2018年

1月

23日

渡辺 貞夫  ライブ 2017.12.16 Orchard Hall

SADAO WATANABE Re-Bop Night

昨年も渡辺貞夫 Orchard Hallのクリスマスコンサートにやってきたが、渋谷ぶんか村へ行くのに一本道を間違え、道玄坂まで行ってしまった…

 今年はスムーズにオーチャド・ホールに着いたが、夕食を食べる時間がなかったので、ホールでサンドイッチを食べながらワインを呑んだ。この時期、渡辺貞夫のジャズ・コンサートは恒例となっているので、ぞくぞくとフアンが集まって来て、グラスを傾けながら仲間と歓談する様子は、好い雰囲気だ…

 ふと、昨年のライブを思い出しながら、赤ワインを口に含んだ…

 口に広がるワインの香りが、そのまま期待感を膨らませてくれた。 

<SADAO WATANABE Re-Bop Night>

日本を代表するサックス・プレイヤー、渡辺貞夫がビバップをテーマに挑んだ最新アルバムを携えて登場!“Re-Bop Night”と銘打った今回のツアーは、NYで録音を行った多様な方向からジャズを表現したニュー・アルバム『リバップ』の凄腕プレイヤーが集結する。生涯現役プレイヤーとして第一線で活躍し続ける渡辺貞夫が放つ“ジャズ・ミュージック”を間近で味わえる極上の一夜となることだろう。

 このような解説が掲載されていたが、ライブに参加してみて、これ以上言葉を加える必要はないと実感した…「極上の一夜」を過ごさせてもらった。

ブライアン・ブレイド(d)、クリストファー・トーマス(b)、渡辺、サイラス・チェスナット(p)
ブライアン・ブレイド(d)、クリストファー・トーマス(b)、渡辺、サイラス・チェスナット(p)

<第一部>

RE-BOP

I MISS YOU WHEN I THINK OF YOU

IF I COULD

WARM DAYS AHEAD

I THOUGHT OF YOU

PLUM ISLAND

 

<第二部>

TOKYO DATING

8.15/2015

TREE TOP

BYE BYE BABE

DEEP IN A DREAM

WHAT’S NEW

I’M OLD FASHIONED

LIFE IS ALL LIKE THAT 

<アンコール>

CHRISTMAS DREAM

花は咲く

即興


ブライアン・ブレイド(dr)
ブライアン・ブレイド(dr)

ブライアン・ブレイド( 1970年7月25日  )

  アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれ。幼いころはスティービー・ワンダーやアル・グリーンを聞き、ゴスペル音楽に触れ合って育つ。小学校に入ったころから様々な打楽器をたたくようになり、9歳から13歳の頃にはオーケストラでヴァイオリンも演奏していた。その後、兄の影響でドラムを演奏するようになる。18歳になりロヨラ大学に通うためにニューオーリンズに移住。そこでエリス・マルサリス等のニューオーリンズに住む有名ミュージシャン達とセッションを交わした。

 ナベサダお気に入りのブライアンは、最近人気でスケジュールを押さえ難いが、来年のツアースケジュールを押さえることが出来たと、ニッコリ笑いながらブライアンを紹介した…

 そのブライアンの演奏スタイルは本当に楽しそうで、見ているこちらも彼のドラムのリズムに乗せらて行ってしまう気分になる。それでいて、決して自己主張をせず、他の奏者とバランスのとれたドラミングは、ナベサダが惚れ込む訳だと密かに得心した…

クリストファー・トーマス(b)
クリストファー・トーマス(b)

 クリストファー・トーマスは、ブライアンの紹介で、今回初めてツアーだと彼を紹介してくれた…

 私は「人間の記録174 渡辺貞夫 ぼく自身のためのジャズ(日本図書センター)」の本の中で、メンバーに関する記事を読んだことがる。『・・・ぼくのサイドメンに年中文句言ってるわけだけど、・・・スティックの振り方はどうだとか、ベースを弾くときの腰がどうだとか・・・たとえば簡単な話、タイムがおかしい人は、これはもう姿勢をパッとみるだけでわかるよね。・・・ぼくがステージの上で体をゆすっているときってのは”そうじゃないんだ”といってゆすってときの方が多いんだよ。・・・

サイドメンがいいときは、ぼくは引っこんじゃうしね。任せられないとウロウロしちゃうわけね。』

 このことを思うと、今夜のステージでは袖の方でリズムを取りながら、出番を待っている方が多かった…初めて組んだトーマスのベースに充分満足して任せていたんでしょうね…でも、時にはトーマスに近くへ行き、さあもっと来いとばかりにけしかけるようなシーンもあった。それに応えるトーマスの高音部のベースの響きは、私の背筋をゾクゾクっと震わせた…

 そして、このクリスマス・コンサートで今年のツアーを締めくくると満足そうに語った。

サイラス・チェスナット(p)
サイラス・チェスナット(p)

サイラス・チェスナット 

生年月日: 1963年1月17日 (54歳)

生まれ: アメリカ合衆国 メリーランド州 ボ   ルチモア

映画: ヴァリアス/ピアノ・グランド!~スミソニアン・セレブレイション

学歴: バークリー音楽大学、 ピーバディー・インスティテュート・オブ・ザ・ジョンズ・ホプキンズ大学

 今晩の座席は、ピアノのチェスナットの背中が見える位置であった…背後から見たチェスナットの背中の広さ、お尻の大きさからして、最初は女性ピアニストかと思った…ところが、幅広いお尻の男性の奏でる音色の幅の広さには驚かされた…澄んで転がるような高音部、ズスンとくる低音の響き…曲目によりしなやかな指の女性のように、また別の曲では頑健な男性の演奏にかわるという、変幻自在の音色で楽しませてくれた。

 この写真は、上記で引用した『渡辺貞夫の著書』で、あの11.3.11の東日本大震災直後の4月25日に発刊された。渡辺貞夫が語り、評論家の岩浪洋三氏が編集し、語り切れなかった箇所には適切な解説が加筆されおり、ナベサダの今日の音色が生まれるまでの数々体験が記録されいた…

 この本の最後に『渡辺貞夫のリーダー・アルバム』として82枚もアルバムが、彼の音色の歴史としてリストアップされていた…

そのリストを辿って行くと、私の大好きな鈴木良雄(b)と増尾好秋(g)が共演したアルバムが10枚ほどあった…その殆どを息子が持っているので、じっくり楽しませてもらっている…息子はライブの度にお二人にサインをお願いすると、それぞれを懐かしそうに手に取り、思い出話を交えながらサインをしてくれていた…二人共自分のバンドを率いているので、近年の共演は難しいようだが、いつの日かナベサダと共演のライブを観たいものだ…

 

 『この本は、はじめは自身の備忘録として進めてきたが、自分の口からでた言葉は自分への約束となり、いまや挑戦となってぼく自身にはね返ってくる。』と語っていた…

 この本で語っているように80代となった今も、なお進化続けるナベサダのサックスは、聴く人の心を優しく和ませてくれる。とっても好い心地だ…

 今夜もアンコールの『花は咲く』には、胸が熱くなった…ナベサダの澄んだ哀愁を駆り立てる響きは、聴く人の涙さえ誘う不思議な力がある…

 <再アンコールに応えた即興演奏>
 <再アンコールに応えた即興演奏>

 アンコールが終わっても、誰一人席を立とうとしなかった…暫くの沈黙の後、再び大きな拍手が巻き起こり、それがやがてナベサダ・コールの手拍子に変った…

 誰もいない暗転したステージにライトが燈され、サックスを持ったナベサダが現れた…大きな拍手とともに即興演奏が始まった。何の音響装置も無しの”生音”がホールに響きわたった。こんなにも大きな音で、朗々と響くサックスの音色に観客全員が、引き込まれていった…だれもが、大満足のシーンである。

 本の中に『・・・聞きにきた人がお金を払った分だけは返したという気持があるからね。』とプロ根性が語られていたのを思い出していた…

 

 渡辺貞夫が敬愛してやまない『バード』の愛称で呼ばれるサックスプレイヤーの詞が、この本の表紙を捲った頁に記載されていた…

 

『 音楽とは君自身の経験であり、君の思想であり、君の知恵なのだ。もし君がまことの生活を送らなければ、君の楽器は真実の響きをもたないであろう。

チャーリー・パーカー 』

 

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2018年

1月

04日

第13回 賢治と歩む会 2017.10.28

<盛岡・イーハトーブアベニュー>
<盛岡・イーハトーブアベニュー>

 実は10月28日は、ラオス旅行に出かけていて参加できませんでした・・・「第2回の賢治と歩む会」から、欠かさず参加していたので残念であったが、元会社の同期との旅行を約束していて致し方なかった。

 第13回ではテレビ放映された「宮沢賢治の食卓」の第三話を鑑賞することになっていたので、録画したDVDを瀧田さんにお預けしておきましたが、ブルーレイディスクであったために再生できなかったそうだ。

 確認不足で誠に申し訳なかった・・・でも、萩原先生が「宮沢賢治のサハリン旅行」のお話をしてくださったそうだ。ことらも残念なことをした・・・

 これまで「賢治と歩む会」に関するブログの掲載を継続してきたので、今回は第13回の会報から抜粋した記事を掲載させていただく。

  <賢治が訪れたサハリン栄浜>
  <賢治が訪れたサハリン栄浜>

『 第十三強会報告 』  

 2017年10月28日㈯に第13回目の勉強会が、熊谷市市民活動センターを会場に八名で行われました。予定では、ドラマ『宮沢賢治の食卓 第三話』を鑑賞することになっておりましたが、都合により、萩原先生による宮沢賢治のサハリン旅行に関する貴重なお話をお聞きすることになりました。 

 今回の勉強会では、1996年に樺太の栄浜村に住む山口氏から萩原先生へ宛てられた手紙(資料)を基に宮沢賢治がサハリン(樺太)を旅したことに、どのような意味があったかということについて話していただきました。山口氏は、一九九六年二月に「テレビ朝日」と「TBS」で『銀河鉄道の夜‐樺太の旅』を放映したことをきっかけに、栄浜在住故に知りうる事実を多くの人に伝えようと地図を添え、賢治のサハリンの旅の詳細について両テレビ局の放映の内容を比較し、萩原先生に「近況対談に代えて、失礼します。」と綿密に筆を執られていました。萩原先生は、サハリンへは三回足を運んでいるそうです。一度目は、賢治の弟の清六さんの強い要望により。二度目は、「TBS」が放映した先の番組の制作に関わられてとのこと。その経験から、山口氏の報告による資料を丁寧に説明してくださいました。賢治は、1923年7月31日から8月20日にかけて、北海道を経由してサハリンまで至る一人旅を行いました。この旅行の直接の目的は、樺太の王子製紙に勤務している先輩を訪ねて、農学校の教え子の就職を依頼するということでしたが、実は賢治にとってもっと深いところでは、これは前年の11月に亡くなった妹としの魂との交信を求めた旅とのこと。そのサハリン旅行についての足取りをお聞きすることで、賢治がどのような境地でサハリンの地を訪れたかを垣間見ることができました。

萩原先生は、このサハリンの旅を最後に次のように語っていらっしゃいました。「賢治は、妹としとの魂の交信を求めてサハリンまで行った。しかし、結果、交信はできなかった(寂しさがなくなることはなかった)。しかし、その後、関東大震災を経験したことにより、大きく賢治の視点は変わった。つまり、妹としだけのことを考えてはいけない。本当の意味での祈りをしていなかったことに気がついたのだ。この気づきは、個人から全体へと目が向くこととなった。ここで世界全体の幸福を強く考えるようになったのだ。」

 <山下瑞穂氏が貸してくれた本>
 <山下瑞穂氏が貸してくれた本>

 「宮沢賢治と私」

 私は昭和41年に岩手大学工学部の同袍寮で暮らすようになった。学部には宮沢賢治の甥・岩田純蔵先生が教鞭をとっていたが、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。」と言って賢治のことを語ることはなかった。更に農学部には賢治が暮らした「自啓寮」があり、私はそこに泊めてもらったこともある。こんな背景の中で学友が『日本詩人全集 宮沢賢治(新潮社)』を貸してくれたが、その本を借りたまま転勤を繰り返し三十年も持ち歩いてしまった。

退職後、熊谷に住むようになり公民館で開かれた「入門 宮沢賢治」の講座を受講して、改めて「風の又三郎」を読んでみた。私が生れる11年ほど前に書かれた物語だが、村の童たちの遊びは私が育ったころの遊びと殆ど同じだったので、賢治を身近に感じるようになった。

これを機にこの宮沢賢治の本を読み始めたが、詩集『春と修羅』は難解で読み通すことができなかった。その上視力も弱くなってきており、漢字に振られたルビは殆ど読めず、表意文字の漢字から意味を咀嚼できたとしても、詩のリズムを感じとることはできなかった。それでも強引に読み進め、時として賢治の詩のリズムを感じたとった時の心地よさは何とも言えなかった。そんな時は、賢治の心象スケッチの風景は見えてきたような気にさせてくれるのだ。ただ、多くの場合、行から行への展開の飛躍には中々ついて行けなかった。それは賢治の詩は心象スケッチなるが故なのであろか。

 生前は無名に近かった賢治の作品を評価し、世に送り出したという草野心平は、『日本詩人全集 宮沢賢治(新潮社)』の編者として巻頭言を次の言葉で締めくくっていた。

『宗教と科学と文学との、稀にしか見られない綜合的な混洧から、賢治の独自な光の文学は生れた。膨大なひろがりと同時に垂直性の深い稀有な文学が生れたのである。』

 その後、熊谷短歌会の金子会長のご紹介で「賢治と歩む会」に入会し、萩原先生からお話を聞く機会を得、「人間・賢治を追い求めて」花巻で実証研究を続ける岩田純蔵教授の教え子・鈴木守氏からの刺激を受けるようになり、宮沢賢治の世界にのめり込んでしまった。

(小南 毅)

 

※山下さんからお借りしていた本は、同袍寮OBの時にお返した。

 長い間お借りしたままのお詫びとお礼を添えて・・・

 あすなろ さん、コメントありがとうございます。本日(1月21日)直木賞の門井慶喜氏著「銀河鉄道の父」を読み終えました…

 本書の344頁に「春と修羅」を最初に評価した人は「辻潤」と記載されてありました。あすなろ さん、ご指摘ありがとうございました。

 また、よろしくお願いいたします。

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2017年

12月

26日

増尾好秋トリオ Our Delight 2017.12.9 

 今日は11月18日の愛宕会の約束を反故にしたお詫びにマドンナを誘った…17時半に蕨駅で待ち合わせ、ライブの前に寿司屋へ行った。以前息子とランチを食べたことがあるが蕨駅から大宮方向に少し戻った所にある。

 今日は息子と三人で入ったが、夕飯には早い時間帯で客は我々だけだった。上握り寿司の大2、普通1にビールを頼んだ…お寿司は美味しかったが、この大は食べきれぬ程で、息子に手伝ってもらった。美味しい味噌汁もついてお値段はお手頃であり、大満足であった…

 ライブが無ければ、そのままお酒を呑んでいたかったのだが…

 マドンナが食事をしながら愛宕会の様子をはなしてくれた…高校の同期は4人しか参加していなかったが、後輩にあたる菅官房長官が出席し、挨拶のあと各テーブルを廻って一緒に写真を撮ったそうだ…記者会見ではいつも原稿を読み上げているので、失言も少ないと思うが、あの「森・計問題の怪文書」発言では実在することが判明し、物議を呼んだ…官房長官に就任当初は、沢山の付箋の付いた書類も持って記者会見に臨んでいた頃を思えば、安倍長期政権が続き慣れてきたようだ…

 ・流行語に森・計のびて「忖度」を国会質疑が大賞たらしむ

 

 級友の話も伝えてくれたが、こちらは少し不快な思いもあったようだ…

 会場時間の少し前に着いたが、次々とフアンがやって来た。今日は満席で3列目の椅子に名前が貼ってあった。その席は部屋中央の柱の後方にあり、右手の壁にはプロジェクターのスクリーン、梁にはディスプレーが設置されていた…Delightのマスターは中々のテクニシャンで、正面左手のディスプレーと合わせて3つにライブの見どころを巧みに切り替えて、映し出してくれる。

 今回は、ハモンドオルガンの鍵盤を天井からのカメラで写し、宮川純さんの指の動きを眺めながらハモンドオルガンの音色を楽しむことができた…

 増尾さんは今春にオルガンの宮川さんと共演して以来、Delightでは二度目のライブだと話した…その時の宮川さんの演奏に惹かれて、今回のライブが実現したという…

 日本でハモンドオルガンのジャズを聴けるところは、ここと中野のライブハウスだけだと思うと話した。今日は、日本一のオルガン・プレイヤーの演奏でオルガンの音色を存分に楽しんで欲しいと語った。 

 そしてジャズ界のオルガン奏者としてジミー・スミスを引き合いにだした…

 ジミー・スミスは、アメリカ合衆国ペンシルベニア州生まれ。ジャズ・ピアニストから後にハモンドオルガン奏者としてソウル・ジャズというスタイルを確立し活躍、B-3という形のハモンドオルガンを普及させた。   特徴的なのは音色(パーカッション)と下鍵盤で演奏する左手でウッド・ベースの音色を出し、多くの後進オルガニスト達が手本にしたという…

   宮川純(オルガン)
   宮川純(オルガン)

 宮川純さんのプロフィールをWebで検索してみた。 

 宮川純は1987年生まれ、愛知県出身。5歳でエレクトーンを始めてからジャズ、フュージョン、ロックなどに傾倒。高校卒業後本格的に音楽家を志し、甲陽音楽学院名古屋校に進学。ジャズ・ピアノを水野修平、竹下清志両氏に師事。在学中より小濱安浩バンドなどでのライヴ活動、nobody knows+、S.B.B.のレコーディングへ参加するなど、名古屋のシーンで徐々に頭角を現という…

 宮川純さんもやはりジミー・スミスをお手本にして腕を磨いていったのであろうか…

   奥平真吾(ドラム)
   奥平真吾(ドラム)

 奥平真吾は、少年の頃にデビューした天才ドラマーですと、増尾さんが紹介した… 

 彼は、1975年僅か9才の時にジャズクラブのセッションにおいてドラミングを披露、少年天才ドラマーとして全国版のニュース番組に報道され一躍時の人となる。

 1977年に初リサイタルを赤坂TBS ホールで催し、1978年、11才の時にデビュー・アルバム「処女航海」をリリースした…

 

 増尾さんは、二人の若手(中堅)プレイヤーとトリオを組んでのライブが始まった…70代の増尾さんから見たら、やはり二人は若手なのでしょうね、彼らを優しくリードしている様子が伺えた…

<1st ステージ>

Time to making a donuts

How insensitive

Walk On By /Burt Bacharach

My ship

Part of the deal /増尾好秋

<2nd ステージ>

Pensativa

The best things for You

Everything I love /C.porter

But not for me /w海老原淳子

Full house

<アンコール>

               In a mellow tone

 

  心地よい増尾さんのギターを包み込むような宮川さんのハモンドオルガンの響きを身体全体で感じた…目をつぶると教会のチャペルの中に聴いているような錯覚に陥った。

 1stステージが終わってから、宮川さんからハモンドオルガンの話を聞いた…

 ライブの度にオルガンを運び込むのかと尋ねると、このオルガンは名古屋で入手し、マスターにお願いしてここDelightに預かってもらっているという。

 更に、スピーカーの上段で回っていた風車のようなものを尋ねると、鍵盤の左側のボタンを押して、風車を速くまわすと音色にビブラートが掛りますよと言いながら実演してくれた…こうしてお話を聞いてみるとハンサムな宮川さんのお人柄に親しみを感じた…

 ハモンドオルガンの仕組みを説明いただき、2ndステージでは梁に取り付けられたディスプレーで鍵盤の上を走る宮川さんの指の動きを興味深く眺めた。 

 この写真は、奥平さんが若い頃に新宿にあるライブハウス「PIT INN」で撮られたもの。

 若き天才ドラマーとして自信に満ち溢れているようですね…

 それから30年位はドラムを叩き続け、腕に磨きをかけてきたのでしょう。今日も自信に満ちた演奏を聴かせてくれた。

 しかし、大ベテランの増尾さんとの共演に少し張り切り過ぎているように感じた…

 このライブハウスの音響効果のせいもあるだろうが、増尾さんの繊細なギターの音色を潰しているように思え、もう少し抑えたドラミングの方が、好かったように感じた…

 増尾さんは、2ndステージの最後の方で彼のバンド「まがたま」のヴォーカル海老原淳子さんを紹介した…私は18日の「鈴木良雄&増尾好秋」のライブでの増尾さんのスキャットを思い出し、「増尾さんは歌が上手いよ」とマドンナに話した。

 今日は海老名さんの車で連れてきてもらったと話し、スペシャル・ゲストとして歌ってもらいますと「But not for me 」を始めた…そして増尾さんも一緒に歌い出した。増尾さんはアメリカで暮らしているが、我々には解り易い発音で、その歌に聴き入った…

 増尾さんは、アンコールに応えた後、これが日本での最後のライブで数日後にアメリカに戻りますと結んだ。来年、また増尾さんのライブを聴きに来ますと挨拶し、一緒に写真を撮らせてもらった…

 今晩はマドンナも大満足だったようで、「愛宕会と息子に只々感謝します」とショートメールが23時過ぎに送られてきた…

 

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2017年

12月

03日

バイソン片山トリオ SPACE1497 2017.11.23

 今年の夏7月13日「バイソン片山トリオ」のライブに参加した。その時バイソンさんに11月23日のライブにもまた来ますと約束した…今日は23日勤労感謝の日なので孫のとこへ遊びに行き遅くなったので、夕飯はコンビニ弁当で済ませSPACE1497へ向かった…

 雨の予報だったが、幸い晴れた。

 会場に入るとスーツ姿のバイソンさんが、ドラムの前に坐っていた。そして開口一番、「しまった、約束したレコードを忘れた」と息子に声をかけてきた…バイソンさんのデビュー当時のジャズ・アルバムが賞を受け、記念に100枚プレスされたレコードを家の中を探したら、まだ6枚あったので用意しておいたのにと付け加えた。車に積んでおくと変形してしまうしなあと呟いた…

 そして、12月18日に来るときに持ってくるよとも言っていた。

 この写真に写っているテーブルが、いつもの席である…昨夜、マスターに電話して予約の確認させてもらった。やはり、この席に予約の紙を置いてくれていた。いつもの席に座り、いつものビールを呑みながら開演を待った。そして、いつものテーブルでワインを飲みながら待つ馴染みのフアンのグループが居て、互いに挨拶を交わした…

 今日は休日でお出かけの方が多かったせいか、お客さんは10人程であった。それでも、バイソンさんは「今日はミウチシャン(身内)の集まりですね…」と明るくジョークを言いながら始めた。今日は青山学院での演奏を終えてからやって来たと続けた…

 そうか、それでジャケットとネクタイ姿でのライブになったのかと納得した。

今日のライブもピアノ:小池純子、ベース:ブレント・ナッシーと息の合ったトリオである…この三人は目配せ一つでどんな曲でもジャズに仕立ててしまう力量を備えたプレイヤーなのである。今晩のライブは、そのことを裏付けるかのように、観客からのリクエストに応える形で進行していった… 

 馴染み客から「聖者の行進」がリクエストされた。するとバイソンさんは、片手にマイクを握りサッチモの愛称で知られているルイアームストロングの物まねで唄ってくれるというサービスぶりであった…

 まさに、みんなミウチシャン(身内)のようなアットホームな雰囲気に浸った…

 次のリクエストは、何か日本の演歌のようでしたが、この曲を三人でやるのは初めてと言いながらも、小池さんがピアノでメロディーを弾きだした。するとバイソンさんがドラムでリズムを刻み、タイミングを見計らってナッシーさんのベースが加わり、次第に盛り上がっていった…

その曲の進行とともにそれぞれが思い思いのアドリブを入れて来て、一つのジャズになっていった…

 バイソンさんがマイクをとり、初めて出会った人とでもこうして互いの音で会話できるのが、ジャズなんですよというと、ナッシーさんが「THIS IS THE JAZZ!」と少し興奮気味に大きな声で言った…この場面に感動をもらった。

1stステージが終わった休憩時間に、息子はピアノで「枯葉」を聴きたいと小池さんにリクエストした。小池さんも得意な曲らしく、快く引き受けてくれた…

 確かに彼女のピアノが心に沁みて来たが、

それにベースもドラムも彩りを添え、色とりどりの秋の景色のなかに、もの寂しさも感じさせてくれた。この季節、秋の景色を思い浮かべながら「枯葉」を満喫した…

 バイソンさんは、突然手招きして観客の一人を呼び寄せ、スティックを渡しシンバルを叩かせた…それに合わせて右手でドラムを叩き始めた。するとベースのナッシーさんがベースを弾き、更に小池さんのピアノが加わった…

 何だか楽しいジャズ教室のようだった…それから観客からスティックを受け取りそのまま演奏を続け、一曲のジャズを仕上げた…

 この写真のブログへの掲載を快諾いただいたのでアップさせてもらった。

 MCのバイソンさんが、名前なしー(ナッシー)はマイナス50℃の北極圏カナダで生まれたと紹介すると、ナッシーさんは即座にスマホを取り出し、それを覗きながら「現在の気温はマイナス20℃です。今日は暖かいです。」と切り返し、どっと笑いが起こった…

 彼の奥さんは日本の女性で結構日本語が上手で、しかもとつとつと話すトークも魅力的で、いつも心を和ませてくれる…

 今晩のライブでは、1stステージが終わっても控室には行かず観客と懇談していた…

 息子はナッシーさんの弓で弾く音色を聴きたくてアルバム「 Dearly Beloved Jazz」に収録されている曲「 I Love You,Porgy 」をリクエストすると「 OK! 」と言って喜んで受けてくれた。

 前回のライブで聴いた音色も耳の奥底に残っているほどに印象深かったが、リクエストに応えての彼の演奏は真剣そのものに見えて、こちらも息を殺して聴き入った…

 お腹に伝わってくるような重低音のベースの響きに感動した。

 そして、ライブが終わると今日は間違えなくて良かったと終演後に呟いた…

 今度は「A列車で行こう」のリクエストが入った。するとバイソンさんは、見学に来ていたカイト君を呼び「カイト君に演奏させてください。」と言うと拍手で応えた。今日の観客は、夏のライブでバイソンさんがカイト君にドラムを教えているのを知ってた…でも、その時はスティックの握り方や降り降ろし方などの基本的なことを教えていたのに、大丈夫かなあと思いながら見ていたのだが、はにかみながらもドラムを叩き始めた。ピアノとベースの助けもあって、次第に調子を上げ堂々とソロ演奏もこなし、大きな拍手が起こった…

 たった4ヶ月でこんなにも上達するのかという驚きと共に、ただただ微笑ましい光景にほっこりした気持ちになった…

 彼は、後進の指導にも力を入れておりドラム・リズムクリニックを主宰。

 ワインを頂き、上機嫌の観客からどんどん声が掛った…「速い曲が好い…スィング・スィング」とのリクエストにも応えた。

 バイソンさんのドラムが次第にアップ・テンポで煽るとベースもピアノもそれに応戦し、大きな拍手が起こった。

 今度は「タンゴが好い」と言い出した…

バイソンさんが「タンゴにはアルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴがありまして…」と解説を始めると、それを遮るように「黒猫のタンゴ」と声が掛った…

