立山の春スキーの旅

富山の兄貴に見送られて
富山の兄貴に見送られて

 岩大在学4年の5月の連休のことであったろうか・・・やはり女鹿さんの発案で富山の立山へ春スキーに出かけることになった。当時学生で運転免許を持っている方がまれであったから、盛岡から富山までの道のりと当時の悪路を考えるゾットする思いである。勿論カーナビなどあるわけでなし、地図を頼りに走り続け長い長い新潟の海岸線と親不知の直角に曲がった道路を今でも覚えている。早朝に盛岡を出発し富山に辿り着いた時には午後7時を周っていたと思う・・・やっとの思いで吾が富山の兄の家を探し当てたが、兄は家に居なかったのである。後で聞いたが、通るであろう歩道橋の上から子供と二人で車の屋根にスキーを積んだ車を探し続けていたと言うのだ。今時であれば携帯電話で連絡を取れば済むことではあるが・・・当時兄はまだ借家住まいであったので、近くに住む叔母の家と分宿して一夜を過ごし、美女平に登るアブト式登山鉄道(?)に乗り、そこからバスに乗り換え室堂に向かった。道路両側の雪壁はバスよりも遥かに高く景色を堪能する訳にはいかなかったが、バスを降りて立山に向かって大きく深呼吸したのを覚えている・・・

 それからスキーを担いで山を登ったが、途中から雪を磐が凍った状態に変わってきたのでスキーを置いて登ることになった。しかし、スキー靴の底は平らでツルツルなのにアイゼンなど持っていなかったので、スキーのストックを頼りに”雄山の頂上”まで登りきったのである。今にして思えば、何んと危険極まりない無謀登山であったが若気の成せたことしか言いようがない。

立山の春スキーの表紙
立山の春スキーの表紙

 それからスキーを担いで山を登ったが、途中から雪を磐が凍った状態に変わってきたのでスキーを置いて登ることになった。しかし、スキー靴の底は平ら でツルツルなのにアイゼンなど持っていなかったので、スキーのストックを頼りに”雄山の頂上”まで登りきったのである。今にして思えば、何んと危険極まり ない無謀登山であったが若気の成せたことしか言いようがない。

 それから夕暮れまで遊んで、山小屋に泊めて欲しいと申し入れたが生憎満員だ からと断られ、谷を下ったもう一軒の山小屋に頼むことになった。それでも対して不安がることもなく谷を下った。その途中で偶然にも”雷鳥”を観ることがで き感激した。当時室堂には2軒しか山小屋はなかったと思うが、何んとか受け入れてもらったものの2組の布団の5人がもぐり込むほどの込み様であった。その 夜は横向きで身動きできず、雪が解けて布団が濡れていたので寒くて寒くてよく眠れなかった。

 翌日は、室堂から美女平までの長距離の山スキーである。身支度を整えワクワクしながら滑り始めたが、どうもスキーが思うように滑ってくれない・・・雨模様と暖気で雪が腐って重い雪になってしまっていた。

それでも長距離の滑走を充分に楽しみながら下山した。

  帰りは叔母が用意してくれたお寿司を馳走になり帰路についた。途中で温泉に一泊し、長い長い新潟の海岸線を走り鳴子経由で盛岡に帰ったが、その当日大学の イベントがあったような気がするが、その記憶は定かではない。今思うと貧乏学生のなんとも無茶な旅であったと思い出している。

 その後何拾年も経て女鹿さんに話したら、女鹿さんはあれから何回も”立山の春スキー”に出かけているそうな・・・