の兄は時々電話くれた…節子姉さんが腰が痛くて二子玉川の専門医の診察を受けるというので行って一緒に診断を聴いた…暫くして手術を受けると言って兄と一緒に上京して来た。その時も出かけたが手術にはならなかったので東京駅で見送ったことがある…その姉さんが平成28年の暮れに脳梗塞で倒れ入院してしまい意識が戻らない状態が続いていた…

 次男に先立たれ
 次男に先立たれ

 そして平成29年の春に胸を患い入退院を繰り返していた次男の忠君が亡くなり家族葬を済ませたと伝えきた…子供のころからやんちゃで元気の良かった次男に先立たれ、さすがに兄も力を落としている様子だったので、四十九日法要には駆けつける約束した…

 8月1日朝の新幹線に乗り忠君の四十九日法要に参列した…家族だけだったが、まだ小さい忠君の孫三人も参加したことになる…

 そして入院している姉さんを見舞ったが、意識はなく言葉を交わすことはできなかった…

病弱になった息子の面倒を見てきたのに亡くなってしまったことも分からないのを見ると何だか切ない思いがこみ上げてきた…久ぶりの富山なので叔父・叔母・従兄にお線香をたむけたいと兄に連れて行ってもらったが留守であった…郵便受けに香典を入れて帰った…こうして親しかったご縁も薄れて行くのかと新幹線の中で昔を思い起こしながら熊谷に帰った…

17.ついに五人姉弟が一人に

 令和元年9月4日11時に兄が亡くなった報せを受け、5日9時の新幹線に乗り11時25分に富山に着いた…そこに忠君の長女が迎えに来てくれて、葬儀場に直行した…そこには白い布で顔を覆われた兄が横たわっていた…

 12時半から湯灌が行われバスタブを使って綺麗に身体を洗い清めもらった…そして17時半に納棺して式場の祭壇の前に安置された。

 ホテルをどうかと言われたが、兄と一緒に居られる最後だからとお断りして葬儀場に泊めてもらった…長男の博君とお酒を呑みながら線香を絶やさず3時頃まで話し込んだ…

 兄は胃の手術をしてから食欲が細くなり入院したが、胃ろうも出来ず点滴に頼っていたという…そして1年近くの入院で体力も次第に弱り、終には廃血漿となり亡くなったということだ…

  叔母頼り富山に移りし次男坊 曾孫四人の八十七歳

 翌6日13時から葬儀が行われた…家族葬ではあったが、ご縁の深かった20人ほどの方にご参列しもらいご焼香をしていただいた…

火葬場には家族だけが付添った…

そして葬儀場に戻り初七日法要をしていただき食事をいただいた…

収骨は16時20分ころと聞いて心配していたら、葬儀場へお骨を運んできてくれると和尚さんが教えてくれた。

 収骨の時に葬儀屋さんが、『随分と骨格のしっかりした方の様ですね』と言い、隙間のないように納めてくださいと云われた…

その骨壺を自宅に運びお経を上げていただき葬儀は滞りなく終了した…

 その晩は兄が寝ていたベットを使わせもらった…朝6時頃には眼が覚めたが、博君はよほど疲れた見え10時頃にやっと起きてきた…何日か泊まるつもりでやってきたが、私がいると返って気を遣わせると思い、11時19分の新幹線に乗った…

 

 五人姉弟で最後に残された私が何かを書き記して置かないと、誰も語ってくれる者はいなくなるだろうとの思いからこのブログを書き綴った…まだ、秋田の姉貴と兄貴、それに良三兄貴の最後を書き残しているが…これは後にする。

 

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コメント: 2
  • #1

    さくらさく (火曜日, 17 9月 2019 20:52)

    五人の姉弟の歴史良くまとめられましたね。離れていらしたのに中の良い五人だったのですね。人に歴史ありとよく言われますが本当ですね。亡くなった方の事を思い出し語って行くのが供養だと聞いたことがあります。そして誰にも思い出されなくなった時が、その人の死だと。皆さんの子と時々思い出し語ってあげてください。お悔やみ申し上げます。合掌。

  • #2

    コスモス (火曜日, 24 9月 2019 23:22)

    楽しそうなお話と思いながら読み進めましたが、最後にしゅんとなってしまいました。多くの御親戚が親しく交わりながら、別れていく、、、私も7人兄弟ですが長男と横浜の末の妹を今年の4月に亡くしました。不思議にその当時は涙が出ないのですが、後から後から思い出されて、、いずれは自分もと覚悟の様なものも感じております。

       灯をともす灯籠めぐりて妹は遠い記憶の写し絵となる