 こうなると留まることを知らない。それでも小池さんが「黒猫のタンゴなら知ってますよ」と言ってピアノを弾き出すと、ドラムもベースもそれに加わった…

 私は二杯目にジャックダニエルのオンザロックを作ってもらいながら「今晩は我儘ライブですね」と声をかけると苦笑いをしていた。ジャズに詳しいマスターも…

 最後に「上を向いて歩こう」をリクエストされるに至り、バイソンさんもとうとう戦意を無くしてしまったのか、お茶を濁しながら後始末を始めてしまった…

 そんな訳で「アンコール」を要望するタイミングを無くしてしまい、幕切れの良くないライブになってしまった。

 何だか忘れ物したような心残りがあった…最後にジャズのスタンダード・ナンバーをリクエストして、気持ちの好い演奏で締めくくってもらいたかったと悔やんだ。息子も同じ思いであったようだ…

 ライブが終わってから、バイソンさんと少しお話し、一緒に写真を撮らせてもらった。するとバイソンは立ち上がり、私をドラムの前に座らせ、こんな写真の演出をしてくれた。そんなバイソンさんを好きになってしまった…

 

 山本剛さんと小南毅
 山本剛さんと小南毅

<追記>

 今回の「バイソン片山トリオ」のライブの前に、息子がGoogleで「バイソン片山 山本剛」で検索して、「画像」を表示すると、なかほどに左のような写真が掲載されると教えてくれた。私も試してみた…

 そして「山本剛さんとの写真」をクリックすると、私のブログにリンクされるようになっていた…

 どなたかが、この写真を投稿して下さったのでしょうか…何とも不思議な思いを抱いております。

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2017年

11月

30日

鈴木良雄&増尾好秋 Gface Cafe 2017.11.18

 10月8日に「横浜ジャズ・フェス」に出かけ鈴木良雄&ベーストークのライブに参加した。久しぶりにベーストークのライブを聴いて至福の時を過し、また息子が岡部洋一さんのCDとDVDを買い求めサインをもらい親しくお話もできた。

 その時、サイン会を終えた鈴木良雄さんともお話して11月18日に前橋のGface Cafeで予定されている「鈴木良雄&増尾好秋」のライブに行くことを約束した…

 今日前橋「Gface Cafe」の開演は18:00なので早めに家をでたが、今回は順調に会場に着いた… 

 会場には16時過ぎには着いたが、開場は16:45ということで、暫く待つことになったが、その間二人のリハーサルを聴くことができた…私が外で一服していると携帯が鳴った…戻ってみるとリハーサルを終えた鈴木良雄さんとご挨拶できたのにと、息子が、少し興奮気味な面持ちで待っていた…

 会場の入口には「OLD PAL 古き良き友」と書かれた鈴木良雄さんと増尾好秋さんの写真が、ライブの案内にプリントされていた。

 更に「世界に名を馳せるトップジャズプレイヤーのspecialライブ」と書き添えられていた…

 お二人の間柄については鈴木良雄さんの著書「人生が変わる55のジャズ名盤入門」でも読んでいた…彼らは早稲田のモダンジャズ研究会の頃からの友達で、この本では「第2位ソニー・ロリンズ」の節に登場する。

『僕がにNYに行ったばかりの頃、もうジャズ・ギタリストの増尾好秋がNYでソニーと仕事をしていた。ソニー・ロリンズのところに、ボブ・クランショウというベースがレギュラーでいたんですが、、急にツアーに行けなくなったから一緒に行かないかと、増尾がソニーに紹介してくれたんです。フィラデルフィアの「ジャスト・ジャズ」というジャズ・クラブで、2週間一緒にやりました。』

と50年近くまえのことが書かれていた。そうした鈴木良雄&増尾好秋のデュオには大いなる期待をよせて、開場されるのを待った… 

 定刻に開場となり、この写真右側の最前列のテーブルに座った。入場券の半券で赤ワインを頼んだ…そして夕食にパスタもオーダーした。量は少なめながら、これがとても美味しくワインを飲みながら食べた。

 この場所は最適だった…これまで真近で聴く事の無かった増尾さんと至近距離なのだ…

   アルバム「Around the World」の収録曲

1. セイリング&ローリング (Yoshio Suzuki)

2. 80日間世界一周 (Victor Young)

3. アイル・ビー・ウィズ・ユー(Yoshiaki Masuo)

4. バークリー・スクエアのナイチンゲール(E. Maschwitz-M. Sherwin)

5. ムーン・スルー・ザ・ウィンドウ(Yoshio Suzuki)

6. マイ・アイデアル (L. Robin-N.Chase-R. Whiting)

7. イン・ザ・フィールド (Yoshio Suzuki)

8. マイナー・アジャストメント(Yoshiaki Masuo)

9. ディープ・イン・ア・ドリーム (E. De Lange-J. Van Heusen)

10. ラスト・ラヴ (Yoshio Suzuki)

11. コーヴァリス (Yoshiaki Masuo)

12. ミュージック・フロム・ザ・レイク (Yoshiaki Masuo)

 今夜は、このアルバムから演奏された…このアルバム収録中に、あの3.11大震災がやって来たと、Chinさんが感慨深げに語った…

 「古き良き友」鈴木良雄&増尾好秋デュオの音色は会場に響き渡った…何なんだろうこの二人は…60年近い旧友だと語るChinさんと、互いにリスペクトし合いながら、相手を引き立たせるような絶妙なバランスが、聴衆を無我の世界に誘ってくれた…

 息子と私は息を呑んで聴き入った…

 MC Chinさんの駄洒落トークも楽しみの一つだが、今日は増尾さんに「いいだろう」と問いかけながら1970年の渡辺貞夫カルテットのメンバーとしてのヨーロッパ、アメリカ・ツアーにも話が及んだ…

 そのツアーでNYからロスへの移動中に増尾さんが消えてしまったという…増尾さんはアリゾナにいる恋人に会いに行ったのだと…

 でも、その後、その恋人と結婚し、今はバージニアに住んでいるという。

 そして現在は、年老いた母親の事もあり、3ケ月ごとにアメリカと日本を行き来して、演奏活動を行っているとChinさんが話してくれた…このように、旧友ならではのエピソードを聞かせてくれた。

 増尾さんは少し照れ臭そうにしながらも、Chinさんの話に頷いていた…

 しかし、一旦演奏が始まると増尾さんの立ち姿は一変する…ギターを抱えた増尾さんのスタイルも音色もスマートだった。流石にジャズの本場アメリカで鍛え抜かれた増尾さんの演奏スタイルなのであろう… 

  ギタリスト:増尾好秋
  ギタリスト:増尾好秋

 上の写真は増尾さんが愛用のギターだ。

ほかの観客も出てきて写真を撮っていた…

 今回のライブで増尾さんと身近に接することができ、そのお人柄を伺い知ることができた…1stステージが終わった時、直ぐ目の前で演奏していた増尾さんに息子が声をかけ、CDへのサインをお願いした…すると、友達と食事をするからと言って控室に戻った。

 でも、増尾さんは、ほどなくやって来て、息子の前に坐った。休憩時間中にサインしてあげようと急いで食事を済ませたようだ…

 私は、このような誠実な増尾さんの姿勢から、そのお人柄を感じとった。

 そして12月9日「Our Delight」の増尾さんのライブを見に行くと伝えると、「今日とは違うライブを楽しんでください。」と言って私と息子に握手を求めてきた…

 このCDはアルバム「アラウンド・ザ・ワールド」で、既に頂いたChinさんのサインを眺めながら、丁寧にサインしてくれた。

 そして、本当はもっと大きな音が出せるんですよと言いながら、ちらりとギターの方に目をやった…そうか、リハーサルの時にマスターが会場の後ろの方から合図を送っていたのは、この会場に合わせて音量や残響などをチューニングしていたのかと改めて思った…アーティストは、開演前にこれほどまで気配りするものかと…

 休憩中にマスターがマイクを持ち、カメラやスマホのシャッター音を消音して下さいとアナウンスした。そして「OLD PAL」というカクテルをバーテンダーがシェークしますよと案内した。私は、早速そのカクテルを頼むと、ほどなくカクテルと水が運ばれてきた。

 そのカクテルを口にふくむと仄かな渋みが残った…暫く口の中に広がった渋みを味わってから、添えられた水を飲んだ。

なるほど、このカクテルは、こうして味わうのかと思った…

 2ndステージの最中、私のスマホの呼び出し音が鳴ってしまった。たまたま演奏の合間ではあったが、Chinさんがすかさず「誰だ、携帯が鳴っているぞ!」と言ったので、慌てて止めた…私は、開演の前にわざわざ消音モードに変えたはずなのにと悔やんだ。

 ライブが終わってから、持参したジャックダニエルをChinさんに手渡した。そして耳元で「携帯を鳴らしてしまったのは私です。」と小声で謝罪すると、Chinさんはにっこり笑って「太っ腹!太っ腹!」と言って慰めてくれたが、申し訳ないことをしてしまったという気持ちでいっぱいだった…

 流石に「鈴木良雄&増尾好秋」のライブは満席だったので、帰りがけにマスターに声をかけて訊いてみると、今日は50人以上入りましたと笑顔で応えてくれた…

 大満足で車を運転する息子は、帰り路を少し間違えてしまったたが、直ぐにリカバリーできたので、順調に帰ることができた。

 私は、ライブでの感動を確かめるように、CDを借りて二人のサイン入りのアルバムを聴きながら床についた…

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2017年

11月

22日

ラオスへの旅路 2017.10.26 ~ 30

 元会社同期の仲間が、10年も続けて来た東南アジアへの旅も体調不良のため参加できない人が多くなったという・・・そんな事もあり、誘われるまゝに今回初めて参加した。

 勿論、ラオスという国に興味があったからではあるが、何の予備知識も無しに出かけることになってしまった・・・

 学生時代に「ベトナム戦争反対」のデモに参加したことがある・・・

そのころラオスのヴィエンチャンという地名は聞いたような気がするが定かではない。今回の旅で改めて確認したが、中国、ベトナム、カンボジア、タイに囲まれ海に面していない国であった。昔より隣国からの侵略に晒され、それに耐えてきた国のようである・・・ベトナム戦争後は「共和国」となりベトナムを兄弟と呼んでいた。

 また、ベトナム戦争後にアメリカに加担した部族数万人はアメリカに亡命したという話が印象に残った。

 ラオス共和国として独立する以前は、フランス統治領であったこともあり、フラン風の建物が軒を連ねる街並が残っていて、アルパバーン全体が「世界遺産」に指定されているとのことだ・・・ただ、新たな開発の手を加え難いという事情もあり、インフラ整備の妨げになっているようだ・・・

 宗教的には古くから仏教が主流で日常生活まで浸透しているように見えた・・・

 現在月額3万円もあれば暮らして行けるそうだが、年々土地の価格が上昇しておりインフレ・バブルが始まっているようだ・・・ 

 これはヴィエンチャンの凱旋門である。米国から飛行場整備支援金が提供されたが、戦争に活用されることを恐れ、滑走路の中央に凱旋門を建設すために使ったという・・・

 今は公園となり観光名所として沢山の人々が集う憩いの場である。

今回のツアーは4泊5日と短期間であり、殆どはガイドさんから聞いたはなしではあるが、現地へ足を運んで初めて実感できたことがらでもある・・・このガイドさんは、日本に3年ほど滞在したこともあり、横浜に彼女いると話していた・・・何処へ行っても女性の知り合いがいて、ドンファンな好青年であった。

 東南アジアへ初めてやってきて、物珍しく沢山の写真を撮ったが、このブログでは紹介しきれないので、その写真を編集したDVD「ラオスへの旅路」をご覧いただけれが幸いです。宜しくお願いします。

 

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2017年

11月

11日

川島哲朗 トリオ Our Delight 2017.11.11

 11月5日に「松島啓之&田中菜緒子」のライブで熊谷にやって来た川島哲朗のサックスが聴きたくて予約した。実は、11月18日の高校の同窓会「愛宕会」にマドンナに誘われたが、急に参加できなくなったお詫びに三人分予約をとったのだが、都合が合わず息子と二人でやって来た・・・

 今回のお昼は、蕨駅前の「王将」でラーメーと餃子を食べた。私の好きな「味噌ラーメン」は、結構本格的な一品でボリュームもあり、充分満足した。 

   小林 航太朗(Bass)
   小林 航太朗(Bass)

 小林航太朗さんは、1984年11月16日生まれの神奈川県藤沢市出身で父がベーシスト、母がヴォーカリストという家庭に生まれる。幼いころにクラシックのバイオリンとピアノを習い始める。

 中学生のときにも部活でチェロを習い始めるが、そのころに見たアマチュアのジャズバンドを見て、衝撃をうけ、ジャズに転向し、以来、ウッドベースを弾き始める。

 ベースの奏法を父である小林新作に師事。

 高校生のころから地元藤沢のライブハウスのBECKで演奏活動を始め、数多くのアーティストと共演してきたという…

 彼は見るからに真面目そうは人で、演奏も情熱的で好感がもてたし、ベースの生音がズンズン響いてきた。特に大ベテランの川島さんにサックスで煽られると、それに応えて懸命に演奏する姿は微笑ましかった…まさにジャズライブの醍醐味を実感できるシーンであった。

   佐津間純(ギター)
   佐津間純(ギター)

 佐津間純さんは、1982年生まれ鎌倉出身のジャズギタリスで東京、神奈川を中心に演奏活動していいる。そして彼は、50-60年代のジャズが特に好きで、岡安芳明さん、道下和彦さん、ケニーバレルらのギタリストから影響を受けたと、自身のブログにあった。

 彼は見るからにハンサムな好青年だ…

 そしてギターの音色も一点の曇りも感じさせない澄んだ響きを奏で、心に沁み通ってきた。彼は60年代のジャズが好きだと言っているが、そのブルージーなメロディーからは演歌のもつ哀愁すら感じさせてくれた…

 そんな彼でも川島さんにサックスで煽られると、懸命なソロでたくましく応戦し、会場から大きな拍手が起こった。こうしたシーンを通して川島さんが、若手を鍛え上げている熱意に改めてエールを送った。

 ここでジャズ通の「Our Delight」のマスターのコメントを紹介しておく…

 リハーサルなしその場で曲が決まっていくスタイルは誰でもできるわけじゃないし、できても出てきた音が人を感動させるレベルかはまた別ですが、この三人にかかってはお客さんを熱狂させる魔力がありました。

 どれも超有名曲ばかりですがどれも引き込まれる感動。佐津間さんのギターは軽快にブルージーに、航太朗ベースはもちろん生音で空間自体が鳴り響かせてサウンドを支え、川嶋さんのテナーとフルート持ち替えは圧倒的、巨大な音色と美しい調べで横綱相撲の一幕でした。

 ヘビー級サウンドなのに昼から聴くのに全然違和感ないジャズ、楽しみました。   やはり、私があれこれ書くよりも適切なコメントに感謝します。 

 川島哲朗トリオ(「Our Delight」)
 川島哲朗トリオ(「Our Delight」)

<1st stage >

Like someone in love

All the things you are

BODY and SOUL

Satin doll

Darn that dream

BLUES

<2nd stage>

In a sentimental mood

In a mellow tone

But beautiful

I remember you

Cherokee

<アンコール>

Autumn leaves

 10月21日熊谷での「川島哲朗&松本茜」のライブでは川島さんのトークが楽しかったので、それも楽しみにしていたが、今回は殆どトークなしのライブであった… 最初のステージで多くの曲目をやり過ぎたと川島さんが言って休憩に入った。

 2ndステージに入ってもその熱気は冷めることなかった。川島さんが若いプレーヤーを噴気させながらの演奏が続き、会場全体がその熱気に巻き込まれてしまった…

 ですから、どの曲がどうこう言えない…

でも、アンコール曲Autumn leaves(枯葉)は深く心に残った。私が最初に聴いた枯葉はスクリーンいっぱいに映し出されたイブモンタンが唄っていた…シャンソンの枯葉とジャスは違う。ジャズの枯葉は、アーティストそれぞれが想い描く枯葉の景色を音で描き出し

その景色が次々と移り変って行くように感じられる。これぞジャズなのです。

 

 この前、熊谷でお会いした時、川島さんは富山の出身で奥様も富山の岩瀬浜だと聞いていたので、富山の兄が送ってくてた柿を持参し「岩瀬浜の風に晒された柿です。」と渡すと、懐かしそうにたいそう喜んでくれた…

 

 ライブが終わって、息子が佐津間純さんのアルバム「JUMP FOR JOY」を買い求め、サインをしてもらっていた。私も話に加えてもらったが、とても優しい人柄で、繊細さも感じられる好青年であった…

 家に帰りこのアルバムを聴いていると、そのことを更に実感させてくれた。彼の奏でる優しく繊細な音色は、心を和ませてくれる。

演奏は人そのものを現すものだと思った…

  今回も「Our Delight」掲載の動画で迫力のあるライブをご覧ください…

【動画公開】

11/11 (土)昼/ 川嶋哲郎トリオ 

 川嶋哲郎Ts、 佐津間純Gt、 小林航太朗Ba

動画時間:3分

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2017年

11月

05日

松島啓之と田中菜緒子 Our Delight 2017.11.5

 立冬の候とは言え、今日はとても良い天気だ。熊谷駅ホームで息子の友人と待ち合わせ三人で蕨のライブハウス「Our Delight」に出かけた…蕨駅に着き、電車の窓から見えたラーメン屋を探し、線路沿いに少し戻った。まだ開店前であったが、中から呼び掛けられたので、そこでラーメンを食べた…

 中々特徴のあるスープで肉汁と醤油の濃厚な味で、トッピングの注文を受けてくれるシステムである。息子がオーダーした野菜大盛の多さを見て、私は尻込みした…はまる人は癖になる味でしょうが、私には味が濃過ぎた…

 「Our Delight」に着くと中からリハーサルの曲が聞えてきた。暫くするとマスターが現れ、入口を写すモニターをセットしながら「待合の様子を確認したい」と話していた。

 リハーサルを終えた松島啓之さんが、一服するために出て来た。この前も喫煙所のベランダでお話したが、またご挨拶ができた…

 息子は、松島さんのトラッペットが好きでマウスピースを買ったが、音を出せないと訊いていた…すると松島さんが唇窄めて、マウスピースでも音はでるんですよと説明していた…

 「Our Delight」Facebookより
 「Our Delight」Facebookより

「松島啓之と田中菜緒子のデュオ」は、今春3月17日にここ「Our Delight」で初めて聴いた。それ以来、松島さんのトランペットが気に入ってしまい、またやって来た…

 <「Our Delight」のマスターの解説>

松島さんは鍵盤の横に。ピアノとのデュオのときは、その共演者はもっとも気持ち良い場所を探し出し、決めていきますが、松島さんは鍵盤横が指定席、なのです。小声でのやり取り、打ち合わせを随所にはさみながらその場で音楽を作っていきます。

 ジャズ・スタンダード、ジャズオリジナルを中心に演奏し、天然残響を二人とも味わうかのように、一音一音紡いでいきました。

 松島さんの音色は太く力強く歌い、ピッタリと寄り添い吸い付くような田中菜緒子のピアノは時にクラシカルに、スイングするという。

 ここでは、ジャズを聴き慣れているマスターのコメントを紹介させてもらった…更に「これ以上ない最高最強のデュオに昼から酔いしれました」と締めくっくていたが、この言葉は私の気持を代弁してくれるものだ…

 もっとも私はこの時間から赤ワインのグラスを傾けながら聴いていた…

 <田中菜緒子さんと…>
<田中菜緒子さんと…>

<1st stage>

On a misty Night :Tadd Dameron

Miles ahead  :Mile Davis

Come rain or come shine

Peace  :Horace silver

Antholopology  :C.Parker

<2nd stsge>

You are my everything

Sleeping dancer sleep on:Wayne Shorter

Ceora  :Lee Morgan

Little song  :松島啓之

Nasciment  :Barry Harris

<アンコール曲>

Like someone in love

   <松島啓之さんと…>
   <松島啓之さんと…>

 今日のライブでは、何と言っても松島さん作曲の「Little song」には魂が込められいるようで聴き入ってしまった。

 また、田中さんのピアノは前回よりも更に松島さんと息が合い、心地好かった。随分と腕前を上げられてように感じた…

 ライブが終わる頃には、グラスワインを二杯いただき赤ら顔で写真を撮らせてもらってご機嫌である…今日も松島さんの澄み通るようなトランペットを全身に浴び、日頃から鬱積していたモヤモヤが洗い流され、リフレッシュできた感じだ…

 

【動画公開】

蕨OurDelightチャンネル

11/05 (日)昼/ 松島啓之×田中菜緒子デュオ3分

 

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2017年

10月

24日

川嶋哲郎&松本茜 JAZZ LIVE 2017.10.21

<大里生涯学習センターあすねっと>
<大里生涯学習センターあすねっと>

 最近、息子が聴き入っているジャズピアニスト・松本茜さんのライブに誘われた・・・

前日に彼女のアルバム『Memorise of You』を渡され、私も予習をさせられた・・・

 サックスの川嶋哲郎さんは洗足学園のコンサート『Do Jazz Sennzoku’2017』で聴いたことがある。生憎の雨の中『あすねっと』に向かった・・・

   <あすねっと ステージ>
   <あすねっと ステージ>

 雨の中を走り、駐車場に車を止めたら、直ぐ隣の車で息子の友だちが待っていた・・・

息子が彼の車で何か話し、会場に入った。

今日は指定席だったので客足も遅く、まだ疎らな場内に入ると、席は最前列中央の左側で丁度、松本茜さんの背中を見上げる位置であった・・・息子は大層悔やんでいたが、真近に観ることができた。

<1st ステージ> MC:松本茜

Home Town :松本茜

Over the Rainbow:ハルド・アーレン

Quiet Rain :松本茜

Take the A Train:ビリー・ストレイホーン 

 

<2nd ステージ> MC:川嶋哲郎

Lamentation:川嶋哲郎

Thaw(雪どけ):川嶋哲郎

オブリビオン:アルストル・ピアソラ

浜辺の歌:成田為三

故郷:岡野貞一

    <ピアノ:松本茜>
    <ピアノ:松本茜>

松本 茜(まつもと あかね )は、 鳥取県米子市出身のジャズピアニスト。4歳からヤマハ音楽教室でピアノを習い始める。小学2年のとき、北村英治のコンサートで、ジャズと出合う。以降独学でジャズの作曲をする。 

2004年、バークリー音楽大学の学費全額免除の試験に合格(入学せず)。

2006年、米子東高校を卒業。日本大学芸術学部放送学科に進学し、主に都内で演奏活動を始める。早稲田大学のモダンジャズ研究会にも参加。

 という紹介記事があったが、北村英治のスイングジャズを聴いてジャズが好きになったのかなどと想像すると、微笑ましい限りである・・・

最初にソロで演奏した曲は、ふるさと米子をイメージして『Home Town』を作曲したと語った。次の『Over the Rainbow』は、川嶋哲郎さんとの掛け合いには興奮させられた・・・これがビバップなのであろうかと、私は密かに思いながら聴いた。

『Quiet Rain』は、今日のような雨の日に合った選曲で、素直に心に沁みた。 

 <ビリー・ストレイホーン>
 <ビリー・ストレイホーン>

松本茜さんは、1939年にデューク・エリントン楽団のピアニストであったビリー・ストレイホーンが作詞・作曲した「A列車で行こう」の逸話を話してくれた。デューク・エリントン楽団へ入りたとやって来たビリー・ストレイホーンに対し、デュークは自宅への地図を書いてあげた。その地図に書かれた『A列車』が曲のモチーフになったと、微笑ましいエピソードを語ってくれた。この美談がその後のビリーの運命を決定付けたという話を知って、益々この曲が好きになったと茜さんは付け加えた・・・

  <Aトレーンで行こう>
  <Aトレーンで行こう>

 この曲のタイトルにある「A列車」とはニューヨークのブルックリン東地区からハーレムを経てマンハッタン北部を結ぶニューヨーク市地下鉄A線(別名「8番街急行」)の名称だそうである。 私も何度かニューヨークへ行ったことがあるが、『地下鉄は危ない』と聞かされていたので一人で乗ったことはなかった。

 でもある時、NY在住のIBMの方に連れられて、ブルックリンに向けてビクビクしながら地下鉄に乗ったことがる。夜遅かったが遠くにライトアップされた『自由の女神』を眺めたような気がする。 そんなことをぼんやり思い出しながら茜さんの話を聞いて、ほっこりした気持ちにさせてもらった。 

  <アルトサックス:川嶋哲郎>
  <アルトサックス:川嶋哲郎>

 富山県に生まれ、6歳からピアノ、12歳からトランペットを学び、高校でテナーサックスに転じ、岡山理科大学在学中にジャズを始めたという。

 ところが、大学卒業後名古屋で一般の会社員として働いたが、大坂昌彦&原朋直クインテットの一員となってプロ・デビューし、このグループのアルバム『def』(1993年録音)に参加した。そして今、日本のジャズ・サックス奏者、洗足学園大学講師であると紹介されていた。

 一見強面な川嶋哲郎さんだが、お話しを始めると、とても親しみ易い方であった・・・

 そして、彼は以外にも多弁であることに観客は驚かされたのである・・・

一曲目の『Lamentation』をガンガン吹きまくり、吹き終えると、これは『ど演歌の如きジャズ』ですと語り始めた・・・

 確かに演歌のコブシを回すようなサックスの響きと、演歌のサビを思わせるようなリフレーンと熱気の高まりに、ついつい引き込まれてしまった・・・

 そうか、川嶋哲郎さんは『ジャパニーズ・ジャズ』を指向して研究して来たことをライブで実践しているのであろうか・・・

  <富山湾と北アルプス連峰>
  <富山湾と北アルプス連峰>

 川嶋哲郎さんは、故郷・富山の話を始めた・・・富山湾は深海で海水浴の砂浜海岸でも遠浅ではなく、直ぐに深くなってしまうと話した。私も学生時代に兄の住む富山を訪れまだ小学生だった甥っ子二人を連れて海水浴にやって来たことがある。

 その時、海が直ぐに深くなるので、あまり泳ぎが得意でない私は甥たちが海に入らないようにと注意を払い、随分神経を使ったことを思い出した・・・そのやんちゃ坊主だった甥も還暦を迎えることもできず、今春58歳で亡くなった。

    <北アルプス連峰>
    <北アルプス連峰>

 川嶋さんは、北アルプス連峰に降った雨や雪が川となり、栄養豊富な8本もの川が、富山湾に注ぎ込んでいると話した。

 私は神通川の河口で大きなウグイを釣ったことがある。その頃は、まだ神通川の公害が騒がれる前だったと思う・・・

 川嶋哲郎さんは、こんな話を前置きにしてから『Thaw(雪どけ)』を演奏した。春になると雪が緩み、ポタリ、ポタリと雪が溶けだし、小さな堰となり、堰が集まり小川となり、やがて川に注ぎ込む・・・私は、雪国秋田で育ったので、目を瞑って聴いていると、そんな風景が目に浮かんできた・・・

  <フルート:川嶋哲郎>
  <フルート:川嶋哲郎>

 川嶋哲郎さんは、ジャズではなくタンゴの曲ですがと言って『オブリビオン』を演奏した。

そしてフルートは13年間鍛錬してきたと話して演奏したが、好い音色を聴かせてくれた・・・

 フルートを吹きながら、更に高い音をスキャトで歌った・・・吹く歌う、吹く歌う、そしてまた吹く歌う、こんな光景は初めて見た。

 そして曲のフィニッシュでは、大きく仰け反り倒れんばかりであった。最後はふわっと倒れそうになるんだよと語った・・・

 最後に童謡『浜辺の歌』をジャズにアレンジして聴かせてくれた・・・曲の初めにサックスで浜辺の波の効果音を出し、それから浜辺の歌のメロディから始まった。そして次第にジャズ風アレンジが色濃くなり、川嶋さんと茜さんの掛け合いが始まった。まるで楽器を使った会話が始まったのだ。

