第18回大学祭と第2回電気展

‐盛岡での秋の思い出

 私が大学祭に関わりを持ったのは同袍寮46室に入ったことがきっかけである。同室の先輩が学友会の会長(町田氏)をやっていて47室に会計を担当した先輩(吉岡氏)いたのである。そもそも学友会という組織も知らなかっが、すでに北大医学部に進んでいた親友からの便りで、自宅が火災にあったんだから色んな会費など払わなくとも退学させらることはないよとアドバイスしてけれた。それでも同室に会長がいて、隣室に会計担当がいたので学友会の会費は納入することにした・・・

 こうして先輩が4年になると47室の先輩が手提げ金庫と帳簿を持ってきて学友会の会計をやってくれと頼まれた。同室の先輩(川本氏)が会長を引き受けることになったので、私も会計を引き受けることになったのである。最終的には学友会総会での承認が必要であったが、総会は岩大の各クラブの部長で構成されていた。

 そして盛岡に秋の兆しが感じられる頃になると大学祭の準備が始まるるのである。なず第一に大学祭の運営予算であるが、岩大の学生部からの補助金と学友会の会費、あとは地元の商店や企業からの寄付金を募って予算立てを行う必要があった。大学祭のパンフレットに広告を掲載する仕組みで一口3,000円、5,000円、10,000円程であったが、皆で歩き廻り結構な額となった。何しろお願いしたお店の広告デザインまで作って了解を取り付ける熱心さで、さながらセールスマンのように動きまわった。中でも地元でスキーを製作していた”ヤマダスキー店”の親爺さんとは、その後も長いお付き合いをし、学友の何人かにスキーを買ってもらった。遠くは花巻のコカコーラボトラーズや谷村新興まで協力をお願いに行った。

大学祭のキャンプファイヤー
大学祭のキャンプファイヤー

 それに更に予算を増やそうと”学友会主催のダンスパーティ”を企画した。当時各クラブでも遠征費用を工面するためにダンパーがよく行われていた時代であったので、学友会から各クラブに”パー券(100円)販売”を割り振って大大的に宣伝した。確か”ニュースター”という市内のダンスホールを借りて開催したが、予想をはるかに上回る集客となり1階のパチンコ店のお客が退避する騒ぎなったのを覚えている。こうして集めた予算は総額200万程だったと思うが、それを岩手銀行に預託し小切手を発行してもらい支払は全て小切手で行われた。

キャンプファヤー来た同期の仲間
キャンプファヤー来た同期の仲間

 大学祭実行委員会から各クラブに予算を支給し、イベントの企画はクラブの自主性に任せるものであったが、実行委員会独自では講演会と映画会を主催した。当 時ベトナム戦争反対に関わる学生運動がかなり活発だったころで、大学祭での講演テーマの選定は難航した・・・そこで地元盛岡で啄木研究家として知られた” 吉田孤羊氏”と活動家の間で人気の”鹿地亘氏”をお招きして講演会を開催したが、さてどちらのフアンが多かったかは定かではない・・・映画会は川端康成の 『雪国』であったが、実行委員の中に映写技師の資格を持っている者がいて助かったし、いろんな奴がいるもんだなと驚きもした。

 何んといっても大学祭の最大のイベントは第2回電気工学展であった。勿論、電気科の全面的なご協力と先生方のご指導があって成し得たことではあると思うが、我仲間の逞しさには今更ながら感動する。何しろ盛岡市民体育館を3日程借り切っての大展示会場を埋め尽くすほどの電気工学展であり、1年生までも来場者の応対や説明を担当したのである。とは言っても私自身は大学祭の実行委員会の方で忙しく、実際の展示物の作成や展示作業に加担できなかったが、大学祭の会計担当として少し多目の予算を引っ張り出すことで貢献できたと思っているが・・・この電気展は盛岡市民からも多くの関心をよび、同期のみんなも電気の知識の少ない一般市民の皆さんへの説明に苦労していた。

 そして昨年の44年卒電気の同期会を機に飛世さんの発案で始められた”スカイドライブ”に”第2回電気展”の写真を掲載したところ、盛岡の宮手さんから メールが入り、『すでに亡くなってしまった父親と妹が写っている。』と言うのである・・・私も直ぐにアルバムを観返し、”電子材料部門”の2頁目の中断の写真では ないかと返信した。私が偶然に撮ったスナップに熱心に耳を傾けているお二人姿が写しだされていた。

岩手山(岩山から宮手氏撮影)
岩手山(岩山から宮手氏撮影)

 大学祭に関わった皆さんにもそれぞれに佳き思い出があるかと思うが、哀しい出来事もあった・・・学内の空き地にテントを張り野営訓練を積み出かけた。岩手山の山頂で合流すると いう”分散・集中型の岩手登山”に臨んだワンダーホーゲル部が遭難したのである。岩手山の初冬の猛吹雪が襲いかかり4名の犠牲者が出てしまった・・・当時ワンゲルの新入部員に対する”シゴキ事件”が新聞紙上で避難を浴びていた頃であったが、岩大ワンゲル部の犠牲者は、チームを守るために奔走し た上級生だったのである・・・学友がお別れをしたいとの声が高まり”学友会葬”を執り行うことになった。学生部からの指示で私が葬儀の進行役を務めるこに なった。会場は宮沢賢治が弾いたことがあるというピアノが置いてある農学部の講堂であったが、別れを惜しむ多くの学友が集まり木造2階の講堂がきしみ始め たのである・・・1階の職員から伝言があり、会葬に来た学生を滞留させずに焼香を終わった人を祭壇の裏を通って外に誘導するようにとのことであった・・・しめやかな合 同葬儀なのに私独り緊張しながら儀式の終わりを待つことになってしまった。今でもあの光景をおもいだすことがある。

岩大学友会旗をユニバスヤードへ
岩大学友会旗をユニバスヤードへ

 在学3年の夏だったと思うが、代々木の国立競技場でユニバスヤード世界大会の開会式があった。その開会式に歓迎の意味を込めて全国の大学が召集され母校の校旗を持って行進することになった。この時は旅費も学生部から支給されるとのことで農学部の友と一緒に参加した。この写真は川崎に住んでいた兄が写してくれたものである・・・競技会のチケットも貰ったが観戦することはなかった。これは学友会の役員としての唯一の役得であったのかと思い出している・・・

第2回電気展 同期の仲間
第2回電気展 同期の仲間

 「第2回電気展」と手作りの看板の前で、44年卒の同期の仲間とのスナップ写真である。たしかこの看板は、同期の武田君に頼んで書いてもらったものである。当時、学生運動のアジ看板が学内のあちこちに建てられいたが、その書体を想い起こされるような気がする・・・