 そして、長いやり取りの後、浜辺の歌のメロディに戻って終わった。

 今日は、川嶋哲郎さんのトークで興味深いお話を聞いた。彼が洗足学園の講師でもあり話の内容が解り易く論理的であった。

 また、その取り組みの姿勢は、大いにチャレンジ的であることも伺えた。

 彼が海外でライブに飛び入り参加した体験で、言葉は通じなくともサックス一本で会話できたと語った・・・

 ピアノの茜さんは川嶋さんと今回で二度目の共演だというが、一緒に演奏すると相手の人柄や考え方が判ってしまうので、丸裸にされてしまうと、茜さんは漏らしていた・・・

 アンコールでは『故郷』をジャズで聴かせてくれた。このアレンジも素晴らしく、茜さんはアドリブで『赤とんぼ』なども織り交ぜながら、『ジャパニズ・ジャズ』に仕立ててくれた。とてもジャズライブであった。

 

 ライブ終了後のサイン会で川嶋哲郎さんと少し言葉を交わすことができた。私の兄が岩瀬浜の近くに住んでいるので、何度か富山に行ったことがあると伝えると、『私の家内は岩瀬浜の近くの出ですよ。』と彼が言った。

こんなことで、川嶋哲郎さんが身近に感じれるようになった・・・

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2017年

10月

20日

青羊 『めたもるシティ』CD発表 2017.7.19

<青羊 めたもるシティ ジャケット>
<青羊 めたもるシティ ジャケット>

 9月の松島の同期会で鈴木さんから御令嬢・青羊の新しいアルバムを紹介してもらった・・・私がジャズ好きなのを知ってのこでしょう。

 最初のアルバムは2013年9月18日発売の『LE KEMONO INTOXIQUE(ル・ケモノ・アントクシーク)』であった。あの時同期で応援団を作ろうなどと騒いだのに何もできず今日になってしまったことを反省している。でも、あれから4年経ちどのように進化したのか楽しみなアルバムである。

   <ジャケットの耳の謎>
   <ジャケットの耳の謎>

 このCDの美しいアニメを見て、最初はピーンと張った耳は狐かと思った・・・

無論メガネの娘は青羊さんご自身がモチーフだとすれば、もっと優しい『けもの』の耳だろうなどと思案していた・・・Webを検索していたら、この写真を見つけた。そうか愛犬の黒柴のお耳だったのかと納得した・・・

 この写真は、我が家で17年も一緒に暮らした黒柴”ラム”を思い出せてくれた。

<青羊とプロデューサー菊地成孔氏>
<青羊とプロデューサー菊地成孔氏>

 今度のアルバムもジャズをはじめ、幅広い分野で活動されている菊地成孔氏が、プロデュースされていたので、Webで検索してみた。そのプロフィールによると『東京ジャズシーンのミュージシャン(サキソフォン/ヴォーカル/ピアノ/キーボード/CD-J)として活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、極度にジャンル越境的な活動を展開・・・』とあった。

 そうか、このCDはジャズにこだわらない領域も指向して作られているのかと、また聴き直してみた・・・するとそのテーストは、少し違ったものに感じられた。

  <青羊のジャズに対する想い>
  <青羊のジャズに対する想い>

 それでは青羊さんのジャズに対するコンセプトは何処にあるのかと思い始め、彼女のインタビュー記事を探し当てた。

 その問答の一部に『途中で「けもの」をやりたくなったきっかけがあるんです。吉祥寺の「サムタイム」でライブを見ていた時に突然メロディーと歌詞が頭のなかに流れてきたんですね。歌詞に「けもの」という言葉が出てくる「けものZ」(1stミニアルバムに収録)という曲だったんですけど、その曲ができた時に「けもの」というバンドをやってみたいと思ったんです。

 それと、今までジャズのセッションが多かったので、カチッとしたバンドに対する憧れもありました。他には、今の忙しい世の中、例えば満員電車なんかではある程度感覚をシャットダウンして我慢していないとやっていけないと思うんですね。私はそういうのがおかしいなと思っていて。皆んなが本来持っている感覚を開かせたいというか開いたほうがいいんじゃないかなという気持ちと「けもの」という言葉がちょうどクロスしました。』と青羊さんを突き動かした動機が、飾らない言葉で素直に語られていた・・・ 

  <青羊とアルバム演奏者>
  <青羊とアルバム演奏者>

 その『けもの』が、今回のCDを作成された主要メンバーのようである。やはり青羊さんと同じようにジャズという音楽を通して、何かを語り掛けたい気持ちを抑えきれない同志なのでしょうね・・・

 ただ、これは私がWebに公開されている青羊さんの関連写真を眺めながら、勝手に想像している話なので、違っていたら陳謝!

<アルバム制作に関わった仲間?>
<アルバム制作に関わった仲間?>

 しかしながら、CDに収録するとなると、プレイヤーだけでは成し得ない・・・

 おそらく、この写真にあるように多くのメンバーがそれぞれのパートを分担し、それを完璧にしかも同時に完遂する必要があるだろうと思う・・・

 その成果物であるCDの完成を祝って色紙にサインされた写真も掲載されていた。 

<けもの「めたもるシティ」収録曲>

01. オレンジのライト、夜のドライブ

02. 第六感コンピューター

03. PEACH

04. C.S.C.

05. Fish京子ちゃんのテーマB めたもVer.

06. めたもるセブン

07. tO→Kio(トーキオ)

               08. 伊勢丹中心世界

               09. River

               10. Someone That Loves You

               11. 第六感コンピューター カラオケVer. 

   <青羊 1st アルバム>
   <青羊 1st アルバム>

 最初のアルバムに出会った時、私は木の匂いとか土の匂いのよな純朴さを感じながら聴いた・・・今度のアルバムでは、どこかあか抜けた、都会的な洗練された気分を味わせてもらった。

 そこでアルバムのタイトル『めたもるシティ』の意図を調べてみたくなった・・・

『メタモルフォーゼ』の定義は、『生物学でいう変態の意。変身の意。』とあった・・・ 

 そうか、1stアルバムから4年経ち、何らかの進化を遂げた『青羊』をこのアルバムで表現したかったのかと、その意図が理解できたような気がした・・・

 <青羊さんのスナップ>
 <青羊さんのスナップ>

 では、それがどんな形で言い表されているのかと思い、丹念に歌詞を読んでみたが、70代の私には少し難しかった。歌詞の行間の飛躍的な展開に追従して行くだけの柔軟性は、最早私には残されていないようだ・・・

 新鮮な感覚を受け止める感受性の動脈硬化だ!

この現象は、同世代の方々にも起こっているかも知れないと思いつつ、寂しさがこみ上げてきた・・・       何か新しい発見や空想の世界に遊ぶ時のときめき感は薄れ、これまで体験して来た現実の世界に封じ込めようとする自分に対して、そう感じていた。

 反省しきりの私でも『伊勢丹中心世界』のメトロな雰囲気を醸し出す曲に懐かしく聴きいった。そして『River』の世の刹那を語りかけて来る青羊さんの歌声に心を惹かれた・・・

 また、『フィッシュ京子ちゃんのテーマB』のめたもVer.では、フィッシュ京子ちゃんの子供も『お子様ランチから、わさびの効いた寿司を食べるようになった』ことを知り、微笑ましくもあり、安堵感を覚えた・・・

  <青羊さんのメタモルフォーゼ?>
  <青羊さんのメタモルフォーゼ?>

 このブログを書こうと、歌詞カードを手に横になりなりながらCDを聴いた。ところが、いつの間にか心地よくなり寝入ってしまった・・・二度も三度も!

 この『めたもシティ』CDから発信される”α波”が、心をほぐしてくれるのでしょう・・・みなさんにもお試しいただきたいですね。

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2017年

10月

16日

横浜 JAZZ PROMENADE 2017.10.8

 秋はジャズフェスティバルの季節で、例年各処で開催される。昨年は横浜ジャズに参加できなかったが、今年は3連休の8日に行く事できた。

 熊谷駅のホームで息子の友人と待ち合わせ9:13の湘南新宿線に乗り、横浜駅で地下鉄に乗換え「みなとみらい」へやって来た。

 お目当てのステージまでは1時間ほどあるが、いつもお食事処が中々決まらない。

今日は暑かったので『蕎麦を食べたい』私が言い出し、駅ビル6階の蕎麦屋に入った。

私は蕎麦の五段盛りを頼んだ。お蕎麦の具合も量も十分で大満足であった。

<横浜みなとみらいホール>

 ここ『みなとみらいホール』には、大ホール、小ホールなど、いくつかのステージがあるようだ。

まずは大ホールでお気に入りのトランッペッターが3人出演するので、そこへ向かった。

<ディジー・ガレスビー生誕100年> 

 MCの高瀬氏は、トランペッター『ディジー・ガレスビー生誕100年』を祝って、彼のナンバーを演奏すると切りだし、その功績を次のように語った。

 アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーと共に、モダン・ジャズの型となるスタイル「ビバップ」を築いたと功労者の一人としてジャズの歴史上で讃えられ、ラテン・ジャズを推進させたアーティストとしても知られる。

 そして5人のトランペッターを擁するバンドの演奏が始まった・・・

<5人のトランペッター>

高瀬龍一/たかせりゅういち (tp)

岸 義和/きしよしかず (tp)

中村恵介/なかむらけいすけ (tp)

松島啓之/まつしまけいじ (tp)

類家心平/るいけしんぺい (tp)  

緑川英徳/みどりかわひでのり (as)

小池 修/こいけおさむ (ts)

岡部洋一/おかべよういち (per)

加納樹麻/かのうじゅあさ (ds)

中村健吾/なかむらけんご (b)

椎名豊/しいなゆたか (p)


  <ディジー・ガレスピー>
  <ディジー・ガレスピー>

 ディジー・ガレスビーは、この曲がったトランペットで演奏していたという・・・

 ビバップ (bebop) は、1940年代に成立したとされ、モダン・ジャズの起源はこの音楽にあるというのが、最も一般的な見解であるいう。

 となると、私が生まれる前にモダン・ジャズの起源が形作られていたことになる・・・

このビバップは、演奏家たちがお店での仕事を終えてから、自分たちだけの楽しみのために集い、そして自由にジャムセッションをやっている中で自然に生み出されたということだ・・・そのライブの雰囲気によりソロのプレイヤーが織りなす和音の妙技は、ジャズライブの大きな魅力だと私は感じている。ですから、今度はどんなアドリブが入るのかと、同じプレイヤーのライブを何度も聴きたくなってしまうのだ・・・

 ガレスビーは長命で『斑尾ジャズフェス』にも来日しているそうだが、岸さんは、その彼と共演したことがあるいうベテランである。写真のガレスビーの頬が大きく膨らんでいるが、頬の膨らむ症状の病名が『ガレスビー病』と呼ばれるほどであったという・・・

     <松島 啓之>
     <松島 啓之>

ところが、最初にソロを取った松島啓之さんの頬は殆ど膨らんでいないが、大ホール一杯に鋭い音色を響かせた・・・私は、蕨駅近くのライブハウス『Our Delight』のベランダで 一服していた松島啓之さんと会った・・

 そして、彼のひょうひょうとした演奏スタイルが好きになってしまった。

     <類家 心平>
     <類家 心平>

 この類家心平さんは、若手随一のテクニシャンだと私は思う。最初に彼の演奏を聴いたのは『隅田ジャズフェス』だったが、その迫力に圧倒されてしまった・・・

 彼の得意ジャンルは、どちらかというとフュージョン系のジャズだと思うのだが・・

 彼はいつも真剣勝負で、左の頬を破けんばかりに膨らませて、全身の力を込めて演奏する姿に思わず息を止めて見入ってしまう。

  <トランペット:中村恵介>
  <トランペット:中村恵介>

 この写真は『鈴木良雄とジェネレーションギャップ』のライブシーンである。私は前橋の『Gフェースカフェ』で力強い中村恵介さんのトランペットを聴いた・・・

 その時、彼は『モーションブルー横浜』で活動していると言っていたから、今日は地元でのライブであろう。でも、ライブが終わってから息子に教わるまで気づかなかった。

 <パーカッション:岡部洋一>
 <パーカッション:岡部洋一>

<2nd セット>

 ガレシビーは、初めてラテン系音楽をジャズに取り込んだ人として知られている。

彼の功績により、今やラテンのリズムを刻むジャズがどこでも演奏されるようになった。

 それからMCの高瀬さんは、第2ステージではガレシビー作曲のラテン系ジャズを演奏すると話し、演奏がスタートした・・・

 私は息子から手渡された双眼鏡でステージを覗いた。するとパーカッションを叩く岡部洋一さんの顔が飛び込んできた。隣の息子に双眼鏡を渡し、岡部さんが居るよと囁いた。

 一曲目が終わると同時にスペシャルゲストとしてパーカッションの岡部洋一さんが紹介された。今やラテン系ジャズが広く演奏されるようになり、そのリズムに欠かすことのできないパーカッション奏者として人気のある岡部洋一さんは引っ張りダコなのである。

   <大ホールのステージ>
   <大ホールのステージ>

今日は『ディジー・ガレスビー生誕100年』を特集したセットリスト構成で存分にガレシビーのジャズを堪能できた。それに、ジャズ入門講座のようにビバップとモダンジャズ、

そしてラテンジャズの事などを学んだ・・・

このようなことはジャズフェスならではであろうが、ガレシビーをリスペクトするトランペッターが5人も勢揃いしたライブを聴くことができた。勿論、他の演奏者も素晴らしく、聴き覚えのある『チュニジアの夜』の演奏は深く心に残った。

   <小ホールのステージ>
   <小ホールのステージ>

『横浜ジャズプロムナード』の会場は市内の広範囲に散在する。ですから最初の受付で参加券と交換にワッペンが手渡される。

そのワッペンを身に着けていれば、どの会場にも出入り自由というシステムで運営されている。色んな会場を渡り歩くのも楽しみの一つではあるが、時間が掛るので同じビルの小ホールへと向かった・・・

  <オルガン:土田晴信>
  <オルガン:土田晴信>

<土田晴信(org)オルガントリオ>

土田晴信/つちだはるのぶ (org)

小暮哲也/こぐれてつや (g)

二本松義史/にほんまつよしふみ (ds)

 

 土田晴信氏は、横浜出身のハモンドオルガン奏者としてアメリカで11年・ヨーロッパで3年の活動を経て帰国。シカゴの黒人街での演奏経験を通してファンキージャズやソウルジャズを主体に自己のオルガンバンドなどで活動しているという・・・

 小ホールでは既に演奏が始まっていた。席について間もなくして、何だかうっとりとした気分になってしまい、ついうとうとしてしまった・・・

 そして曲が終わると目が覚め、次の曲を聴いている内に、またうとうとしてしまうのだ。何の緊張感もなくリラックスさせてくれるのは、オルガンの優しい音色のせいなのであろうか・・・後で聞いてきたら、この現象は私だけではなく、一緒に行った息子や友人もやはり、うとうとしてしまったと漏らした。

 <次ナルJAZZ問答のリハーサル>
 <次ナルJAZZ問答のリハーサル>

 お目当てのステージが次だったので、最前列正面に席を確保し、そのまま席だ待った。

 するとスタッフたちが、そそくさと次のステージの準備に取り掛かった。そしてプレーヤーたちも自分の楽器の音響調整をしたり、他のプレイヤーとの音合わせを始めた・・・

その時、松島啓之さんと眼が合い、軽く会釈を交わすことができた。

   <ベース:須川崇志>
   <ベース:須川崇志>

 そして最後に駆け付けたのが、ベースの須川崇志さんだった。慌てて準備を始めた彼に、リーダーの蜂谷さんが『間に合って良かった』と声をかけた・・・

 私は何度となくライブに足を運んでいるが、通常こういったリハーサルは絶対に観客に公開されることのない場面なので、このステージを見上げながら希少な体験をした。 

   <次ナルJAZZ問答>
   <次ナルJAZZ問答>

<次ナルJAZZ問答> 

蜂谷真紀/はちやまき (vo,voice,p)

松島啓之/まつしまけいじ (tp)

類家心平/るいけしんぺい (tp)

須川崇志/すがわたかし (b)

本田珠也/ほんだたまや (ds)

 

横浜ジャズプロムナードの紹介ページに次のように紹介されていた。『 次ナルJAZZを牽引する強力な5個性。全員が主役のスリリングなユニットです。 声+2トランペットによる三管アンサンブル、構築と自由のせめぎあい…さあ5人の行方はいかに?見逃す手はありません!』 

  <蜂谷 真紀>
  <蜂谷 真紀>

 この紹介記事の内容は、セッションを聴いてみて初めて理解できような気がする。

『次ナルJAZZ』の意味するところは・・・

 彼らはこれまで聴いた事のないような演奏を繰り広げてくれた。

 特にボーカルの蜂谷真紀さんには、まるで神が乗り移ってしまったかのような・・・

 どうにかなってしまったのかと聴衆が心配しながら聴いていると、放心状態での歌が極限に達し、そして曲が終わると我に還るというような熱演だった。

 聴いていて少し疲れを覚えた・・・

 蜂谷真紀さんの作曲で構成されたステージの次世代のジャズに対する熱い思いのこもった若いプレイヤーの演奏には、ハラハラドキドキもさせられたが、訴えかけて来る何かを感じている自分がいた。

 演奏が終わりステージ挨拶の後、松島啓之さんが私に手を差し伸べてくれた・・・

息子も喜んで握手を交わしながら、『蕨でお会いしました』と話しかけていた。私は隣にいた類家心平さんとも握手ができた。

 私の目の前に置かれた松島さんの譜面台が片付けられて、やっとベースの須川崇志さんの顔がみえた。ベースを仕舞っていたが、声をかけると振り向いたので『先日熊谷でお会いしました』と呼び掛けると、手を止めて『峯さんの時か』を応えてくれた・・・こうしてプレイヤーと接触できるのもライブの楽しみである。

 <横浜開港記念館:大正6年落成>
 <横浜開港記念館:大正6年落成>

 会場の外へでると夕刻であった。息子の友だちは『もう三ステージも観られた』と満足そうに話した。次の『横浜開港記念館』へは、前回も少し時間が掛ったので、タクシーで行こうと提案した。何とかタクシーを捕まえ開演前に到着できた。既にほぼ満席であったが、私は最前列まで進んだ。すると運よくステージ左端の一列目と二列目に座席を確保することができ、ほっとしながら開演をまった。

<井上信平、鈴木良雄、岡部洋一、野力奏一>
<井上信平、鈴木良雄、岡部洋一、野力奏一>

<鈴木良雄(b) BASS TALK>

鈴木良雄/すずきよしお (b)

井上信平/いのうえしんぺい (fl)

野力奏一/のりきそういち (p)

岡部洋一/おかべよういち (per)

〈鈴木良雄作曲、野力奏一編曲〉

カイト(大空を舞う鳶をイメージ)

筏衆(木曽川を下る筏を流す人々)

カヌー(カナダの雄大な河の流れ)

山の輝き(木曽御嶽山をイメージ)

モネ(モネの絵画水連をイメージ)

ロンバルディアの風(イタリア)

新宿(学生時代の新宿をイメージ)

 

 私は、この『BASS TALK』のライブを聴いてジャズが好きになった・・・

『"BASS TALK" は結成以来16年目に入りました。僕の曲だけを演奏する我儘バンドですが、メンバー皆の支えがあったからこそここまで来れました。新曲も演奏しますので聴きに来てください!』 と紹介されていた・・・

<出版記念会時のChinとタモリ>
<出版記念会時のChinとタモリ>

 鈴木さんは『新しい楽曲を書き溜めて来たので、近いうちにアルバムにしたい』と切り出した・・・これまた楽しみなニュースである。

 この『ロンバルディアの風』は、好いベースを探しに欧州に出かけ、イタリア北西部のロンバルディア地方のクレモナで名器を見つけ時、その地方の印象を曲にしたと話した。その時のベースは200年前に制作されたものですと言って、手にしたベースをクルリ回して見せた。

そして名器はアーティストも丁寧に扱うので長持ちするのでしょうねと話したが、私は浦和の『Cafe Tone』のライブで真近で観ながら、そのベースの音色を聴いたことがある・・恐らく全国ツアーには持ち出さないベースだと思う。

 

 いつもながらChinさんの駄洒落も楽しいが、『ジャズでフルートを吹ける人は少なく、井上信平はアルト・フルートも吹ける世界的な名手です。』と紹介されると、すかさず信平さんが『アルトないとでは大違いです。』と切り返すと観客が大爆笑した・・・

 突然の信平さんのギャグの逆襲が、今日一番うけたのかも知れない。

 <BASS TALKのステージ風景>
 <BASS TALKのステージ風景>

 今晩のライブは、この写真よりも好いアングルで、4人の演奏する様子が良く見える席であった。この4人は16年も一緒やっているので、絶妙なバランスで音が調和し、心穏やかに聴くことができる・・・私は、寝つきが悪い時などアルバム『Dancing Luna』を聴きながら床に就くと、いつも最後の曲を聴く前に寝入ってしまう。私の睡眠導入剤だ!

  演奏が終わったのでステージに近寄ると、4人揃ってのステージ挨拶の前だったので、私は罰が悪い思いをした・・・それでもステージを引き上げる時、鈴木さんが手を伸べて握手してくれた・・・野力さんも岡部さんも・・・

 息子が岡部さんのDVDとCDを求め、サインをもらうために待った・・・

 女性の方が、携帯で連絡を取ってくれている様子だが、中々現れなかった。

 ドラムやパーカッション奏者は、何種類もの楽器を扱うから後片付けに時間が掛るのでしょう・・・暫くして岡部さんが現れ、息子と会話しながらサインしてくれた。そして『これからステージがあるので』と言い残し、女性を伴って出て行った・・・あの若い女性は、奥さんなのだろうかなどと・・・

 後ろを振り向くとChinさんがジャズの本にサインをして上げていた。それが終わるのを待って『ステージの邪魔をしてしまい申し訳なかったです』と謝ると『何ともないよ、遠いところありがとう』と言ってくれたのでほっとした。

 

 横浜駅へ行こうと地下鉄への入口を探し、会場のあるブロックを一回りしてしまったが、会場近くにあった駅から地下鉄に乗った・・・

横浜駅で食べた『とんこつラーメン』が美味かった・・・ビールも・・・

 心も満腹で湘南東京ラインに乗ったら、うとうとしていまった。時々目を覚まし、手前の行田駅を通過したことは覚えていたのですが・・・

熊谷駅で息子に揺り動かされ目が覚めた・・・

一人だったら終点の籠原までのケースでしたね。救われました・・・

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2017年

10月

13日

岩大電気科44年同期会 松島 2017.9.24~25

<9月24日11:10 はやぶさ>
<9月24日11:10 はやぶさ>

 仙台での同期会は一緒に行こうと太田さんと約束していた。ただ、どの新幹線に乗るのか決めていなかったので、仙台往復切符と新幹線自由席だけは買っておいた。

 前日、10:35に大宮に着くから11:10のは「やぶさ」に乗ろうと電話した。当日大宮駅で落ち合い、指定席を確保した。

駅中のコンビニでビールと氷結を太田さんが仕入れて新幹線に乗り込んだ。太田さんはしっかりと生ハムを持参していた。

 太田さんに「”やまびこ”だったら、もっとゆっくり呑めたのに」と言われ、目的地に早く着くだけなく、旅を楽しむ方法もあるのかと思った・・・

   <新幹線東京駅からの面々>
   <新幹線東京駅からの面々>

 仙台駅に降りると渡部さんからラインが入った。仙石線ホームの前の方にいるから、そちらに来いと言うのだ・・・二人で急いで仙石線ホームに駆け下りた時には、既に発車した後だった。トイレに寄らなければ間に合ったかもと思いながらも、仕方なく階段を登り東北本線に向かった。運良くほどなく電車が来てくれた。30分ほどで松島に着いた。  そこへまた渡部さんからのラインで、皆でお昼を食べているから来いというので、タクシーで向かった・・・

   <昼食のレストランで合流>
   <昼食のレストランで合流>

 遊覧船乗り場の辺りでウロウロしていると、道路の向こう側に渡部さんを見つけた。渡部さんの後についてレストランの二階に上がると、みんなのテーブルには、生ビールとカキフライ定食が並んでいた。私と太田さんは生ビールと笊うどんを頼んだ。

 東京駅から乗った新幹線組の面々と合流し、久しぶりの再会に、誰が誰と話しているのか・・ガヤガヤ賑やかに昼食を食べた。

 今年も、松島の同期会を計画してくれた湘南ボーイズの三人に感謝・感謝だ・・・

 昼食を終えて表に出た・・・今日は好天に恵まれ暑いくらいだ。ホテルのシャトルバスの時刻までは、まだ大分時間があった・・・

 するとすぐに小倉さんが動いた。「シャトルバスの期間まで、五大堂へいってみよう。ただし、時間に遅れないように」との号令。

  <五大堂を背景に山下さん>
  <五大堂を背景に山下さん>

 五大堂は中学の修学旅行以来だった。

もう60年近くなるというのに、当時のことが割と明確に思い出された・・・昨日の事すら忘れてしまうのに、不思議なことだ。

 五大堂の周りの松はもっと小ぶりで、遠くからでもその輪郭をくっきりと眺められように思う。それもそうだ60年も経つのだから。

     < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会前 by渡部氏
     < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会前 by渡部氏
  <岩大44年同期会 会長挨拶>
  <岩大44年同期会 会長挨拶>

 宴会が始まると大幹事の小倉さんのご指名を受け、年の功で会長を務めている私がご挨拶することになった。宴会前の長い挨拶は嫌われるので手短かにと思ったら、本当に短った。『皆んさん遠くからよくご参加いただきありがとうございました。床の間の額にあるように「一期一会」を大事にし、来年は卒業して50周記念の同期会を盛岡でやろう』と呼び掛けただけであった。

 この件、湘南ボーイズから相談はあったがみんなの前で「50周年記念同期会」などと唐突に発言してしまった・・・でも、考えてみれば44年に岩大を卒業して50年とは、大したものではないか。西方浄土へ旅立たれた仲間もいるが、こうして集まってお酒を酌み交わせるだけでも幸せなことだと思う・・・「一期一会」私は来年も来るぞ!

 私の発言に、すかさず小倉大幹事がフォローしてくれた。「50周年記念同期会」は盛岡でやりましょう。そうすれば太田原先生や盛岡にお住いの恩師にもご参加いただけるし場所は、やはり「つなぎ温泉」が好いかなあなどと、どんどん具体的なイメージに話を展開してくれた・・・流石、湘南ボーイズだと改めて感謝した。

 まずは参加された20名の皆さんには「50周年記念同期会」を心に留めて頂けたと思うが、この場に参加できなかった皆にどうのようにアピールして行くか、皆で知恵を絞り、これまで参加されなかった仲間に出てもらえるような記念同期会にしたいものですね。

 上の写真は、渡部さんに送ってもらった写真である。いずれの方々も好いお顔ですね・・・今年も元気でお会いできて良かった。それだけでも充分に幸せな年齢になって来た。「50周年記念同期会」には、これまで会えなかった多くの仲間との再会が、実現することを願っている・・・

   < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会後 by橋本氏
   < 岩手大学工学部電気科 44年同期会 松島 > 宴会後 by橋本氏

 上の写真は、橋本さんに送ってもらった集合写真であるが、お料理をみると宴会も終盤に迫った頃に撮ったものと思われる。最後に飛世さんから「お酒は幹事の部屋にありますますので、お部屋の冷蔵庫は使わないでください。」と案内があった。いつものことながら、飛世さんの気配りで缶ビールなどの飲み物が、幹事部屋の冷蔵庫に入っていた。三々五々仲間が集まって来て、宴会というより雑談会が始まった・・・渡部さんは山下さんからの囲碁対戦の申し入れに応えて出て行き、暫くすると工藤さんがやって来て「小南、うだっこ唄いに行こう」と誘ってくれたのでホテルのカラオケルームに行った。

 そこには武田さん、永山さんに小倉幹事の5人だけだったが、みんなの歌をきくことができた。工藤さん、武田さんの演歌は今年も絶好調であった。昨年は不参加だったが、今もコーラスをやっているという永山さんは、とりわけしんみりと聴かせてくれた・・・小倉さんの十八番「古城」につられて、私は「荒城の月」にチャレンジしてみた。仙台に住んでいた土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲のこの曲は中学の頃に歌った覚えがある。

 思い切って大声で歌ったら「この歌は難しいからね・・・」と永山さんが慰めてくれた。カラオケは1時間で終え部屋に戻った。

 まだみんなでワイワイやっていた。何故かこの男、話題に登場するのだが、渡辺さんが囲碁の対戦から戻ってくると何やら議論が始まった・・・

 それは「靖国神社参拝」の賛否に関して色んな人が意見を言ったり耳を傾けたりしていたが、一人二人と部屋へ戻ってしまい、終いには保守派の桜井さんと太田さん対、会津魂を貫くリベラル派の渡部さんの討論となった・・・

 幹事の小倉さんは隣のベッドで寝込んでしまったし、私も時々参戦していたが、いつの間にか眠ってしまった。

 その後も延延と議論は続いたらしが、その行方を見定めることはできなかった。二人の別れの挨拶では、その議論は来年の同期会に持ち越したようだ。

  <ホテル大観荘正面玄関>
  <ホテル大観荘正面玄関>

 9月25日早朝、外から眺めると大層大きなホテルだった。部屋へのルートもいくつもあって戸惑うくらいだった。朝食のバイキングも混雑し、時間差で食事を摂った・・・

 小倉さんから、食事が終わったら幹事部屋に集合するようにとのおふれが回った。

何時もながら、細部にわたってありがとう。

 まず、小倉さんから今日のタイムスケジュールの説明があった。そして飛世さんから「同期会50回忌」の記念行事に関する提案があった。それは、これまで参加されなかった仲間への呼びかけを込めた「同期会50周年記念誌」を造ろうというものだった。

 これは通常の記念誌のスタイルではなく、「各人の昔と今」を写真入りで紹介する形にしようとの提案であった。この提案にはみんなの賛同が得られ、有志がサンプルを作成し配布することになった。武田さん、小南さん宜しく頼みます・・・

 同期会の場所は、昨夜「つなぎ温泉」まで決まっていたので、私は「愛眞館」を提案しつつ、この前のようにコンパニオンがいたら楽しいだろうなあと密かに思い出していた。

 時期としては、例年通り9月頃好いだろうと言う事になり、更に「大人の休日」が使えたら嬉しいなあという声もあった・・・

 盛岡でやるには、どうしても地元の方々にお骨折りいただくことになるから地元の皆さんにお願いしておく必要があると私が言ったら、鈴木さんが「佐々木さん、宮手さんに伝えておきます。」とそのお役目を買って出てくれた。

 そして佐々木さんは「賢治の真実と露の濡れ衣」という長年にわたっての研究成果の要点をまとめた小冊子を配り、「高瀬露の濡れ衣を晴らすための活動」を支援するという署名を皆に募った。同期の皆は、その主旨に賛同し快く署名に応じていた・・・

 再び小倉さんから「ホテル正面玄関で8時半に記念写真を撮るから遅れないように・・・」との号令と伴に散会となった。

<25日朝 大観荘ホテルロビー 時間調整のひと時>

 秋葉さんは、全国のお城を巡り研究していることは知っていたが、熊谷からほど近い寄居町の鉢形城は名城だと、今回初めて聞かされた。鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしているという。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点だったそうだ。

<鉢形城北条軍と秀吉軍の模擬合戦>
<鉢形城北条軍と秀吉軍の模擬合戦>

 鉢形城が名城であったことは秋葉さんから教えてもらうまで知らなかった。いつだったか牡丹園に家族で牡丹を見に行った時、携帯電話で検索し、鉢形城のイベントに行ったことがあった。会社同僚のお兄さんが鉢形城の事を調べていると聞いたことがあったが、そんな名城であったとは知らなかった。

 こんなに身近なところで歴史に残るような合戦があったとは実感できないが、家内の母方の古くからの農家の土蔵に残る槍や刀などの武具を見せてもらうと、俄かに現実味を帯びて来る・・・恐らく、戦時に駆り出される足軽侍か、あるいは落ち武者の持ち物を没収したものではあるまいかと・・・ 

 ともかく秋葉さんの話を聞いていると、城に纏わるロマンが広がってくる。

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2017年

10月

06日

BLUE NOTE TOKYO 2017.9.18

ROBERTO FONSECA

  <ROBERTO FONSECA >
  <ROBERTO FONSECA >

 7月の末頃だったか、息子が敬老の日のプレゼントに「ブルーノート東京」のライブに招待してやろうかと言い出した・・・

 暫くして息子が電話でコンタクトを取っていたが、敬老の人のミュージック・チャージは無料らしいと言った。そこで最近ジャズを聴くようになったという高校時代のマドンナを誘ってみた。予定を調整してみるとの返事だったが、ほどなく予定変更ができたので是非行ってみたいと言ってきた。

 すると、息子が「マドンナって美人なの?」と聞いてきたので「昔はな・」と言いながら、遥か昔のことを思い出した。息子が、2名から3名への変更が出来たというので、ブルーノート東京の予約がとれたことを伝える時に、うっかり息子との会話まで話してしまった。マドンナはすかさず「精一杯お化粧して行きますよ」と切り返してきたので「元が良いから大丈夫だよ」と慌ててリカバリーする羽目になってしまった・・・まさに口は厄の元ですね。

  <BLUE NOTE 東京>
  <BLUE NOTE 東京>

 9月18日当日は地下鉄表参道駅で15:30頃に待ち合わせた。前回はスマホナビでも結構戸惑ったし、当日は暑い午後でしたのでタクシーを捕まえた。着いてみると会場の16時までには少し間があったが、扉が開いたので中に入った。まず息子の後に続いて受付の列に並んだ。敬老の年齢証明書の提示が求められると聞かされていたが、どうも目視確認で済んだようようである。

 まあ、年相応に見えるとということだが、何だか寂しい気もした・・・

 地下のロビーのソフアは既に塞がっていて立って待つしかなかった。

  <席から見たステージ>
  <席から見たステージ>

 予約の整理番号に従って案内が始まり、更に地下にある会場へと進んだ。ステージ中央の中々好い席が確保できた。開演まで1時間ほどあるので、食べるものを頼んだ・・・

 マドンナが選んでくれたメニューは、~パスタ、ピザ、生ハム、サラダだった。私は、生ビール2、ジンジャエール1を頼んだ。

これらのお値段はそこそであったが、中々美味しく、取り皿に分けて食べたがボリュームも十分であった・・・

 私がお手洗いと一服している間に、息子は私の高校時代のことをマドンナに尋ねたらしいが、どんなことを話したのか私には不明である。戻って来た私は、ビールも残り少なくなったので、開演前にグラスワイン赤2を頼んだ。

 <ブルーノート東京HPより>
 <ブルーノート東京HPより>

< 1st ステージのセットリスト >

1.CONSUMATUM EST (OYA)

2.SAGRADO CORAZÓN

3.ABAKUA

4.BESAME MUCHO

5.CUBANO CHANT

6.AFRO MAMBO

 

ロベルト・フォンセカ(ピアノ)

ラムセス・ロドリゲス(ドラムス)

ジャンディ・マルティネス(ベース)

アデル・ゴンザレス(パーカッション)

丸ごとキューバ・ジャズを繰り出すロベルト

・フォンセカ クインテッドのメンバー

<ピアノ:ロベルト・フォンセカ>
<ピアノ:ロベルト・フォンセカ>

 息子は聴き込んでいたようだが、フォンセカのピアノを初めて聴いて衝撃を受けた。

 開幕と同時に始まったソロ演奏で観客をグイット掴んでしまった・・・そして演奏中に発せられる唸るような叫び声までが、その演奏に調和していて、まるで一つの楽器が共演しているかのように私には聴こえた。

<ベース:ジャンディ・マルティネス>
<ベース:ジャンディ・マルティネス>

 マルティネスのエレクトリック・ベースも良かった・・

でも、私はウッドベースの音の響きの方が好かった。取り分け彼が弓で奏でる低音の響きが好かった・・・

更に、マルティネスのボイスも魅力的でコーラスも好かったが、ソロのボーカリストとしても十分聴かせてくれた・・・

<ドラム:ラムセス・ロドリゲス>
<ドラム:ラムセス・ロドリゲス>

 ドラムのラムセス・ロドリゲスもキューバ出身で、ソロの時など彼独特のキューバのリズムを感じた。これがアップテンポなキューバ・ジャズの支えなのであろうか・・・

 ロドリゲスのソロのドラミングの迫力は圧巻で、満員の客席がその興奮の渦に巻き込まれ、どよめきが起こった。

<パーカッション:アデル・ゴンザレス>
<パーカッション:アデル・ゴンザレス>

 キューバ出身のアデル・ゴンザレスには生まれながらにソウルな魂がリズムに活きづいているのでしょうか・・・

 彼がステージ中央に出てきてソロで叩いた時は、その音もさることながら、舞っているようなステップを踏みながらのパフォーマンスは、観客の目を釘付けにしてしまった。

 <以上の写真はBlue Note東京のHPより>
 <以上の写真はBlue Note東京のHPより>

 私は、どちらかと言えば、煙草でもくゆらせバーボンのグラスを傾けながら聴くような、スローテンポのブルース系のジャズが好きだ・・・

 でも、今回のライブで弾むようなテンポのキューバジャズを聴いて、気分が浮き立つのを押さえることができなかった。気分がブルーな時など、こんなジャズを聴くのも好いかもしれないと思い始めていた・・・

 演奏が終わって観客は立ち上がり、拍手が中々なり止まなかった。しかし、次のステージもあり、アンコールには応えてもらえなかった。

 仕方なく長い会計待ちの列に並んだ。私がやっと会計レジに辿り着いた時、息子がやって来て肩を叩いた。息子が会計を済ませたと言うので「敬老の日」の好意に甘えさせてもらった。

 息子はロベルト・フォンセカのニューアルバムの入手し、彼のサインをもらいに行っていたらしい・・・そのCDをマドンナと私にプレゼントしてくれた。

 外に出た時は19時近かったでしょうか、もう暗くなっていた・・・

表参道駅の近くの喫茶店で一休みしてお別れした。今日は東京駅へ出て新幹線で帰った。息子はマドンナから貰ったお土産を広げ、驚いていた。それは高級チョコレートだったらしく、私にも一粒分けてくれたが、確かに濃厚なチョコの味がした。息子はそれを冷蔵庫に仕舞いこみ、大事そうに食べている・・・

 そしてある晩「僕も高校は共学がよかったなあ」と息子が呟いた。確かに彼の通った高校はバンカラ校として名高い熊高で女子高との交流も殆どなかったようだ。そうなると、私は共学の高校で青春時代を過ごせて良かっただろうと思えてきた・・・それから暫くしてマドンナからメールが届いた。

 

『あっという間に秋ですね。暫く夏休みして、昨日から仕事に。先日晴俊さんから頂いたCD毎日聴いてますよ。素敵な音色とリズムは心の憂さを忘れさせますね。改めて感謝、宜しくお礼をお伝え下さい。』

 

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2017年

10月

05日

峰 厚介 カルテット at SPACE1497

2017年9月16日 サックスの峰厚介が若手のジャズプレーヤーを引き連れて、40年ぶりに熊谷市のSPACE 1497にやって来る。

ピアノ:清水 絵里子

ベース:須川 崇志

ドラム:竹村 一哲

 売り出し中の若手とカルテットを編成してSPACE 1497にやって来るというので、前回7月13日「バイソン片山トリオ」のライブの時にマスターに頼んでおいたが、前日にマスターに電話した。そると当日はかなり混む模様だが予約席を用意しておきますよと言ってくれた・・・

 当日は生憎の雨であったが、そそくさと夕食を済ませ18時半会場に合わせて出かけた。

丁度リハーサルを終えたばかりで、峯さんが何か飲んでいた。その机には「小南」と大きく書かれた紙が置いてあった・・・

 恐縮しながら席に着いたが、演奏前の緊張感が何となく伝わって来て、まだ話しかけるチャンスを掴めなかった。

 <特設の音響機器のチューニング>
 <特設の音響機器のチューニング>

どうも何時もの雰囲気とどこかちがうと思ってステージを見回すと、備え付けの音響機材とは別に可搬式の音響機材がセットされ、技術屋が念入に調整しているのだ。それに何本ものスタンドマイクに加え、上からも収音マイクが吊り下げられていた。もしかすると今晩のライブを収録するのかもと思った・・・

 暫くするとお客さんも入ってきた。 

 <収音マイクが数多くセット>
 <収音マイクが数多くセット>

 そして小山のように大きな体格の人が、「ここいいですか」と言って息子の斜め前の席に座った。丁度ピアノ奏者の手の動きを覆い隠すような位置だ。気の毒になり、席を換わろうかと囁いた。そして開演時刻が近ずくと共にお客さんが増えてきて、マスターが何度も折畳式の椅子を出してきた。通りすがりのマスターに「おめでとう」と小声で声をかけると、振り向いてにっこり笑った・・・私は何度もやって来たが、こんなに多いのは初めてだ。おそらく50人近い峰厚介フアンが詰めかけたのだ。

 私はジャズ好きの息子から名前は聞かされていたが、初めて峰さんのサックスを聴いたのは「新宿ピットイン50周年記念ライブ」だった。その時は大きなホールで、お顔など見えなかったが、峰さんが登場すると更に後ろの方から「厚介~!」と声がかかったのを覚えている。それから暫くして鈴木良雄さんの「人生が変わる55のジャズ名盤入門」の出版記念パーティーが新宿のJスポットで行われた時に峰さんが助っ人で来ていた・・・

 ステージ右側の椅子でダスターコートを着た老人が遣込んでいぶし銀のように見えるサックスを取り出しチューニングしているのが見えたが、この方が有名な峰厚介さんだとは気が付かなかった。

<鈴木良雄と峰厚介(出版記念)>
<鈴木良雄と峰厚介(出版記念)>

 その時は会社の先輩で早大ジャズ研だった扇田さんと左側の最前列に坐っていた。その夜の参加者の多くは早大ダンモOBが殆どだったようで、あのタモリさんも駆けつけてくれた。でも大先輩の方々にはかなわなかったようでした。 そして鈴木さんと峰さんのデュオが始まり、あの老人が朗々とサックスを聴かせてくれた・・・

 私は、直ぐ目の前で演奏する峰厚介を見た。

  <鈴木良雄、村上寛、峰厚介>
  <鈴木良雄、村上寛、峰厚介>

 その時、隣にいた扇田さんがドラムスの村上寛も中々好いよと教えてくれた。

 その後聴いた1973年収録の「フレンズ」でこの3人はすでに共演していることを知った。ジャケットの写真では、髪は黒々のロングヘアでエネルギッシュな演奏に聴こえた。

特に峯さんのサックスは、力強くビンビン耳に響いてくるように感じた・・・

 清水絵里子は、6歳から演奏、作曲、その他音楽全般を学び、16歳頃まで国内外での演奏活動を行って来た。新日本フィルハーモニー交響楽団やウィーン国立放送管弦楽団等との共演を重ねて来た・・・

 19歳のとき初めてジャズに出会い、まったく新しい音楽感に魅了され、独学と実践でジャズを学んだという。

 クラッシック音楽で鍛錬された正確なタッチから、即興演奏が求められるジャズの世界で、彼女は自由奔放に楽しみながらも、真剣に取り組んでいる様子がこの写真からも伺える。切れのあるピアノが心地良かった。

須川崇志は、群馬県伊勢崎市出身で11歳の頃にチェロを弾き始め、18歳でジャズベースを始める。2006年バークリー音楽大学を卒業後、ニューヨークでピアニスト菊地雅章氏に出会い、氏から多大な影響を受ける。

 2009年に帰国後、辛島文雄トリオを経て日野皓正のベーシストを6年間務める。

 現在は峰厚介カルテット等多くのグループに参加し、今晩は熊谷にやって来てくれた。

 子どもの頃からチェロを弾いていた彼は、弓で長い間ベースソロを聴かせてくれた。

そのベースが重低音でお腹に響いてきて、聴く人の心を震わせた・・・

 竹村一哲は、1989(平成元)年札幌市生まれで9歳からドラムを大山淳氏に師事し、中学卒業と同時にプロ活動開始した。

2006年、石田幹雄トリオで「横濱JAZZ PROMENADE」ジャズ・コンペティションに出場しグランプリと市民賞のダブル受賞。2010年8月から渡辺貞夫のバンドメンバーとしてツアー等に参加。2011年1月福居良プロデュースによるコンサートに出演、レジェンドBarry Harrisと共演。現在、板橋文夫トリオ、峰厚介カルテット等の様々なセッションに参加し全国各地で活躍している。

ここまでは彼のHPかたの紹介である。

 ドラマー竹村一哲の演奏を聴いていただければ、誰しもが納得するであろう、あの無類のリズム感、そして決して叩き過ぎず、他の奏者の演奏と調和した効果音の工夫など、ドラマーになるために生まれて来たような天才肌の若手だと思った。だからこそ渡辺貞夫のメンバーに選ばれたり、バリー・ハリスとの共演のチャンスを掴んできたのでしょう。

 近くにいても座ったままだと大きなシンバルに顔が隠れてしまう。私はどうしても彼の顔を撮りたくて、立ち上がってシャッターを切った。すると隣いた息子から制止されてしまい、顔の写っている写真は、これだけである。

 峰厚介さんは、改めて紹介するまでもないと思うのだが、鈴木良雄さんの初期のアルバム「フレンズ」に入っていた峰さんの談話によると、鈴木さんとは大学のジャズ同好会のコンサートからの知り合いだそうだ。

 その頃渡辺貞夫さんはジャズの理論講座を開いていて、鈴木さんは卒業してからも聴講していたという・・・昭和43年ころから、渡辺貞夫さんの影響を受けながら50年もの間サックスを吹いてきた。今回のパンフレットに「図太く繊細なサックス・・・」あるが、私には「野太くそして力強く、しかも繊細」にサックスの音は迫ってきた・・・

 演奏前にクーラーの吹き出し口の下に置かれたサックスに峯さんがそっとタオルをかけている姿を私は見た。最初、そのことがどんな意味を持つのか解らなかった。そして演奏を始める前にサックスを抱え上げ、まるで吾が子の体温を診るように手を当てて冷え切っていないかを調べ、手のひらで擦りながら温めていたのだ・・・これを見て初めてタオルをかけてあげたのかを知った。

 <ベースとドラムの掛け合い>
 <ベースとドラムの掛け合い>

 峰さんは自分のパートの演奏が終わると、私のテーブルに置いたコップの少し呑み、袖に下がって若手の演奏を聴いていた。そしてポケットから5cm四方位の紙を取りだし、サックスの孔と弁の間に差し込み、演奏で溜った水滴を吸い取っていた・・・

 この様な手入れをするのを初めてみた。

この様子は、子どもの体温を自分の肌で計り、汗をかいた子の脇の下をタオルで拭い、体調を気遣う母親を思わせる。

 今回のライブでドラムの竹村一哲とベースの須川崇志の掛け合いは迫力があり、見事だった。その様子を黙って袖から眺めている峯さんには風格を感じた・・・

 今日は、ライブ収録をしていたこともあり終演まで緊張感が漂っていた。そんな緊張感からも開放され、後片付けを始めた須川崇志さんと写真を撮らせてもらった。その時に、「須川さんの演奏法は特徴的ですね」と尋ねると色んなことを試していると話してくれた。彼は楽譜に目をやりながら、すっくと立ち演奏を続ける姿がとても印象に残った。

少しも顔で表現しようとしなかった・・・

    <峰厚介さんと私>
    <峰厚介さんと私>

 峯さんは、息子がお願いした何枚ものCDへのサインに快く応じてくれた。峯さんは絵が得意なようで、サインの横に自分の似顔絵が添えられていた。今晩のライブは収録されていたからかも知れないが、峯さんは曲目の紹介位しか話さなかった・・・峯さんは、トークが苦手なのかも知れないと思った。

 私は、Chinさんの出版記念パーティーで聴かせて頂いたことを伝えたら、「Chinさんとは永い付き合いだよ」とポツリと言った。

 音響のスタッフに収録した音源がCDでリリースされるのかと尋ねると、それはマネージャーが決めという・・・

 マネージャーの方に話してみると「音を聴いてみないと何とも言えない」と応えた・・・私は、CDがリリースされたら是非とも入手したと伝え、その方の名紙を頂いた。これがご縁で繋りができるかも知れませんが・・・

 まだ雨が降っていたが、今晩も満たされた気分で帰った。

 

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2017年

9月

30日

四匹の侍 佐渡紀行 2017.9.5~9.7 

青柳先輩 墓参の旅路

9月5日Maxとき307号(東京8:24)
9月5日Maxとき307号(東京8:24)

「四匹の侍 佐渡紀行」は9月5日とき307号で始まった。東京駅から郡司さん、上野駅から安保さん、大宮駅から堀口さんが乗り込んだ。私は9時3分に熊谷駅から、予ねて約束していた2号車2階の自由席に乗った。そこには安保さんと堀口さんが乗っていた。

 暫くして郡司さんが、1号車に4人の席があるからと言って迎えに来て、4人が向き合って座った・・・この4人は昭和40年代前半に岩手大学工学部の同袍寮で学生時代を送った46室、47室、48室の仲間である。実は今回の旅も昨年11月末に亡くなられた46室の青柳先輩のお墓参りが、そのキッカケなのである。

 青柳先輩から、小木町小比叡の蓮華峰寺という由緒あるお寺が実家であると聞いていたので、是非訪ねてみようと計画された・・・

  JR新潟駅到着 10:28
  JR新潟駅到着 10:28

 昔の仲間が久しぶりに会って、早速楽しい旅の話になるはずであったが、私のカメラの調子が悪く、私がカメラの調整に夢中になってしまい、長い間たいした言葉を交わすこともなく時が過ぎた。私もとうとう諦めた・・

 カメラの電子化の進歩の話から、昔のコンピュータの話になり、盛り上がった・・・

その内にIBM1800,U200,S/1へと話は弾み昔のコンピュータの記憶容量はせいぜい64KB程度であり、まだ人間の頭脳で解析できる範囲であったことを懐かしんだ・・・今やPCでも9GBの世界だ。

 こうして話に夢中になっている間に、終点の新潟駅に到着した。

  新潟交通バス駅前発 10:45
  新潟交通バス駅前発 10:45

 新潟駅から新潟交通のバスに乗り、新潟港に向かった。このバスは市内循環の路線バスで、色んな所を経由するので意外と時間がかかった。この写真は、斜め後方から郡司さんが撮ってくれたものだ・・・

 昔、昭和シェル新潟製油所のプロセス制御システムのプロジェクトを受注し、何度となく新潟に出張していたので、街並を眺めていたが、見覚えのあるところは見当たらなかった・・・

   新潟港 発着ロビー
   新潟港 発着ロビー

 新潟港の発着ロビーは、結構広々としていた。佐渡までの乗船券は、各々で買い求めることになっていたが、窓口のお嬢さんが、4枚綴りの回数券の方がお得ですよと教えてくれたので、2冊買い求めた。

 11時30分の出航までには暫く時間があったので、ロビー内を歩き回り、喫煙場所を探して一服させてもらった。

ジェットフォイル新潟港発 11:30
ジェットフォイル新潟港発 11:30

 ジェットフォイル船は、ボーイング社製のジェットエンジンで動くらしく、時速80Kで航行し両津まで1時間ほどだ。以前秩父セメントの工場勤務の頃、会社の仲間と佐渡に渡ったことがあったが、その頃はもっと時間が掛ったであろうが、最早思いだせない。

 船内は大人数のツアーグループも乗船し満席状態であった・・・

 私は船に乗ってもカメラの不具合が気になり、色々と試していたら、隣の堀口さんが望遠レンズで試してみたらとアドバイスしてくれた。望遠でテストしたら正常に動いてくれた。この写真は、船内のディスプレイに映し出された景色を望遠で撮ったものである。

 流石にジェットフォイル船は速かった。

1時間ほどで両津港に到着した・・・

まずは腹ごしらえと、荷物を持って外に出て見たが、写真で見えるように直ぐ近くにはお食事処は見当たらなかった・・・そこで一階の宝くじ売り場で尋ねると3階の食堂を紹介してくれた。

 そこには両津港を見下ろせるかなり広い食堂があり、それぞれ海鮮丼や天婦羅定食を食べた・・・喉も乾きビールと行きたかったところだが、これから運転する人がいたので我慢した。昼食を終え安保さんが予約しておいてくれたレンタカー屋さんに向かった。

 まずは、教わった花屋を探し、青柳先輩墓参にお供えするお花を求めた。ただ、今晩の宿で呑む佐渡の銘酒『北雪』を仕入れるのも忘れなかった・・・

 4人でレンタカーに乗り込みトキの森公園に向かった。途中で加茂湖の脇を通ったらしいが湖面を見ることはできなかった・・・

 およそ40分ほどで『トキの森公園』に到着した。そこには案内のおばさんが居て、行く道をガイドしてくれた。その昔、自然を飛び廻っていたトキも乱獲や環境破壊で絶滅し人工的保護を受けて生きている。

 今や、トキは立派な観光資源なのだ・・・

トキ展示資料館への入口に、この石碑があった。『朱鷺よキンよ永遠なれ』と新潟県知事平山征夫氏の筆跡が刻まれていた・・・

 このキンの意味するところは、佐渡金山のキンのことなのであろうかと、後になって考えさせられた・・・

この『トキの森公園案内図』にあるように朱い線で仕切られた右半分は、トキの保護飼育区域になっており立ち入り禁止である。

 券売機でそれぞれ入場券を購入する所で問題が発生した。係員に券売機にログを調べてもらったら、安保さんがお金を入れたが、即キャンセルしてしまったことが判明・・・

資料館を見学し、観察回廊を廻っていると、『なかよしの獣医さんです。』というパネルがあった・・・まだ茶目っ気のある堀口さんが顔を覗かせて写真に納まった。その辺のところは歳を重ねても変らないようで、ふと同袍寮で暮らしているころの堀口さんを思い出させてくれたワンシーンである・・・

 多目的飼育ケージの黒いトキを見て『トキふれあいセンター』に向かう途中に宮柊二の詩碑『朱鷺幻想』があった。彼は大戦後にシベリヤに抑留され、九死に一生を得て帰還した歌人としても名高い。その作風にも厳しいものがあり、心に迫りくるものを感じる。

詩碑の最後に反歌二首が刻まていた。

   あきらけく島山明けて空に鳴く声こそはすれ朱鷺渡るらし

   たちかへる年のあしたに島のごと甦りくる知識に遊ぶ

 トキの森公園から再び両津に戻り、凡そ1時間かけて、海岸沿いに『姫崎灯台』にやって来た。この灯台は「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」に選ばれているそうだが、私には、その理由は不明である・・・

 ともかく望遠レンズで一枚撮った。

 時計は16時近かったでしょうか、少し夕暮れの感じである。海なし県の埼玉に住んでいると、静かな海を眺めているだけで何とも長閑で心穏やかな気分に浸ることができた。

 そろそろ今日の目的地・青柳先輩の実家・蓮華峰寺に向かわねばならぬ時刻となった。

 また海岸沿いに赤泊港を経て小木港に向けて1時間10分程の工程を走り続けた・・・

 小木町小比叡山・蓮華峰寺の標識を見つけ、登り坂にさしかかったときは、17時に近かったであろうか・・・昨夜、5日の午後にお伺いすることを電話でお伝えしておいた。  電話口の青柳さんのお兄さんの奥様に「初めてなので、道に不案内ですから遅れるかもしれない。」とお断りして良かったと思った。

 坂道を登り切り、少し下ったところにかなり広い駐車場があったが、そこには駐車せずに更にちょっとした谷底へと道を進んだ・・・何しろ沢山の伽藍が建っていて、どこにお住まいか見当つかなかったからである。この先に駐車できる場所があるだろうかと心配されたが、谷底まで進むとひときわ大きな伽藍の近くに数台分の駐車スペースがあった。

 車から降りてもお住まいの廚が判らず、そこからお住まいの場所を探しながら石段を登った・・・登り切った所の「葵紋」の着いた提灯と山門があった。

 蓮華峰寺と言っても左の写真の標識のようにいくつの伽藍が散在していた。とにかく写真に納めておこうと、それぞれがシャッターを切っていたが、恐らく4人の写真を全て持ち寄っても全てを写し切ってはいない。

 どうぞ上の下線部(蓮華峰寺)をクリックして、青柳さんのご実家である蓮華峰寺の全体をご覧ください。

 「佐渡が皇城の鬼門にあたるとして、弘法大師が開基したといわれる古刹。嵯峨天皇の勅願寺であったともいわれ、金剛寺・室生寺とともに真言の霊地となっています。

 境内には国の重要文化財に指定されている金堂・骨堂・小比叡神社の石鳥居があります。6月下旬から7月上旬には7,000株のアジサイが一斉に開花する様子が見事なため、別名アジサイ寺とよばれています」

 ネットでは上記のように紹介されているが、蓮華峰寺の 簡潔な紹介はこちらをご覧ください。

 石段を登り詰めたが、お住まいは探し当らず石段を下った。左の写真が石段を上から見下ろした眺めであるが、かなりの距離と勾配であった。

 結局のところ、車を止めたところの大きな伽藍と渡り廊下で繋がっている廚がお住まいであった・・・最早17時頃となり窓からの灯でお住まいであることが判り、安保さんから声がかかった。

 青柳さんがここで暮らしていた子供の頃には、まだ車も多くなかった時代でしょうから先ほど下った道路は馬車道の迂廻路であったろう。

 そうなるとあの長い石段を毎日登り降りしていたのだろうなどと想像しながら、下から石段を見上げていた。

 玄関の引戸を開けると一目で青柳さんのお兄さんと判る方と奥さまが、出迎えてくれた。学生時代の青さんを知っている人であれば、誰しも歳を重ねた青さんの面影をこのお兄さんから感じとることができるでしょう。

 そんなお兄さんが開口一番「皆さん、遠い所よく来てくれたね・・・真次(まさじ)も喜んでいるでしょう」と言って歓迎してくれた。

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2017年

9月

22日

『第12回 賢治と歩む会』 2017.7.29

 今回は熊谷短歌会の文学散歩『宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて』に参加したメンバーからの簡単な報告を行われた。

 私は岩大電気科の東京支部総会で発表した『マイブーム』で使用した資料を再編したDVDを上映し、その報告に代えた。

 文学散歩に参加された黒澤さんは、この度訪れた小鹿野の皆本沢に生まれ育った方で、賢治一行が源(皆本)沢の地質調査に入った頃のお話をしてくれた。その頃は、皆本沢の橋はつり橋であったことや、皆本沢の奥で茶屋を営んでい親戚の所で賢治一行が休んだに相違ないと熱く語った・・・

 黒澤さんは、熊谷市の八木橋デパートに勤めるようになり、『熊谷賢治の会』の立ち上げにも尽力され、八木橋デパート前の賢治の歌碑建立にも関わって来たという・・・

 20年近く活動してきた『熊谷賢治の会』も解散することなり、『賢治と歩む会』へと引き継がれたということだ・・・

  《 シグナルとシグナレス 》

 舞台は同じ東北本線の花巻駅と岩手軽便鉄道花巻駅であるが、前回の『月夜の電信柱』では電信柱の行進とそれを見ていた少年とのやり取りが主な物語であったのに対し、今回の『シグナルとシグナレス』では、本線の青年シグナルと軽便鉄道の乙女シグナレスが恋をする物語である。

 ただ二人共、シグナル(信号機)付きの電信柱と電線で結ばれて身動きできない身の上で、風に乗せて愛を囁くしか心の内を伝える術がなかったのだ・・・

 シグナルは西風に頼んで「どうか僕を愛して下さい。」とシグナレスに伝えたが、黙ってうつむているだけだった・・・シグナルは自暴自棄に陥るが、とうとうシグナレスから結婚の約束を取り付け、婚約指輪に環状星雲を贈るなど、賢治ならではの発想である。

 しかし、このことが本線付きの電信柱の知るところとなり、怒り狂った電信柱は、手を廻しシグナレスの風下に立つ軽便鉄道の電信柱から一部始終を聞き出してしまった。

 そして本線付きの電信柱は、猛反対をして叔父の鉄道長まで引っ張り出して結婚をぶち壊しにかかった。シグナルは力を落として青白く立ち、シグナレスはしくしく泣きながら、そのいぢらしい撫肩はかすかにかすかにふるえて・・ 

 この様子を見かねた倉庫が、大きな幅広い声で「あの二人は一緒にしてやつた方がよかろうぜ。」と持ち掛けるが、意固地な本線シグナル附きの電信柱は言うことを聞かない。

 シグナルとシグナレスは、霧の中から倉庫の屋根の声を聞いた。「お前たちは、ほんたうに気の毒なことになつたよ。お前たちは霧でお互いに顔も見えずさびしいだらう」と言ってある呪文を教えてくれた。 

 実じつに不思議です。呪文を唱えると、シグナルとシグナレスとの二人は、まっ黒な夜の中に肩かたをならべて立っていました。「まあ、不思議ですわね。まっくらだわ」

「いいや、頭の上が星でいっぱいです。おや、なんという大きな強い星なんだろう。それに見たこともない空の模様ではありませんか、いったいあの十三連なる青い星はどこにあったのでしょう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね、僕たちぜんたいどこに来たんでしょうね」 

・・・

 『銀河鉄道の夜』を想わせるようなシーンが展開される・・・

「あら、なんだかまわりがぼんやり青白くなってきましたわ」

「夜が明けるのでしょうか。いやはてな。おお立派だ。あなたの顔がはっきり見える」

「あなたもよ」

「ええ、とうとう、僕たち二人きりですね」

「まあ、青白い火が燃もえてますわ。まあ地面と海も。けど熱くないわ」

「ここは空ですよ。これは星の中の霧の火ですよ。僕たちのねがいがかなったんです。ああ、さんたまりや」・・・・・・・・・・・

 「ええ、まあ、火が少し白くなったわ、せわしく燃えますわ」

「きっと今秋ですね。そしてあの倉庫の屋根やねも親切でしたね」

「それは親切とも」いきなり太ふとい声がしました。気がついてみると、ああ、二人ともいっしょに夢ゆめを見ていたのでした。・・・ 二人はまたほっと小さな息をしました。

 『シグナルとシグナレス』の恋物語は、ここで終わるが、賢治は私たちに何を伝えようとしたのであろうか・・・賢治の恋の童話は『土神ときつね』、『まなづるとダリヤ』などだが、これらに比べても解り難いように思った。

 萩原先生は『シグナルとシグナレス』は『銀河鉄道の夜』よりも前に書かれた作品でその前哨を連想させような場面も数か所あると説明してくれた。13連なる星が出てくるが、14番目に連なる星は賢治の最愛の妹トシになるのであろうと付け加えた・・・

 そして賢治にとっての愛とは、人間世界の性欲を完全に否定したところにあり「顔を見合わせて微笑むだけ」で十分満足なのであると解説してくださった。ですからこの物語のシグナルとシグナレスも夢とは言え、宇宙の高いところで結ばれたことで二人愛は完成しており、夢から覚めも満足して現世に戻ってきたのだとも解説してくれた。

  「二人はまたほっと小さな息をしました。」この文がそのことを表現しているのだろうか・・・

 私は、賢治がこの作品を書くに至ったシチュエーションを考えてみた。まず、本線のシグナルは裕福な家に育った賢治自身であろうと思った。一方、軽便鉄道のシグナレスは同じ街に住み、賢治が想いを寄せるけなげな乙女であろう。そしてシグナル付きの電子柱は、身分のちがうシグナレスとの恋仲を反対するために叔父の鉄道長まで引っ張り出したり、手を廻してシグナレスの身辺調査を行うなど、あの厳格な賢治の父・政次郎を連想させる。

 そうなると、二人の結婚を認めるように電信柱に働きかけたり、二人の仲を暖かく見守り、天高くワープする呪文を教えたりする倉庫の屋根は、母・イチのことだろう・・・などと私は勝手な想像力を働かせてみた。

 私は、シグナレスのモデルとなった女性が花巻に住んでいたのでしょうかと先生に尋ねてみた。すると先生は、賢治は三回初恋をしているようだと話し出した。賢治の好みは、どうも目は切れ長でうりざね顔のきりっとした女性だったようだ。最初は盛岡中学時代に入院した日赤病院の看護婦さんであった。

 それから賢治は木村幸子という女性に恋をした・・・更に賢治は伊藤ちゑと花巻で見合いをしている。伊藤ちゑは水沢市の名家の生まれで、兄・七雄が療養のために大島に移り住むと、兄の看病のために一緒に暮らしていた。七雄は大島農芸学校を開校しようとしていて、賢治はその相談にのるために昭和3年6月12日に大島に渡った。その時も賢治は伊藤ちゑに会っているが、既に自分の病の重さを自覚しており、生涯を独身でと早くから覚悟していたようだ。

 このような背景もあり、賢治は俗世間の愛・性欲から超越した精神的な愛の形を求めていったのであろうか・・・

 俗世の私には理解し難いことで、萩原先生の「宮沢賢治『修羅』への旅」を読み返してみたが得心するには至らなかった。

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2017年

9月

13日

東京 JAZZ FESTIVAL 2017 9.1~9.3

 昨年まではJR有楽町駅近くの国際会議場で行われいたが、第16回東京ジャズ・フェスティバルは、渋谷で行われた。今年も数ケ月前からに息子がチケットを手配してくれた。 今回はお目当てのロンカーターと渡辺貞夫のステージがあり良い席を確保したというので、9月3日に楽しみに出かけた。

 左のマップのようにNHKホールを中心に9ケ所の会場にステージが設けられたジャズフェスティバルである。17時からのステージであったが、野外ステージも見学しようと昼頃には代々木公園ケヤキ並木通りの会場に着いた。

 会場に向かう途中で適当なお食事処が見つからず、とりあえずコンビニでおにぎりとお茶を仕入れて会場のベンチで食べた。

 ところが会場にはいろんな出店があったので、ピザを買い求めた・・・ただ、お客が列をなし、焼き上がるまで20分ほど待たされた。お店も気合を入れて焼いたらしくピザには黒焦げの跡もあったが、生ビールを呑みながら食べたピザは美味かった。

 これまでTVでお見かけしたNHKの大きなマスコットキャラクターが出迎えてくれた。

私もエビデンスのために写真を撮っても貰ったが、それは縫い包みよりも大きいようだ。

それからジャズの聞えてくる方に歩いて行くと大勢の人が集まっていた。今どき背の高い人が多く、肩越しにステージを垣間見た。

 すぐ近くで背の高い外人が女の子を肩車で見せていた・・・その女の子と母親は日本語で、その女性は旦那さんと英語で会話、何とも微笑ましい光景。

 ケヤキ並木通りに賑やかな管楽器の音が響いてきた。早稲田大学のニューオリンズジャズクラブの演奏だ。ジャズ発祥の地ニューオリンズでは、葬儀にはジャズで死者を送る習わしがあるという。確かに演奏楽器は、そのまま行進できるものばかりだ・・・

 このバンドも最後の曲目は「聖者の行進」であった。やはりデキシーランドジャズは野外演奏に向いているようだ。

 私も二度ほどニューオリンズに行ったことがある。その時、船の両脇に付いた大きな水車で動く遊覧船に乗り、その船上でジャズを聴いた・・・

 ゆったりと流れるミシシッピー川を眺めながら聴いたバンジョーの響きが今でも耳に残っている。 

 暫くするとケヤキ並木通りの入口の方から楽隊が行進してきた。多くのフアンを引き連れての行進は、益々お祭りムードを盛り上げてくれた。このジャズバンドの目的地は、早大ニューオリンズジャズクラブが演奏した野外ステージであった。これは次のステージの宣伝で、彼らはステージの準備にかかった。

 17時の開場時刻が近づいたので、NHKホールに向かった。

 NHKホールと言えば毎年紅白歌合戦や歌謡ショーなどでお馴染みの会場ではあるが、これまで中に入ったことはなかった。あの紅白歌合戦の派手な舞台を想像しながら、開場時刻を待った・・・

 開場を待ちかねたジャズフアンが長い列を作っていた。息子に「指定席だから並ばなくてよいのではないか。」と問いかけると、早く入場してCDやグッツを探すのだという。

 入場してみると意外と広いロビーで、くつろげるスペースとなっていた。息子はCDの物色に夢中であったが、私は助六寿司を買い求めた。これが中々美味しかった・・・ 

 ホールに入るとSS席と言うことで、前から4列目で好い席であったが、ステージに向かって左がの並びであった。ところが、斜めからの眺めは、プレイヤーが重ならず全容を見渡すことができた。ステージの飾りもケバケバしさはなく、シックで大人のムードを醸し出す落ち着いた感じであった・・・

1stステージ:ロンカーター・カルテッド

 ロンカーターのベースを始めて聴いたのも10年ほど前の東京ジャズであった。その頃、付き添いを必要としていた息子が、どうしても東京ジャズを見たいというので東京国際ホーラムへやって来た・・・その時ロンカーターのベースを聴いて、その低音でお腹に響いてくる男性的な音が好きになってしまった。それがきっかけでベーシスト鈴木良雄(Chinさん)のフアンになった。鈴木さんも日本のChinカーターだと冗談を言うほどロンカーターをリスペクトしていた・・・

      <右:ロンカーター>
      <右:ロンカーター>

 流石に歳を重ねた感じはしたが、ベーシストのロンカーターが登場すると大きな拍手が湧きおこった。やはりジャズ界のレジェンドにはオーラがあり、その音色は懐にスゥーッと入ってくる感じで、最初の音を聴いただけで思わす息を呑んだ・・・

 極めつけはベースソロの曲であった。その曲は盟友ジム・ホールに捧げる大切な一曲と紹介して演奏された。目を閉じて盟友を想い出し、心に去来する演奏者の想いが伝わってきて、音楽の力は言葉を超え感情にダイレクトに訴えかけてくることに改めて凄さを感じた・・・ 

   <ドラマー:川口千里>
   <ドラマー:川口千里>

2ndステージ:川口千里 TRIANGLE

 20歳の女子大生ドラマーで世界一速く叩くと評判のドラマーの登場である。

 確かに、若いエネルギーが爆発するようなドラミングは驚異的であったが、その激しさ故に、どの曲目を聴いていても私には、皆同じに聴こえてきてしまった・・・

 選曲が良ければと感じた。

3rdステージ:渡辺貞夫 CALIFORNIA

       SHOWER 2017

 

 満員の観客は、やはりこの人の登場を待っていた・・・とうに80歳を超えているはずの渡辺貞夫さんは、背筋をぴんと伸ばしスタスタと登場すると会場から割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった・・・

 そして「今年は、初めてジャズが録音されてから100年ということなので私も古いアルバム「1978年‐CALIFORNIA SHOWER」からお送りします。」と挨拶した。そのメンバーは、ピアノ:デイヴ・グルーシン、ギター:リー・リトナー、ドラム:ピーター・アースキン、初参加ベース:トム・ケネヂィ

と、殆ど40年前のアルバム制作当時メンバーが集まったのだ・・・

 こうして渡辺貞夫さんは、デイブ・グルーシンのプロデュースで世界的ヒット作品を数多く出している盟友だけあって、往年のファンの盛大な拍手に包まれて終始素晴らしい演奏を繰り広げた。

 特に最後の曲は、美しいピアノのメロディをデーブが、イントロを崩して弾いてだんだんと元の曲が分かってくる仕掛けで、東日本大震災のテーマ曲『花は咲く』を演奏して貞夫さんのサックスの暖かい音色に感動して思わずウルっときてしまった。復興への想いを忘れてはいけない、頑張れ東北とメッセージを貞夫さんだけではなく国境を越えた音楽の仲間が伝えようとしてくれた。凄いことだなぁと思った・・・

 メンバーの挨拶に観客は、スタンディングオベーションで、大喝采だった。その拍手が鳴り止まず、とうとう舞台袖から渡辺貞夫さんが戻りアンコールに応えてくれた。アルトサックス一本でマイクなしの綺麗な音だけが、観客席に朗々と響き渡り観客は皆んな立ち上がったまま、身動きもせず聴き入った・・

 皆が皆、大満足のステージであった。みんな黙ったまま出口へ向かってあるいた・・・その人混みの中で、メガネを外してそっと涙を拭っている若い男性をみかけた・・・私も再びこみ上げてくるのを押さえることができなかった。

 

  <セットリスト>

  1. ORANGE EXPRESS
  2. BUTTERFLY
  3. TREE TOPS
  4. SONGOMA
  5. ALL ABOUT LOVE
  6. STRAIGHT TO THE TOP
  7. CALL ME
  8. I THOUGHT OF YOU
  9. CALIFORNIA SHOWER
  10. CHEGA DE SAUDADE
  11. TEMBEA
  12. LIFE IS ALL LIKE THAT
  13. 花は咲く
  14. EN. CARINHOSO

 

 外に出た時には、もう22時にほど近い時刻になっていた。帰りは渋谷までバスで行くことに決め、バス停に急いだがすぐ直前で満員となったが、待機していたバスが直ぐきたので座ることができた・・・

 渋谷からは湘南新宿ラインのグリーンに乗り、快い疲れを感じながら満足して帰った。

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2017年

9月

09日

Sumida Street Jazz Festival 2017

8月18日~20日 隅田ジャズフェスティバルが開かれていたので、20日にふらりと出かけてみた。JR両国からJR押上にわたる屋外でのストリートジャズである。JR錦糸町駅周辺に多くの会場があったので、錦糸町までの往復切符を買い求めて出かけた。

 錦糸町駅に降り立つと駅前に伊藤佐千夫の歌碑を見つけた。伊藤佐千夫と言えば、何度も映画化された「野菊の墓」が知られているが、正岡子規に師事した歌人としても著名である。伊藤佐千夫は東京都内で牧場をやっていたことは知っていたが、その地がここ錦糸町であったとは初めて認識した。この歌碑には、次のように刻まれていた。

 

 よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも

 まずは昼食をとラーメン屋を探したが見つからず、パスタを食べた。外へ出るとジャズが聞えてきた。ちょっとしたスペースに仮設のステージが作られジャズが演奏されていた。会場が押上から両国まで広範囲に点在しているので、会場を結ぶシャトル巡回バスが運行されていた。

 歩いて錦糸公園のメイン会場に向かった。

結構広い公園で、ビルの間からスカイツリーが見えた。その公園の奥の方にはメインステージが設けられ、公園の入口近くにはスポンサー提供のサブステージがあった。

 今日は日曜日で公園には既に多くの人々が家族ずれで集まってきていた。

 まずサブのグリーンステージのジャズを聴いた・・・打楽器奏者・石黒理恵さんが率いるバンドである。女性のサックスプレーヤーが心地良い響きを聴かせてくれた。

 ステージが終わったのでメインステージに向かった。入り口で生ビールを一杯仕入れてステージ前のベンチに陣取った。

 ステージではスタッフが次のステージの準備を進めていた。時折プレーヤーが登場し自分楽器の音響のチューニングを繰り返していた。暑い中そんな様子をぼんやり眺めながらビールを呑んで待った。そころが開演が近ずくと、混雑が予想されるからと折角確保したベンチが撤去されてしまった・・・

 開演となり登場したのが「浅草ジンタ」というバンドであった。ところが、これがジャズなのかと耳を疑うような大きな音響を鳴り響かせ、ラッパーが何か歌いだした・・・私も息子も好みに合わなかったので早々に退散した。

 行き場を失い、あまりに暑いので近くの商業施設で休息をとった。

 時間を見計らい、お目当にしてやって来た「RUIKE SHINPEI 5piece band」のステージに向かった。やはり人気トランペッター類家心平だけあって、既に多くの観客が詰めかけていた。私は先ほど100円ショップで小さな腰掛を入手していたが、それを使うスペースは見つからなかった・・・

 彼の左の頬をご覧ください。こんなに風船の如く膨らんで、大丈夫なのかと心配になるほどであるが、トランペットの音色は高らかに、しかも透き通り観衆の心に刺さった。皆、その場に釘付けになってしまった・・・

 彼の演奏に合わせて、おのずと息を止めて聴き入るほどであった。今回の5人のメンバーは若手中心で、どちらかと言えばロック系の激しい曲目が多かった・・・私はどちらかと言うとスローテンポのバラード系が性に合う。そんな曲目を彼がミュートで吹いているのに、バックのドラマーにドカドカ叩かれてしまい私としては興覚めであった・・・

 でも、彼は実力派若手トランペッターとし山下洋輔に請われ、9月2日の東京ジャズにもスペシャルゲストとして出演していた。やっぱり大したもんです。

 次もお目当ての伊藤君子さんのメインステージに向かった。その時、広場を音楽隊が行進して来た・・・顔見知りのフアンや子供たちがその後に続いていた。まったくお祭り気分で、見ている方までウキウキしてしまうのは不思議だ。こんな時に似合うのは、やはりニューオリンズジャズだ。取り分け「聖者の行進」などがピッタリで、思わずサッチモ(ルイアームストロング)のあの大きな目とごつい鼻、しゃがれ声が浮かんで来るのも好いもんだ・・・

その先に進むとメインステージの反対側にイベントステージがあり、子供向けに色々なイベントが行われたようだ・・・多分、氷の彫刻の実演が行われた跡だと思うが、何か動物の姿をうかがわせる氷の塊があった。鋭角的に彫られた氷の彫刻もこの暑さで溶けてしまい、この写真からだと何であったのか判別できなかったが、息子の写真を見ると二頭のイルカであった・・・撮影時刻は15時17分。

 メインステージでは「タケカワユキヒデ&小林香織」の演奏が続いていた。私でも知っているあの「ガンダーラ」「銀河鉄道999」を歌っていた人だ。まだまだ人気があり大勢の人が詰めかけていたが、次のステージのためにその人混みをかき分けながら、前へ前へと進んだ。

 この写真の距離まで進み、携帯用の椅子に腰かけ、生ビールを呑みながら舞台が整うのを待った。

 ステージのセッティングには、かなり時間がかかる。それぞれのプレイヤーが自分が演奏する楽器の音響をそのステージ環境に合わせてチューニングして、納得のいく音を確認させて行く作業なのだ・・・熊谷のSPACE1497で野力奏一さんとのデュオでお会いしたことのあるベースの坂井紅介さんが出て来た。

 そしてボーカルの伊藤君子さんも何やら言葉を発しながら、スタッフに指示を出し調整を繰り返していた。伊藤君子さんのライブは今回が初めてだ。

 このステージでは撮影禁止のアナウンスがなかったのでスマフォで写真を撮った。演奏が始まると前に座って居る人が皆立ち上がるので必然的に立ち上がることになるが、この時も20センチほどの腰掛が役に立った。写真を撮る時だけ、その椅子に乗っかった・・・

 伊藤君子は 香川県小豆島生まれ、4歳の頃にラジオから流れる美空ひばりの歌声に魅せられ、歌手を目指し、演歌歌手としてデビューした語った。彼女はとてもトークが上手で、あっという間に聴衆を引き込んでしまった。中でも伊奈かっぺいさんと出会い、彼の勧めで津軽弁のジャズを始めた経緯は面白かった。そして歌い出した「津軽弁ジャズ」は完璧であった。秋田で育ったの私はほぼ理解できたが、息子にはメロディーは判っても、歌詞はおそらくチンプンカンプンで、何と言っているのか解らなかったことでしょう・・・

 その中で、坂井紅介さんがベースソロで津軽三味線のパートを演奏してくれた・・・紅介さんのベース奏法は、大したもんだ。

 今回のステージで、伊藤は生誕80周年を迎えるひばりの名曲をジャズにアレンジし、カバーしたCDから多くの曲目を歌った。

01.東京キッド

02.愛燦燦

03 .川の流れのように

04.津軽のふるさと

               05.一本の鉛筆

               06.リンゴ追分 

 美空ひばりを敬愛し憧れ続けてきた彼女ではあるが、その歌唱は決して美空ひばりの物まねではなかった。ひばりの歌が彼女の心で消化され、彼女の歌として演歌がジャズの雰囲気に生まれ変っていたように思われた。特に「一本の鉛筆」は、低音で言葉を噛みしめ、呟くような歌い振りは心に沁みた・・・

 

07.魅惑のワルツ FASCINATION

08.慕情 LOVE IS A MANY-SPLENDORED THING

09.恋人よ我に帰れ LOVER, COME BACK TO ME

10.スターダスト STARDUST〈BONUS TRACK〉

11.スカイラーク SKYLARK

 彼女が、ひばりへの想いを込めた歌詞を自らが書き上げた「SKYLARK」は、彼女自身を象徴しているように思えた。 

 最後のステージ挨拶で深々を頭を下げると会場から大きな拍手が巻き起こった・・・

そして、集まってきた多くの観衆は、しばらくの間その場を動こうとはしなかった。

 彼女は、客席に背を向けてステージを支えてくれたスタッフに向かっても頭を下げた。

このことから彼女の謙虚な姿勢から、そのお人柄がうかがえて初めて聴いたライブであったが、私はますます伊藤君子というシンガーに親しみを感じた。

 今も「Kimiko Sings HIBARI」のCDを聴きながらブログを書いている・・・

 最後になってしまったがメンバーは、

伊藤君子:ヴォーカル

宮本貴奈:ピアノ

坂井紅介:ベース

加納 樹麻:ドラム

と素晴らしいプレイヤーであった。

 ステージ終了後、CDにサインをもらうために列に並んだ。息子が数枚のCDを持っていたので、私も列に並んだ。

 やはり伊藤君子さんは気さくな人であった。長い列が出来ていたのに一枚ずつ丁寧にサインしながら、私と息子を見比べて「親子ですか。」と尋ねた。

そして「沢山CDを買っくれて、ありがとう。」と言って握手をしてくれた。

 どうも坂井紅介さんはシャイな人らしく、サインの席には来られなかったが、近くで談笑しているのを見かけていたので、ご挨拶したいと思っていたのに、気が付いた時には姿は見えず残念なことをした。

 今日は、暑い野外ステージを歩き回ったが、満足な一日であった・・・

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2017年

9月

02日

UENO JAZZ INN'17 2017/8/5

 8月5日上野ジャズフェスティバルに出かけた。上野の不忍池の畔にある野外公会堂であったが、8月の長雨が続いて予報は雨であった。お昼頃に上野に着き、長いこと本郷の会社へ通っていたので会場は判っていたが、まずは会場に向かった・・・

 池の畔の映画館の横を通り不忍池へ出た。昔は秋田へ帰る夜行列車の時間調整にこの映画館に立ち寄ったこともあったが、今では新幹線で行けるようになり、そんな必要もなくなった。

 こう長雨が続くと不忍池の畔は、ぐしゃぐしゃのぬかるみとなったが、今ではすっかり歩道が整備され最早とりこし苦労であった。今年の長雨のせいなのか、蓮の花が真っ盛りであった。何十年もの間、上野経由にて本郷の会社へ通っていたのに、不忍池の満開の蓮の花を見たことがなく、改めて感動した。

 公会堂前に行くと20人位の人が並んでいるのを確認して、昼食を食べにいった・・・

お目当ての食事処が混雑していて順番待ちをしたせいもあるが、会場に戻ってみると待ち行列は、会場の裏手の方まで続き200mほどになっていた。おまけに蒸し暑くてたまらず、持って来た折り畳みの雨傘を日傘にするほどに晴れ上がってしまい、雨の予報が外れたのと裏腹に、汗だくで待った。

 熱中症を心配した会場のスタッフが何度も見回り、喉飴などを配ってくれた。息子が熱中症を心配してくれたので、私は列を離れて飲みもを求めに行った。広小路の通りに出たところにコンビニを見つけ、缶ビール2本とお茶を仕入れた。蒸し暑い中をまた歩いた。戻って暫くしてからやっと列が動き出し、会場にはいると運良く前から3列目の席を確保できた。ただ、場内撮影禁止で、ライブの臨場感をお伝え出来ないのが残念だ。

 入場の時にプログラムの印刷されたうちわをくれた。それを見ると会場の正式名称は「上野恩賜公園野外ステージ」であり、通称(水上音楽堂)であった。知らなかった。

 会場には屋根があり日射しは遮ってくれたが、風通しが悪くて早速うちわが大活躍となった。会場中うちわが揺れ動き、汗をかきながらも長年通っている常連さんが多いように見えてジャズフアンとしての仲間意識が湧いてきた・・・

 

 15:30 浅草JAZZコンテスト・グランプリグループ

 16:35 UENO LADY'S JAM

 17:25 抽選会

 17:45 渡辺真知子 with Special Egg

 19:00 守屋純子オーケストラ ゲスト:北村英治(CI)

 

 最初のグランプリグループは、殆どは若手の大人数でエネリギッシュな演奏であったが、どうしても自己主張が強過ぎるよう気がした。何しろ徳島からこの日のために駆け付けたプレーヤーもいたくらいですから無理からぬことでしょうか・・・ボーカルのグランプリは宮城からやって来た。

 審査委員特別賞の高校生のピアノは印象に残った。それが偶然、演奏後に彼女に出会った・・・「また聴かせてください。頑張ってください。」と握手した。か細くてしなやかな手からあんなに躍動的な音が出るのかと驚かされた。 

 アルトサックス纐纈歩美
 アルトサックス纐纈歩美

UENO LADY'S JAM は文字通りの若手女性だけのジャムセッションであったが、アルトサックスの纐纈(こうせつ)歩美さんのライブを聴いた事あった。熊谷の江南のホールに来た時で、その日のセットリストを知りたくて引き返し、一緒に写真を撮らせてもらった覚えがある。

 そんなこともあり、親しみを持って聴いた。

このグループでMCを務めたトランペッター市原ひかりさんは小柄ながら、その響きは明るく新鮮で力強かった・・・ジャズと言えばたばこの煙が充満している薄暗い酒場での演奏をイメージしがちであるが、このメンバーはそのイメージを覆してくれた。でも私は缶ビールを呑みながら、フレッシュなジャズを聴いていた。

 渡辺真知子は、私がまだ若い頃のポップスシンガーであった。まさか、こんなジャズシーンでお目にかかると思ってもいなかった。

 彼女は昔懐かしい江利チエミ、雪村いずみのジャズナンバーを歌った。そして美空ひばりの「りんご追分」の声量は圧巻であった。

やはり美空ひばりは多くの歌手からリスペクトされいるようで「愛燦燦」のジャズアレンジも素晴らしかった・・・

 歳を重ね鍛え抜かれた喉は、益々力強く、彼女は「ジャズを歌うようになって、ここまで歌い続けることができた。」と述懐していたのが印象的であった。

 そして最後に彼女のヒットナンバー「かもめが翔んだ日」を熱唱すると、昔のフアンがタオルを振り熱狂している姿を目にし、背筋がゾクッとした・・・

 守屋純子オーケストラは、多くのプレーヤーで構成されたビッグバンドであった。

このビッグバンドの演奏に先駆けて総合司会から、あのサックスのデビットサンボンに請われてブルーノート東京で共演したパーカッションの岡部洋一さんがゲスト出演する紹介された。岡部さんはベーストークのメンバーで何度もお会いしているので楽しみだ・・・

 小柄な守屋純子さんが黒いドレス姿で登場し、演奏が始まった・・・でも、曲のエンディングの時、ドレス姿でのジャンプには少々違和感を感じた。

 いよいよ岡部洋一さんが登場した・・・とりわけ岡部さんのソロの迫力に会場がどよめいた。ところが、その演奏に刺激を受けたドラマーが頑張り過ぎているように思えた・・・調和を損なうような大音響には、少し残念であった。

  レジェンド北村英治
  レジェンド北村英治

 そしてついにジャズ界レジェンド北村英治が登場すると会場全体がどっと沸いた。何しろ戦後の食糧不足の頃に米軍キャンプでジャズをやれば、コービーが飲めてパンが食べられるから始めたというから、もう72年もジャズをやって来たことになる。同年代の原信夫とシャープス&フラッツのライブを観たことがあるが、二人共日本ジャズの草分けの人物である。

 北村英治さんのクラリネットもまだまだ若い者に負けない優しい音色を聴かせてくれた。ジャズフェスでは、アンコールを受け付けないのが通例であるが、最後のプログラムでもあり北村英治さんがアンコールに再登場してくれた。そしてあのスイングスイングスイングが始まった・・・昔々白黒TVの頃、毎週放映されていたベニーグッドマン・オーケストラがこの曲を演奏したのを聴いた覚えがある。北村さんの想いのこもったこの曲のビッグバンド演奏は、観客全員を浮き立つような好い気持ちさせてくれた・・・

  パーカッション岡部洋一
  パーカッション岡部洋一

 この蒸し暑さに耐えながらも、気持ちの上ではすがすがしい気分になれた・・・

ただ残念だったのはステージ上の岡部さんに気付いてもらおうと何度か立ち上がってうちわを振ったりしたが、それは叶わなかった。

 ところが、私が喫煙所で一服していると、息子がやってきて岡部さんがステージ横にいると教えてくれた。関係者以外立ち入り禁止のテープをくぐって岡部さんに近づくとやっと気づいてくれた。ほんの短い時間ではあったが、岡部さんにご挨拶できて満足できた。

 上野から新幹線で帰ろうとしたが、タイミングが悪かった。せめてゆっくりしたかったのでグリーンに乗りライブの余韻を楽しみながら帰った。

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2017年

8月

13日

賢治 秩父調査旅行の歌碑を訪ねて

 宮沢賢治が盛岡高等農林学校の2年生の時に、関豊太郎教授に引率されて、大正5年9月2日から1週間にわたり、秩父地方の地質調査にやって来てから100年も経った。

 熊谷短歌会では、平成29年5月31日に第6回文学散歩を行い、賢治が旅した秩父路に建立された賢治の歌碑を訪ねた。その時の写真と賢治が秩父路に残した記録を取りまとめた「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」のDVDをご紹介する。時間は、およそ9分弱です。

 この文学散歩への参加者は26名、短歌会会員以外の方で賢治に関心を寄せる方4名も参加された。

 後日、参加された方々から「文学散歩の詠草」が寄せられた。それぞれの方の宮沢賢治に対する想いが、短歌の形にまとめられ、見事に表現されていた・・・

 それらの詠草とスナップ写真をとりまとめた「文学散歩詠草」のDVDをご紹介する。この旅の風景写真も含め、およそ18分の時間です。

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2017年

7月

20日

BISON TRIO at SPACE1497 2017.7.13

  <行田の古代蓮(2014年)>
  <行田の古代蓮(2014年)>

 「日本の七十二候を楽しむ」によると7月12日から16日ごろを「蓮始めて開く」と言って、蓮の花が咲き始めるころだという。

 左の写真は「行田の古代蓮」であるが、何十年か前に耕地整理のために土地を掘り起こした時に2000年ほど前の古代蓮の種が出土し、その種が発芽して今日のように沢山の花を咲かせるようになったそうだ。

 蓮は夜明けとともに咲き始めるので、朝食をとらずに家族を連れて何度か観にいったことがる。しかし、近年祖父、祖母と相次いでこの時期に不幸が続き、行田の古代蓮を観に行けなかったが、7月いっぱいは見ごろどというから今年は行ってみようと思う。 

 7月13日18時半を過ぎても陽は高かったので、初めてSPACE1497の写真を撮った・・

 このジャズのライブハウスSPACE1497は熊谷からの妻沼街道沿いにあるが、たいていの人は見過ごしてしまうかも知れない。でもこうして写真で眺めてみると、中々洒落たライブハウスであったのかと改めて思った。

 私が写真を撮っているとSPACE1497のオーナーがやって来た。

 先週6日の「Bungalow」のライブにも訪れたし、既に顔馴染みではあるが、オーナーと一緒に写真を撮らせてもらった。

 するとライブハウスを建てた当時のことをいろいろ話してくれた・・・

 この看板は、鉄鋼関係の仕事をしているジャズ好きの友だちが作ってくれたもので、薬品で鉄板を溶かして文字を刻んだものだと言った・・・文字によっては全部溶け落ちてしまい難しかったそうだが、確かに切り絵と同じ手法で文字をくり貫いてあった。近づいてよく見ると”P、A、4”など微妙な残し方であった。厚さ3ミリもの鉄板の加工には、随分と根気を要したであろうが、風雨に晒され、赤錆を帯びたSPACE1497の看板には風格すら感じられた。

 昔はバーベキューパーティーもやっていたという裏庭の写真も撮らせてもらっていたら5時からやって来ているというバイソン片山の熱心なフアンが「前回も来ていましたね」と話しかけてきた・・・

 そんな様子を見たオーナーが蚊取り線香と虫よけスプレーを持って来て、田んぼも近いので蚊が多いから使ってくださいと言ってスプレーを手渡された。 

 中に入るとバイソンさんが居たので挨拶を交わした。息子がネットで入手したCDにサインをお願いしたら、びっくりしたような顔付きでしげしげとジャケットの見ていた。

「わあ!これは初めてレコーディングしたアルバムだ!演奏を聴きながら、友達が描いてくれたものだ。」といって本当に懐かしそうに暫くジャケットを眺めていた。

 まだ24歳血気盛んな時に生まれ故郷の気仙沼で収録したが、当時はLPレコードの時代であったと言いながらサインしてくれた・・・

 そして思い出したように、そのLPが10枚ほど家に残っているから、息子に1枚プレゼントしてあげると言った。そのLP版は「ジャズ100選」に選ばれ、記念に貰ったものだという。だが、ジャケットの原画は誰かに持っていかれ手元にないとをしきりに悔やんでいた・・・

 そのLP版をCD化されたものには、たった5曲しか入っていなかった。たしかに当時のLPの容量からすると、5曲収録するのが精一杯だったのだろう。

 私もそのCDを聴いてみた・・・やはり24歳のパワフルなドラムが響いてきた。取り分け、5曲目のファースト・フライトのドラムは凄かった・・・

 以前バイソンさんのHPに「ドラム教室」で教えているとあったが、今日は開演前にドラムの指導が始まった・・・お客さんに何度もお許しを請いつつ、真剣に指導を続けられていた。最初はピアニストの小池純子さんだとは判りませんでしたが、彼女も近くに行ってその様子を観察されていた・・・この青年と彼女はどういう関係なんだろうなどと考えながらその様子を眺めていた。

 スティックの使い方やブラッシングなどを実際にやってみせて、何度となく「リラックス、リラックス」と言っているようでした。それに対して青年は日本語で応えていたが、その風貌からはハーフのようである。

 おそらく彼のDNAにはジャズを生み出した源流のリズム感が受け継がれいるに違いないと、私はその時思った・・・

 そしていつの日か私たちに素晴らしいドラムを聴かせてくれるだろうと心の底で願っていた。何の根拠も無しに、ただ私はそう考えているのだ・・・

  <ドラム:バイソン片山>
  <ドラム:バイソン片山>

バイソン片山さんとは6月20日に山本剛と与世山澄子のライブの時にここSPACE1497でお会いしている。その時のブログでもご紹介しているが、バイソンさんは気仙沼のお寺さんご子息で、お兄さんの勧めでドラムを始めたらしい・・・彼は日野元彦に師事し、NYでも修業を積みハンク・ジョーンズ、渡辺貞夫 シダー・ウォルトンなどのジャズ界の巨匠たちとの共演を果たしてきたドラムの名手なのだ。彼は東北出身でもあり東日本大震災の被災地支援にも力を注いでいるという・・・

 <ベース:ブレント・ナッシー>
 <ベース:ブレント・ナッシー>

ブレント・ナッシーはカナダ生まれで、ジャズの名門校バークリー音楽大学を卒業している。ウィット・レイ・ブラウンに師事している。レイ・ブラウンはベースの三大巨匠の一人であるとベースの鈴木良雄さんから聞き、YouTubeを検索して観たことがある・・・ NYで活躍し後、1997年に来日してからは日本での活躍を続けている。

   <ピアノ:小池 純子>
   <ピアノ:小池 純子>

 名古屋に生まれ、20才からピアノトリオでプロ活動を始める。1991年上京し渡辺文雄らと活動する。1998年渡米し 俊英ミュージシャンを率いたクィンテットは絶大なる人気をはくしたという。

 NHKセッション’97’99に出演した。’99初リーダーアルバム『UH HUH!』でCDを発表した。 2009年、単身NYに渡り、サックス奏者 Jimmy Heath 氏をフィーチャーしたアルバム‘Danny Boy’を録音した。 

 今晩のバイソンさんはリーダーでもあり饒舌であった。何しろ追っかけとも思しき熟年女性フアンが15人ほど、今晩も賑やかに連なっていた・・・バイソンさんは、フアンの近くに座りジョークを交えながら、にこやかに対応していた。若い頃は俳優だったというが、今はお笑いタレントなみのトークを披露してくれる・・・メンバー紹介もユニークで、まるでトークショーのように笑いに満ちた楽しいジャズ・ライブを体験したのは初めてであった。

 ベースのブレントは名前ナッシーですと紹介した。彼も日本在住が長く、そのダジャレを十分理解できている様子だった・・・

 彼が語った弓の解説は興味深かった。弓の弦はロシアの寒い地方で育った雄馬の尻尾がむいている。雌馬の尻尾にはおしっこがかかってしまうのでダメだと語った・・・

 その弦を取り替えると3万ほどかかるが、ワックスを塗らない新しい弦のままでは、弾いても全く音が出ませんよと教えてくれた。

 これを片言の日本語で、しかも真顔で語られると妙に信憑性を感じると同時に、その仕草を見ていると笑いがこみ上げてきた・・・

 それは私だけではなかったようで、時々どっと笑い声が上がった。

バイソンさんが、その弓のお値段の話を持ち掛けた。今使っているのは20万くらいだが、注文してから3年待って作ってもらった弓は60万位だったと言った。今では入手できない木材を使い、1カ月に1本しは製作できなから妥当なお値段であろうとも語った。

 ナッシーさんが「今回その弓を忘れ来てしまった」と話すとバイソンさんが、すかさず「CDはその弓を使って演奏していますから、是非とも聴き比べてください」と付け加えた。

 確かに彼の弓を使ってのソロ演奏は素晴らしかった・・・

 これまで、こんなに好い音色を聴いたことがなかったように思う。

 ピアノの小池純子は我らのお姫様ですと紹介した。今回も一ノ関、福島、宇都宮と廻って来たが、彼女は後部座席のファーストクラスに座り、二人に交代で運転して来た・・・ところが高速道路で疲れうとうとしている時に後ろから運転を交代すると声がかかると、途端に目が覚めますよとジョーク・・・

 小池さんは「お二人はご自分の楽器を現地に持って行けるが、ピアニストは現地に備えてあるものを使わなければならないので大変ですよ」と語った。

 岩手の山間部の小学校では、ある音が狂っていて苦労したと付け加えた。

 今回はCD発売ツアーだけあってセットリストはCDに収録されている曲が多かった。でも、最初の曲はバイソンさんの馴染み客からリクエストされた「テネシーワルツ」で、観客の心を掴んだ。それに悪ノリの客が続けて「テイク・ファイブ」をリクエストしたら、小池さんに「四つまでしか数えられないの」と体よく断られいた・・・

 でもフアンを大事にするバイソンさんは、第一ステージが終わるとピアノで「テイク・ファイブ」のイントロを弾いてあげていた。そして第二ステージは「テイク・ファイブ」からスタートした・・・

 演奏を終えて「このトリオで初めて演奏しました。サビをベースでやったのも初めてですよ」とバイソンさんが語った。確かにサビはサックスですよね!それをしっかり聴かせてくれたベースのナッシーさんは大した腕前だ・・・

 開演前のバイソンさんのドラム教室を見てドラミングに興味が湧いた。ジャズのドラムはリズムセクションでいわば裏方的存在で、大抵はバンドの奥の方に居るが、今日は最前列の私から数メートルのところでバイソンさんが叩いている。こんなに近くでドラミングを見られるチャンスはめったにないと思い熱心に観させてもらった。帰りに息子からドラムばかり見ていたねと言われるほどだった・・・元々私はドラムが好きだったが、自分を主張したがる出しゃばりのドラマーは、あまり好きになれなかった。バイソンさんは「叩き過ぎないドラマー」との評価が高かったし、私の好きなタイプの一人である。

 若い頃はボディビルをやっていて筋肉隆々でドラムを叩いたら、ライブハウスで「まるで野牛のバイソンみたいだね」と言われたのが名前の由来だと話してくれた。

 私は小学生の頃にぶかぶかの大きなゴム製スキー靴を買ってもらい、つま先に古い靴下を詰め込んで使っていた。そのスキー靴も中学の頃にはつま先が痛かった。高校に入り、初めて買ってもらった皮のスキー靴には「BISON」と刻印されていたので野牛バイソンの事を知っていた・・・ 

 ライブが終わって一緒に写真を撮らせてもらった・・・こんなにワイワイ賑やかに観客と交流のあるジャズライブは初めてだ。

 いつもライブでのお喋りが多くて演奏時間が無くなってしまうのだとバイソンさんが言っていたが、その通りで本当に楽しい時間を過ごさせてもらった・・・

 帰りがけにバイソンさんが、オーナーにファーストアルバムのLP版を届けるから、渡して上げてくださいと頼んでいた。そのお宝が楽しみですね・・・

 今回のCDには、スタンダードジャズやボサノバの曲を選び、横浜のライブハウス「おとくらぶWARANE」の120年を経たピアノの名品に惚れ込んだ小池さんの要望で収録されたものだという。これはワインでも呑みながらゆったりした気分で聴いていただく、大人向けのCDですとバイソンさんが言っていたので、ジャズの好きな友人に1枚購入した。

 気に入ってくれると嬉しいが・・・

 このブログが書き終わったら送ることにしている。

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2017年

7月

18日

茅ケ崎から鎌倉へ江ノ電に乗って 2017.6.25

 <電気科東京支部大会(2017.6.24)>
 <電気科東京支部大会(2017.6.24)>

 今回の東京支部大会でも44年組の参加者は10名と多かった。やはり飛世さんの吸引力が強く、花巻から鈴木守さんもやって来た・・・

 翌日の25日には鈴木さんを歓迎して江ノ電の旅が計画されていて、11時に藤沢駅集合となっていたが、生憎雨天の予報がでていたので、腰が重かった・・・そんな話をすると渡部さんが飛世さんの所へ泊めてもらえばいいと勧めてくれた。お酒の勢いもあって、その話に乗っかて駅について行くと偶然ホームで大先輩の山崎夫妻にお逢いした。ご夫妻も茅ケ崎に行かれるとのことでしたので、茅ケ崎に移り住んでいるのかと私は思い込んでいた・・・

 たまたま奥様の隣に座り、茅ケ崎までお話させてもらった・・・次々と懐かしい盛岡の話題に飽くこともなくお話を聴いていたが、賢治をことを詳しくご存知だったので、思わず身を乗り出して聴き入った・・・

 茅ケ崎に着いて私は奥様をエスコートしながら飛世さんの後に続いた。どうも茅ケ崎に住む弟さんの所へ行くとのことで、飛世さんがタクシー乗り場まで案内してあげた・・・当初、飛世さんがタクシーに同乗してお送りすると言っていたが、奥様が住所を書いたカードを運転手に手渡すのを見と届けて、ここでお見送りをした。こんなにご高齢なのに東京での電気科総会にお出かけくださったのかと思い、家で名簿を確認してみると昭和24年第8回卒業の大先輩であった。願わくば私もかくありたいと思うのだが、とても自信はない・・・

 先ほどと反対側の駅前の路肩で飛世さんの奥様が待っていてくれた。その車に乗せてもらい、飛世さんのお宅に向かった・・・奥様の手料理を頂きながら随分遅くまでビールをご馳走になった。とめどなく続く話、時間は覚えていないが、二階に案内されるとそこには布団が二つ敷いてあった・・・鈴木さんと枕を並べて眠った。二人共早朝に目が覚め、小雨の中散歩に出かけた・・・

 海の見えるところまで行って見ようと40分程歩き続けたが、土地勘のない二人にはそれは叶わず、7時には出発すると聞いていたので引き返した・・・

 予定通り7時過ぎに奥様の運転する車で出発することになったが、相変わらず小雨がぱらついていて、奥様が返却不要といって雨傘を渡してくれた。

 途中で小倉さんをピックアップして目的地に向かった・・・

 目的地と言っても私には想像することもできなかったが、小倉さんが加わり途端に車内が賑やかになったことは確かだ。

 「ここが加山雄三通りで一本向こうにサザン通りだ」などと教えてくれたが、雨が降っていたので車外の写真は撮らなかった・・・

 天気の良い日など、上原謙が自転車で買い物をしている姿をよく見かけましたよと奥様が付け加えてくれた。やはり茅ケ崎はお洒落な所なのだと思った。

   <烏帽子岩(鈴木氏撮影)>
  <烏帽子岩(鈴木氏撮影)>

 8時前に目指すレストランに到着したが、店内に灯りは見えず開店前であった。

 そこは茅ケ崎海岸を望む洒落た造りのレストランで、加山雄三とかサザンオールスターズの桑田佳祐が、ぴよっこり現れても不思議でないような雰囲気を醸し出していた・・・

 遠くに見える小さな岩が、サザンに歌われた烏帽子岩ですよ教えてくれた。

 私のスマホでは曇天のためくっきりと撮ることができなかったが、鈴木さんのカメラにはしっかり写しだされていた。

 <つばめの雛(茅ケ崎海岸)>
 <つばめの雛(茅ケ崎海岸)>

 暫くすると渡部さんが奥様を伴ってやって来た。彼は開口一番「今日は調子良くない」と言いながら近づいてきたが、手につばめのの雛を乗せていた・・・駐車場の天井の巣から落ちたらしいと言って、カメラを右手に持ち写真を撮っていた。彼は好んで鳥や昆虫の写真を撮り続けているので、どんな絵になったのか楽しみではあるが、これは私のスマホで撮った写真の一枚である・・・奥様方も携帯やスマホで写真を撮っていたし鈴木さんもシャッターを切っていたので、コンテストを開けるかも知れない。

<渡部さん撮影の燕の雛の写真を追加・・・流石に燕の雛の表情が判るね>

「この子を助けてやらねばなるまい」と渡部さんは言い出し、開店前の店員に頼み込んでいた・・・

 若い男性店員が大きな脚立を担いできて、駐車場の元の巣に戻してやっていた。流石に小鳥の好きな渡部さんならではと思ったし、それを黙って見守る奥様にも感心した・・・

 そうこうしている内に、やっと開店を示す門灯に炎が灯された。

 開店前にお客さんが集まってくると困るからと言われ、テーブルに着くことを止められいたが、これで椅子に座って海を眺めることができた。目の前の海岸には、まだ6月末なのに海の家が立ち並び、海開きに向けての準備が進められているようだ。

 海水浴の賑わいを想像しながら、ぼんやりと海を眺めていると子供達の一団が海辺を駆け回っているのが見えた・・・

 その内に飛世さんが、ご推薦のブレーク・ファーストが運ばれてきた。

小倉さん以外の男性はビールを呑んだ・・・朝からビールとは、何だか得をしたような、のんびりとした時の移ろいを実感した。

 久しくこんなにくつろいだ朝食を味わったことがなかった。周りには気のおけない仲間がいて、たわいもないことを語りながら、ゆっくりとビールを呑んだ・・・

  <生涯で一番の朝食(渡部氏撮影)>
  <生涯で一番の朝食(渡部氏撮影)>

瓶詰めの器の中には温泉卵のような半熟の卵がヨーグルトの中に仕込まれ、ほのかにバターの香りがした。

私は、これを正確には説明できないが、初めて味わう食べ物であった。私は常々朝食もご飯を食べているので、今日の朝食は新鮮な感覚であった・・・飛世さん、ありがとう。

 おそらく、私にとって生涯で一番の朝食だと、その時思った・・・

<生涯で一番の朝食(鈴木氏撮影)>

 ゆっくり朝食を食べながら、今日の旅程の相談になったが、中々まとまらなかった。

 雨だから江ノ島水族館を小倉さんが主張するも、水族館は時間がかかり過ぎると渡部さんが反対意見であった。 午後に用事のある飛世さんは中立といったところで決着し難かった・・・

 鈴木さんと私には茅ケ崎と江ノ島辺りに土地勘がないし、お二人について行くだけなのであった・・・


<小倉さんの姿(鈴木氏撮影)>
<小倉さんの姿(鈴木氏撮影)>

 それから11時に藤沢駅で合流することになっていた秋葉さんに小倉さんが電話を入れた。

 いろいろ検討の結果、雨天でもあり秋葉さんは参加を断念した模様である・・・

 そこで飛世さんと渡部さんの奥様の車に分乗して江ノ島まで送っていただくことになり、駐車場へ行くと、今朝渡部さんの手のひらに乗っていたつばめの雛は、親鳥と一緒に蛍光灯の覆いに作られた巣の中イピイ啼いているのが見えた。

 すると飛世さんの奥様が「朝に車を駐車した時、うっかり踏みつぶさなく良かったわ!」と独り言のように呟いていた・・・

 支道から江ノ島へ向かう幹線道路に出ると右手に防風林とも思われる松林が続いた。

その一角を指して「賢治の妹さんが療養していた病院があった所です」と教えてくれた。

 そのことがずーっと気にかかっていて、ブログを書くときに確認してみた。

 24日の東京支部大会で「宮澤賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」という私のDVDを観た柴田先輩が贈ると言った「宮沢賢治全集」が届いていたので、その第14巻賢治の年譜を調べてみた。

<柴田先輩から頂いた宮沢賢治全集>
<柴田先輩から頂いた宮沢賢治全集>

 それによると賢治の妹トシは、日本女子大3年の時に軽い結核で永楽病院に入院し、賢治と母イチが看病に当たった。トシは2ケ月程で退院し、暫く雲台館で休養後、母イチ、叔母岩田ヤス、賢治とともに帰郷し、西鉛温泉の秀清館にて保養したとあった・・・

 そこでトシは、賢治の短歌の清書を行ったという。これが歌校A、歌校Bであろうか?

 それからふと啄木の次女房江のことが頭に浮かんだ。啄木が亡くなってから京子の妹として生まれたが、やはり結核を患い茅ケ崎方面で療養していたことを思い出し、吉田孤洋著「啄木発見」を捲ってみた・・・

 この本は、大学祭での講演をお願いしに吉田孤洋先生を訪ねる際に生協で買い求めた。確かに吉田孤洋先生のサインが「くるしみはひとりで よろこびはみんなで」と書き記されていた。何だか賢治が言いそうは言葉だ。

 孤洋氏は昭和2年の暮れに、啄木の足跡を辿るために北海道に渡った。 

 <啄木の長女京子>
 <啄木の長女京子>

 その時、函館で石川京子(啄木の長女)夫妻と会っている。この時に川村君夫妻、晴子をおんぶした京子さんと房江さんと一緒に立待岬の啄木のお墓を訪ねている・・・その日は12月近い北海道の浜辺とは思えないほど、小春日和の穏やかで風はなく、ピクニック日和だったという。この地は函館の44年同期会でも訪れているので、その景色が浮かんでくる・・・

 その後、函館図書館に保管されている「啄木の日記」の閲覧が許され、昭和4年の暮れ再度函館を訪れている。その頃、京子さんは晴子、玲児の二児の母となっていたが、上京したいという意志を固めていた。

 昭和5年3月10日にはフランスへ留学していた夫の石川正雄氏が帰国し、函館へ戻ってから孤洋氏は自宅近くに借家を探した・・・そして4月27日には京子さん一家と房江さん堀合忠操氏の6人を上野に迎えた。5月3日に市ヶ谷の東洋内科で房江さんの診察を受けたら、肺結核第二期であると診断された・・・5月4日に石川正雄氏と孤洋氏は房江さんを茅ケ崎の南湖院に入院させたとあった・・・ 

こうして入院した房江さんは、再び姉京子さんの家に戻ることなかったである・・・

 その後、吉田家と石川家は50メートルと離れていなかったこともあり、日常的に親しい付き合いが始まったという。

こうした生活を始め、石川正雄氏も啄木研究誌の発行を決意し、啄木と土岐氏の遺志を引き継いだ「呼子と口笛」の発刊に向けて意欲的に取り組んだ。京子さんも多いに張り切り、編集、校正、筆記、発送まで手伝ったという・・・

  <浅草松清町の等光寺>
  <浅草松清町の等光寺>

 京子さんのこうした充実した日々も長くは続かず、12月6日その日は突然やって来た。

 三児目を身ごもっていた京子さんは、6日の朝から風邪気味で寝込んでいたが、やはり肺も病んでいたらしく、男子死産の後に必死の看護と治療も空しく、同日22時8分に24歳の若さで逝ってしまわれた。

 京子さんの葬儀は、父啄木も厄介になった土岐善麿氏の生家、浅草松清町の等光寺で土岐氏の兄土岐月章導師によって執り行われという・・・

<南湖院の第5病舎(愛光室・昭和5年完成)>
<南湖院の第5病舎(愛光室・昭和5年完成)>

 そして編集を終えたばかりの「呼子と口笛」の1月号を全部「石川京子追悼号」に組み替えることになった。京子さんが亡くなって半月も経たない19日に「房江さんが重態」との電話が入ったのだ・・・

 孤洋氏は、新聞に掲載された京子さんの訃報を房子さんに知られていないことを祈りながら、汽車で茅ケ崎の南湖院に向かったそうであるが、函館の祖父堀合翁がわざわざ手紙で知らせて来たというのだ・・・

 <啄木の次女房江>
 <啄木の次女房江>

 房江さんに心配かけまいと南湖院の看護婦さん達も新聞記事のことは伏せてくれていたというが、房江さんは姉京子さんが亡くなったこと知った上で、19日19時20分に19歳で清純な乙女のまゝ息を引き取った。

 啄木は窮地のあまり、金田一京助や宮崎郁雨をはじめとする友人・知人から借財したことは知られているが、房江さんは現金出納帳を付ける程に几帳面な性格であったらしい・・・

 函館からの祖父堀合翁の到着を待ち、21日に甘沼で火葬をすませ、25日に京子さんと同じように土岐氏のお世話で浅草の等光寺で葬儀を行ったという。

 何とも言いようもない悲惨なできごとが続いたものである!

<啄木の長男真一仮納骨(了源寺)>
<啄木の長男真一仮納骨(了源寺)>

 振り返ってみると、啄木24歳で妻節子との間に長男真一が誕生するが、僅か24日の命で長男を亡くし、その時に間借りしていた本郷の新井理髪店(喜之床)のお墓(浅草の了源寺)に仮納骨したという。

 この新井理髪店は私が秩父セメントへ勤めていたころも現存していて、啄木が暮らしていた二階を見せてもらったことがある。

 京子ちゃんが手すりにつかまりながら、表通りを覗いていたという窓は塞がれ、薄暗い板張りの二階は「啄木が暮らして居たころのままですよ」と教えてくれた・・・

 啄木が子どもを亡くした悲しみを詠んだ歌が「一握の砂」の最後に追加掲載されたという・・・

<浅草 等光寺(石川家の葬儀場)>
<浅草 等光寺(石川家の葬儀場)>

 啄木一家がお世話になった土岐善麿(哀果)は、西浅草一丁目(旧松清町)真言宗大谷派の等光寺が生家で、兄土岐月章が啄木葬儀時の導師を努めた。この等光寺では、啄木の母カツ(1912年没)、啄木本人(1912年没)の葬儀が行われ、妻節子は3ケ月後に転地療養先の房州で房江を生んだ。節子は京子と房江を連れて函館に戻り、青柳町で借家住まいをしていたが、冬を越した翌1913年の5月5日に27歳で亡くなった・・・

 啄木の長女京子(1930年没)、二女房江(1930年没)の葬儀も土岐氏の好意により浅草の等光寺で行われたいう。

 また、土岐善麿の告別式も生家の等光寺で(1980年没)行われている。

 <烏帽子岩(絶景ポイントもあるようだ!)>
 <烏帽子岩(絶景ポイントもあるようだ!)>

 後発の飛世さんの車は、江ノ島へ渡る橋の中ほどで渡部さんの奥様が運転する車とすれ違ったが、気づかれなかったようだ。飛世さんは、鈴木さんと私を江ノ島のロータリーで降ろして帰っていった・・・

 まだ小雨がぱらつており、富士山は見えなかったが、多くの観光客が集まっていた。

   <江ノ島 鳥居(渡部氏撮影)>
   <江ノ島 鳥居(渡部氏撮影)>

 昔々、子どもが小さい頃に鎌倉の材木座にある会社の保養施設に海水浴にやって来て、江ノ島まで足を延ばしたことはあった。しかし、その記憶は最早定かではなかった・・・

 今日は雨模様なので眺めは良くないかも知れないが、兎も角展望台まで登ってみようと言うことになり階段を登り始めた。

 階段を登り始めると少し前傾姿勢の小倉さんの足は速かったし、それにも増して日頃から岩手山や早池峰山を駆け巡っている鈴木さんの健脚振りには驚かされた。それでも時々後ろを振り返り、気遣ってくれる様子に感謝した・・・

 この写真は、途中で立ち止まり一息着きつつ私が撮ったものである・・・

<江ノ島の神社参拝(鈴木氏撮影)>

 まだまだ階段が続いた。途中から斜面を迂回する参道に入ると紫陽花が咲いていた。その曲がり角に竹の簀の子が敷いてあり、そこからピィーンと澄んだ音が響いた・・・おそらく、地中に大きな甕が仕込んであるのだろう。

 何と言ったかなあと考えていたら、鈴木さんが「水琴窟ですね!小南さん一首浮かびましたか」と声をかけてくれた・・・その時は息が切れていて、歌を詠むゆとりはなかった。


    <江ノ島駅(渡部氏撮影)>
    <江ノ島駅(渡部氏撮影)>

 山を下りて賑やかな参道まで来ると、多くの猫を見かけた。「江ノ島には沢山の猫がいるが、僕はその名前を全部知っているよ」と渡部さんが冗談ぽく言ったのを思い出していた・・・

 私は橋の袂で一服させてもらい長い橋を渡った。結局、江ノ島水族館には寄らず、江ノ島駅に向かった。

<江ノ電の車窓から(鈴木氏撮影)>

 24日の東京支部大会の朝、NHK BS3で鉄道写真家・中井精也が江ノ電をテーマに写真を撮るドキュメンタリーが放映されていた。電車の窓から手を伸ばすと庭木の枝が掴めそうな所走る江ノ電の景色を思い浮かべながら電車に乗り込んだ・・・

 うねうねと曲がりくねった一般道と同じ路面を電車が走って行くと車が路肩に寄って停車し、電車をやり過ごしているのが見えた。


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2017年

7月

06日

Bungalow at SPACE1497 2017.7.6

    <からすびしゃく>
    <からすびしゃく>

「日本の七十二候を楽しむ」によると7月1日から6日ごろを「半夏生ず」(はんかしょうず)と言い、田植えを終わらせ、農事の節目とされるころに半夏(からすびしゃく)が生えはじめるという・・・

 今日6日にまたSPACE1497にやってきた。夕刻、まだ薄明るかったので、庭の奥の木の下にベンチに座って見たくなり、腰を下ろし一服した。蒸し暑い一日であったが、青田を渡ってきた風がひんやりと頬を撫でて行った・・・

 ぼんやりと辺りを眺めているとオーナーがテラスに置かれた蚊取り線香に火を灯していた。それからパラソルの下の椅子に座っていた息子と話し込むオーナーを暫く眺めていたが、私も話に加わった・・・私は初めてライブの予約の電話をした時の話をした。「鈴木良雄とベーストーク」のライブであったが、その時の主の声は風邪でも引いているようであったと話すと、「主人は肺を患って亡くなった」と聞いて、娘さんではなく先代オーナーの奥様であることを知った・・・

 それから鈴木良雄さんと早稲田の”ダンモ(モダンジャズ研究会)”の同期だった会社の先輩のことや新宿「Jスポット」のバードマン幸田さんのことを話すと、何と先代のオーナーの頃から幸田さんとの付き合いがあり、多くのジャズマンの紹介を受けSPACE1497に招いて来たと話してくれた。今度「Jスポット」へ行ったら熊谷の坂巻のことを幸田さんに伝えてくださいと話していた。やはり女性オーナーもジャズの話になると詳しくて話も弾んみ、何だか嬉しくなってしまった・・・ただ、今日は若いメンバーの「Bungalow」を応援したいのだが、集客に苦労していると携帯で馴染み客に呼び掛けていた・・・

 バンガローと言えばキャンプ地に建つ小さな小屋をイメージするが、「みんなが気軽に行ける心地よい場所、アコースティックな音」を表わすことの願いを込めて命名されたという。このグループは2008年に活動を開始し、あの3.11の東日本大震災直前の2月にお金を出し合ってニューヨークでレコーディングさてたのがファーストアルバム(Metropolitan Oasis)である。ただ、その後サックスの山本昌広氏は、家業を継ぐために大阪に帰ったという。

    <ベース:大村亘>
    <ベース:大村亘>

 Bungalowのメンバーで最初にお会いしたのがドラムの大村亘さんだ。数年前に前橋のGフェースカフェで行われた鈴木良雄とゼネレーション・ギャップのライブである。 

 その時、オーストラリアのシドニーで活躍していたドラマーだとChinさんが紹介してくれた。大村さんに「あの頃はお鬚はありませんでしたね」と話しかけると「まだつるつるしてましたよ」とほほ笑んだ。

   <ピアノ:佐藤浩一>
   <ピアノ:佐藤浩一>

 サックスのKokesu歩美カルテットが熊谷郊外のコンサートホールにやって来た時に佐藤浩一さんのピアノ演奏を聴いている。息子がCDにサインしてもらう時に少しだけ言葉を交わした。その時の第一印象は、ピアノの音色と同じように優しい人柄であるように感じた。

 そして6月17日に洗足学園音楽大学の「Do Jazz」で再び佐藤浩一さんのピアノを聴いた・・・やはり、シャープで澄んだ音色で心地よい世界に誘ってくれた。

 今晩も多いに楽しみである・・・

   <ベース:池尻洋史>
   <ベース:池尻洋史>

 ベースの池尻洋史氏は千葉県生まれで、千葉大モダン・ジャズ研究会に所属し山下弘治氏に師事しベース奏法に磨きをかけたとジャケットにあった。6月20日の山本剛と与世山澄子のライブの時のベースの香川裕史さんも確か千葉大のジャズ研出身であったが、ジャズが盛んな大学のようだ。この写真からも窺えるように池尻さんは実直なお人柄のようですが、スウィングするベースには引き付けられる・・・

 今日は池尻さんがライブの司会であった。 

 <サックス:マイク・リヴェット>
 <サックス:マイク・リヴェット>

 バンガロー結成当初からのサックスの山本昌広さんが、個人的な事情で音楽活動を休止されて、2014年からテナー・サックスのマイク・リヴェットが加わり、2015年1月には「アンシーン・シーンズ」がレコーディングを果たしたとジャケットにあった。

 今回のツアーでは、4回目のライブですと池尻さんが紹介した。彼も大村さんと同様シドニーで活躍しているそうであるが、彼のサックスを聴くのは初めてである。 すらりと背の高い彼は、全身をくねらせてサックスを吹いた・・・

 その音色は伸びやかで力強く、心地よく響いてきた。

  <エレクロトニクスの演奏>
  <エレクロトニクスの演奏>

 池尻さんがマイクは器用な人で「エレクロトニクス」も扱えますよと紹介してくれた。

このエレクロトニクスのパネルには、スライドやヴォリュームのつまみが沢山並んでいて、PCとLANケーブルで接続されていた。

 マイケルは、このデジタル機器を操って、様々な効果音を生み出してくれた・・・

 鳥の声、せせらぎ、風の音、波の音・・・

    <タブラの演奏>
    <タブラの演奏>

 池尻さんが、年に3ケ月はインドに修業に行っていると大村さんを紹介した・・・ 

 亘は、ここ数年何度もインドに足を運び、2015年には、文化庁の新進芸術家海外研修制度の研修員としてインドに出かけた時には、出鼻をくじかれるかの如くの発熱、下痢、嘔吐しながらも、タブラ奏者としての修業を続けてきたという。

   <セットリスト>
   <セットリスト>

 CDへのサインをお願いした時に息子が、池尻さんにセットリストを知りたいと頼んでいたが、ライブを終えてから楽譜を見ながらメモしてくれた・・・やはり、池尻さんは実直なお人柄であったと改めて思った。

 今回初めてバンガローのライブを聴いたがこれまでに聴いて来たジャズと異なるものを感じていた・・・何故だろうと思いつつ、時々目をつむって聴いた・・・

 大村亘作曲の「Dancing Elephant」は、リズムの変化だけで構成されているような曲を聴いていたら、何処からか象さんが出てきて、のっしのっしと象さんが闊歩する姿が浮かんできた。

 このことを大村さんにお話すると、にっこり笑って頷いてくれた・・・

 私は、大村さん作曲の「North Head」を聴きながら大いにイメージを膨らませた・・今WOWOWで始まった「宮沢賢治の食卓」を観ていたせいもあるかも知れない・・・「第3話 恋の鳥南蛮そば」では花巻女学校で開かれたレコード鑑賞会のシーンで、賢治はベートーベンの「田園」を聴きながら、彼の心に写った心象スケッチを語りだすのであった・・・

 私は「バンガローの曲には物語がありますねぇ!」と佐藤浩一さんに話しかけた。すると佐藤さんが大きく頷いてくれたので「宮沢賢治に聴かせてみたいですね・・・賢治だったらどんなお話をしてくれるでしょうか」と重ねて言った・・・山猫が出て来り、きのこや花や草も樹も、雲や風も登場させて、バンガローのジャズのイメージを情感豊かに語ってくれたに違いないと思った。

 息子がマイクさんのサインをもらっている時に「日本語の聴きとりが上手ですね」と話しかけると「少し、奥さん、日本人」と教えてくれた。もっとも彼らは海外留学や海外生活を経験しているので英語での会話に不自由を感じないのかも知れない・・・マイクさんの演奏もすっかりバンガローに溶け込んでいるのを感じたし、曲の中で自分自身をしっかり主張しているようにも感じた。

 

 家に帰ってから、最新のアルバム「You Alreadey Khow/Bungalow」を聴いてみた・・・これは全く新しいジャズを目指して編集されたチャレンジ的なアルバムではないかと私は感じた。彼らの目指す日本発の新しいジャズの行方も楽しみではあるが、果たして多くの人々の共感をよび、人々の心を引き付けるような「Bungalow's Jazz」へと発展を遂げられるのであろうか・・・

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2017年

7月

03日

山本剛と与世山澄子 SPACE1497 2017.6.20

 先日、歌を詠んでいる友人から「日本の七十二候を楽しむ」という本を頂いた・・・

 その本によると6月16日から20日頃を「梅子黄なり」(うめのきなり)と言い梅雨入りの季節というが、今日良く晴れて気持ちのよい夕刻であった。

 いつも暗くなった頃に訪れていたSPACE 1497のお庭がこんなに広いのかと初めて気が付いた。芝生の広がる木の下にはベンチがあり、二人の方が涼風を楽しんでいた・・・そちらの方へ歩を進めると、芝生に黄色に熟した大きな梅の実が落ちていた。まさに「梅子黄なり」の感がして、その実を拾い上げてみた。熟れて枝を離れた梅の実は柔らかく、梅独特の香りを漂わせていた。何だか愛おしくなって周りに落ちていた梅の実を手に取ると陽を溜めた実はほんのり暖かかった。すると「良ければお持ちください。」と後ろから声がかかった。振り向くと先代の父親の後を継いでライブハウスをやっている娘さんであった・・・(お若くて美形だったので娘さんかと思っていたが、実は先代オーナーの奥様であった(7月6日判明))・・・

 お話を訊いてみると、昔はこの庭でバーベキュー・パーティーを開いていたそうで、炉があったり処々に当時の面影を留めていた・・・ああ、ここでバーベキューで生ビールを呑みたかった。

 「山本剛と与世山澄子 SPACE1497 」が1年ぶりにやってきた。

 山本剛さんの歌うようなピアノが好きになり、その後も何度かライブで聴いているが、今日は、与世山澄子さんの本格的なジャズボォーカルを楽しみにやってきた。

 開演前のリハーサルを終えた与世山澄子さんにちょっとだけお会いしたが、少し老いを感じた・・・

   <ピアノ:山本剛>
   <ピアノ:山本剛>

 今晩も山本剛さんは十八番の“Misty” 「ミスティ」から演奏を始めた。山本剛さんは、

1948年3月23日、新潟県佐渡郡相川町に生まれたが、すぐに佐渡島より新潟に移り、小学生の頃からピアノを弾き始めた。 高校生時代、アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズの生演奏の虜となりジャズ・ピアノを独学で習得という一風変わったキャリアを歩んできた。そういう生い立ちからであろうか、独特な演奏法にも見える。

 今晩も最前列だったので、山本剛さんの手の動きを注意深く眺めていた。

敢えて大げさな・・・無駄と思えるような動きは見えず、むしろ動きの見えない指先から魔法のように美しい音色が生まれてくるのだ・・・息子は山本剛さんの手は「God Hand」だと言った。

  <ドラム:バイソン片山>
  <ドラム:バイソン片山>

 バイソン片山さんは、宮城県気仙沼市出身のジャズドラマーで、日野皓正氏の弟日野元彦氏に師事し、プロのドラマーとしての活動を開始した。国内での演奏だけではなく、渡米し、ニューヨークのジャズシーンで数々の経験を積んで来たと言う。

 昨日も気仙沼のお寺でライブを行い、車で6時間かけてSPACE1497までやって来たと話していた。息子が「バイソン片山と山本剛のアルバム」CDへのサインをお願いすると、大層懐かしそうにCDジャケットを眺めていた。7月13日にニューアルバムの発売を記念して、またSPACE1497にやってくるので来場を約束した。

   <ベース:香川裕史>
   <ベース:香川裕史>

 香川裕史(かがわ ひろし)は 1962年和歌山県生まれ 千葉大学モダンジャズ研究会でコントラバスを始めたという。 在学中より、ジャズドラマーのジョージ大塚氏に師事し、91~96年、ジョージ大塚グループのメンバーとして活動した。その後 ジャズベースを中村照夫氏に師事したという。

 彼はいつもステージ用のシーツで決めるダンディなベースマンなのだ・・・そして与世山澄子さんに対する気配りは、まるで付き人のような役割もこなしているように見えた・・・

  <ボーカル:与世山澄子>
  <ボーカル:与世山澄子>

 与世山澄子さんは、1940年に八重山小浜島生まれで、私より3つ上の年齢のようだ。

彼女は16歳でデビューし、1957年にボブ・ホープとレス・ブラウン楽団と共演、1972年の本土復帰まで米軍基地のクラブでフルオーケストラをバックに活躍したという。

 沖縄本土復帰の年にはジャズ・スポット「インタリュード」を那覇市にオープンした。そして現在は子供達に英語の歌を教える活動もしているようだ。お店での演奏の傍ら、本土公演も増えジャズ評論家や著名人から賞賛されている。

 昨年初めて与世山澄子さんの歌声を聴いた時には、その声量と迫力に圧倒された覚えがある。音響機器の調整のせいもあると思うが、今回は少し元気の無さが感じとられた。

 しかしながら、声だけでなく全身を使ってのパフォーマンスは心に響いて来た・・・

 与世山澄子さんは、歌い出す前に小声で歌の内容を語った。する歌のイメージが膨らみ英語は解らなくとも、歌の意味がスーッと素直に心に入ってくるという不思議な体験をした・・・

    <山本剛さんと私>
    <山本剛さんと私>

 山本剛さんは私より5歳年下のようだが、名前が同じ「ツヨシ」と言うこともあり、妙な仲間意識が生まれていた・・・

 今日は歌の伴奏ということもあり、いつものような自由本法なアドリブが少なかったように思えたが、歌うような山本剛さんのピアノを十分に堪能できた。その御礼にと持参した焼酎のボトルを手渡した。

 「山本さんの神の手にちなんで神の河を持ってきました。」と伝えると、大層喜んで満面の笑みで写真を撮れせてくれた。その時山本剛さんの大きな背中に手を回すとじっとりと汗ばんでいたのに気づき「お疲れ様」と心の中で呟いた・・・

 そして来週からChinさん(鈴木良雄)と北海道ツアーに出かけると教えてくれた・・・

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2017年

6月

27日

第11回 賢治と歩む会 2017.4.22

「月夜のでんしんばしら」

 始まる前に時間があったので、萩原先生に「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」の企画書を見て頂いた・・・

 今日は、遅れて参加される方がおられるとのことで、萩原先生が旅の見どころ話してくれた。長年にわたり賢治一行の足取りを検証し続けてきた萩原先生のお話は興味深く、3名の参加希望があった。

 劇団「シナトラ」の原田さんに「月夜のでんしんばしら」を朗読していただき、皆さんが感想を述べた・・・それぞれ感じ方は異なるが、興味深かった・・・

 それから萩原先生が、「賢治がどうして電信柱の行進をイメージできたのか」を解説してくれた。賢治は盛岡から花巻まで線路沿いに歩いて帰ったそうだ・・・時には小走りしたことあっただろう。そんな場面で迫りくる電信柱を眺め、電信柱の行進のイメージが出来上がったようだ。

     <花巻駅周辺>
     <花巻駅周辺>

 この「月夜のでんしんばしら」の一節に 「ところが愕いたことは、六本うで木のまた向うに、三本うで木のまっ赤なエボレットをつけた兵隊があるいていることです。」

とあるのは、花巻軽便鉄道の電信柱のことですと萩原先生は説明を加えた。

 これは、羽生方面から秩父鉄道の路線が熊谷駅に入ってきているようなものだとイメージを膨らませてくれた。

 こんな背景を伺うと、今にも線路沿いに歩いて来る賢治の姿が浮かんでくるようだった・・・

  <電信柱の絵(保坂嘉内)>
  <電信柱の絵(保坂嘉内)>

 ところで賢治は「夜空のでんしんばしら」のモチーフをどこから思いついたのだろう。

左の絵は、嘉内が中学のころに描いたものだという・・・賢治は盛岡高等農林の自啓寮で同室だった嘉内は、この絵を賢治に見せていたのではないだろうか。

 そして二人で岩手山に登り銀河の流れる下で語り明かし、二人で交わした「銀河の誓い」以来、この電信柱には特別な意味が込められることになったようだ・・・

 <電信柱の絵(宮沢賢治)>
 <電信柱の絵(宮沢賢治)>

 賢治は『アザリア』第3号の「心と物象」の中で

 落ちかかる そらのしたとて 電信の

   はしらよりそふ 青山のせな

と詠い、嘉内は「絶品」褒め讃えた。そして12月23日の嘉内の日記には

 夕闇のデンシンバシラへだたりて

   ひろ野の雪と二人の若者

と歌を記し、『アザリア』第5号に嘉内は

 雪の夜の電信バシラのおののきに

   ふるひ吠える犬がありたり

という歌を載せている。寄り添って腕木を連ねる電信柱は、「銀河の誓い」で交わした通じ合う意志と理想を示す象徴であったのであろう・・・

<注文の多い料理店>
<注文の多い料理店>

この「月夜のでんしんばしら」は大正10年9月14日の日付で書かれ、大正13年12月に出版された『注文の多い料理店』の中の一編である。

 啄木の北へ走る電柱列の歌、

「かぞへたる子なし一列驀地(ましぐ ら)に北に走れる電柱の数」が、賢治のこの童話 「月夜のでんしんばしら」や詩「一本木野」に示 唆を与えたと米地文夫氏( 2011)の論文にあったが、興味深い話だ。賢治は盛岡中学の先輩である啄木の短歌に憧れて歌を詠むようになったというから、この歌も読んでいたに違いない。しかし、

「ドッテテドッテテ、ドッテテド

 いちれつ一万五千人

 はりがねかたくむすびたり」と電信柱を規律正しい軍隊の行進に見立てるところなど、もはや賢治の世界だと思う。そして「どういうわけか、二本のはしらがうで木を組んで、びっこを引いていっしょにやってきました。そしていかにもつかれたようにふらふら頭をふって、それから口をまげてふうと息を吐き、よろよろ倒れそうになりました。」と続くが、この二本の電信柱は賢治と嘉内に相違ないと私は思った。大正10年7月18日に決別してしまった二人は、 

大正10年9月14日の日付で書かれた「月夜のでんしんばしら」の中で「もうつかれてあるけない。あしさきが腐り出したんだ。長靴のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。」と応えるのである・・・ 

 <北に向かって行進する電信柱>
 <北に向かって行進する電信柱>

 この作品が書かれた大正10年には上原の指揮の下で 日本陸軍はシベリア出兵を行っていた。この「月夜のでんしんばしら」の電気総長は、当時の日本陸軍の実質上の最高指揮官である上原 勇作参謀総長をモデルにしているようだ。

 このような時代背景を考えると、北へ向かって行進する電信柱に意味があり、ロシア革命も決定的となってしまい、大儀を失ったシベリア出兵に対する賢治の批判的な立場もこの作品に込められていたのではないだろうか。

<参考文献>

 宮沢賢治の青春 ”ただ一人の友” 保坂嘉内をめぐって

   菅原 千恵子 角川文庫

 宮沢賢治「月夜のでんしんばしら」とシベリア出兵

   米地 文夫 岩手大学 総合政策 第14巻第2号(2013)

 

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2017年

6月

17日

Do Jazz Senzoku! 2017.6.17

 溝の口でジャズライブがあると言うので出かけた。溝の口という地名は、秩父セメント系の生コン工場があったので、会社に入った頃から知っていただが、この度初めてやって来た。昔々、南武線の小杉に兄が住んでいた頃にやって来たことがある。こげ茶色の旧式車両は田園の中を走り、擦り減った板張りの床であったことが懐かしく思い出された。その頃の南武線の駅舎は、秋田のそれと大して変わりなかった・・・そんなイメージで溝の口にやって来たのだが、再開発された駅前広場に目を見張った。田園都市線とJR南武線の駅は高架橋で結ばれ立体化された駅前広場は、初めて訪れた人にとってはまるで迷路のようであった。

 暫く歩き回ったが、諦めてタクシーに乗って会場に向かった・・・

 <洗足学園音楽大学の構内>
 <洗足学園音楽大学の構内>

 タクシーは一方通行の細い路地を通り抜け幹線道路を暫く走り、会場のある洗足学園音楽大学に着いた。

 本大学は、大正12年に創立者 前田若尾の自宅2階を私塾として開放したことに端を発するという長い歴史を持つそうだが、このキャンバスは、斬新で近代的な建物と竹林が妙にバランスのとれた雰囲気であった。

    <前田ホールの表札>
    <前田ホールの表札>

 教育の理想を深く思慮し、そしてキリスト教を厚く信仰し、賛美歌を愛唱した前田若尾先生は、迷うことなく「洗足」と命名されたという。おそらく創立者の前田若尾氏を記念して建設されたと思われる会場の『洗足学園 前田ホール』に向かって歩いた。竹林の笹の葉を揺らした風は涼しく、中庭には多くなお花畑があった。

    <広いお花畑>
    <広いお花畑>

 ジャズライブは、たいてい街の雑踏の中にある小さなジャズカフェなどが多かったが、こんな静かな学園の中のホールで聴くのは初めての体験である・・・

 ただ、私にとって困ったことは、学園全体が禁煙エリアとなっており、喫煙するためには学園の門を出て、その場所を探し廻る必要があった。お陰で本数が減った・・・

    <前田ホールの入口>
    <前田ホールの入口>

 16:30の会場であったことが、16時前に10名程の人が何となく並んでいた。今日のコンサートは学園主催のためかチケットは当日販売だけで料金は1,000円と格安であった。  このイベントは14年も続いているとのことで常連さんと目ぼしき方々が、次々とやって来た。夕刻とは言え今日は日射しが強く、係の人がロビーで待つように誘導してくれた。

  <ホールのステージと客席>
  <ホールのステージと客席>

 会場時刻が近ずくと、観客がつづら折りをなして広いロビーいっぱいになった。特に高校生が手に楽器のケースを抱えて団体で並んでいたのは、ジャズライブにしては珍しい光景に写った。後で司会の方のお話て知ったのですが、洗足学園音楽大学への受験を促すイベントでもあったのだ・・・ともかく、この広い会場がほぼ満席状態で開演を待った。

<  PROGAM >

Part l 

1.ルビー・マイ・ディアRuby,My Dear                    作曲:セロニアス・モンク

2.オフ・マイナー Off Minor                                  作曲:セロニアス・モンク

演奏 片倉真由子トリオ

・ピアノ片倉真由子  ・ベース:佐藤“ハヂ恭彦  ・ドラム:國原大力        

3.ネイマ Naima                                                       作曲:ジョン・コルトレーン

4.セントラル・パーク・ウェスト Central Park West  作曲:ジョン・Jレトレーン     

5.ミスター・ピー・トウー Mr.P2 作曲:佐藤達哉

演奏 佐藤達哉&川嶋哲郎2テナー・クインテット     

・テナーサックス:佐藤達哉、川嶋哲郎 ・ピアノ:佐藤浩一 

・ベース:藤原清登 ・ドラム:松山修

~休憩~

Part 2      

1.モーメンツ・ノーティス Moment’s Notice     作曲:ジョン・コルトレーン   

2.シーダズ・ソング・フルートSyeeda’s Son9Flute   作曲:ジョン・コルトレーン      3.ラウンド゜ミッドナイト ’Round Midnight                   作曲:セロニアス・モンク         4.エピストロフィー Epistrophy                            作曲:セロニアス・モンク

演奏 青柳誠スペシャル・ユニット

・ピアノ:青柳誠 ・トランペット:石川広行 ・トロンボーン:村田陽一

・アルトサックス:多田誠司・ギター:道下和彦・ベース:岡田治郎・ドラム:大坂昌彦    

司会:中川ヨウ  小嶋貴文 

 流石に音楽大学が主催するジャズコンサートだけあって本日のテーマは「セロニアス・モンクとジョン・コルトレーン」であった。

 いずれもジャズ界では高名な人で、私でもその名前は知っていたし、そのプレイをCDで聴いたことがある。また、司会の中川ヨウさんはジャズのラジオ番組を担当しているそうだが、洗足学園音楽大学のジャズコース教授である。司会の小嶋貴文氏も洗足学園音楽大学部長でジャズコースと声楽コースの責任者でもあった。

 更にプレイヤーも本大学の卒業者や指導者の方が多く、クオリティーの高い演奏でたったと思うが、反面ジャズ特有の自由な演奏スタイルではなかったのかもしれない・・・少し生意気なコメントですね・・・

 しかし、モンクとコルトレーンのスタンダード曲の素晴らしい演奏を堪能できて幸せな一日であった。中でも大好きなモンクの「ラウンド・ミッドナイト」には泣かされた・・・本学卒業の石川広行さんのトランペットは格別であった。すすり泣くような音色から、張りのあるトランペットの響きまでが心に沁み通った。最前列で観ていたので彼の指の動きまで残像として残った。

今日は少し遠方まで出かけてきたが、息子も私も好きなジャズライブを聴くことができ、大満足の一日となった。また来年もこのイベント「Do Jazz」に参加したものだ・・・ 

 こんなに素晴らしい環境のなかで、存分に音楽の才能を磨き、そして多くのフアンを魅了して頂きたいものだと思った。

 あの「ジュピター」を歌っている平原綾香さんも、洗足学園音楽大学ジャズコースサックス専攻であったことを初めて知った・・・

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2017年

6月

10日

小野リサ ライブ 2017.6.10

< Bossa Nova Concert 2017 >

 熊谷文化創造館 さくらめいと「太陽のホール」に小野リサがやって来るというので出かけた。近年新しい道路が開通したので、会場の「さくらめいと」までは凡そ15分位の距離である。それでも駐車場の混雑が心配なので少し早めに出かけたが、既に多くのフアンが詰めかけ待合室の椅子で待っていた・・・

 会場16:30頃までに、続々とフアンがやって来て開演の17時には、ほぼ満席となった。息子が手配してくれたチケットは、前から3列目ではあったが、あいにくステージの右端に近い所であった・・・

 小野リサは、ブラジルのサンパウロに生まれ、10歳までブラジルで過ごし、15歳からギターを弾きながら歌い始めた・・・

 1989年にデビューし、少しハスキーな甘い歌声とギター演奏で一気にボサノバを日本中に広めた。

 私もどこかで彼女の歌声を聴いたことがあるような気がするが、そのお名前なでは記憶していなかった。

彼女の説明によると、あのビートルズの人気が出始めたころにブラジルでボサノバという音楽が演奏されるようになった比較的新しいジャンルであるようだ。

  <演奏中は撮影禁止>
  <演奏中は撮影禁止>

 たった一人でベースの演奏が始まった。続いてドラムスが確かなリズムを刻み、それにフルートが加わり、ピアノでメロディーが奏でられた。

 そして最後にギターを持った小野リサが登場し静かに歌い出した・・・その演奏曲は、5人で奏でる「テイクファイブ」というジャズのスタンダードナンバーだったのです・・・何と心憎い演出であろうか・・・私は、この一曲を聴いて、思わず「ベースとドラムのリズムが好いね!」と息子に囁いた。

 続いての曲は、「キャラバン」というジャズのナンバーがボサノバ調にアレンジされていて、「キャラバン」だと聴きとるまで暫く時間がかかったが、楽しいスタートであった・・・

 <今晩のセットリスト>
 <今晩のセットリスト>

 1stステージで8曲、2ndステージで8曲 いずれもどこかで聴いたことのあるスタンダードナンバーが殆どであり、とても心地よい時が流れた・・・

 中でも小野リサだけがステージに残り、ギターを弾きながら歌った「黒いオルフェ」を聴いていたら、昔見た白黒映画のシーンが浮かんできた・・・ハスキーボイスでささやくような歌声から情熱的な歌声に変り観客を引き込んで行った・・・

 この映画は1959年に公開され、同年の第12回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール、アカデミー賞では外国語映画賞を受賞した。

 そして、彼女のメンバー紹介も楽しかった。最初は、ピアノの林正樹で、彼は籠原駅から歩いてやって来たと話した。それから、自分も10代の子育てに苦労している切り出し、同じ苦労をしているベースのクリス・シルバースタインを紹介した。彼はNYからやって来て32年になると言う。かなり流暢な日本語で受答えでユーモアを交えて話してくれた。

 次は、フルートとサックスの奏者グスターボ・アナクレートである。彼はブラジルからやって来て5年目で、母親に会いに行った話を交えながら、暑いのは熊谷と同じだと片言でジョークを飛ばした・・・

 最後のドラムスの斉藤良は、イタリアに友人もいて今年も新婚旅行に行くんですよと紹介した・・・どうも、何回目かの新婚旅行であるらしいことも付け加えて、会場の笑いを誘った・・・

 こんなメンバー紹介で、一気にアット・ホームな雰囲気を造り上げてしまった・・・そしてアンコールの「いのちの歌」は、聴いてい居る人の心に染み入り、聴き終えてふーとため息をもらした・・・

 

 今晩のコンサートに魅せられたフアンは、小野リサのCDを買い求め、サイン会には100人以上の列ができた。私も息子と列に並びサインをもらった。その時「親子で来ました。」と話しかけるとサインの手を止めて、息子と私の顔を見比べ「やっぱり似てますね。」と言った。私がタッチを求めるとペンを机に置いて、それに応えでくれた・・・その余韻を手に留めながら家路についた。

 息子は車を運転しながら「今日のコンサートは、父の日のプレゼントだよ」と一言呟いた・・・

 

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2017年

5月

31日

第6回 熊谷短歌会文学散歩 2017.5.31

宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて

 <宮沢賢治の秩父地質調査旅行コース>
 <宮沢賢治の秩父地質調査旅行コース>

〔 1916年(大正5年)9月 〕

・9月2日熊谷町松坂屋旅館泊(推定)

・9月3日国神村梅乃屋旅館泊(推定)

・9月4日小鹿野町寿屋旅館泊

・9月5日大滝村三峰神社宿坊泊

・9月6日秩父町角屋旅館泊

・9月7日秩父線野上駅(熊谷経由帰盛)

 萩原昌好氏の長年にわたる調査結果を現した著書「宮沢賢治『修羅』への旅」

と平成23年に発見された小鹿野町寿屋旅館の館主田隖保の日記により明らかにされてきた。特に『田隖保の日記』は、これまで推定とされてきたことが、事実として実証さてたことは、多いに意義深いことだ思う・・・  (小鹿野町行政専門員 山本 実美様の資料参照) 

   <集合場所の熊谷駅南口>
   <集合場所の熊谷駅南口>

 2016年は宮沢賢治の熊谷来訪100周年にあたり、記念に『文芸熊谷第5号』に随筆と短歌を投稿したら掲載された。

 そして「第6回熊谷短歌会文学散歩」

「宮沢賢治 秩父地質調査旅行の歌碑を訪ねて」を企画し、理事会の賛同を得て実施できることになった。今回は、タイム・スケジュールの関係で訪れることができなかった歌碑も紹介しておく。

<熊谷市仲町八木橋デパート前>

 <寄居町荒川土手の賢治歌碑>

 武蔵の国熊谷宿に蠍座の

   淡々ひかりぬ九月の二日

 熊谷の連生坊がたてし碑の

   旅はるばると泪あふれぬ

宮沢賢治

 

 毛虫焼くまひるの火立つこれやこの

  秩父寄居のましろきそらに 

 つくづくと「粋なもやうの博多帯」

  荒川ぎしの片岩のいろ

宮沢賢治



この歌碑の2首目「粋なもやうの・・・」は、上長瀞の歌碑にも刻まれている賢治が短歌を詠んだ場所に関して、寄居町と長瀞町が、主張し合っているようである・・・          (第3回熊谷短歌会文学散歩にて見学済)

 当日の朝7時頃、突然携帯に電話が入った。横須賀から参加予定の岩大の後輩からであった。寝坊してしまい熊谷着9時16分になってしまうと言うのだ・・・すぐさまPCで東京駅発の新幹線を調べて、8時4分に乗れば間に合うとメールで知らせた・・・彼も何とか間に合ってくれた。

 こうして第6回熊谷短歌会文学散歩への参加者26名を乗せたバスは、平成29年5月31日に熊谷駅南口を午前9時に出発した。今日の参加者には「賢治と歩む会」から2名、長年「熊谷賢治の会」で活動された方も加わった。

 バスの中で「100年の時を越えて -秩父鉄道と宮沢賢治-」のDVDを流したところ大変好評であった。

 運転手さんに確認したら、上長瀞の歌碑まではまだ30分程かかるとのことだったので「宮沢賢治の花木」のDVDを流した。このDVDは昨年の盛岡での同期会で鈴木守氏に入手していただいたものだ。盛岡や花巻近郊の山野で賢治が愛した草花の写真に賢治が作った曲がBGMで流れた。

「種山ケ原の夜」の歌、「星めぐりの歌」、「月夜のでんしんばしら」や「ポランの広場」の歌、このほかに花巻農学校の精神歌や応援歌なども流れたと思うが、音楽の才の無い私には、聞き分けることができなかった・・・

 しかし、常日頃から短歌を詠む方々は、草花を良く観察されているので、このDVDも興味深く観ていただけてように感じた。

 つくづくと「粋なもやうの博多帯」

   荒川ぎしの片岩のいろ

宮沢賢治

 上長瀞の養浩亭駐車場に本日ご案内いただく小鹿野町行政専門員の山本正実様がお待ちになっていた。わざわざ「宮沢賢治秩父地質旅行の歌碑を訪ねて」の資料を作成し、更に小鹿野歌舞伎の資料なども取り揃えていただいた。  

 <埼玉県立自然博物館前の養浩亭>
 <埼玉県立自然博物館前の養浩亭>

 山本氏とのご縁は、昨年の9月4日「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120年記念祭」に萩原昌好先生と「賢治と歩む会」の仲間と一緒に参加させていただいたことに始まった。今回は、瀧田代表にご紹介いただいた山本様にお願いして、ご案内役をお引き受けいただいた。

 山本様は、賢治が短歌9首を書き記し、保坂嘉内宛てた大正5年9月5日小鹿野町郵便局の消印が押された葉書を拡大コピーした資料を示しながら説明を始められた。

 それから、賢治が「粋なもやうの博多帯」と詠んだ「虎岩」を案内してくださった。

<日本地質学発祥の地(博物館前)>
<日本地質学発祥の地(博物館前)>

 それから秩父地方は、古生層を含め造山活動による変成岩から新生代の地層に至るまでを観察できる地域として、世界的に注目を集めていたという。そのような様々な地層が露頭していたことから「地球の窓」と呼ばれ、「日本地質学発祥の地」になったのだと山本様は説明してくれた・・・

 <新に開通した小鹿野町へ向かう高速道路>
 <新に開通した小鹿野町へ向かう高速道路>

 9月3日賢治一行は、寄居町から荒川沿いに上流に向かい「立が瀬断層」や「象ケ鼻」を調査し波久礼へと向かった。荒川から上った一行は「茶屋(旧吉田邸)」で冷えた身体を休めたことであろう。そこから末野の石切場近くの絹雲母片麻岩の露頭を見学し、汽車で国神(上長瀞)へやってきた。 それから長瀞の岩畳を調査し、その夜は、国神の梅乃屋に宿泊したようだと萩原先生は述べている。

 見学を終えバスに乗り込んでから、「賢治さんはサイダーが大好きで、嬉しいことがあると農学校の学生にご馳走したそうです。」と言って皆さんに冷やして置いたサイダーをお配りした。すると山本様も「よくこだわりますね。」と言って微笑んでくれた・・


 翌日、三台のガタ馬車に分乗し赤平川沿いに小鹿野へ向かったと山本様が説明してくれた。今回は、バスだとすれ違いが困難なことから、一番新しい道路を使って「ようばけ」に向かって走っていますと付け加えた・・・

 <1600年前の日本列島の模式図>
 <1600年前の日本列島の模式図>

 バスが「ようばけ」に到着すると、山本様は「1600万年前の日本列島の模式図」を広げて、日本列島の生い立ちから説明してくれた・・・その向こうには、高さ100m、幅400mにわたる「ようばけ」と呼ばれる広大な断層を眺めながら、お話を聴いた。

 そして賢治たちが、その崖をよじ登り岩石標本を採取する姿を思い浮かべていた・・・

  <賢治と嘉内の友情の歌碑>
  <賢治と嘉内の友情の歌碑>

さはやかに 半月かヽる 薄明の

  秩父の峡のかへり道かな

宮沢賢治

この山は 小鹿野の町も 見へずして

 太古の層に白百合の咲く

保阪嘉内

 この友情の歌碑は、背景に「ようばけ」を望む最高の場所に建立されたと確信した。

 山本様は、この友情の歌碑の横に立ち、盛岡高等農林学校のころの同人、宮沢賢治、保坂嘉内、河本義行、小菅健吉の4人が中心となり発行した同人誌「アザリア」の話をしてくれた。この碑の両脇には4本の欅が並んで植えられており、同人4人にたとえて「『アザリア』の木」と呼ばれていると話してくれた。

 大正6年7月7日の夜に同人は集まり「アザリア1号」の合評会が開かれ、その閉会後この4人は深夜の秋田街道を雫石まで歩いたという。

 特に1年後輩の嘉内は、賢治とは自啓寮の同室であったこともあり、互いの信頼は深く、大正6年7月14、15日に二人だけで岩手山に登った。銀河がしらじらと南から北にかかり、岩手山の裾野の薄明かりの中で消えかけた「たいまつ」を代るがわる吹いたという・・・「あなたとかはるがはる一生懸命そのおきを吹いた。銀河が南の雲のきれまから一寸見え沼森は微光の底に睡ってゐる。」(宮澤賢治)

 そして賢治にとっては「まことの国」の建設であり、嘉内にとっては「パラダイス(花園農村の理想)」の建設に命を捧げようという「銀河の誓い」を交わしたという。

 <同人誌アザリア(1~6号)>
 <同人誌アザリア(1~6号)>

  しかし、嘉内がアザリア5号に発表した「社会と自分」の中で若者の高揚し気持ちを抑えきれずに書いてしまった「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム」の一節が、学校当局に問題視されることなり、ついに退学処分になってしまった。

 賢治がそのことを知ったのは、春休み明けであった。賢治は懸命に学校側にかけあったり、可愛がってもらっていた関豊太郎教授にも嘆願したらしいが、嘉内の退学処分を覆すことはできなかったようだ・・・ 

漢和対照法華経(賢治が嘉内に贈呈)
漢和対照法華経(賢治が嘉内に贈呈)

 そして「絶対真理」は法華経の研鑽と布教だと信じる賢治は、自分を変革させてくれたと信じる「法華経」を退学した嘉内に贈り、日蓮宗への入信を熱心に勧誘したようだ。

 大正9年2月2日の嘉内宛書簡にて、賢治は「国柱会入会」を知らせ、「南妙法蓮華経」を唱えながら花巻の街を巡り歩いた。

 そして大正10年1月23日遂に家出をして上京し「国柱会」の門をたたいた・・・ 

 この一連の行動には、もう一つの狙いがあった。それは岩手山に登り「銀河の誓い」を交わし合った親友嘉内を「日蓮宗」に入信させ、共に「理想とする国造り」に邁進したいと願う賢治のパフォーマンスであったとも考えられる。

 しかし、こうした賢治の働きかけも空しく、7月18日の面会を最後に賢治と嘉内は決別することになった。

 こうした賢治から嘉内に宛てた書簡73通が保坂家に保管されている。

   <国柱会の写真>
   <国柱会の写真>

 けれども結果的には、賢治は国柱会の高知尾師の奨めにより法華文学の創作を始めた。また、賢治は、実家からの仕送りを拒絶し東大赤門前の出版社に勤めガリ版を切り、夕刻からは街に出て布教活動を行い、寝る間を惜しんで創作活動に没頭した。

 裕福な家に生まれた賢治が自活したのは、恐らく一生涯でこの時期だけだったかも知れない・・・でも、こうして賢治は数多くの童話作品などを書き残してくれることになったのだと思う。

  ここでの賢治の創作活動は、花巻女学校に勤め始めていた妹トシ子の容態悪化が知らされ、大正10年9月12日頃に帰花するまで続けられた。その時賢治が持ち帰った大きなトランクには、びっしりと原稿が詰め込まれおり、それを開けて妹トシ子に見せたという。その後、そのトランクは2年ばかりの間、薄暗い土蔵の2階に投げられていたそうだ・・・

 山本様から丁寧なご説明を伺い、その感動も覚めやらぬうちに、集合写真を撮った・・・ところが、写真を撮り終えて気が緩んだのか、女性の方が足を滑らせて転倒してしまった。その時嘉内の歌碑にコツンと頭を打ったようだ。その方には、化石館を見学する間、木陰のベンチで休んでいただいたが、「ここで集合写真を撮ろう。」などと提案しなければ良かったと悔やまれた・・・でも、翌日に大倉さんから電話が入り、転倒された方は大丈夫でしたと告げられた時は、ほっと安堵した。

<賢治と嘉内 友情の歌碑>

<おがの化石館>


 次の目的地・小鹿野町庁舎に向かうバスの中で、山本氏はTシャツに着替えながら「今日はチャレンジデーなので、庁舎の前ではTシャツでないと具合が悪い。」と言っていた。 何でも、町民が15分以上運動をして、その参加率を競うのだそうである。

 6月1日のメールで『昨日の「チャレンジデー」は小鹿野町参加率57.5%、北海道東神楽町57.9%で0.4パーセントの僅差で負けてしまいました。』と伝えてきた・・・ 文学散歩一行26名も参加の意志表明をしたのに負けてしまったということは、残念なことである。

   <小鹿野町庁舎前の歌碑>
   <小鹿野町庁舎前の歌碑>

 

 山峡の 町の土蔵の うすうすと

     夕もやに暮れ われらもだせり

宮沢賢治

 賢治は最初に下の句を「夕もやに暮れ

われら歌へり」と詠んだが、「校友会会報」に投稿するさい「われらもだせり」と推敲されたと山本様は説明してくれた。 

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2017年

5月

28日

妻沼 道の駅の薔薇  2017.5.28

 昨夜は同袍寮OB会で少し呑み過ぎたようだ。青柳先輩の子供たちや山王さんも参加してくれたので、嬉しくなって3次会までお付き合いしてしまった・・・

 そんな朝、食事の支度を終えたところに、突然談話が入った。本日の熊谷短歌会の理事会で発送する大会入賞者の集合写真が準備できていないというのだ・・・早速そのプリントに取り掛かったところ、こんな時に限ってPCとプリンターとの通信不良が発生してしまった。最終的にはUSBで接続してプリントを始めたら、今度は印画紙が数枚たりなかった・・・

 不足分は、後日発送することにして理事会にでかけた。

 こんな慌ただしい朝だったので、午後に「妻沼の薔薇」を見にでかけた。

 五月晴れの日曜日で駐車場は満車状態であったが、直売場裏の1台分のスペースを見つけることができた。今日は異常に暑い上に昨夜のこともあり、喉が渇いて仕方なくペットボトルを片手に観て回った・・・


 ほのかに薔薇の香りの漂う薔薇園を散策している内に、何とか心の平静を取り戻すことができた・・・理屈なしに花は好いですね。

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2017年

5月

27日

同袍寮OB会(青柳さんを偲んで)

   <青柳さんの娘さんと>
   <青柳さんの娘さんと>

 5月27日(土)品川の「土風炉」で定例の同袍寮OB会が、ささやかに開催された。昨年11月に亡くなられた46室で同室だった「青柳先輩を偲ぶ」ブログを目にした青柳さんの息子さんと娘さんご夫婦が、この会に参加してくれた。

 更に青柳さんと同じ学科の親友・山王さんも駆けつけくれた・・・

幸い参加された殆どの方が、青柳さんと面識のある同年代であり、青柳さんの同袍寮での暮らしぶりを語ってくれた。

<青柳さんの結婚式(郡司・小南出席)>
<青柳さんの結婚式(郡司・小南出席)>

 私は青柳さんの結婚式で司会を仰せつかったこともあり、その時の写真をプリントして持参していた・・・息子さんと娘さん誕生の原点だ思い、お二人にさしあげた。恐らくお二人ともこの写真は、あまり目にしたことなかったと思う。

 青柳さんは、どちらかというとシャイな方で、出不精な人だったという印象が強いが、息子さんと娘さんは快活であった・・・青柳さんの奥様の方の血筋でしようか・・・2,3日前のこと、その奥様から電話がありました。

 その後、もっと珍しくも懐かしい方から電話があった。その人は青柳さんの妹さんであった・・・昭和45年ごろ秩父市の秩父鉄道のアンダーパス工事の監督をやっていた青柳さんから連絡が入り、熊谷から出かけて行って呑んだことがあった。そんなことから、青柳さんの妹さんが友だちと熊谷にやって来た。

 その頃の私には車も運転免許もなかったので、会社の友人の車で赤城山までドライブに出かけたことがあった・・・それ以来、長い月日が経ったこともあり、随分長い間お話をしてくれた。その中で真次兄さんとは一番の仲良しであったと述懐したことが心に残った。私が、昔々デートしたことあったねと話したら少し照れくさそうにしていました。 

 ある朝目お覚ますと寮の右側の壁に等身大よりも大きめの映画「夕陽のガンマン」の看板が立てあった。どうも昨夜、青柳さんがよぱらった勢いで上田通りから担いできたらしい・・・

 このブログをアップしたところ、早速、郡司さんからメールが届いた。


『夕陽のガンマンの映画の看板と、バス停の椅子は、倉田さんが酔った勢いで担いできました。そのことはしっかり覚えています。』

 確かに、農学部林業科の倉田君が、農学部の自啓寮に移るまでの2年間ほど同室であった。普段はとてもおとなしい彼であったが、一旦お酒を呑むと別人のようにヤンチャに振る舞うようになった・・・何時だったか、同室の4人程で呑んで上田通りを寮に向かっているとき、肩に触れたとか言掛りをつけられ、倉田君が街のお兄ちゃんに側溝に突き飛ばされてしまった。止せば良かったのに、そのことに私が抗議したら、私一人が農学部の田んぼの方に連れて行かれ、いきなり殴られた・・・最早これまでと逃げ帰ったが、次の朝のもやしの味噌汁が沁みて飲めなかったのを覚えている。

 当時は、まだまだ大学へ進学する人は少なかった頃で、盛岡の人は学生さんに優しかったが、同年代で既に働いていた若者の中には、それを快く思えない人も少なくなかったのだろう。恐らくそんなお兄ちゃんに出くわしたのだ。

 こんなことからすると、郡司さんのメールのように看板を担いで来たのは倉田君だったのかもしれない・・・

 

 その頃46室の天袋から寮の先輩が隠しておいた空気銃が見つかった。

その空気銃は大した威力もなかったが、空気銃の玉を買ってきてクリントイーストウッドが握っている拳銃を狙って打った・・・ところが、この空気銃には癖があり、微妙にカーブするので中々命中できなかった・・・

 この件は、息子さんも青柳さんから話を聞かせれていたらしく、即座に反応していた・・・トタン張り看板には、右側の写真が貼り付けてあったと思う。

  <吉田さんと戸崎さん>
  <吉田さんと戸崎さん>

 青柳さんは、お茶が好きで大学祭での茶会には欠かさず出かけていたし、寮でも大きな茶椀で、よくお茶を飲んでいた。

 また、完全な夜型の人で、授業の無い時はいつも布団をすっぽりかぶって眠っていた。しかし、皆が寝静まると起き出して、黙々と明け方まで勉強した。ですから、46室は不夜城の如く電灯が消えることがなかった・・・

 このような思い出話を聞いてつる内に、あっという間に閉会となった。

 そして最後に「同袍寮寮歌」を歌った・・・

 娘さんが、facebookにアップしてくれた、その時の動画と写真を掲載させて頂いた。

 青柳さんは、お寺さんのご子息でもあり、時々「般若心経」を聞かされたという寮の仲間も多くいた・・・そんな青柳さんのお骨は、お兄さんが住職を務める佐渡市小比叡の蓮華峰寺に納骨されるという。

 同袍寮OB会の幹事長の安保さんが、「同袍寮OB佐渡ツアー」を企画しているらしいので、是非とも実現されることを願っている・・・

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